EOに関して

不十分ですが、一旦掲載致します。イルプロラシオンの大集合魂のアセンションのために。

 

海さん
「先に悟った3人のイルプロラシオン人は霊団をサポ—卜しているのでしょうか」
 
サポ一卜しています。
彼らはあなた方の指標、希望となるでしよう。
虚空蔵55
 
No.3784
EOが伝えている内容は、100万円の本の内容の一部です。
だからこそその本は、通常では販売できないのです。
その内容に耐えられる人だけが手にできる本です。
そしてそこに書かれてある内容を知ったものは、この宇宙においては、仏陀ともう一人の特殊な存在だけでした。
今は無理でも五井先生のお祈りでゆるぎない意志力を蓄え、すでに春分を過ぎて戻りつつあるエネルギーを蓄え、本当の自由を手に入れられるようがんばって下さい。 
 
 
質疑応答14
EOがつながっていた場所
EOさんはどことつながっていたのでしょうか。
あまり明かしたくはなかったのですが、いつまでも放置するわけには行かないので、ある程度明確にして
おきます。
霊界には色々なジャンルの領域が存在しますが'
彼がつながっていた( 憑かれていた……に近いのです
が) ところはある意味「思想界」という所でもありました。
ただ、この場合の「思想界」はちょっと特殊な場所でして'
一種の過激派グループの一派でもあったのです。
上の方にいわせると「似非思想家たち」の集まりだそうで'
基本的な考えは「抹消してしまえばおしまい
じやん」というものです。
そこに様々なそれっぽい理屈をこね回していますが、基本は「安直」な論理をそれらしく巧妙に組み立て
たものしかありません。
そこにあるのは本当にエゴを昇華して( 抹消. クリアして) 本体に気づくということではなく、ただなく
してしまえばいいという短絡的な思考だけです。
そして'それがカツコいいとか潔いというふうにとらえてしまっています。
(本来主流の思想界には地上の有名人達もたくさん入っておられますが、この領域には著名な方は全く存
在しません)
 
追補
EOの真実
ここではEOのあまり語りたくない本性の一部が書いてあります。
「あまり語りたくない」というのは、私の思いであり'
この時は上の方が私の問いかけにお答えになったものをそのまま書いていました。
余り何も考えていなかった文章ですので、少しフォロ —しておきます。
EOの覚醒は実存にあります。
ただ'完全覚醒者たちの常であります「中途半端な状態」というのは、必須になっています。
何が中途半端化といいますと、真我には何度も到達してはいますが、そこに入り浸るということは出来な
い状態が続いていました。
つまり現象界( こちらの世界) とあちらの世界( 真我) を行ったり来たりしているわけです。
その状態が必須というのは、どちらかに定着してしまいますと……例えば真我に定着すると、即座にこの
世界からは消えて行きます。またこちらの世界に定着してしまいますと、真我への道は深く閉ざされます。
ですから、そういう中途半端な状態( 行ったり来たり) を繰り返すように続けて、次第に真我に自らの存
在を慣らしていっていたのです。
この中途半端な状態の時期に、EOの本性( 傾向性) が行ったり来たりの狭間で「思想界」にはまってい
ます。
EOの本をお読みになると宇宙全史とは整合性が取れない部分が結構出てきます。
しかし、それはEO個人の力でひろい上げた情報と、宇宙神を超えるところから発せられる情報との違い
で比較にはなりません。
逆にEO個人でそこまでの情報に潜り込めたということが秀逸なのです。
この辺りに惑わされると「何が本当かわからない」という惑いが生じますが、真我に至る覚醒者としての
情報発信は、そこのところは真実そのものです。
分かりやすくいいますと「この宇宙の本質をズバリ見抜いている」ということです。
ただ「それでどうするのか」という部分では、その方法論はやはり幼いといえば幼いのです。
私が宇宙全史の初期にこのことに気づいたとき「一体どうすればいいのか」という絶望感に近いようなも
のを感じたことがあります。
しかし、私自身は精神世界に踏み出した当時からお世話になっていた五井先生がおられましたので、そこ
を活用させて頂くことにしたのです。
五井先生に連なる光明の大霊団というのは、神界、霊界を通じた物凄く巨大なエネルギ— 体です。
この頃'いつもいわれていたのは「お任せしちゃえばいいのよ」という月読之大神たちのお言葉でした。
「私が何とかする」とか「私が何とかしなければいけない」というエゴを外してしまえば、そこには能天気
な遊撃手が残ります。
もし私がエゴのまま頑張っていたなら、今頃、重篤な病かこの世にはもういなかったことでしょう( それ
は確かで、68才で地上を去っていたはずです) 。
だから非公開情報権利者も数を制限しなければならないのです。
「遊撃手( ここからは遊撃手が語ります) 」
あなた方は関知しないだろうけど、この男( 虚空蔵55)がいなければ、あなた方は五井先生にも月読之大
神にもつながらないんだよ。
(この男は) あまり語りたがらないので言っておくけどね「つながる」ということはそういうことなんだよ。
ただ今はあまり多くのものがつながっちゃうと( ぶら下がってしまうと) この男がポシャっちゃうからね。
こちらもそれは困るので制限しているけど、救世主ではないが一つの要であることは事実としてあるね。
それもここまで( がんばって) 来ると非常に大きな要だね。
まだ分からんけどね、どうなっていくかは……そこはやはりまだ不確定ではあるんだよ。
(文中のカッコ内は伝わる印象を書いておきました)
EOが考え出した「分割自我復元法」ですが、今はあちらの世界に行ってしまってからあまり興味を示さ
なくなってしまっています。
それは彼自身が散々いっておりましたが「その人が|定段階に至っていなければ伝えることは出来ない」
という事実です。
自我復元がある程度出来ていなければ「自我復元法」は習得できない、或いはそもそも「教えてはならな
い」ということです。
しかし、人類の大半が「教えてはならない」カテゴリーに入っているのです。
そうでないと思う方は試しにチャレンジされてみるといいかも知れません。
結果がなければ自分は人類の大半を占めるそっちのカテゴリ—に入ると納得できるでしょう。
「分割自我復元法」だけではなく様々な修法が世の中にはあります。
しかし、どれも基本的な前提条件がなければクリアは望めません、
しかし、その前提条件をクリアするためには、そういう修法を修めないと無理なのです。この矛盾を如何
にクリアするかが今の人類の最大の課題であり、覚醒者たちの課題でもあったのです。
さて、ここでまた本題に戻ります。
EO情報には中途半端な部分があります。それはすべからく彼がイルプロラシオン出身だというところに
なります。つまり異例の大出世をした魂であったのです。
そのため( 完全覚醒のために) 経なければならない経験値が足らなかったということがあります。
それでも完全覚醒の道を見つけたということは、イレギュラー中のイレギュラーでした。
通常完全覚醒の道につくとその道程を何度かの生で繰り返し、次第に真我に近づいていきます( 近づくと
いいますか、真我の在り様に馴染んでいきます) 。
その段階を「分割自我復元」を果たした人でも、数回は人生を繰り返さないといけないとEOもいっています。
その段階でその人の色といいますか傾向性が様々なものを引き付け、或いは耽ってしまうことがあります。
そこで深く関わらなければそのままクリアしていきますが、あまりそこに拘泥してしまいますと、道を外
れるかアナーキ—な思想に偏ることもあります。
EOはそこまで耽ることはなかったのですが、それでも傾向性としては色を深めています。
この宇宙は確かにEOの伝える内容も含んでもいますが、彼のものがすべてではなく、遥かに大きく深い
内実が隠されています。
それをは段階を踏んで伝えていくことが大事で、そうしないと玉串さんのように彼自身の思い込みとマッ
チングさせ、早とちりしてしまい「それならさっさと死んでしまえばいいや」という短絡的な人たちが多い
のも事実です。
 
今回の質疑応答 では、玉串さんが危険な状況に陥っていますが それも自らの選択ですから 何ともいえ ないのですが 、そのI因となっているのがEO の書籍を読んでからです。 もちろんベ—スに宇宙全史の情報もあるのですが、それを消化出来ないまま を読みますと、少し中途半 端な理解に陥ってしまう危険があったのです。
そこで修正をかけるため非公開情報 を出したのですが、それを読むことは出来たのでしようか。 本文中 EOが思想界という|種独特な世界にいたことが書かれてあります。
 
 
 
 
思想界とは何かといいますと、既に書いておきましたが、「思想における一種の過激派」といったもので しようか。
つまり「とりあえず手っ取り早く物事を解決したい」ので、「手間ひまかけず結論に飛びついてしまう」と いう......やはり過激派といいますか、そういう傾向性が少しあったのは否めないところです。
 
EOはイルプロラシオン出身の、地球界では非常に稀な完全覚醒者です。 ある意味イレギュラーな存在といっでもいいと思います。 そのためあちこちに修正しなければならない箇所があります。 私も同じで、まだ覚醒はしていないのですが、在り様としてはイレギュラーということもいえます。 そういう事で EOは私に接近していたのかも知れません。
 
しかし、 EOの知識がなければ 彼の書籍がなければ 皆さん方が「真実」に触れる機会は、まだまだ先のはずでした 或いは全くそのチャンスはなかったかもしれません 。そういう意味でも EOの出現は、「危うい恩寵」だったのでしょうか。そして EOを恩寵とするか 厄災とするかは皆さん次第なのは いつも通りのセオリーです。
 
宇宙全史では恐竜のカテゴリ—で出て来ていた「史上最大の恐竜は?」の答えで 蛇恐竜というのがありま した。
巨大というより「長い」といった方がいいのかも知れませんが、この蛇恐竜の詳細があまり語られていませ んでした。 それはそれを知ってしまうと「人類全体が負の方向にいってしまい、雪崩れるように崩壊してしまう」と いうことでした。
私たちはまだまだ幼く脆弱ではかない存在です。
生き急ぐ気持ちは分かりますが、次の階梯のために、その前の段階の梯子の脚に自分の足をかけないと、一足飛びではたちまち足を踏み外してしまいます。 本来精神世界という梯子は、地上界と永遠を結ぶリアルなメソッドです。 それ故その梯子の下は、漆黒の闇が、無慈悲な空間が広がっています。
自らを省みない
自分を甘やかす
早急に結果を求めてしまう
どこまでも地上界 肉体 に執着してしまう
まずは、こうした傾向性を克服していくことが出来ないと、しっかりと梯子段を登っていくことは叶わない のです。
 
 
ID : 882023035514
その通りで、EOの絶望と一般人の絶望はまったく異なっています
そこに気づかれたのは幸いでした
 
もう少し突っ込みますと、完全覚醒に至るには(その入り口に至るには)、「全てに絶望しなくてはならない」という怖ろしいセオリーがあります
そこはどなたも見たくないところでしょうが、厳然とした事実でもあります
もうすぐ御祭舟の「35部品」が出ますが、そこで詳細が語られるはずです
 
しかし一体誰が「全き絶望」を経験したいと望むのでしょうか?
 
「宇宙全史」は、「35部品」で新たな段階に入っていきます
 
 
これは EO の遺骨や遺髪を購入された方へのメッセージになります。 また左の質問欄に来た(No・3807)どっぺんさんの質問に答える形になります。
まず明確に理解しておいて頂きたいのは、EO の遺骨や遺髪は「劇薬」であるということ です。 この下にも書いておきましたが、宇宙全史「非公開情報1」で示された命題と同じものが そこにはあるのです。 「非公開情報1」をご覧になった方は、権利者の中でもあまりおられないのでお分かりに ならないかも知れませんが、これからここで示される情報をよくよく吟味されて手に入れ られた奇跡のアイテムの取り扱いをお決めになって下さい。
まず EO からの贈り物をどう扱うかという注意事項は「非公開情報 12」で明らかにしま す。そのため非公開情報権利者でない方は保証書に書いてあるシリアルナンバーを書いて 「非公開情報 12」を申し込んで下さい。
今回に限り権利者でなくても「非公開情報 12」は取得できるようになります(今回だけ です・もちろん権利者の方は EO の遺骨などを購入されていなくても「非公開情報 12」 は購入できます)。
 
「非公開情報 12」の内容は、精神世界大学生レベルになります。 それくらい取り扱いが難しいものになりますので、出来れば時期が来るまでは飲んだり食 べたりは控えた方がいいでしょう。
そもそもこういうものを不特定多数の方に販売していいのかという事がありましたが、月 読之大神と EO から OK が出ていましたので実行しました。
EO に関しましては「あなたに任せたい」というニュアンスの依頼がありましたので引き 受けた次第です。 そして引き受けた限りは、出来るだけ皆さんの役に立つようにしておきたいので「非公開 情報 12」という非常手段をとることになりました。
「非公開情報 12」の内容はそのほとんどが注意事項ですが、「100 万円の本」に通じる情 報も含まれています(というより含まざるを得ないのです)。
更に EO のリアルな実態もそこには描かれるはずです(そのため遺族の方との事情聴取も 行います)。 それはとても大事なことで、宇宙全史では「リアル」という有様にこだわりがあります。 完全覚醒のリアルな有様というものは、おそらく皆さんの常識を覆すと思いますし、EO の残したものが「劇薬」であることを理解もして頂けると思います。
そのため「質疑応答 13」の出版は少しのびることになると思います。 また緊急性のある今回の質問のため、お待ち頂いている質問が多数ありますが、後回しに なってしまっています。 これも時間が出来ましたら順次お答えしていきますので、気長にお待ちください。

性欲に関して

No.3896 スーザン様
「「最近は、性欲関連のことや仕事を含め、周りの方々との関係等、私自身のほころびが多々垣間見られ、常に自分と向き合う必要性が生じております」
●これも当たり前のことで、人は誰しも生きている限り様々な欲望に振り回され、人間関係の摩擦で消耗していきます。
それは完全覚醒するまで続きますから、それまでは何とか工夫して生き長らえるしかありません。
ただその生き方に拘泥し、耽溺してしまうのは、宇宙全史の推奨するところではありません。
書いておられるように五井先生のお祈りを忘れないように精進なさって下さい。」
No.963 トキマツ様
「性欲への囚われも形にこだわることもいってしまえば同じカテゴリーの(越えて行かねばならない)ハードルなのですが、性欲は形に比べればまだ克服できる可能性が高いものです。
 
「形にこだわる」をテーマに持つこのオーム宇宙の姿勢は、結構根深く宇宙全体にしみわたっていて、これをクリアすることは中々困難です。
私自身がまだ真剣にこの命題と取り組んでいないので、キッチリ解明で来ているわけでもないのですが・・・。
 
性欲への執着を絶とうと思えば、性欲への思いを完全に断念すればいいのですが、中々それは出来ないかもしれません。
性欲は子孫を残すという根源的な生命の本能と直接結びついてもいますが、人間においては「快楽」を求める、あるいは「人の温もりを感じる」という孤独感を希釈するという複雑な欲求もも持っていますので、一概に「絶つ」ということは困難でしょう。
 
この二つの大きなハードルは、本来幾転生を重ねて、すでにもう「この世に未練はない」「この世界には飽き飽きしてしまった」という修行者が超える可能性を有するようになるハードルです。
市井(しせい)の私たちには、そういう意味でも中々難しいことかもしれません・・・が、そこに降ろされたのが五井先生の祈りです。
今回はさらに「柔らかいお祈り」さえも与えられているのです。
 
真剣に行じれば、必ず効果のあるものですからがんばって下さい。」
 
 
No.3402 スーザン様
「性欲にも色々ありまして、これもいつか詳細な本にまとめるといいかも知れません。
カテゴリーとしての分類と、段階としての振り分けでも数多くの性欲があり、その一つ一つに克服する術があります。
例えば単純な性欲エネルギーは風俗に行くかオナニーで解消できますが、性欲に「支配欲」や「支配されたい欲(マゾ)」などが絡みますと話はややこしくなります。
またそれに社会的な抑圧が加わって更なる変質を遂げた性欲は、変態や異常者として犯罪にかかわる性欲エネルギーになってしまっていきます。
このように複雑に醸されてしまった性欲をほどいて解消していくのは困難を伴いますので、おそらく通常では解消できないでしょう。
何かカルマの解消としてある病気や事故、事件に巻き込まれ、結果生きていられればある程度はその傾向性は薄められていくかも知れません。
それを避けるため祈りにまい進すればもちろん大難は小難におさめられますが、それを選択する方はほとんどおられないでしょう。
誰も快楽、楽しみを失くすことを望む者はいません
だからスーザンさんも間違ってはいないのです
ただ
「それ以上の楽しみ」
「それ以上の快楽」
を望むなら
それを見つけられたなら
地上の欲望は「はした金」に過ぎないと思える時が来るかもしれません
私がこの掲示板の随分過去に「地上における最大の快楽は何か」ということを書いたことがありました
その答えは
「創造すること」
でした
セックスも(子供を)創造することですが
芸術を生み出すことも同じく創造です
そこにある違いは
「肉に基づく」創造か
「抽象に基づく」創造かでした
いつかあなたも
精神(スピリッツ)に基づく欲望に
抽象に基づく欲望に
気づくことが出来る日があるかも知れません
しかしそれには条件があります
それが「まず自らがクズである」ことに気づいているかどうかです
どうしてもそこが第一歩になっているようです」
No.3409 スーザン様
「「無理はいいさ」
「だが無茶はいかん」
そう仰っています
私はプレアデス系の「ありのままの自分でいい」というような教えがどうしても腑に落ちません
一見いいことをいっているように見えますが、底の浅いうわべだけの受けねらいのような気もします
実際つながっているところも宇宙人であったり「覚醒」レベルには至ってないところです
カルマを放置したまま「ありのままの自分」を肯定してしまうと、そこからの進化が止まってしまいます
「ありのままの自分」とは性欲も食欲もあらゆる我欲も持ったままの自分なのです
「世界はあるがまま」
「何も変わらず何も足すものも引くものもない」
「それでいて同じものは何もない」
という境涯は確かにありますが、それは完全覚醒した方の境涯で、凡俗の身には計り知れない認識であり、それをそのまま鵜吞みにするのは、子供が又聞きで政治経済を語るようなものです
スーザンさんのように素直に自分を観照することは大切で、それがないとどんなに格好のいいことを説いていても、結局は欺瞞の生を歩むことになってしまいます
私たちは今は多少の無理をしても「がんばらないと」いけないのです
その明確な理由をすでにここでは書きまくっていますが
「続20年後…」ではさらに詳細に、具体的に書こうと思います」
No.2330 さぼさぼ様
「性欲と向き合うというのはとても難しいものです。
それは若いころは単純だった性欲が、次第にエゴや社会性と結びついていくその複雑さにあります。
そこを看破しない限り肉体の性欲が衰えてもエゴと合体した性欲は醜く生き残っていくのです。
よくご自分を見ていますね…「そうできない、そうしたくない自分がいるもの確かです」というのはその通りで、それが執着であり、覚醒をはばむものでもあります…が、それも含めてあなたのおっしゃるようにお祈りの中に預けていくしかないのも事実です。」
No.2967 川口孝様
「「2、私は宇宙全史と出会った頃から、ロリコン癖が開花し、更に凌辱的な行為を合わせて妄想してしまう癖が離れないでいました。もともと性的な快楽が何より好きで、あの手このてを使って、あくまで自慰行為ですが性感を高めようと耽っていました。性癖に関しては、やはり女性に対する憎しみが原因であるのが自分でも解っていましたが、自己嫌悪と快楽のループから抜け出る決心が付かないまま何年も過ごしていました。 しかし最近、1の質問に書いた出来事があってから、その様な妄想はやはり全てただの妄想であり、AVなどの設定も妄想であり、そんな事は自分でも解っているのであり、別に悪い事でも何でもないのだと、納得した日から、性欲を自分でコントロール出来る様な気になっているのですが、この方向(縮小していく)でよろしいのでしょうか」 ●月読之大神 「宇宙全史に出会って、この人のエゴが段階を追って少し俯瞰できるようになったというだけよ」 「で、その途中で、ま、欲望が大きくなったような気分がしているだけ」 「で、それが過ぎると乖離して見れるようになる」 「その欲望を感じている自分に自己嫌悪とかは感じなくなってくるでしょ」 「段階が上がってくるというのはそういうことよ」 「エゴがエゴとして対峙するということを宇宙全史を知ったことで少しはずれてきたっていうことなのよ」 それまでエゴを客観的に見ることが出来なかったあなたが「欲望が大きくなった」という感じに俯瞰してみられるようになったということでしょう(大きくなったというのは、今まで客観的に見れなかったのが、離れてみると「ああこんなに大きな欲望なのか」と改めて認識しています。 つまり元々そういう欲望を持っていたのですが、それが自分のものだとは認識出来ていなかったということです。 「ロリコンの性癖」には大きく分けて2種類ありまして、大人の女性が苦手で(怖くて)、弱い小さな少女なら支配できるので、そちらに向いてしまうということがあります。 もう一つは純粋に小さな女の子が好き、あるいは幼児の純粋性が好きという(アーティスト感覚の)単なる好みでロリコンという人もいます。 あなたは前者の方で「女性に対する憎しみ」というのも、「自分の思うように扱えない女性」に対する憎しみといいますか「恐怖(怖い)」なので、おそらくこれはどこか宇宙全史から拾ってきた言い回しでしょう。 宇宙全史を自分の都合のいい言い訳に使用してはいけません。」
No.3405 海様
「虚空蔵55様、みわ様、五井先生、月読の大神、いつもありがとうございます。
> 性欲にも色々ありまして、
 以前、性に関するヒーリングのプログラムを受けたことがあります。
 性、性行為、性対象、性的好み(異性同性人間以外など)、性役割(性別役割分業)、エロティスズム(性の売り物化)、セクシー(性欲を刺激するもの)、触覚、聴覚、視覚、性差別、両性具有などにカテゴライズされていました。そこに責任や義務、呪い、抑圧、否定、恐れ、耽溺、逃避、証明、辱め、操作、支配、繁殖、混乱などが加わり、非常に重すぎるプログラムになっていました。
 段階というと性的な覚醒度?また、マズロー欲求段階説(生理的欲求、安全欲求、社会的/所属と愛欲の求、承認(尊重)欲求、自己実現欲求)も想起します。
 エロ話に為るといつも気になるのですが、ソドムとゴモラのエネルギーは無事解放されたのでしょうか?
 性欲と結合した妄想が世界を多様化するメリットもあるのでしょうけど、ここに来て負債になっているように思えます。どうも近年、性欲+抑圧が元になったと思われる狂気の犯罪が多く、カルマの解消の一環かと。
 それではよろしくお願いします。
2017・4・6
海様
「ソドムとゴモラのエネルギーは無事解放されたのでしょうか」
●もちろん開放などされていません
あのシステムは人間の性欲というエネルギーをいかに効率的に摂取するかという発想で構築されたものです
そこにはまり込んだ人間たちが解放されるということはほとんどないのです
虚空蔵55」
 
 
 
スーザン
 
No.3403 スーザン様
「①それには「まず自らがクズである」ことに気づいている必要があるとのことです
●あなたの段階に来ますと今度は「自らをクズ」というフレーズにあまりこだわらず、どこか頭の片隅に置いておいて「エゴを薄くする」「肉体身からの要求をなるべく俯瞰する」という命題に取り組んだ方がいいでしょう。
そして一番大事なのは「無理をしない」というところです。
ここでは何度も申し上げていますが、無理に断食したリ、性欲を我慢したリはしない方がベターです。
だからといってそちらに邁進するのも何ですから、そのエネルギーを別のベクトルに変更するというような工夫は必要かもしれません(例えばスポーツや趣味でしょうか)。
②こちらの意味するところは、特に風俗に行くかオナニー等の性欲を解消する行為をせずとも、祈りに邁進していくことでなんとかなるということでしょうか
●もちろんそうです…が、それもその方の段階によります。
上でも書きましたが性欲は別に悪いものでもなんでもなく、むしろそのエネルギーがないと進化の弾みがつきません。
ただそれを「無駄遣いしないように」ということなのです。
風俗やオナニー、夫婦の交わりや恋人同士の抱擁はそれ自体に何の問題もないのですが、そこに「愛」がないと「エネルギーの無駄遣い」「虚しい行為」「カルマの積み重ね」になってしまいます。
(正しい性行為に関しましては、これもいつか詳細に書くこともあるかも知れません)
そしていきなり皆さんが「無駄遣いしない」というようなテーマに沿った生き方が出来るわけではありませんから、あなたの仰るように「ほどほどに」という加減は実に大切な要素になります。
私たちはそれぞれの「次の段階」を目指すのなら、どうしてもクリアしなければならない課題があります。
それが「エネルギーを節約する」という命題です。
人間である限りこの命題は完全覚醒するまでつきまとうもので、本来の宗教や精神世界、この宇宙全史のワークでさえもつきるところ「どうすればエネルギーを節約できるか」というところに収斂します。
そのほぼ最初の段階である「性欲」という本来「種の保存」で使用されるエネルギーを、いかに次の段階のエネルギーに変換できるかというところが問われています。
しかし「種の保存」という原初の使用目的がエゴの使役に浪費されているのが現状です。
私たちはとりあえず肉体として生まれてきます。
そこから如何にして肉体を超えた境涯に、現象世界を超えた段階にたどり着くかはそれぞれにまかされています。
もちろんそこ(肉体界)にとどまり続けるのもありですが。
性欲はほとんどの方が人生の最後まで持ち越してしまう課題です。
元々そういうエネルギーの薄い方はそうでもないのですが、濃い方は五井先生の祈りがないと中々方向性を変えるということすら難しいかも知れません。
そして「無理をしない」というのはあるのですが、そこに甘えるというのはまた違うのです。
がんばって下さい
虚空蔵55」
 
 
No.3400 スーザン様
「目を逸らさず、祈りと共に在るようになりたいと」
●難しいでしょうね
例えば美味しいものを食べたり、美味しいお酒を飲んだりしたときに
ステーキや美酒と共に正露丸を食するようなものです
正露丸はご存知かもしれませんが、腹痛によく効く漢方薬ですが、かなり不味いだけではなくものすごい臭気を持っています
丁度それが祈りにあたります
美酒と正露丸を飲むことはそもそも肉体が拒むでしょう
つまりよからぬことを思う時、中々祈りと共にあることは出来ないのです
何故なら「よからぬこと」の方が勝り、「よからぬこと」を打ち消す、もしくはその快楽が減少してしまうことを肉体が拒否します
この辺りを克服できるといいのですが
虚空蔵55
 
 
No.3399 スーザン様
 
「書いてはみたものの、本当にクズとは思えていないのではという自らへの疑問でした」
●同じことです
そう思えるあなたがあればいいのです
誰も真理を知ったからといってその瞬間からキッパリと肉欲から解放されるわけではないのです
何事も徐々に徐々に
五井先生の祈りがあれば
気づかぬうちに
驚くほどの進化を遂げているのです
求むべきは
祈りと共に
自らをよく見つめること
それも常住坐臥(下心丸出しの時でも、風俗に行っているときでも)
それが出来るようになると
素晴らしいですね
虚空蔵55」
 
No.3621
「スーザン様
性欲をどうするかは問題ではありません
しかしそれを理由になすべきことから目を背けるのは違います
何事もとことん集中するのはいい事です
中途半端はエネルギーを失います
世間の善悪に囚われなくてもよいのです
相手や周りに迷惑をかけることなく
自分自身に誤魔化しがなければ
何をしてもよいのです
式=解
と書きました。
これの意味は、ずいぶん以前に書いたと思いますが、物理学も数学も(物理は特に顕著ですが)ありとあらゆる現象(数式)は、突き詰めるとすべてが最終的な一つの解を持ちます。
それが「認識」であり
「あなた」であるのです。
究極の問いは「あなた」であり
究極の「解」も「あなた」なのです
虚空蔵55」
No.2209
「他の方からも同じような質問があり、早くお答えしようとしてなかなか出来なかったものに「夢精」に関するものがあります。
 
エネルギーを貯めるため禁欲といいますか、性欲を抑えていますと、健康な男子ならだれでも通常は夢精をしてしまいます。
 
これはあまり深く考えないで、そのままにしておいて結構です。
逆にそのことで悩んだり、色々七転八倒しても却ってそのことでエネルギーを消耗してしまいます。
 
「性欲をコントロールする」という段階に到達すると、それはその時にまたそういう教えがあるのですが、今はまだその前の段階で、やるべき他のことをキチンとこなしていかねばならない時期です。
 
がんばって下さい」
 
No.3290 宏史様
「虚空蔵55様
みわ様
五井先生
月詠之大神様
先日ご回答いただいた中で疑問が出てきたのでご指導のほど宜しくお願い致します。
世界と自らのエゴへの宣戦布告の部分で世界という箇所について非公開情報8のP47の月詠之大神様とのやりとりで
「世界を信頼すると(世界を)敵に回さなくなるんだよ」
「自分のね」
この部分との矛盾を感じどういうことなのかわからず混乱しています。
世界の定義が違うのかなとも思いましたがきちんとしたことがわからないのでご指導のほどお願いします。
エゴを相手にする時
性欲ならSEXをしない自慰をしないそもそもそういったものに近づかない
物欲なら必要以上のものを持たない買わない。必要のないものを捨てる。
食欲なら満腹まで食べない。腹6分から腹8分目、体に悪い加工品菓子類等を食べない可能な限り体に良い物を食べるなどなんとなく対処がわかるのですが世界を相手となるとどういったことに注意を払えばいいのでしょうか?
すべての基本は消えてゆく姿とお祈りで五井先生におまかせすることだとわかってるのですが世界を相手にする時この基本だけ守っていればいいのかどうかお教えください。
非公開情報8のP116にある陰始への対処の中で
B・その感情に巻き込まれないために「生きたい」という希望、「生きて好きなことを思いっきりしたい」という前向きな感情を育むこと。
と書かれてあり、エゴを薄めるのとは逆のように思えるのですがこれはある一定の段階までは育みその段階を超え先を目指す時落としてゆくものと解釈すればよいのでしょうか?
それともエゴを薄めてゆく段階で本心の思いとして立ち現れてくるものでエゴの思いとは違うものと解釈すべきなのかわかりませんご指導のほどよろしくお願いします。
2017・1・4
宏史様
中々いい質問ですが、質問が明確ではないのでこちらで勝手にまとめてみました
あなたは
●「世界」=「自分」
というところと
●「自分」=「エゴ」
この等式に矛盾を感じておられるのだと思います
つまり「世界」を信頼するということは(「世界」=「自分」なので)「自分」を信頼するということだが
「世界」=「自分」=「エゴ」なのに、それでは「エゴ」を信頼することになってしまう
それで「世界を敵に回さなくなってしまうのでしょうか」という質問だと思います
この疑問は非公開情報8のURACHUさんへの回答から来ていますが、この時の月読之大神の意図は、
「世界を信頼する」いうことは、「自分を信頼する」ということです
そこではあなたに「自分を信頼できますか」というところが求められます
つまり「自分を信頼できる」自分でしょうかということです
もし自分を信頼できないのなら、「信頼できる自分になりましょうね」ということです
もちろんエゴまみれの自分は信頼などできるわけがありません
ですからエゴを薄くしていって信頼できる自分になりましょうねということです
月読之大神の言葉は結構はしょって降ろされて来ます
「世界を信頼すると(世界を)敵に回さなくなるんだよ」
これは
「自分が信頼できるようになると、世界を敵に回さなくなる」
という意味でもあるのです
「エゴを相手にする時
性欲ならSEXをしない自慰をしないそもそもそういったものに近づかない
物欲なら必要以上のものを持たない買わない。必要のないものを捨てる。
食欲なら満腹まで食べない。腹6分から腹8分目、体に悪い加工品菓子類等を食べない可能な限り体に良い物を食べるなどなんとなく対処がわかるのですが世界を相手となるとどういったことに注意を払えばいいのでしょうか?
すべての基本は消えてゆく姿とお祈りで五井先生におまかせすることだとわかってるのですが世界を相手にする時この基本だけ守っていればいいのかどうかお教えください」
●すでに答えましたように「世界」=「あなた」ですから、世界を相手にしようが自分を相手にしようが同じことです
ただセックスをしたいのならすればいいですし、おいしいものを食べたいのなら食べればいいのです
もちろん腹八分目は大事ですが、多少羽目を外してもいいのです(そうしたければ)
本当にそういう境涯に至りますと、そもそもセックスをしたいとはあまり思わなくなりますし、腹いっぱい食べたいとも思わなくなります
そうでない限り無理してそういうことを自分に課してもあまり意味がありませんし、却ってストレスをためることになってしまいます
「エゴを薄めるのとは逆のように思えるのですがこれはある一定の段階までは育(はぐく)みその段階を超え先を目指す時落としてゆくものと解釈すればよいのでしょうか」
●その通りです
すでに宇宙全史のワークの中では色々書いておきましたが、いつかどこかできちんと整理しなくてはと思っていました
宇宙全史のワークはかなり特殊な立ち位置にありまして、
①精神世界において自らの幸せを求めることを第一義の目的とする
(この段階は上は神々の覚醒というところまで含みます)
②世俗の幸福を求めることを止め、生きるという選択を止め、完全なる無を求める完全覚醒を目的とする
(ここが一般的な究極の覚醒になります)
③完全覚醒のさらなる上位の覚醒を探求する
これまでの人類史では②までが最上級の覚醒とされていました(というより③の存在自体が不可知のものでした)
しかし宇宙全史のワークでは①~③までをまかなっています
ですから皆さんは色々矛盾を感じられたりわけが分からなかったりされるかも知れませんが、一般的には①の覚醒を目指しているとお考えになって結構です
そうでないと無理軋轢が生じて真直ぐな進化が損なわれてしまいます
しかしいつか完全覚醒を目指す方が出て来た時に、その選択肢がひとつではないよという指針がここにはあるのです
その恩寵はおそらく計り知れないと思います
それにしても
私はまだ覚醒もしていませんが
なぜ完全覚醒すらも超えた世界を知り得るのでしょうか
遊撃手とは
一体如何なる存在なのでしょうか
面白いですね
虚空蔵55」
No.3281 宏史様
「虚空蔵55様
みわ様
五井先生
月詠之大神様
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
旧年中宇宙全史ワークにおかれましては多くのことを学ばせていただきありがとうございます。
東海地震のため慌てて防災用品を買い覚悟のなさから戦々恐々の日々を過ごしたことが2016年前半印象に残ってます。
非公開情報9を読ませていただいたあとは恩寵で先延ばししていただけただけでまだ助かっていないことがわかり、また私達の学びが遅れているせいで虚空蔵55様の覚醒が遅れているとは露知らずエゴに振り回され目先のことばかりに目が向いていた自分にハッとさせられました。
虚空蔵55様の覚醒時の世界移動についていけるよう改めてエゴを薄くしお祈りを欠かさずにしていこうと身が引き締まる思いです。
2016年自分の幸不幸について考え、不平不満ばかり思考するのはなぜか?
どうしてこう不平不満ばかりなのか?
を見つめた時自分自身の思いを無視し自分を蔑ろにしている自分に気が付きました。
あれをしてはいけない、これはだめ。
こういう考えではいけない。
まず他の人のことを終わらせてから自分のこと。
もっと頑張らなければ。
この思いはエゴに違いない無視しなければ。
ここで自分が我慢すれば丸く収まる。
自分を粗末に扱っていた自分がそこにいます。
五井先生の御本で再三書かれている「自分を許し、人を許し、自分を愛し、人を愛す」
これを思い出し、できてなかったなと思いまずは自分を愛することを始めなければとここ最近は自分を大切にし自分の思いや気持ちを受け止めようと頑張っています。
ただ自分を大切にするのと甘やかしエゴを増長させるのは違うと思うのですがどう区別をつけて過ごしていけばよいかご指導いただきたくお願い致します。
2016年は自分自身が作っている世界についても考えさせられる年でした。
不平不満、妬み、嫉み、僻み、悪意、相手を心のなかで貶めて優越感に浸ろうとする卑しい心、自分ではやっていないと思っていた同調圧力、区別と称してやっていた差別的考え、こういった悪感情が目まぐるしく頭をよぎりそれに囚われ自ら地獄を作り出していたのだと気づきました。
止めようと思っても湧き上がるものはもうどうしようもないと思いせめてそれに囚われず消えてゆく姿と世界平和の祈りにおまかせするよう努めています。
新しい地球、ユートピアには馴染まないエゴをまだたくさん抱えているのが分かりこれらを落として新しい地球に残れるよう頑張ろうと思います。
2014年にご指導していただいた自律神経の問題について長時間のパソコン作業が大きな要因だと気づいたのですがいつの間にか忘れてパソコン画面に没頭していたら体調を崩してしました。
今年こそは自律神経を整えるべくパソコンの使用時間を減らそうと思ってます。
エゴを減らせたかと思ったらまた同じエゴの違うパターンに引っかかりと一進一退を繰り返しているようで気が逸ります。
今年はどんな年になるのか東海地震はどうなるのか不安を感じますが今こうして新年を迎えられることをありがたく思います。
乱筆悪文のためお見苦しいかと存じますがお許しください。
今後とも一層のご指導、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
2017・1・1
宏史様
「自分を大切にするのと甘やかしエゴを増長させるのは違うと思うのですがどう区別をつけて過ごしていけばよいか」
●本心の思い通りに動くことが「自分を大切にする」ことであり
エゴの思い(肉体の思い)通りに動くことがエゴを増長させることです
本心とはあなたの奥底にあり、それでも常に表面に微かにでも現れようとしている
良心のようなものです
一般的にエゴの思いとは肉の思いでもあり
肉身から派生する思いです
食欲
性欲
美醜にこだわる意識
その他の肉体に依存するあらゆる快楽
その根源は生存欲にあります
生存欲からは
縄張り意識
独占欲
自己顕示欲
などが生まれています
境涯が進みエゴが薄まっていくと
最後の最後で抵抗してくるのが
やはり生存欲なのですが
これは一般的なものではなく
根源的な生存欲で
消えたくない
消え去りたくないという
エゴの最後のあがきのようなものが
抵抗してきます
しかし今は
この宇宙全史の初めに降ろされた
「あなたの良心に従いなさい」
という単純明快な言葉を忘れず
祈りを忘れずにいれば
やがて
視野が開け
気づいた時には
思ってもみなかったような境地に
あることに驚かれるはずです
自分が
エゴである
という自覚を持たねば
何事も始まらないのです
自分がくずだと気が付かねば
自分がエゴだと気づかねば
誰も
エゴ(自分)を捨てようなどとは思いません
みなさん方が
あれこれ悩んでいるのは
ここに気づいていないからなのです
まだまだ世の中は捨てたものではない
自分はまだいけている
そう思っているうちは
永久に
エゴを薄くしていくことは出来ないでしょう
エゴを洗練させることは出来るかもしれません
或いはエゴをカッコ良く出来るかもしれません
或いは勇気あるエゴ
英雄のエゴ
そういうエゴを作り上げることも出来るでしょう
しかし
エゴを薄くしていくことは
出来ないのです
そこが
最初の
一歩です
でもそう思えないうちは
まだここに来るべきではないのです
もっと世の中で
遊んでいればいいのです
あるいは
自分を甘やかせていればいいのです
誰もそれを止めることはしないでしょうし
私も
宇宙全史にかかわる上の方々も
止めません
もしここに関わるのなら
自分の判断で
自らここに来たと
世界と
あなたのエゴに
宣戦布告するのです
虚空蔵55」
 
 
No.2334 なし様
「①2015・3・14
虚空蔵55さま、みわさま、こんにちは。私の中には未だに宇宙全史のワークに対する疑念が残っているのですが、その反対に最近特に気づきを多く頂いていること(南半球でのワークの効果でしょうか)を感じてもいましてエゴが真っ二つに割れたまま、ただただ世界平和の祈りを祈らせて頂いています。もうあまり力が無いのでしょうか、陰糸の嫌がらせに遇っても、それは起こることであって、消えていく姿なのだという気づきをすぐに頂けるようになり、陰糸のこと自体もあまり想念に映らなくなってきています。
19年後にこの肉体想念が何処で何をしているのか、というような事も、あまり考え込まなくなっています。つまり先の事に対して不安が無いのだと思います。そして最近、急加速するように己の自由性を感じていまして、清々しい時間が圧倒的に増えています。とてもありがたい事だと思います。
しかし、そのように書くとなにか良いことだけの様な感じがしますが、実際は何をしても良いのだという想いがあると、世界との調和を忘れて、エゴの欲望の赴くまま生きている可能性に気がついて、立ち止まることも多いですし、これから起こるであろう激動の時代に対する心構えというか、危機感というか、このワークに集う皆さまが抱いている様な必死さが私から失われていくのを感じています。
そこで質問があります。
別冊の宇宙全史に書いてあるように、自由にしたい事をして生きても良いのだということは、私にはエゴの観点だという様に思えるのですが、エゴだけが持つそのしたい事の中に良い悪いなどの仕分けはあるのでしょうか?結果に執着せずに自分自身を信用するならば(例えば快楽殺人や詐欺、搾取などはしないだろう、という風に)願望を叶えようとして行為に移すことは、魂の自由性を表していると言えるのでしょうか?
例を挙げますと、低レベルでお恥ずかしい限りですが、私が今越えたいのは、女性と目が合って何か感じるものがあっても、声を掛けるのは社会性の低い恥ずかしい行為である、と言う概念です。
ここまで書いてやっぱり消そうかと一寸迷いましたし、虚空蔵55さまや、神霊の方々や、掲載された場合にはここを読む皆さまの反応が、どんなものなのか、とても恐ろしいのですが(現に目を反らそうと様々な良い反応だけを予想しようとしています)そういったことを恐れずに生きることも自由の中に含まれていると思いますし、どんどんそうして行こうと決めましたので、このまま書き込むことにしました。本当にありがとうございます、ご免なさい。なんとかお応えいただけますように。
②2015・3・25
虚空蔵55さま、みわさま、こんにちは。今も遠く南半球でワークを行われているのでしょうか、、、ありがとうございます。
先ほど自分の中でまた一区切り付いた感触がありましたのでご報告に参りました。3日ほど前から風邪に似て非なる症状に入り、仕事を休みました。特にお腹と胸が張った様な感覚が苦しくて堪りませんでしたが(食欲の過度な減退もありました)無事に治り、また仕事を始めてから全く一人きりになれない状況でしたが、不思議と今日は家で静かに、布団を干したり、自分のスペース周りを掃除したり、一人これを書いています。
昨日が不調のピークだったのか、両親への憎しみがこれ以上無い位でしたが、湧くままに任せていました。今日は爽快な気分を満喫しています。ありがとうございました。
このところ私の周りにも性欲を刺激するすれ違いが頻発しており、我慢するよりはそれで成り行きに自分自身を任せれば良いのだと、開き直った時から、格別目を爛々とさせて歩くことも無くなった様に思います。これも陰始の呪縛が一つ緩んだことだと言えますでしょうか。
以前一度だけ霊能者の方にみて貰った時、「あなたは女で失敗する」と注意されましたが、これは社会的な事柄というより、今歩んでいる霊的な道でのことだったのではないかと、、、その方の事は宇宙全史別冊を読んでから疑っていましたが、的を得ていたのかもしれません。
この先にどのような女性との出会いがあろうとも、または今生では無いのだろうとも、やはり宇宙の総決算の時に地上に修行に降りた重要性をもっと噛み締めて邁進いたします。
余談になりますが 、私は最近特にまんだらけに赴く事が頻繁でして、時には宇宙全史のことが念頭から飛んでいながらにまんだらけで漫画を漁っていましたが、この頻繁な訪問には何か意味はあったのでしょうか?
何か生ぬるい日常が私の前に展開されていますが、1日も早く革新がこの世界に訪れますように。
おお目こぼし失礼致しました。ありがとうございます。
なし様
●「エゴだけが持つそのしたい事の中に良い悪いなどの仕分けはあるのでしょうか」
○エゴの欲望の中に「いい」「悪い」はありません。
それは単純に「欲望」に過ぎず、その「欲望」は肉体界における「執着」の元になります。
そしてその「執着」こそが覚醒を阻む根本原因になるのです。
ですから「覚醒」を望まなければ「欲望」は別に「悪く」も「良く」もないのです。それはただそこにあるものになります。そしてそれに従って人は肉の身で生きていくことになります。
ただ現実世界(肉の身)が嫌になってどうしてもこのせちがらい世界から抜け出たいと思えるようになりますと、それが「覚醒を望む」ということですから、そこには「覚醒を阻むもの」としての欲望の善悪という概念が出てきます。
しかしその段階を超えていきますと本来欲望には(やはり)善悪というものはなく、あるのは「欲望にこだわる自分(エゴ)」があるだけと達観できるはずです。
「自由に生きる」ということの中に多くの意味が含まれています。
これは多くの方たちの問題でもありますのでわかりやすく箇条書きにしておきます。
①自由に生きるということは勝手気ままに生きることではない
②本当の自由の中には調和という要素がある
③その調和は周囲との調和というのはもちろん、自分の中でのあらゆる思いや肉体が持つ記憶というものに調和(統一感)があるということ
④もしその調和があなたの「自由」の中になかったら、あなたの「自由」はあなたに幸せをもたらすことはなく、常に葛藤と後悔、そしてその見返りとしてのカルマを受け続け、本来自由が持つ平穏さと奔放さ、さらにエネルギッシュな感覚は決して感じることはないでしょう
何も恐れずあらゆる人生の局面でチャレンジしていくという精神は崇高なものですが、葛藤を伴ったチャレンジは軋轢しか残しません。
「宇宙全史」第一巻のサタンの章で詳細に語りましたが、サタンは非常にピュアな存在でした。
特に地球史における初期の段階では人類の他の誰よりもピュアだったかもしれません。
そのピュアさは後々まで続いているのですが、それが人類の「暗部」に焦点を当ててしまったため「悪魔」とか「闇の存在」とか「悪の権化」のような意味合いで扱われるのです。
しかしサタン自身は地上にある薄汚れた(中途半端な)人類よりもはるかにピュアな存在といえるのです。
彼は陰始とは別な存在ですが、ピュアである(葛藤がない)彼でさえ陰始の影響下にあり、それ故余計に人類の闇に手を染めていったということがあります。
やはり「宇宙全史」で語られていますが、カルマ(しっぺ返し)はその人にその行為をしたときに「葛藤がなければ生じない」とありました。
まったくその通りで、たとえ人を殺そうとも何らの葛藤もその殺人者になければその行為によるカルマは殺人者には降りかかりません。
むしろ殺された方が(これがあっけらかんと殺されていれば別ですが)恨みや憎しみを持っているとその輪廻にはまり込んでいくことになります。
こうしたカラクリはよくよく読み込んで理解していかないと中々腑に落ちないものですが、やがてこうした宇宙全史の内容を詳細に学べる空間(機会)が出来て来るかもしれません。
さてここで私がいいたいかなり重要なことがあります。
それは、
「健全な精神性の中でしか人は進化できない」
(この言葉はドン・ファンの言葉です・たぶん正確に写してはいませんがそんなニュアンスです)
この地球では何をやってもいいですし、何を考えてもOKです。
だからこそ陰始やサタン、エホバたちが大いに活躍してきたのです。
もちろん彼らだけではなく(その影響下にあったとはいえ)人類の大半が陰湿、陰惨、無慈悲な行為をしてきました。
しかし陰始もサタンもその他の存在たちもこの宇宙最後の決算の時期あって果たして進化してきていたのかといえば…それはないのです。
そこに「健全な精神」がなければ」意識は進化を果たすことが出来ないのです。
あなたがあなた自身の「自由」を求めるとき、果たしてそこに「調和」と「健全性」があるかどうか自らに問うてください。
それが本当の「自由」の指標となるでしょう
やがて徐々に明らかにされていきますがこう考えてみてください。
私たち一人一人は個人ではありますが、実際は大きな生物の一部だということです。その大きな生物とは宇宙全史の概念の中の「集合魂」というものがあります。
そしてその集合魂をまとめている「地球生命の魂」というものがあるということも記しておきました。
こうした大きな存在は私たち個人から見ますと何か別な存在のように思えますが、それはあなた自身でもあるのです。
例えていいますと…人の身体全体が「地球生命の魂」としますと、その中の臓器一つ一つが「集合魂」といえます。
その臓器の中の小さな組織や細胞の一つ一つがあなたという個人でもあるのです。
その細胞が「俺は何でも自分の好きなようにする」「俺は自由なんだ」と好き勝手しますと、それはもうがん細胞と同じことになります。
そこには自由にしているように見えても周囲との調和がないため自らも全体をもむしばむ存在と化するのです。
つまり「調和がない」という状況は、「自分は全体と同じもの(全体の一部)」という認識がないため生じるエゴ独特の症状といえます。
これもエゴが薄くなるにつれ次第に視野が広がり、「自分と世界の一体感」という感覚が濃くなっていきます。
そうなりますと自由に生きてなおかつ世界とも調和して生きていけるという、
「70にして心の欲するところに従えども則を超えず」
という孔子の有名な言葉がありますが、そういう境地に落ち着いていきます。
そして精神の健全性とは私たちの大本である「地球生命の魂」という身体全体が病んでいないかということがあります。
それには一つ一つの細胞であるあなたが病んでいないか、臓器一つ一つが健全であるかどうかということが問われています。
病気の身体は正常に発育することが出来ないのです。
だからこそそこには「健全な精神」が求められているのです
虚空蔵55
(なおサタンはそのピュアさゆえ19年後までには分裂していくことになります。白サタンと黒サタンとでも名付けましょうか…そういうものに分かれて地球に残るもの、消えていくものとなりますが、彼の分身でもありますエル・ランティもやはり分裂してその存在の審判を受けなければならない時期が迫っています)」
 
No.3686 スーザン様
虚空蔵55様、みわ様
 
この度はNo.3681の質問に対し、ご回答を頂きありがとうございました。
 
また、「他の大宇宙やさらにまたその上の」という曖昧な表現を用いてしまい、ご迷惑をお掛けしました。申し訳ございませんでした。
 
確かにこの部分は自分の中でも、該当する記述を参照せずに何となくで書いてしまった部分でしたので、曖昧な表現になっておりました。
 
自分の中で微妙にうやむやにしていた部分を指摘して頂いたことで、驚きと同時に私の詰めの甘さを実感致しました。
 
再度きちんと質問をさせて頂きます。
 
「他の大宇宙やさらにまたその上の」という部分ですが、これは質疑応答5 p.329〜p.330 に書かれている部分が私の頭にあったのだと思います。
 
私たちはオームという一つの小さな泡のような宇宙に生息する。そして、オーム宇宙のような宇宙(泡)は他にもたくさんあり、「大宇宙」という大きな泡に包括されている。その大宇宙もまた数多くあり...というように続いていく。
 
したがいまして、私の曖昧だった部分の質問は、
 
もしも私の世界が無数のスクリーンに映し出された映像のうちの一つであり、その元の映像となる光が実存と呼ばれる領域を根源としているならば、その光はこのオーム宇宙のみでなく、他の大宇宙やさらにまた大宇宙を包含するより巨大な存在も...という現れの世界全てに共通する光なのでしょうか?
 
といった形になると思います。虚空蔵55様から「現れの世界」というところにおいては「その通り」というご回答を頂きましたので、
 
オーム宇宙のみでなく、他の大宇宙やさらにまた大宇宙を包含するより巨大な存在もまた実存あるいは真我を根源とするエネルギーにより映し出された映像(現れ)なのでしょうか?
 
と改めて質問し直させて頂きます。また、同じp.330に、月読之大神はこうした段階を超えた「世界」から来ておられます、その「世界」とは「大宇宙」やオームのような「宇宙」を造ると意図した「世界」です。
 
という記述を拝見し、わたしはその「世界」を単純に実存・真我(あるいはそれ以上)の領域と理解し、その領域が創造というような意図を発するのか、そもそも意図のようなものを持つものなのか不思議に感じたのだと思います。
 
しかし、オーム宇宙や、それを包含する大宇宙の有り様さえよく分かったおりませんので、その領域の質問になったしまいますと手も足も出ないのが現状です。
 
そもそもこういった領域を探求するにはあまりにも私は脆弱すぎて、まともに取り組んでしまいますと、精神の崩壊や、生きていくことが出来なくなってしまうほどの重大な危機を迎えてしまうような気さえします。
 
No.3681のご回答で、(単純計算で)これまでオーム宇宙からは1兆年に一人の割合でしか完全覚醒者が生まれていないことになるとお聞きしました。
 
数学の世界では100年に一度の天才でも驚異的ですが、それがオーム宇宙全体で1兆年に一人となると一体その偉業を成し遂げた方はどれ程の大天才だったのか、どれ程の精進を重ねて初めて成し遂げられたことなのか、その道筋が全く想像できません。
 
一応宇宙全史のワークに何とか引っかかり、そのワークの中で途方もない領域の質問をさせて頂ける機会があるため、もし本気で望むことが出来れば、或いは完全覚醒するというチャンスが、私にも極々僅かながらあるのかもしれないと思ってしまいますが(勘違いしてしまいますが)、これさえも中々あり得ない幸運なのかもしれません。
 
これからは、私も探究心を持って宇宙全史のワークに参加させて頂きたいと改めて考えております。
 
その私なりの探求の結果がどのような実を結ぶのか、その前にいつか実を結ぶことがあるのか、それすら未知数ですが、期待とも不安とも言えないような不思議な感覚を持ちつつ、仰るように精進して行きたいと思います。
 
この度もお忙しいところありがとうございました。
 
今後ともよろしくお願い致します。
 
2018・11・28
 
 
スーザン様
「オーム宇宙のみでなく、他の大宇宙やさらにまた大宇宙を包含するより巨大な存在もまた実存あるいは真我を根源とするエネルギーにより映し出された映像(現れ)なのでしょうか?」
●それでもまだ曖昧な質問といわざるを得ないのです。
というよりもその答えが曖昧さを許されない世界にあるといった方がいいかも知れません。
分かりにくいですが…こういう質問は通常して来ないのです。
そういうように出来ています。
だから正確な質問が出来ない状態で、質問して来ているということもあります。
月読之大神と私の問答です。
●何故みんなは質問して来ないのでしょうか。
「出来ないようになっている」
これは私が究極の質問をしていた時の問答にあったものです。
このオーム宇宙を含む大宇宙、その大宇宙を(ほぼ)無数に含む含む超巨大な螺旋輪宝宇宙(ねじりんぼううちゅう)、それが現れの世界の一つの区切りです。
ここまでの探求でさえ人類は未だ辿り着くことは出来ていません。
しかし私はすでにその先遥か彼方まで見透しています。
その時の問答中に先の会話がありました。
「出来ないようになっている」
ならば「出来るように変えればいい」
それが宇宙全史の大学の意図になります。
しかしそれには中学に入り、高校を卒業しなければなりません。
「そもそもこういった領域を探求するにはあまりにも私は脆弱すぎて」
●そうなのです。
まだあなたは脆弱なのです。
例えば女性に弱いというところがありますが、しかしそれも食欲と同じで克服できるものですが、無理やりというところではありません。
丁度先ほど「質疑応答7」を書いていましたが、その中に「食べなくなる」という追補を書いておきました。
これは「性欲をなくす(食欲をなくす)」と同じようなものですから、参考になると思います。
語りたいことは山ほどあるのですが、如何せん時間がありません。
私も目の前の出来ることを粛々とこなしていくしかないのです。
ただ脆弱なままで、重い肉体を抱えたままで遥か虚空を超えた領域に至る道は存在しません。
私たちは未だその重い肉体がなければ存在すら出来ない脆弱な身です。
それを祈りは変えていってくれるのです。
虚空蔵55」
No.758  hama
「虚空蔵55様、みわ様
宇宙全史、並びに質問コーナー、大変勉強になります。折角の機会ですので、初めて2点、質問させていただきます。
1つは、マスターベーションについてです。60歳近い男性ですが、まだ「性」にとらわれがあります。ポルノなどの映像を見てマスをかくと、いわゆるネガティヴな存在(?)にエネルギーを与えることになってしまうのでしょうか?また、画像の女性などに妙なエネルギーを送り、迷惑をかけることになるのでしょうか。
2つ目は、娘(21歳)についてです。最近、神道系の霊能者の方と本人が面談する機会があり、憑依体質だと言われたようです。小さい頃から、霊のようなものが見えたりしていたようです。本人の自覚・成長が根本でしょうが、親として何か注意してあげられることがあればお教え下さい。お忙しいことと思いますが、よろしくお願いいたします。
 
2009・4・3
hama
 
マスターベーションについてお答えします。
おっしゃるようにあなたがそういう行為をなさると、ネガティブな存在にエネルギーを与えることになります。
しかしその存在の遥か大本をたどると確かにエホバやエル・ランティではありますが、直接的には地獄(下幽界)の亡者達にそのエネルギーは支払われています。
そして色情地獄にある亡者達は、そのエネルギーを得ることでなお一層その環境から抜け出ることが出来なくなっています。
 
画像の女性につきましては、彼女は無事ですが、あなた自身がその行為により色情の因縁を積み重ねることになります。
 
実はマスは若い人がやるにはあまり問題ないのですが、年を経るとそのエネルギーが変化しまして、地獄界まで届いてしまうのです。
若い方の性エネルギーはそこまで届かず、途中で拡散(発散)してしまいます。
年を重ねるとねっとりしたエネルギーになってしまい、重くなり、その濃さが色情界と連結してしまうのです。
 
解消するにはどうしたらいいのでしょうか。
 
「お祈りをしなさい」
 
それで何とかなるのでしょうか。
 
「何とかなる」
 
この後上の方たちと色々お話ししたのですが、やはり社会的には赤線復活といいますか、売春を政府で管理して行うようなシステムを作るべきではないかという話題になりました。
これは必須だそうです(男女共にです)。
 
上の方がお祈りで何とかなるとおっしゃいましたので、必ず何とかなりますが、万が一ダメな時は、このBBSの特色であります、マラソンをお勧めいたします。
肉体がベロンベロンに疲れてしまうと、そういう欲望もなくなってしまいます。
しかしこれはトコトンまで追い込まないといけないので、中々難しいかもしれません(例えば毎日3時間以上走るとかです)。
 
 
娘さんについてのご質問です。
娘さんの天命は、
 
「憑依体質を気にしないで普通に生きること」
 
娘さんは他と違うということで、それを何でもいいわけに使っているところがあります。
 
「周りの評価に頼ってはいけない」
 
「あるいはそれをいいわけにしない」
 
「そうしないと翻弄されてしまう」
 
そしてあなたの天命は、
 
「家長として家族を纏め上げ、家庭を全うさせなさい」
 
それが天命です。
しかしこのままでは無理なようですが、
 
「奥様とお子さんに自分より先に目を向けないと、あなたの自己中心性、性欲はおさまらない」
 
「お子さんと奥さんに尽くしてあげなさい」
 
娘さんの憑依体質には、
 
「あなたがこの世に出てきたということは、私たちが守っているから出てきたのであるから、憑依体質ということで何も恐れる必要はないんだよ」
 
娘さんは憑依体質といわれると、もっと色んなものを引き寄せてしまいます。
だから、
 
「ここに生まれたということは、守りがあるのだということなのだから、気にせずに過ごしなさい」
 
そう伝えて下さい。
 
ご健闘をお祈りします
 
 
虚空蔵55」
 
 
 
虚空蔵
 
2013/4/17 No.244
これは右のNo1744に対するお答えになります。
●「虚空蔵さん、軽々しく戦士になりといと書き込みましたこと申し訳ありません」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
ドン・ファン系列の戦士にあこがれを持つのはいいことです。
決して否定はしませんが、彼らの生涯をかけたその壮絶な忍耐と自己鍛錬、自らの愚かさへの明晰な戦略なくしては到達できるものでもないのです。
戦士たちがなし得た偉業に対して、本来私たち日常の意識しか持ちえない者たちが云々出来ることではないのですが、それでも一種の「あこがれ」として畏敬の念を持ちつつカスタネダを通して投影される彼らの姿を会間見ることは出来るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
●「人に惑わされ、人に決断を委ね、全てを人のせいにする・・・。これを完全に無くす必要があります。
私のこれまでの人生、実に多くの責任転嫁ありました。もうそれは止そうと思います。
これも私にとり簡単なことではありません。しかしそこにしか自分の力で覚醒に導く方法は無いと思われます
これも私にとり簡単なことではありません。しかしそこにしか自分の力で覚醒に導く方法は無いと思われます」
○あなたは人生のありとあらゆることを人任せにすることが可能です。
しかしいったん「覚醒」に関しましては、それはあり得ないのです。
様々な宗教や救世主、教祖様に自らをゆだね、救っていただこうという都合のいいやり方は、ここで何度も申し上げておりますように、自らのアイデンティティを放棄することであり、その姿勢はこの宇宙のセオリーに反するのです。
もちろん何かを学ぶときに「真摯な姿勢」「謙虚さ」「礼節」「思い込みを持たない心」「全托」等は必要ですが、それは「自らの判断を放棄してしまう」ということとはまた異なるのです。
あなたの外に救世主はなく、あなたを救うものはあなた自身であるのです。
ここでは何度もいいますが、よく勘違いされているのは「世界を救う」「他人を救う」というとんでもない欲望を持ってしまうことです。
そんなことは不可能なのですが、エゴは自らを省みることから目を背けるために「世界」や「他人」を救うという行動、姿勢で満足しようとします。
それがほとんどの精神世界にある方たちの有り様なのですが、そこに気付くにはとても強い精神力が求められます。
ただ人を導けるとしたら、その方が(高度な)覚醒しているときだけです。
そこに至らずに「世界を救う」などと思っているうちは、勘違いも甚だしいということです。
もし私がシャギーさんの求めに応じて「戦士」としての教えを授けようとしたとします。
その結果は(私がいまだ覚醒していないために)ほぼ「愛欲」「金銭欲」「権力欲」にまみれた巷の宗教と変わらない在り様になってしまうでしょう。
そして私もシャギーさんもおそらくどうにもならないどツボにはまってしまうか、怨愛にまみれた道を歩むしかなくなるかもしれません。
先ほども書きましたが、そもそも覚醒した方は「世界を救う」「他人を救う」などという了見を持ちません。
つまりそういうことが出来る、やる、やらなければならないと宣言している教祖たちは覚醒していないということであり、そこから導かれる信徒たちの有様は悲惨な結果に終わります。
教祖は「弟子がなっとらん」信徒は「騙された」と互いにその責任をなすりあいます。
戦士への道へ導けるのはナワールという莫大なエネルギーを備えた、一定の段階の覚醒状態にある存在だけです。
しかもその教えを受けられるのは、自ら志願してではなく「永遠(もしくは無限)・あるいは大いなる存在」に導かれた(選抜された)ものだけなのです。
そしてその「永遠」に導かれるためには、あなたにその準備が出来ていて、しかもその時にタイミングがあっていなければなりません。
孤独な鳥であることを恐れず
誰よりも高く飛び
やさしくうたう
そしていったん飛び立てば二度と戻らないという決意を秘めて
しばしの旋回したのちに
この地上を後にするのです
皆様方は「この地上世界が大好き」なのです。
「覚醒を求めている」とは言っていますが、本当は他人や友人に話を聞いてもらって自分を認めてもらい、家族の団らんを求め、美味しいものを食べ、彼氏彼女を日々追い求め、少しでも人に認めてもらいた、世に認めてもらおう、人よりお金を持っていたい、長生きしたい、楽したい、子供の成長を楽しみにしたい・・・とその意識、思考は地上界にへばりついたままなのです。
本当に覚醒したいのなら、何度もここで申しあげていますように「覚悟」が必要なのです。
そしてその覚悟とは「この地上を離れる覚悟」なのです。
地上を離れる覚悟とは、
①「すべての執着から離脱する」
②「すべての欲望を捨てる」
①のすべての執着とは、あなたの友人、知り合い、家族、家系、仕事関係の付き合い、物に対する執着
②のすべての欲望とは、食欲、性欲、睡眠欲、権力欲、自己顕示欲、物欲、金銭欲
こうした私たちをこの地上界に縛り付けている「接着剤」を希釈していかないと、覚醒を得ることは不可能なのです。
他に方法はありません。
やがて(いきなりは無理なので)徐々に執着や欲望を薄くしていくと、その因となっているカルマが次第に解き放たれていきます。
そうすると欲望・執着の希釈により加速度がついて覚醒に近づいていくことになります。
しかし私たち凡夫にはそもそも「欲望を絶つ」「執着から離れる」ということが出来ません。
皆様は色々質問してこられますが、本当に覚醒したいのなら欲望と執着を絶てばいいのですが、そんな簡単なこと、シンプルなことが絶対に出来ないのです。
仏陀以来人類はそのことを耳たこほど聞いてはいますが、ただ聞くだけで決して実行しようとはしませんし、出来ないのです。
それでもエゴは何かしら秘められた、隠された特別な覚醒に向けてのメソッドがあると信じ、そういう秘法を伝授してくれる教祖やマスターを探し求めます。
たとえ一人街を出て、滝に打たれ、断食し、山々を回峰しても、そこに「人より優れた能力を得て、優位に立ちたい」「人から尊敬された」「楽したい」などという思念が残っている限り、正しい覚醒を得ることは出来ません。
それはただ街でやっていたことを環境かえて山でやっているだけなのです。
私自身今の環境に置かれて一番感じるのは「自力での覚醒は不可能」ということです。
必ずそこにはマスターや神霊、大いなる存在の導き、加護が必須となります。
しかしエゴは「そんなはずはない」「自分は自力で必ず成し遂げてみせる」とエゴらしい考えを修正しようとはしません。
そこがミソといえばミソなのですが・・つまり「謙虚さ」「礼節」「自己放棄」「大いなるものへの全托」という姿勢が芽生えてこない限り、覚醒への道が開けることはないのです。
それがいわば「覚醒」の安全装置ともいえる構造になっているのです。
(覚醒への安全装置とは、覚醒すると(その人の段階や方向性にもよりますが)ご存知のように様々な常識を超えた力を有することが出来るようになります。しかしこの安全装置がないと、その力をどう扱うかということがとても問題になってしまうのです・つまり自己の欲望のために使用してしまう、その結果地上界が大変なことになってしまうという図式です。ほぼ無限の力を有した覚者は、すでにその時人々をもてあそんで満足するという動機を持っていないのです)
今ある皆様方の欲望や人生の願望、やりたいことやしたいこと・・私はそれらを捨てろとはいいません。
もちろん皆様はそれが出来ないからですが・・しかしその中で少しずつでも今の生き方、現状の人生に疑問があるのなら、その時こそ世界平和の祈りを唱える時なのです。
そうすると知らない内に、苦心惨憺しなくても五井先生が代わって引き受けてくださり、いつの間にか何段か上の境涯に引き上げていただいているのです。
五井先生の世界平和の祈りは、それも含めてあらゆる側面からあなたに応じた方法で、あなたを成就に持っていくオールマイティのアイテムなのですが・・
それが信じられない・・わからないのは実はこの後のご質問(Kazu様のものです)にお答えする中である程度解明されていくのかもしれません。
それが「二人の日本人の章」というテーマですが、それはまた後のお話です。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
●「虚空蔵さんがTVに出られて、御自分の周りには社会性に乏しい人間が集まってくる・・・みたいな事を言われたと思いますが、このBBSの仲間はもっと酷いのでしょうか?」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
まんだらけに集う人々は確かに「社会性が薄い」方々が多いのですが、その分「自らの感性に殉じる」という潔い人が多いのも事実です。
多くの人々はそこに何の根拠もないのに「ブランドもの」にひかれ、日々の流行に流されることで自身を「トレンディ」だと勘違いすることで満足しようとしています。
しかしそこには何を見ても「かわいい」という表現方法しか知らない自発的な感性の表現方法を持たない機械的な感性の人間しかいないのです。
「おたく」や「マニア」と呼ばれる方々は、確かに自らの服装やかっこうをあまり顧みようとはせず(社会に合わせようとはせず)、一般社会から見ると(独自の)変わった在り様で生きているように見えます。
しかし実際は仕組まれたトレンドに踊らされ、お金を使わされる人たちと異なり、自分が本当に納得したものだけを(他人がどういおうと)身辺に引き寄せています。
そこには一種の(他人のことなど関係ない・自分たちの有り様に殉じる)という「頑固さ」「かたくなさ」がありますが、それでもそれを差し引いてでも、この宇宙はそういう人たちの方を好むのです。
その在り様は昔の妖怪たちの有り様に似通っていますので、私は自身(集合魂ですが)のカルマとして「妖怪たちの指導・教育で果たせなかったこと」をまんだらけという会社で、従業員を一人前の社会人にすることで解消しようとしています。
ここで皆さんがご覧になっている宇宙全史の書き込みには多くの方々が参加しておられます。
初めのうちは「なぜこんな質問しか来ないのか」とも思っていましたが、月読の大神から見ると「それでもましなのよ」ということのようでした。
ここに注目できるだけでも・・それだけでもすごいことのようだということでした。
確かに私はあまり「うまいこと」というのが苦手です。
ここに書き込んでは叱られ、エゴが否定される中で、それでも食いついてくるのはやはり見込みがあるともいえるのです。
(以前前世を聞いて、それが自分の思っていたものと大きく異なるので、二度と書き込んでこられない方もおられますが、ここでは現実(本当の自分)と対面できる勇気がないとついてこられないのかもしれません)
実は今度のトライアスロンレースで、私の一つの段階が終わります。
私の周りには「魔女」たちがウジャウジャいます。
それは彼女たち(男性もいますが・男性性の魔女ということです)に対する私(集合魂)のカルマの解消のために集っているのです。
私は魔女という存在に対して妖怪たちと同じく「教導する」という義務を持っていましたが、それが長年の地球の歴史の中で果たし得ていなかったということがありました。
ここではあまり書いていませんが、私のこの人生における魔女たちに対してのカルマの解消は中々厳しいものがあったのですが、しかしそれもこの4月でほぼ解消します。
月読の大神「よくがんばったね」
そういうお言葉を頂きましたが、最もうれしかったのは・・「普通の身体に戻る」ということでした。
私が20代後半からずっとトライアスロンという競技を続けていたのは、好きだったわけでもなく、格別強かったわけでもなく、ただ単に集合魂のカルマの解消のためだったのです。
そのことは前にもお聞きしたことがあったのですが、その時は「そういうわけでもない」という感じでうやむやにされていました、
しかし私自身のモチベーションも含めて、トライアスロンという過酷なスポーツをやり続けるという動機はひとえに「魔女とのカルマの解消」というところにあったのです。
それが最近明かされ、さらに4月にそれが解消されると、今までそれで引っぱられていた私の肉体・精神に対する抗力が消失して、本来の私の肉体機能が発現できるというのです。
昨年末から今年にかけて、あまりにきつい肉体行に「もうトライアスロンなんかやめてしまってもいいでしょうか」と弱音を吐いていたこともありました。
何がきついのかといいますと・・私は単純に「きつい」「厳しい」「苦しい」ということではあまりギブアップしないタイプなのですが、とにかく「甲斐がない」のです。
つまり何をどう努力しても決してうまくいきませんし、どんなにトレーニングしてもそれを結果として出すことが出来なかったのです。
それがカルマの解消だったのですが、そのあたりの詳しい内容は「非公開情報5」にも書いてありますので参考にしてください。
そして「もうやめていいか」という私の問いかけに、
月読の大神「それはあなたの好きにしていいよ」
といういつもの飄々としたお応えでした。
そしてそれならば今度の4月の宮古島トライアスロンを最後にしようと決め「どうせまたさんざんな目にあうのだろうが、せめて最後は潔く散ってやろう」と覚悟していたのです。
すると3月に入って突然「今度の宮古島で区切りがつくね」というお言葉があり、魔女たちとのカルマはそこで一応ひと区切りと教えられたのでした。
そして「本来の私の肉体機能に戻る」というのは、決して何か覚醒して超常的な肉体になるというのではなく・・逆に「普通の身体になる」ということなのです。
それでもレースのたびに「もうやめてしまいたい」と願うほどの苦痛を味わうのではなく、普通にトレーニングすれば普通にそれだけレースに反映するという肉体なのです。
まあ当たり前のお話なのですが、私にとってはこれまで味わったことのない経験になると思われます。
4月のレースでは、(カルマの解消としては)これが最後のレースではあるのですが、まだそこにはカルマのお勤めがあるようなので(ですからやはり苦しいレースになるようです)きついことになりそうですが、それでもそのあとは自分の肉体を自分が思うように扱えるという、生まれてこの方(おそらく)味わったことのない経験が出来るはずなのですが・・
(これまでは植芝先生がどれだけ私の肉体改造をして下さっても、カルマのため中々その成果が出なかったということがありました。しかし先生は「そんなもの(カルマ)は知らん」というスタンスで粛々と施術を続けておられたのです。それがやっと私のこのカルマが終わることで、成果が出てきそうになったということがあるのです)
一つのカルマが終わるとはいえ私にはこれからもまだまだ背負っている多くの負債があります。
それがまんだらけという会社の従業員たちを育てるというお仕事ですが、それが終わると一応私の今生での果たすべきカルマは終焉します。
集合魂全体が背負っている「ツタンカーメンを殺し、世界を破滅させた」というカルマは大きすぎて本来私は今回の生では消化できない形になっていますが・・どうなのでしょうか。
このカルマを果たすにはどう考えても「世界平和を実現するあと一歩のところで、誰かどこかの反対勢力に私が無残に殺され・・それで世界がまとまり世界平和の祈りが成就する」というシナリオが脳裏を去来するのですが、魔女たちのカルマがいよいよ解除になるという前夜、月読の大神にそれとなくお聞きしました。
ツタンカーメン(地球の化身です)を殺したカルマの解消は厳しいものになりそうですね(そこで先ほどのシナリオをお伝えしました)。
月読の大神「あなたの集合魂はそれをまさしく望んでいるが、あなたはそんな辛気臭いやり方でなくてもいいんじゃない」
というお答えでした。
「えっ?そうなの」というのが私の正直な心境でした。
死ぬことは大して問題ではないのですが「無残に殺される」という部分が気になっていたので・・他のやり方もOKという道が開けたのは本当にありがたいことでした。
(無残に殺されるというのはどうやらこの世界全体の大きなカルマを刈り取るには必須に近いやり方のようで、イエスの時の十字架刑もそうですが、五井先生の昇華の仕方も先生ご本人しかわからないのですが、壮絶な苦しみを側近の方たちにもわからないように、さとられないようにしつつ受けておられた姿を私は知っていますので、到底自分には出来ないということも知っているのです。彼らアルデバランの巨大な魂・存在はある意味常軌を逸しているものでもあるのです・「常軌を逸しているとは・・私たちのレベルを色んな意味ではるかに凌駕しているという意味です」)
また長くなってしまいました。
シャギーさんの(少しではありますが)進化の様相に刺激され書いてみたくなったからですが・・最後に大事なお話をしておきます。
私はこの宇宙全史のワークの中でずっと「私は救世主ではない」といい続けていました。
それは今でも変わらないのですが、少し言い方を変えておきましょう。
そのわけはもう少しわかりやすい説明が皆様方には必要だということ、そしてその時期が迫りつつあるということ・・この二つが私をして語らせるのだと思います。
まずみわという存在・・アンドロメダが使用していますので、アンドロメダといってもいいのですが、この存在は本来こうして皆様方の前に出て来てはいけないのです(直接出て来てはいませんが、ここに書かれてあることはほぼ彼女たちのお仕事によるものです)。
彼女の存在の顕現は禁忌というほどのタブーでもあるのです。
みわは通常ならこの世界の中で、普通の人間たちに利用され、いいように使われ、あるいは虐待されて生きていくべき者なのです(そういう扱いしかできないのが現状の人類だということです)。
実際私と会うまではそういう生き方をしていましたし、人々もそういう扱いをしてきていたのです。
見た目は普通の子供っぽいおばさんで、誰がどう見ても「地上最強の巫女(おそらくこの宇宙最強かもしれません)」などとは思いもつかないでしょう。
簡単に利用できそうですし、普通の人がリスペクトできるような要素も持っていないのです(これもまた今の人類ではみわを見て、そのどこにもリスペクトが出来ない・・という意味です)。
ですからみわという存在を見つけることは通常の人類には不可能なようになっていました。
もちろんみわに会って、みわを利用することは誰でも出来ますが、彼女のアンドロメダとしての存在を見つけることは出来ないのです。
そういう構造になっていますし、地球の遥かな過去からアンドロメダはそういう地球への援助の仕方をしてきています。
しかし今回史上初めて私がその存在を見つけてしまったということ・・これがこの地球の運命を変える一つの要素となってしまったことは事実です。
「宇宙全史」第一巻で書きましたように、この地球では「何でもアリ」なので、アンドロメダを見つけることも可能性はあったのですが・・それはもう限りなくゼロに近い確率でもあったのです。
しかし並行宇宙の中の一つの世界であるこの私たちの世界は、いつの間にかギリギリの間隔でアセンション出来るかどうかという瀬戸際に現在あるのです。
もう一つ・・それは私の覚醒です。
私はまだ覚醒はしていませんし、今回の人生ではそれを成就するようにはプログラミングされていませんでした。
それが非常に複雑な(わかりにくい)過程を通して。おそらくその方向に行く可能性もわずかながら見えて来ています。
それはひとえに五井先生の意向であり、先生が「この男を使ってやろう」とお思いになった時からそういうベクトルが見えていたのだと思います。
複雑な、わかりにくいと申し上げたのは・・私個人の覚醒が、
①私の集合魂のカルマともかかわってきている(ほぼそれだけといってもいいのですが)
②地球の大アセンションの成就ともかかわってきている(人類の、皆様方の現在と未来の動向でもありますが)
③私個人の覚醒においては、その過程が肉体を通して求められている(つまりトライアスロンという競技の中で切り開かれていく)
この3つが絡まりあい、互いに影響しつつ複雑な形で成就しようともがいているのが現状です。
そこに前述のみわの存在があります。
ですからみわの存在を含めますと大きくはこの4つのファクターがこれからの地球の未来を決定していくことになっています。
しかも私のトライアスロンという趣味は、まさに私個人の範疇にあるはずでしたので、それが地球の大アセンションと絡むなどということが、あまり明確に理解できなかったということがありました。
しかし私のトライアスロンに対するモチベーションが私の集合魂による意向(操作)であったと判明した今、彼らのカルマの解消と私の覚醒がシンクロしつつ、もっと大きな潮流の中で地球のアセンションと絡んでいくようになっています。
わかりやすくと申しあげましたが・・かえってややこしくなったかもしれませんね。
いずれにせよ以前シャギー様が仰ったように「私がトライアスロンで、あるいはオリンピックの何かの競技で優勝することで、人類の覚醒を促す」という方向性は、すでに「いったん忘れなさい」という月読の大神のお言葉により取り消されています。
それでもそういう明確な(わかりやすい)啓示を与えられなくても、なお私のエクササイズは地球の大アセンションと連動していると感じられるのです。
宮古島大会まであと1週間を切りました。
そこでは最後のカルマの修正のため決して楽な走りは出来ないでしょうが、何とか完走して、その後の「ずいぶん軽くなるよ」という植芝先生のお言葉を楽しみにしておきます。
私の最終目標はハワイのアイアンマン・チャンピョンシップで総合優勝することです(これはまだ許されているのです)。
しかしそのハワイに出場するためには、世界各国で開催されている予選のアイアンマンレースに出て、そこでクオリファイ(出場権)をとらなければならないのですが、これがまた競争率がとても厳しいのです・・しかも年々何故かきついスポーツにもかかわらず人気が出ていまして、海外のレースでは出場権を得ることもほぼ出来なくなってきてしまっています(レースの開催日が発表されると同時くらいにほぼ埋まってしまい、海外のアイアンマン予選レースには中々出ることが難しくなっています)
国内では最近まで五島でアイアンマンレースがあったのですが、これもなくなってしまい、もうアイアンマンには出場できる望みもなくなったと思っていました。
私は毎年4月の宮古島と9月の佐渡大会に出ることにしているのですが、今年の初めに「佐渡はどうしましょうか」とお訊ねすると・・「もういいんじゃない」というお言葉でした。
それで「ああもう本格的にトライアスロンは終わるのかな」と思っていたのですが、3月の後半ふとしたことで「今年の8月に北海道でアイアンマンが開催される」という情報をもらい、早速調べてみると本当にあったのです。
しかしその情報では2月の発表と同時にすでにすべての枠は締め切られているということでしたので残念ではあったのですが、念のためと調べてみますとなんとまだわずかに狭い枠ですが残っていて、何とか滑り込むことが出来ました。
こうして私のトライアスロンの道は宮古の後、新しくなった肉体でアイアンマンにチャレンジできることになっています。
さてどうなっていくのでしょうか・・
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
●とにかく、私は色々な意味で、強く優しくなりたいと思います。後悔の無い今を生きたいと思います
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
○今の世はなぜか「やさしい」人やモノや出来事を好むようになっています。
それはひとえに人々が弱くなってきているからです。
本来私の子供の世代は、親の世代よりも段階が一段も二段も高い魂が降りてきているのですが、親や社会の教育方針により「よわっちい」子供、大人に育ってしまっています。
そのため世の中のありとあらゆる事象が「やさしさ」を求めるのですが、しかし実はその「やさしさ」は本当のやさしさではなく「弱さ」にしか過ぎないということがわからないままなのです。
「強さ」のない「やさしさ」は役にも立ちませんし、それだけで満足してしまうため、かえって人の進化を阻害するものになります。
よく「あの人はやさしい人だと思って結婚したのに・・」「結婚したとたんに人が変わったように無茶をいう・暴力をふるう」というお話をよく聞きますが、それはそのやさしさが「弱さ」だということ、あるいは「弱さを隠すためのカモフラージュ」だということが見抜けなかったからなのですが、その見抜けないというところがまたその女性自身も「弱い」人だったということでもあるのです。
◎親の世代は「どう子供を育てるのがベストなのか」(自分たちの思い込や、世間体にとらわれない、子供本来の才能を生かしてやる育て方)
◎子の世代は「いかに社会の迷妄という呪縛から抜け出ることが出来るか(親や社会から「こうあらねばならない」という押しつけを、いつの間にか自分のものにしてしまったところからの脱却をはかる気づきと努力)
それを学ぶためでもあるのですが・・
シャギー様は「強く優しくなりたい」とお望みのようですが、そこまで来ればもう一息「明晰さ」を手に入れば本当のやさしさを手に入れることが出来るのです。
あなたは今回の出来事で(お父様がお亡くなりになった)一定の段階の上昇がみられました。
しかしあなたの求めるやさしさの中には、いまだに「自分の足りない部分を補ってくれる存在」を求めるやさしさしかありません。
自分が無理難題をいってもそれを受け入れてくれる存在、あるいは受け入れてくれることで満足するという代償行為(子供のころに与えられなかった愛情の代償という意味です)としてあなたはむなしい繰り返しをしていました。
そういう意味ではまだまだあなたは子供だということです。
何かに頼るという頼り癖・・・それを直していかねばと仰っていますが、それをまだまだ引きずっているのです。
五井先生からです
「人に頼るというより自分に頼れるようになりなさい」
「そしてその頼れる自分を見つけるという方向性を維持しつつ、自分というものをもっとしっかりと見つめていけばいいよ」
そのために必要なものはここですでに開陳しています。
この世界において、あなたの覚醒に必要なものは「世界平和の祈り」をおいて他にないのです。
それでは今の地球にある私たちの真の幸福を求めるにあたって最も効果的なものであり、これ以外に道はないと断言できる「世界平和の祈り」にどうして私たちは人生のすべてをかけることが出来ないのでしょうか。
そのあたりを次回のNo1745のKazu様への詳細な返信で明らかにしていきたいと思っています。
 
 
追補11
食のお話です。
2018年11月29日にこれを書いていますが、
あと数分で30日です。
来月はいよいよ怖るべき冬至がやってきますが、最近の私は朝サラダをドンブリに一杯作ったら、ほぼそ
れだけで1日まかなえてしまいます。
朝にドンブリすべて食べ尽くすのではなく、夜まで少しずつ食べるのですが、それで特別お腹がすいて飢
餓状態になるということもありません。
「ああ食べなくなるというのはこういうことか」と不思議な感じになっていますが、
あまり特別な事とか、
特殊な身体になったという感覚はなく、ただお腹がすかなくなったという感じです。
サラダの中にはまだ燻製の鳥のレバ—や胸肉が入っていますが、脂身といいますか油脂類は受け付けなく
なってきています……が、特別高価な牛肉などは上手に料理されていればおそらく食べてしまうでしよう
(そんな気がしますが食べたいとも思わないですね)。
ただ会社に従業員用の食堂を作ってしまったので日々そのメニューとの心の葛藤は残っています。
実はまんだらけの食堂メニュI は信じられない程贅沢なメニューになっていまして、
素材から作り方まで 出来るだけいいものを出すという方針で運営しています。
おそらく半年前の私なら毎日たらふく食べて満足していたでしょうが、
せっかくそういう良いものが出来ても今となっては何の恩恵もありません。
たまに残り物のキャベツを頂いて喜んでいるくらいです。
従業員が栄養豊富でバラエティに富んだ、作り立て焼き立ての豪華メニュI を食べているのに'
社長はきざんだキャベツをドンブリ一杯もらって喜んでいるのです。
日産のゴーン氏に聞かせてあげたいものです。
現状好きな牛乳も飲まなくなり、
食堂では毎食デザートが出るのですが( そのデザートも私のコーディネ—卜したものですが)、
めっちゃ美味しいプリンも高級ラム酒に浸し砂糖を振りかけたスポンジケ—キも
食べられなくなってしまっています。
それでもあまりストレスがないのが不思議なのですが、
どうもそこが大事なポイントのようなのです。
つまり「ストレスを感じない」というところですね。
すでに書いておきましたが、
無理な菜食主義や断食はあまり意味がありません。ただI時的な断食は生活
習慣の是正には効果があることはあります( 正しくできればですが)。
「自ずと身体がそうなるのを待つ」というのが極意といえば極意です。
だから楽といえば楽ですが、
そうなるまではお祈りと自らに降りかかるカルマの昇華が必須です。
つまり精神面の浄化がまずあり、それが果たされると自ずと肉体も変化していきます。
それがこの宇宙全史を通して地球や宇宙の変革の局面で同調して、強調されていくのです。

真我・実存について

宇宙全史1より
 
 ここでお話している「私」は自我(エゴ)の私ではありません。ニサルガダッタの提唱されている「私は在る」という意識感覚(根源的なアイデンティティ)というのが最も正確な言い方だと思います。この実存にかかわる部分は直接ニサルガダッタの日本で出ている唯一の本「私は在る」をお読みいただくか、この本の「宇宙」の章の「実存」の項をご覧ください。お勧めはニサルガダッタの本の方です。
 
 魂(体)は実存があってこそ意識を持ち認識が可能になるのです。つまり実存が私たちの存在のすべての在り様に焦点を当てることにより、命を吹き込み存在を現すのです。人間という存在は人間界・魂魄界・幽界・霊界......と延々と果ては究極の実存界まで切れずにつながっている 存在でもあります。その段階のどこに気づいているかということが、今のあなたの居場所になっています。 現在は人間という存在に気づいている段階ということでしょうか 。ここでは「私」「意志」「気づき」という単語を使ってきましたが、どれも同じものの側面を指し示す言葉です。実存はそれ自体では顕現しませんその原初の顕現が「私」であり「意志」「気づき」でもあるのです。それこそが私たちを私たちたらしめている根源だといってもいいと思います。
しかし 本当は魂といわれるものは自分の各段階における体であり、そこに命を吹き込む大元は「実存」であるということを知りました。それではその肝心の「実存」とは一体何なのでしょうか。この世界(宇宙)では疑問や謎を突き詰めていきますと、究極的には必ず「実存」に至ります。しかしここではもう少し「魂」について深く掘り下げていきます。
私たちは実存という存在により命をもらっています。すると私たちの上に存在する魂魄体、幽体、霊体 ......等は私たちとはまったく関係がないのでしょうか。そうでもないのです。実存は私たち肉体にどうやって作用するのかと申しますと、直接作用するということではなく上から順番に「霊体」「幽体」「魂魄体」と作用しながら下がってきて「肉体」に作用するの です。
ひとつ上位の体(魂)が私たちに「意志」を吹き込むのですが、そのときダイレクトに「実存」の生命を流し込むというのではなく、上から順番に「実存」の意志が流れてくる間にある霊体(魂)のクセや習慣、傾向性を反映していきます。
 
この元ダマが受けた実存の反映を、順に下位次元に降ろして行っているのです。 この場合元ダマは実存の反映を一本の線で受け入れています。その線は言うならば「祈り」や「憧憬」という感じのものなのです。 次元の元ダマからしますと、そのずっと先にある 「実存」 は自らの故郷であり、母であり父でもあり憧れの 理想郷でもあるのです 。ですからそこから降りてくる「線」に対しての思い究極の「愛」というものかもしれません。
その体を上から順番に通って究極の存在であるところの「実存」が肉体に反映しているのが、今の私たちという存在です。
先ほど私は「実存」が上から順番に「神体」「霊体」「幽体」を通して「肉体」に働きかけていると申し上げました。そしてこの「 実存」により単なる体である魂に命が入り、 魂が意識を持つのです。ならば魂の目指すべき基準とは「実存」そのものではないでしょうか。自分の究極の本体であるところの「実存」を私たちはまったく知らないまま、意識しないまま自分というものを「魂」と勘違いしています。
 
私たちの魂である肉体はこの地上界において進化のための学びを模索中です。そしてその進化の目指すところは「神聖」なるものでした。それはある意味「元なる自分」への回帰でもあります 。「元なる自分」とは「実存 」のことです。体であるところの魂はその「 実存」という「私 」を顕現する場です。場所であり顕現する道具でもあり、現れそのものであもります。 そうしますとその価値は何を持って決められている のでしょうか。すでに答えは出ていますが魂(体)は、自分であるところの「実存」を現すということが基準になるのです。しかし実存は善でも悪でも表現できるものではないようです。また大きさや重さ、広さや高低でも表すことができません
 
もっと突き詰めますと「言葉では表せない存在」なのです。なぜなら言葉とは二元性の表現だからです。 これは少し難しいのですが 、認識の表現が言葉です。 そして認識そのものが二元性の原理に基づいて起動す るものなのです 自分があって認識すべき対象物があるという状況において初めて認識が成り立つのです そうすると「実存」をどのように表現することができるのでしょうか。結論から申しますとそれはできないのです 。「実存」そのものを表す言葉はありません 。それを指し示す言葉もないのです。しかしニサルガダッタはうまい表現方法を教えてくれました。「それ(実存)は否定的表現をもって間接的に限定することができる」というものです。
 
たとえば「実存」は善でも悪でもない。「実存」は暖かいということでもなく、寒いということでもない。 「実存」はあるということもなく、ないということもない。「実存」はすべてでもありすべてでもない。こ んな感じで否定形の文章ならば実存の在り様を特定できるのです もちろん実際には特定はしていないのですが 。しかし今のところ「実存」そのものを指し示し、解明することはできません。それはこれまでのどんな聖賢 、マスターであっても 言語で解説することは 「不可能」と言わしめた存在でもあります。 それが私たちの本体なのです。
 
実はこの「 実存」の探求が「宇宙全史」という本のテーマです。たとえその解明が不可能であっても 、で きる限り その存在の 間近まで迫りたいと思っていました。
 
ところが 2008年に入りまして突然謎の存在から「実存の解明は可能です」という天恵が降りてきました。確認しましたがそれは科学的に解明できるもの だということでした 。「私にそれが出来るのでしょうか」という 問いに、「 可能性はある」というお答えを ただきました。皆様は私がこの情報を聞いたときどれほどうれしかったかお分かりになるでしょうか。こ れまでどんなマスター達もなし得なかった「実存」の解明の可能性があるということは、人類にとっては最高の福音なのです。
 
今回の第一冊目の「 宇宙全史」は、収録が大混乱の内に締め切り を迎えてしまいました 。地球の秘密をどこまでも妥協なしに深く深く突き詰めていくと、とんでもないシステムが人類 をがんじがらめにしていまし た。その機構から抜け出ない限り人類に救済の道はなかったのです。しかも人類はあと6年で史上始まって 以来の大関門を迎 えます。 その時までに何とかしないと人類に未来はあ りません。 そこで私は興味本位の 探求をいったんあきらめ、人類を自分たちの自由に操る勢力と対峙することにしました。「実存」の探求はこの卷では 導入部だけにとどめておき ます。メインは地球を自我自欲のままに翻弄する存在を明らかにし、人類に目覚めてもらうよう働きかけることです 。どんなに狡猾なシステムを明らかにしても 、人類がそこに気づきそこから抜け出ないことには何も変わらないからです。すべては人類の手に、人類の気づきにかかっています。
 
 
質疑応答1
 
現在知りうるところでは、我々の銀河を超え、このオーム宇宙をも超え、地上で二元性を極め超越された最高の觀智である聖賢が体得した境地の実存さえも超えた境涯を教えて下さる存在です。
 
実際この1年にわたった質疑応答には「実存は緩衝地帯に過ぎない」という衝撃的な内容がありました。
これまであらゆる聖賢が極めることが出来た最高の境地が「実存」でした。
それ以上の記述は歴史上世界のどこにも存在しなかったのです。
しかしそれすらも更なる上位の世界と我々の宇宙との「緩衝地帯」に過ぎないと知る存在とは一体何者な のでしょうか。
 
そしてそれ以外にお一人お一人にまた別な能力が付加されております。この「宇宙全史」に関わっております「みわ」には、チャネラーの他に付加された能力と申しますのは、「汎用性」という能力でした。
つまりチャネリング以外に何かという事ではなく、チャネリングそのものが非常に特殊な能力にまで昇華されていたのです。もう少し分かりやすく申し上げますと「誰にでも、何時にでも、どこにでもアクセスできる能力」と申し上げたらいいのでしょうか。正直「日常の失せ物探し」から究極の存在「実存」までまったく同じスタンスで接触できるのです。
私と対等に精神世界のお話ができる女性というのは、おそらく初めてだと思います。実存の概念も瞬間で 理解されますし そもそも彼女は実存であるという事を知っていますが 、ドン・ファンのメソッドの本質 や、五井昌久の壮大なやさしさも理解できてしまうのです。
 
しかし確かに二元性を超える実存レベルの覚醒を成し遂げたという事は、本当に素晴らしい事なのですが、それは 6000万分の3の確率でしかないのです。
 
「宇宙全史」では、情報量が膨大になるため、6次元界(阿頼耶識界)で、一つの区切りを付けておきましたが、本来人間の魂レベルは「実存」に至るまで、更に上位に無数の段階があるようです。
 
 
質疑応答2
 
三番目のご質問ですがカルキ•バガヴァンさんは一種の覚者です。一種のと申しあげましたのは「ライトな覚者」という意味です。「ライトな覚者」といいますのは、二元性を常時超えた所にいるわけではない。そこに至るまでの霊道は開いておられますが 、実存以上の境涯に常住しておられるわけではないと いうことです 少し前に書きましたラジネーシもそうです。
 
根源の存在「実存」から段階を経て二元性の原理に基づくオーム宇宙が創造されました。
 
その時「陰」と「陽」、あるいは「存在」と「非存在」でも何でもいいのですが、対極の二極が造られ、そこからまた段階を経て、細分化され、複雑化し、多様化を極めていくのですが、その原初の二極に別れた時、完全に 50パーセント 50 パーセントではなかったのです。
その差が実存が本来持つあるいは実存が本来反映する「ゆらぎ」でした。
そしてその「ゆらぎ」により、回転運動が起動し、宇宙のエネルギーの偏在をもたらしたのです。
この宇宙は「ゆらぎ」がなければ、まったく動かない、進化も何もない銅像のような宇宙になります。
原初の二極の存在たちのほんの極わずかな「差」が、現在の私たちの多様な宇宙を形作ってきました。
 
銀河団」「反銀河団」もまたその「ゆらぎ」の反映を受けて存在しています。
マイナス電気(電子)がプラス極に向かって流れるとき、私たちはなぜか「電気はプラスからマイナスに流れる」と表現しています。
その表現方法について今はこだわりませんが、皆様は電気がプラスからマイナスに流れることを決して「争い」とか「闘い」とか「競争」とかは表現しないはずです。電気の流れは交流という流れもありますが、基本的には単純な一方向への流れですので、そこに人間界に現れる複雑な「争い」という事象はあまり見られません。しかし電流の流れの途中に抵抗 例えば電熱器のニクロム線など を置きますと、そこに「抵抗」という葛藤が存在する事になり、電流とその通路の間に熱が生じます。
それは人間界で「戦争」が起こって、多くの悲劇が繰り返されるのに似ています。
しかし私たちは電気の「抵抗」に対して、それを「闘い」とか「競争」とかは認識しません......せいぜい「熱いなあ」くらいでしょうか。
ちょっとシンプルな例になってしまいましたが、銀河団と反銀河団の「競い合い」というのもちょうどそのようなものとお考え下さい。
現代では小学校などの運動会では、「競争」ということを生徒にさせないという学校が増えています。おかしな話だとは思いますが、それも今の日本のレベルなのでしょうか。闘いや競争という概念を「おとしめる」のは単純に人間界の問題です。「競争」というものは、本来この二元性の宇宙にあっては、事象が動く 「原理」ですので、それなくしては宇宙そのものが成り立たないということです。
 
 
質疑応答5
 
「地球入植以来約 2万人の完全覚醒者が出ています」と答えていますが、ここでいっている完全覚醒者はそ のすべてが実存(真我)にたどり着いた者ではありません。ほとんどはその一歩も二歩も手前の段階で、いわゆる「神々」の段階にとどまっています。この頃はこの辺りが曖昧でこのような表現になってしまっていました。 実際はこのオーム宇宙の開闢以来で約 200人の実存に至った完全覚醒者が存在しています
 
つまり五井先生(個人というよりほぼ白光の巨大な塊なのですが)には一見まだエゴがあるように見えます。形がある限り、色がある限り、存在がある限りそこにはエゴがあります。
実はそこに大いなる秘密がありまして、あの段階まで達している存在はその有り様、あるいは行く先を自由に選択できます。
つまりこの形の世界を厭離穢土してそのまま実存に入ることも出来ますしこの世界にとどまりこの世界を浄土とするベくがんばられる方もおられます
五井先生は後者の方に位置される方で、しかも非常に巨大な存在です。 浄土とすべくがんばられるといういい方は五井先生にはあまりあてはまらなくて、衆生に対する慈悲のためという方がいいでしょう
例えば私がここでよく紹介しているドン・ファンは、もうとっとと実存に入ってしまっています。
 
しかしこの世界に残って衆生を救おうとするならば  いやでもエゴを残さねばならないのです。
それがこの世界のセオリーです。
そしてエゴを残すということは あの位置にある存在にとって如何に負担を強いられるかということを私たちは知らねばなりません。
 
 中々鋭い質問が来ていますが、2018年の時点では少し修正があります。
 天之御中主神主はこの宇宙の主宰神であり、最高神になります。
  しかし月読之大神の正体は正確にはいまだ謎ですが、先ほど書いておりますようにこのオーム宇宙を超えた大宇宙をも超えた遥か彼方から湧いてきておられます。
 
 そして私たちはいつか進化の果てにそういう立場につくことが出来るかどうかという質問がありましたが、それにはそこでは答えていません。
確かに実存(神我)というゾーンに入ってしまうとすべては同じという境地に至りますが、実は更に上位の境涯というものが存在し、これまで人類が得た知識以上の世界が展開しています
 
 先ほど質問のあった「面白い」という本当の意味がそこで判明します。
 しかしその境涯を知るには、皆さんがある一定段階にまで登ってこないと知ることが出来ないようになっ ています。その理由はその時分かるのですが、それまではその理由も世界観も厳重に封印されています。
 つまり私たちは探求に次ぐ探求に明け暮れ、昇り詰めても、更なる段階が(人間知からすると)ほぼ無限に続いているのです。
 しかしそこを伺うことが出来る境涯にでさえたどり着ける人間が何人いることでしよう。
 
 
質疑応答8
 
実存に「想い」といったものは存在しません
あなたのエゴが「善悪」を生み出すのです。
あなたのエゴが消えたとき、善悪という基準点も無くなります。
本来は「エゴから離れた考察」などというものも存在しないのですが、今のあなたの段階では守護の神霊 のフォローというものを「善」と考えてもいいのかも知れません。
まずはそこに到達できるご自分であるように。
 
 
質疑応答9
ニサルガにいたっては、「覚醒」の極みを指し示して下さってはいますが、それを理解できる方がいるのでしようか。
もちろん「実存」という究極の真理が存在することを知ることは「福音」ではありますが、今現在汲々として生きておられる方たちにとっては「それは絵に描いたもち」にしか過ぎません。
UMU銀河団も二元性を超えてはいません。
現象界はもちろん、霊界や神界、遥かな高次元であっても、現れの世界である限り、形ある世界である限り、二元性を超えているとはいえないのです。
もちろん高次の世界においては、地上界の様に地面にへばりついて  物質に縛り付けられ、形にこだわり、美醜に囚われている私たちとは異なり、ほとんど二元性を超えているような感覚はあるのですが、それでも厳密には「超えている」とはいいがたいのです。
それほど二元性を超える「真我」の領域は厳密且つ揺るぎのないものなのです。
 
 
質疑応答10
 
沙門様
ご指摘のラジネーシの文は、私も当時初版で読んでいます。
それで少し迷った事もありました。
しかし結局私がドン・ファンから離れなかったのは  決定的な何かがラジネーシに無かったからでした。
それが何かは分からなかったのですが……とうとうキチンと見つめる時が来たのでしょうか。
ラジネーシの事はここのBBSの下の方でも触れていましたが、彼には私もお世話になっていますので(
直接ではなく本でです)あまり 追求したくなかったので、適当 なところで止めておいたのです。
その時はダイレクトに彼に確認はしておりませんでしたが、今回はキチンと直接対話をしております。
それをそのまま掲載しておきます。
虚空蔵 以下 「あなたは今性エネルギーにこだわる雲界に留まっておられますが、本来なら実存を目指しておられたのではないのでしょうか」
ラジネ—シ(以下ラ)「性エネルギーそのものがクンダリー二そのものだ。私はそのエネルギーで上昇して いく」
虚空蔵「でも上昇しておられませんね」
ラ「それでも私も周りの皆も引き上げた」
「でも現実は 元性を超えていらっしゃらない、実存にはたどり着いておられませんよね。そこは性にこだわった領域ですよね」
ラ「そうだ  でも瞬間(実存に)行けるんだ」
「それでいいのですか」
ラ「今はいいと思っている私ではないが、肉体を持っているときは囚われてしまっていた。ずっと保ってい られなかった 元性の枠を超えてあるところに居続けることはあたわず.という思念が会話とは別に来ま した ラ「生きることの生と、性エネルギーの性を享受する事は至福だ。生きているときはその至福にひたること も必要だ」
「生きているときにそこにどっぷりと浸ることを選んだという事でしょうか」
 
ラ「それを目的としてしまった それがある意味「実存」と納得する事を選んでしまった」
「でも実存を垣間見た事はあるんですよね」
ラ「ある」
「そうすると比較は出来ましたね。それでもそちらの耽溺を選んでしまったのでしょうか」
「今現在は納得されているのでしょうか」
ラ「納得はしていない。肉体を持っているわけではないので、 その段階にいる 肉体を捜して「憑依」と
いう形ではあるが  指導という立場で何とかしようとしている 指導霊ということか 」
「ご自分で降りようとなさらないのでしょうか」 ラ「順番があるので これはまだ」
「性のエネルギ—に浸るのはそれほど良かったのでしょうか」
ラ「皆が享受しやすい、たどり着きやすい最短の道だった」
「それは肉体の接触なしでも可能だったのでしようか」
ラ「究極は可能だった」
「あなたはカスタネダの著作を作り物だとおっしやっていますが」
ラ「私の世界には無い、従って無い 認めずというニュアンス 」
「その判断は少し了見が狭いのでは?あなたはグルジェフや禅、神智学 それにあらゆる種類のヨガ、夕 ントラ 密教、ダンスと色んなメソッドを認知されたではないですか。なぜドン ファンだけ認めないので すか」
ラ「好き嫌いの問題」
「何 者 が嫌いというのでしようか」
ラ「自分の男としての人間くさい部分、そこだ」
「それで実存に行けるのでしようか」
 
ラ「それ エゴ を残したまま実存に行く事は出来る エゴを着脱できるという事らしい 」
「それほどあなたにとってエゴは重要なのでしようか」
ラ「......沈黙されてしまいました 肯定の沈黙ではなく、考えているという沈黙だが 結局答えは無かっ た」
「エゴは落とすべきもの 昇華すべきものとずっと説いてこられたあなたがなぜそこにおられるのでしよ うか」
ラ「肉体界での覚醒後のくせ 澱 おり のようなものを残したまま死んでしまった」 肉体を覚醒しても、エゴを完全に昇華した方と、残したままと つのバ—ジョンが可能のようだ。ラジ
ネーシの覚醒は、 つのチャクラは開きましたが、この世で開いたという段階。上位の つのチャクラとは つながっていません。それでも瞬間、実存を垣間見る事は出来るのです
「あなたほどの聡明な方が、どうしてエゴを残したのですか」
ラ「聡明さと肉体の調和ということを、完全には理解していなかったのかもしれない おそらく正しくエネ ルギーを使うという事 そのあたりのことです 」
「実存を垣間見て、その場所に行く欲望より、今を楽しむ欲望を選んだ自分......それで皆と|緒に今を楽しむ自分がいる......それが救いでもある」 「皆が救われるという至福、その歓喜の中でI挙に上昇しようと思った」
「でも出来なかったですね。それを耽溺とは思われなかったのでしようか」
ラ「迷いはかすかにあった......関門の一歩手前で捕まってしまった」
会話は|旦ここで終わります。
今回収録して分かったことは、この方はとても優しい方でもあります。 孤高を保って自分だけ覚醒するという方ではなく、みんなで|緒に行くというやり方を選択されています。 しかしそこで「みんなに引きずられている」ということがあります。
つまり情が残っていたのです。
だから「完全に非情な存在」であるドン ファンを否定しているのです。
しかしここに つだけ誤解があります。
確かにドン•ファンに情は無いのですが、無慈悲ではないのです。 それどころか完全に情のない存在こそが完全に「慈悲の存在」である事が出来るのです。 多くの方がこの事を誤解しておられます。 あの明晰なラジネーシもこの理解にはたどり着いていなかったようでした。
しばらく他の収録をしていて、ふと思い出したことがあるので、再びここでラジネ—シにたずねてみまし た。
「あなたはよく講和の中でムラナスルディンの逸話を話しておられましたが、本当に面白いと思ってお話 しになっていたのでしよ っか」
ムラナスルディンの逸話とは そういう名のちょっと間の抜けた|般民間人の行動を アメリカン ジョークのように教訓方式でお話しになるものです。当時から私はこのラジネ—シが講和の中で、息継ぎに 使われるムラナスルディンの逸話を滑稽に思っていました。だれか面白くないですよと忠告しないのかなと 思っていたのですが、どうやら誰もしていなかったようでした
ラ「サ—ビスだ」
とひと言だけのお答えがありました。
この最後のひと言で  やはり私はラジネ—シが好きだったと確認できたのです。
私にとってラジネ—シは、エゴの理解というカテゴリーでは、随分勉強をさせて頂いた恩師でもあります。
そのラジネ—シをエル・ランティのように暴くのは心苦しいものがあったのですが、あちらの世界に行っ てしまわれたラジネーシにとっては かえってこうした情報を出すということは彼自身の「修正」にもなということでした。
つまり肉体界にあればこうした暴露にはその方のエゴに大きなダメ—ジを与えるのですが、あちらあの世において最も大切な事項は「現世でのあく落とし」でもあるのです。
ドン・ファンやカスタネダに関しては当時から贋作だ、偽作だ詐欺だといくらでもそうした情報が飛び交っていたのです。
それはやはりあまりにもカスタネダの著作のレベルが高すぎたからです。 理解できない方は、それを否定するしか自己のアイデンテイテイを保つ事が出来なかったのです。 おそらくこの本(カスタネダの)で今の人類を何とかする事は不可能に近いものです ほとんどの方が理解できないという意味で 。
ですから私は皆様に五井先生をお勧めしているのです。
今回は誤解を恐れず、ラジネーシとの対話を修正なしにそのまま掲載しました。
分かりにくい所は少し解説を入れましたが、これが彼と私との会話のすべてです。
判断は皆様にお任せします。
有難うございました。
虚空蔵 様ラジネーシに関する質問の回答ありがとうごさいました。ドン ファンについてラジネーシと 同じような見解を述べている人物がいるのですが、それはキプロスの神秘家といわれているダスカロスです
『メッセンジャ—』 太陽出版 シリーズでドン ファンの事をラジネ—シと同じように言っていたようで す。ダスカロスについてはどう思われますか?
年月日 回答
沙門様
また来られましたね。
私はダスカロスといぅ方を存じ上げません。
そんなわけで上にお聞きしたままをお伝えします。
この方 ダスカロス は、 ドン・ファンとは 土壌が違います。
基本的に自分の立場からの視点でしかご覧になれない方で、自らの道に非常に強いプライド(エゴ)を 持っておられます。
人を助けるという立場におられる方で、逆にいいますと「人を助けられる」と思っている方です。
ですからドン・ファンのようにさっさと自由な世界にいってしまう存在を見ると「なぜ人を助けずに自分 だけ行ってしまうのか」と思われています。
これはニサルガが「なぜ世界を救済せずに自分だけ実存の彼方に行ってしまったのか」という質問をした、 求道者と同じレベルです。
例えていいますと「象の背中にいるノミが、象そのものを見ることなく 象などという生物は架空のもの だ」と主張しているようなものです。
人は他人を変えることは出来ません。
ましてや救済することも出来ないのです。
世界(人類にも)に対しての最大の恩寵は、覚醒者の存在そのものです。
それ以外はすべて「弊害 余計なお世話といった方が分かりやすいかもしれません 」にしかなりません。
「人類を救済できる」「人を助けられる」と信じ込んでいる段階は、無尽蔵に混乱と争いを地上にもたらします。
それは証明を待たずして歴史上多くの実例を見る事が出来ます。
以上が上から来た情報です。
追補
この頃 理解できなかったことの つに「なぜドン•ファンとラジネーシを比べるのか」ということでした。
その次の質問でもありましたが、今度はダス・カロスという人物を出して同じことを聞いて来ています。 つまりこの方は「本物」を見分ける目がないという事でしょうか。
おそらくドン・ファンを理解できないので、そういう行動をとってしまうのでしよう。それはあのラジネーシですらそうなのですから、どうしようもないのかも知れません。
難しい理屈や高邁な理論は理解できなくとも 「本物」を見つけることは出来るのですが、それが何かといいますと、「本当の愛を持っているかどうか」というところです。
それがないと中々「完全覚醒した人」を見つけることは出来ません。
何故ならその人物に届く術がないからです。
だからあちこち彷徨って、結局何も得られず、無駄な人生を過ごすことになります。
それでは「本当の愛」とは何かといいますと、おそらく一言では伝わらないので、延々宇宙全史では、言外にお伝えしているのです。それがほぼ理解されていないのは残念ですが それも少しずつ、徐々に浸透していくのを待つしかないのかも知れません。
完全覚醒した方たちの最大の特徴は「本当の愛」を持っていたという事です。
あるいは本当の愛にたどり着いた人としてもいいでしよう。
そしてその「愛」を縁にして私たちはコンタクト出来るのです。
それ以外に方法はありません。
彼らの「愛」はオリジナリティに富んでいます。
 
ひたすら「自由」を求めた愛
「慈しみ」を極めた愛
「明晰性」に特化した愛
「探求心」に殉じた愛
 
皆さん様々ですが、その根底には「愛」があるのです。
難しい理屈が分からない方は、その愛に出来るだけ近づけるように、「本当の愛」を学ぶ必要があるので す。
 
ラジネ—シは毒殺という最後を迎えていますが、アシュラムの教徒たちも最終的にはバラバラになって行 き、インドからアメリカにわたってユ—トピア建設を目指したラジネ—シの目論見は空中分解しています。
それは別にどうでもいい事なのですが、彼がオレゴン州のコミューンで行った政治的な行動は、多くの宗
教家が陥る「現状打破」という、既存構造を自分たちの手で変えていくという迷路にはまり込んでいます。 つまり自分たち自らを変えないで、外を変えていこうとしたことです。その結果はすでに書いた通りですが しかしながらラジネーシは実存(真我)に瞬間ですが接触ています。
ところが現生の誘惑に打ち勝てず 徐々に実存とのコンタクトは薄れて行っています。 そこに留まることがいかに困難であるか この現象界の誘惑がいかに深く濃いものであるかという事を、私たちはここでも学ばねばならないのです。しかしそれも精神世界大学レベルでの学びですから、ほとんどの方には今は関係のないお話しかも知れません。
今自分たちが何を学ばなければいけないのか、何が必要なのかということを知ることです。
逆に手の届かない知識と格闘していないか、空回りして無駄なエネルギーを浪費していないか、よくよく 思慧してみることです。
 
 
質疑応答11
 
またニサルガは知恵というより數智で覚醒をとことん求めた方でした。
彼の過去世を確認いたしましたら「ただの親父だよ」とおっしゃっておられましたが、実際はやはりチベットあたりのマスターで、ひたすら瞑想に瞑想を重ね「実存」を求め続けておられました
 
エル ランティとサタンは同じ存在です。(元ダマが同じと申し上げてもいいですが)
五井先生がおっしゃっている本体とは......これは少しややこしいのです。
何がややこしいのかと申しますと その方の段階により本体とするものが違ってくるのです。
詳しくは「宇宙全史」第二卷に書く予定ですが 自我の領域を本体とする方もいれば、魂魄界の存在を本体とする方もいます。
また霊体(これにも段階があるのですが、元ダマの領域は6次元ですから 相当上の段階です)を本体と(する方)さらに飛びぬけて実存を本体とする方もいます(その間には地球や銀河系 この宇宙という方もいるのです)。それは、その方の意識の段階で決まってくるものですが、本体とはその私たちの肉体意識というものが 「手本」とすべきものであり、指導を請うものでもあるのです。
だからこそ、その方の段階によって、本体が違ってくるのです。
 
五井先生が仰っている「本体」とは 大きな意味では真我 実存 になります。 「大きな意味」と書いたのは、五井先生の本分である「慈悲」の観点から 多様な「本体」を使い分ける
必要があったということもあります。
 
追補  真我の一瞥
 
ガンジ—が真我(実存)を垣間見ておきながら 母系の陰糸のくびきからは逃れられなかったというところが呑み込めないのでしようね。
ガンジ—以外にも、どこかで出て来ていますが、ラジネーシもそういう人でした。彼も真我を垣間見ていますが、結局は性欲に囚われ、そこから現世的な政治的サ—クルに巻き込まれてしまっています。 立場も性格も全然違うお二人ですが(真我を垣間見ただけでは)新宗教くらいは立ち上げられますが 世界を大元から変えてしまうということは出来ないのです。
ですから、どっぺんさんが近ごろ真我の一瞥(外の境界にちょっと接触したくらいですが)をしているのですが、そこからが修行なのです。
そこからが本当の厳しい(困難な)修行になります。
 
「私の世界が無数のスクリーンに映し出された映像のうちの一つであるとすると、元の映像となる光は実存と呼ばれる領域をその根源としているのでしょうか」
元の元の大元はそうです。
あなたというエゴのフィル厶を通して、スクリーンに映し出されるこの世界の映像は(エネルギ—という)光線を介して映し出されます。
そのエネルギーには段階がありますが  根源は実存  または真我というものから来ています。
「もしそうであるならば、その光はこのオー厶宇宙のみでなく、他の大宇宙やさらにまたその上の、という現れの世界全てに共通する光なのでしょうか」
「他の大宇宙やさらにまたその上の」という部分が曖昧ですので、正確にはお答えできませんが、「現れの世界」というところにおいては「その通り」ということが出来ます。
 
理性の範疇において真我や実存を知ることは通常叶わないのですが、そこの一歩手前までは精進に次ぐ精進が求められる境涯になります。
 
それでも  そこにたどり着く道は無限にあり人それぞれです。
 
仏陀の様に
 
ニサルガの様に
 
ドン ファンの様に 
 
EOの様に
 
如何様にも
 
道はあるのですが
 
この宇宙は 2 0 0兆年の寿命を持ちます。 そしてこれまでこの宇宙で完全覚醒を成し遂げた存在は
200人足らずです。
つまり単純計算してしまぅと
1兆年に一人しか成就出来ないことになります。
この事実を前に
私たちは
自分たちの卑小さに
虚空の広大さに
無の恐怖に
存在の不思議に
向き合うのです
 
ス—ザン様
「オーム宇宙のみでなく、他の大宇宙や、さらにまた大宇宙を包含するより巨大な存在も また 実存あ るいは真我を根源とするエネルギーにより映し出された映像(現れ)なのでしようか?」
それでも、まだ曖昧な質問といわざるを得ないのです。
というよりも、その答えが曖昧さを許されない世界にあるといった方がいいかも知れません。
分かりにくいですが......こういう質問は通常して来ないのです。
そういうように出来ています。
だから正確な質問が出来ない状態で、質問して来ているということもあります。
月読之大神と私の問答です。
何故、みんなは質問して来ないのでしようか。
「出来ないようになっている」
これは私が究極の質問をしていた時の問答にあったものです。
 
このオーム宇宙を含む大宇宙 その大宇宙を ほぼ 無数に含む超巨大な螺旋輪宝宇宙、それが現れの世 界の一つの区切りです。
ここまでの探求でさえ  人類は未だ辿り着くことは出来ていません。
しかし、私はすでにその先遥か彼方まで見透しています。
その時の問答中に  先の会話がありました。
「出来ないようになっている」
ならば「出来るように変えればいい」
それが宇宙全史の大学の意図になります。
しかし、それには中学に入り  高校を卒業しなければなりません。
「そもそも、こういった領域を探求するにはあまりにも私は脆弱すぎて」
そうなのです。
まだあなたは脆弱なのです。
例えば  女性に弱いというところがありますが、しかし  それも食欲と同じで克服できるものですが、無
理やりとい っところではありません。
丁度、先ほど「質疑応答 」を書いていましたが、その中に「食べなくなる」という追補を書いておきま
した。
これは「性欲をなくす 食欲をなくす 」と同じようなものですから  参考になると思います。
語りたいことは山ほどあるのですが、如何せん時間がありません。
私も  目の前の出来ることを粛々とこなしていくしかないのです。
ただ、脆弱なままで  重い肉体を抱えたまま、遥か虚空を超えた領域に至る道は存在しません。
私たちは  未だその重い肉体がなければ存在すら出来ない脆弱な身です。
それを祈りは変えていってくれるのです。
「恥を知る」とは 「恥を知らない私」=「エゴ」ですが、その恥を知ることで 「恥を知らない私」を 俯瞰している私がいるわけです。
その俯瞰している私は 真我というわけではないのですが ある程度エゴから離脱した私で、その状況は エゴからの脱却の一歩になってきます。
この「恥を知る」ということがなければ  そこには反省もなく、進歩もないのです。
五井先生や植芝先生、月読之大神までもが今の日本からI本筋の通った精神性が失せてしまっていること を嘆かれています。
日本人はその大素の「恥」を知る日がいつか来るのでしょうか
 
 
質疑応答12
 
以前、ここでイルプロラシオンの住人の中から現在完全覚醒(実存まで至っている)した方が 人いると書きました。
そして、それはある意味この地球の成果でもあると、JUMU が誇らしげにいってもいました。
 
 
手っ取り早く覚醒する方法 
孝様
この回答はかなり難しくなっています。 実存や世界構造を語る時に、多くのマスタ—たちが段階を踏まずに展開してしまう危険がこの段階にあるのです。
ですから慎重に説明します。
「この世界には意味がない」
まず、ここから考えてみましよう。
「意味」とは何でしようか?
そこからの出発です。
世界には有形無形、有象無象ありとあらゆるものが存在しています。
その数多ある存在の中で  あなたにとって意味のあるものとは何でしようか。
それはあなたが注目し、欲し、こだわるものが意味を持つのです。
 
逆にいいますと、そうでないものはあなたにとっては全く意味をなさないともいえます。 つまり、ここにAKB48の発売前のシングルがあったとしましよう。
ファンにとってはかなり意味のあるものになりますが、 AKBに興味のない方にとっては、全く意味のないただのCDにしか過ぎません。
「意味」とは、あなたの感情や思考にとって「執着」を持つもの、あるいはあなたの思いが「動機」を持つものが「意味がある」というのです。
おわかりでしようか。
ですから「世界に意味がない」......ということは「世界 の中 に動機がない」「世界に執着がない」と いうことなのです。
あなたが世界に対して 恋人や友人や知り合いや親せき 近所の人あるいは家族に何の執着もなかったら ......あるいは裕福な暮らしや楽な仕事、楽しい休暇、美味しい食事、現金、宝石、ファッション、携帯、音 楽......等々それらのものにほしいという欲望も抱かず、執着もせずにおられたら あなたにとってこの世界 は「意味がない」といえるのです。
覚醒した人とはそういう人なのです。
あなたが何かをする 何かを思う、何かを感じるというアクションを起こす前に必ずそこには、あなたの 中には「動機」というものが存在します。
しかし、覚醒した人にはその「動機」がないのです。
もし覚醒した人がこの世に生きていて、あなた方に何事かを語るとしたら......
 
その動機は「慈悲」以外にありません。
「覚醒」とはそういうものなのです。
今の皆様方にこの世におけるありとあらゆる執着を捨て去ることが出来るでしょうか?
年くらい前の冬に  このワークでお聞きしたことがありました。
最も簡単に覚醒する方法があるでしょうか?
月読之大神「厳冬に雪深い山中に分け入るだけでいい」
それだけで覚醒できるのでしょうか?
月読之大神「ただし素つ裸で何も持たずに、そこで生活するのだよ」
それでは誰も生きていけないのではないでしょうか?
月読之大神「それで生き残れたら  覚醒している」
ほとんどの方は確実に死んでしまいますので絶対にマネはしないで下さい。
しかし覚醒とはそういうものなのです。
 
決して生半可な覚悟で得られる境涯ではないのです。
 
 
「音楽を続けながら真我実現への修練に励むという事は可能でしようか」
それは可能です。
しかし、なぜあなたは、
「目指す目標として真我の実現と 自分の今生での使命だと感じている音楽を続ける事との矛盾に悩んで います」
と葛藤を抱いておられるのでしよぅか。
守護霊様にうかがってみました。
「音楽を今生の使命と感じている......そこに疑いがないのなら、真我の実現と矛盾しない」
「そこをもう一度よく見つめるように」
まずはこういうお答えが降りてきました。
そこで少し詳しくお聞きしました。
この方の今生で本当にやりたい事、天命は何でしょうか。
「しがらみを何もかも捨てて真我実現のため修行すること」
「それがこの者の魂が本当にしたいと願っていること」
それでは  なぜ、この方は音楽もやりたいと思っているのでしょうか。
「音楽を通じて人々を救いたい、人の役に立ちたい......という願望が欲望としてある」
「しかし根底には真我実現という思いがあるので 迷っている。葛藤があるのだ」
「つまり信じきれていないともいえるだろう」
本当に音楽をやりたいとは思っていないということ
「真我の実現と音楽を両天秤にかけることがそもそも違う」
本来そこに矛盾はないということです
つまり魂が心底音楽をやりたい、極めたいと願っていれば、そこに葛藤は存在しません。
最後に、
「本心を見つめる勇気を持ちなさい」
とお言葉があり、慈愛溢れる波動を残して守護霊様がお帰りになりました。
ご健闘をお祈りします。
 
追補  ラビリンス
 
この時、私はだいぶどこかにエネルギ—を取られていまして回答の余地がなかったようです。 この方は調子のいい時と悪い時の差が激しく、それに同調しないようにしておくのが大切な局面でした。 後半の調子の悪い局面では 彼は堂々巡りのラビリンスの中にはまり込んでしまっていて、そこにいる限り何を助言しても意味がなく、鏡の迷路は彼のエゴを映すだけでした。
通常誰でもそういう状態にいるのですが、調子が悪いとその度合いがひどくなっています。
 
 
質疑応答13
 
なお、月読之大神は日本における主宰神としての名称ですが、実際そのキャラを使って私たちを指導してくださっておられるのは、二元性のこの宇宙を超えたところにある「実存」という緩衝地帯さえも更に超えたところにあるゾーンから来ておられるエネルギーです。
たぶん、そういうエネルギ—が地上に触れるのは、これまでなかったかもしれません。
 
維摩経維摩詰についてお話します。
彼は実際に実在した人物でした。
性格はお経の内容そのままで非常に頭の良い方で 仏陀の高弟でその教えを実践して覚醒を果たしています。
ちょっと変わり者で「おバカの言うことに聞く耳持たず」という性格なので、周りがこの方を敬遠して、仏陀の高弟というオフィシャルな序列から外していますが、実際は何人かおられる最高の覚醒を得た弟子たちのお一人でした。
覚醒は実存までいっていたのかどうかお聞きしました。
説法(教えを説く)のため常時二元性を超えていたということはない
二元性を超えている状態を保持するエネルギーを、ある程度は説法の方に振り分けていた......ということらしいです。
「しかしそれを選んだのは私(維摩詰)だ」
さすが仏陀のお弟子さんです。
ちなみに維摩詰に今の地球の現状をお聞きしました。
「悲しい人が多すぎる」
「自らやるべきことが見えていない」
「目がふさがれている」
「目がふさがれているのは外部のせいだと思っているが実は自分のせい」
虚空蔵 「私たちはどうすればいいでしょうか」
「祈りなさい」
「心から祈れば......ただ祈るという心境にならないと......そこが一番難しいかも」
何やらこの方とお話ししていますと懐かしい感覚が蘇ってきましたので、お聞きしますとかつて(仏陀の時代よりもずっと昔です)私とこの方は、兄弟弟子同士でした。
維摩詰が兄弟子でして  二人は厳しい魔法修行をしていたようでした。
最後に彼が私に、
「心眼を見ることを求めているようだね」
そういったので、心眼とは何かお聞きしようとしましたが 、にやっと笑って消えました。
 
実はこの宇宙は実存から派生した時、まず「陰(闇)」が出たのです。
その反動で「陽(光)」が出て  そこから二元性にまみれたこのオーム宇宙が形作られて行きました。
その時、いや現時点でもですが......このオーム宇宙は「陰」のエネルギーが極わずかなのですが、多いのです。
そういうふうに創られています。
ですから常に「闇」が優勢なのは当然なのです
そこから多くの事実が解明できるのですが、それはまた「宇宙全史」第二卷をお待ち下さい。
 
追補
 
今この方のメールを読み返してみると少し内容が分かって来ました。
当時はこの方が混乱状態で書いているものでしたので、真剣に向き合うことは無理でした。
 
「真我」=ほぼ「実存」ですが、全くのイコールではありません。
 真我にも段階といいますか、グラデーション状態の段階がありまして、そこから色々現象界では誤解が生じて来ています。
そしてそのグラデーションは、私たち(覚醒を望むもの)の境涯に応じたグラデーションで、たとえ一瞬なりとも見性出来たとしても、その濃さ薄さにより真我は形を変えます(全くの真我は不変です 見る立場によるのです )。
本当の真我(というのも変ですが)において 誰の真我、どこの真我という区別はまったく存在しません。
 
「ありのままの自分を肯定する」
 
これまでの人類が「自己否定」の渦中にあったものですから、そこにニュ—ウェィブ的な「自己肯定」と いう真逆の概念は、目新しく安直に受け入れやすいものでしたので、たちまち軽薄な人々には圧倒的な支持を受けた概念でした。
それがいまだに受け継がれています。
しかしそんなことは、決してしてはいけない事です。
やるべきは、
「ありのままの自分を受け入れる」
ということです。
そしてその上で、
「ありのままの自分で覚悟する」
ということでもあるのです。
「ありのままの自分を肯定」してしまいますと、そこに反省やフィードバックという進化過程が発生してきません。
ましてや間違った自分 人類はすべて間違っているのです を愛するなどという誤解の上塗りをしてしまいますと、始末におえないエゴの塊が肥大化していきます。
「ありのままの自分」以外に自分はないのです。 その「自分を覚悟する」ということは、その自分をそのまま受け入れ 自覚することで、そこから修正や反省が始まるのです。
それは決して「肯定」や「愛する」ということではないのです。
愛すべき自分はいるのですが それはこの肉体のエゴの自分ではなく、いつかあなたが長い精進の果てに
たどり着くであろう「自分 真我」なのです。
「なぜ自分はこんなにもてない顔をしているのだろう」
「なぜ自分は頭が悪いのだろう」
「なぜ自分はこんなにも運がないのだろう」
「なぜ自分は病気ばかりしているのだろう」
「なぜ自分は太っているのだろう ブタみたいに」
「なぜ自分は性格が悪いのだろう」
「なぜ自分はけちなのだろう」
「なぜ自分は親不孝なのだろう」
「なぜ自分は人にばかりけちをつけるのだろう」
「なぜ自分には本当の友達がいないのだろう」 等々
 
そういうご自分を確認し  受け入れた時  初めてそこからの決別のチャンスが生まれるのです。
甘い言葉に誘惑されてはいけません。
本来人類の段階として、 とか とか明確な区分を出す事は危険な事だったのです。 差別や余計な優越感、劣等感を助長する可能性が大きいからです。
しかし今この時、この期に及んで、甘い事ばかりはいっていられないというのが、地球の実体を知ってし
まった私の正直な気持ちなのです。
私はそういうことを書く限りは、 の方たちを切り捨てようとは思っていないのです。 むしろその方たちが、この地球の この宇宙の主役なのです。 だからこそ事実をその目で見て「受け入れ」 「覚悟」していただきたいのです。 何も知らぬまま、いいことだけを吹き込まれ 浮かれたままハルマゲドンに至り、
「こんなはずではなかった」
という思いのまま、さらに深いほぼ脱出不能な世界に投げ込まれてしまうのです。
私たち種族は、これまで人類とはほとんど無縁の存在でした。
むしろ人類から「ある種族」を守るために存在したものです。
私たち種族の中には  人類をさげすむ者もおります。
 
しかし私自身は私の種族の中でも極端な「変わり者」でした。
そして人間として生まれてきても、人類の中でも極端な「変わり者」だったのです。
誰からも共感を得られず、ただ自分の信じる道を生きてきただけの者です。
私は今生ではまったく人目に出ない存在だったはずです。
それは集合魂のあらゆるカルマを一身に引き受け、何の報いもない生を受け入れたからです。 そして、そのまま報いのない人生を才で終える予定でした。 どうしてこんな事になってしまったのでしようか。
最近収録した情報では......この宇宙はビッグバンから始まっていますが 今回の宇宙は 回目のサイクル です ビッグバンが 回あったということです。
その 回あったサイクルの宇宙で、成就した宇宙は一度もなかったという事です。 だから 回も繰り返しているのです。
詳しくは「宇宙全史」第二卷で語られますが  実はこの 回目以降はもう存在しません。
これが最後のこの宇宙のサイクルなのです。
これで失敗しますと......もう後がないのです。
  この宇宙はそのまま収縮に向かいます
そしてそれが、その成否が今ここで皆様にかかっているのです。
 
もうすぐ私と大魔法使い、それに私の本体との事実的な合体が成就します。
その時これから後の地球の行く末が決定します。
それは地球本体が決める事でもあるのです。
私のマスターは地球でした。
もうすぐ「ソロモンの數智」というものが、公開されるはずです。
それがこの地球を、人類を覚醒へと導きます。
私は少し前に「魔法」を使わないで 皆様を覚醒に導くと申しましたが、時期が近づいて来ますとかなり 修正が必要になって来ています。
  「ソロモンの數智」を実行するという事は、今ここではまだ詳細は書けないのですが、皆様方も参加しな
ければならない 選択しなければならない 地球が教えてくれる「大魔法」なのです。
今回のアセンションは、単なる大アセンションというだけではありません。
この大宇宙の  しかも 回も繰り返した末の成否がかかった試験なのです。
私たち「宇宙全史」のプロジェクトに どれだけ多くの存在が関心を寄せているか想像できるでしょうか。 全宇宙が、さらにそれを超えた存在たちが今私たちのI挙I動を見守っているのです。
 
覚醒していた私 
追補
どうも、この辺りの私の発言には違和感があります。
この頃、私は何故覚醒するような書き込みをしていたのでしょうか。
実は、宇宙全史のワ—クにおいてほとんど触れていなかったことがあります。
それは「私は既に何度もアセンションしていた」という事です。
詳しくはどこかで書きますが、今ここでこの原稿を書いているのは「アセンション(覚醒)出来なかった「私」です。
それは様々なシチュエ—ションで 月読之大神から いわれていたことですが、理解できない、或いはしたくないという次のような理由からスルーしていたことでした。
私が覚醒してすでにアセンションしているのなら、この世界に残っている私は落ちこぼれなのか 覚醒していった私はどこか上位次元にいるのでしょうが その私とこの世界に残った私のどちらが本当 の私なのか
主にこの二つのジレンマに翻弄され、悩み、落胆し、そのうちうやむやになり、この世界の私が宇宙全史のワ—クを続けているのです。
しかも、この個人的なアセンションは複数回ありました。 小さなものは超能力を得るというワークの時ですが、この時も失敗したと告げられ残った私は「ダメだったのか」と相当がっくりしていたのを覚えています 実際は成功しそれが顕現できる世界で自由に活躍して います 。
 
この時期 年 次第に肉体的な今生の記憶が薄れていく中 肉体的な老いによる減退と覚醒のた
めの希薄化という相乗効果ためです 、逆により大きな視点での「記憶」というカテゴリーが広がっていく のが見えます。
そのため宇宙全史のワークで謎だった部分が、現在少しずつ解明されていくようです。
あの時点では月読之大神も五井先生も「仕方ないね」位のニュアンスで残った私にお答え頂いていたので すが それはおそらく「その答えは自分で少しずつ解明していくんだよ」というスタンスだったのでしよう。
 
それにしても、この宇宙全史というワークは何という壮大でリアルで、しかも愛に満ちたワ—クだったんでしようか。
まだまだワ—クの中には謎のまま放置されている事象が数多く、放置されています 先に書いておいた私 のミッシングリングという失われた記憶は、まさにこのことでした
しかし、それらのものもやがて少しずつ解明されていくことでしよう。
皆さんに必要なものは  それぞれ非公開情報の中や宇宙全史の出版物で明らかにしていこうと思っています。
ちなみにアセンション出来なかった私は確かに「落ちこぼれ」といういい方はありますが、宇宙の最前線であるこの地球次元で最後まで皆さんとアセンションを目指していこうとしていた私だったという事です。
この次元地球に残るという事はそういう事であり、またそうしないとここには残れませんし、完全覚醒という目標値も見失うという事だったのでしょう。
それを落ちこぼれというのか、チェレンジャーというのかは人それぞれでしょうが、私はそのどちらでもなく ただひたすら五井先生と月読之大神の手のひらで走り続けていたのだと思います。
 
和尚に関しましてはすでにここの のどこかで書いておきましたのでそちらを参考にして下さい。 彼は実存までの覚醒を得てはいませんが それでも私は「エゴ」の概念に関しては彼から多くを学ばせて頂いた一人の師でもありました。
非常に頭のいい方で、その鋭い洞察力でエゴの深い部分にまで切り込んで啓蒙された功績は大きいと思います。
またセクシュアルなエネルギ—を利用するというメソッドが得意で そこにかなり傾倒しておられたようです。
そのため、そちらにこだわってしまったということがあり、 今あちらの世界で 少し反省はしておられます。
すでに書いておきましたが 現在彼はいつでもタィミングが来れば再び地上に出てもう一度生を試みよう とされています ある意味やり直したいとお考えです 。
地獄 下幽界 のル—プにはまっている存在は そこから抜けられない状態ですから、地上に戻るなどと いう事は不可能です
 
宇宙は、創造神の遊びでできたと思いますが、どうでしょうか
これも非常に根源的な質問ですが、ここでは簡単にお答えしておきます。 まず「創造神」という単語が出てきていますが、それは一体どういうものなのでしょうか?
おそらく質問者は「この宇宙を創造した存在神」という意味で書いてきておられると思いますが、 私たちがとりあえず認識できる 「この宇宙」とは、3.6次元というレベルの200兆光年の広がりを持つ宇宙 です。
さて、この宇宙はいったいどうやって作られたのでしようか。 
「どのようにして」という部分はここではいったんおいておきまして、誰が創ったか......つまり担当者はどなたなのかということを明かしておきます。
 
それは「天御中主之大神」という日本名の方です。
この方は私たちのオーム宇宙の大元である大オ—ム宇宙を越えた実存の領域をも超えたところにある存在 です(月読之大神もそこの存在です)。
そして、月読之大神は今回は天御中主大神の補佐にまわっておられますが、境涯は同格の立場だと思います あくまでも私の勘ですが 。
 
追補
 
月読之大神の正体
 
ここは修正があります。
天之御中主之大神がオ—ム宇宙のトップであることに間違いはありませんが、月読之大神が同格かどうか
は不明です。
未だに私の推測に過ぎませんが、天之御中主之大神よりもっと上位のゾーンからの使者のような気がして
います。それもただの使者ではなく、色々含みを持った謎の存在です( 天之御中主之大神を含むオー厶宇宙
の監督者という感じもあります) 。
しかし、とにかくこの方はご自分をあまり語られませんし、そもそもそんな情報を人類に知らせる必要も
ないので「誰も知らない」のが当たり前なのです。
今回はアンドロメダのみわという存在と、遊撃手というこれまた謎の存在が絡んでしまったことにより、
オーム宇宙の要である存在たちの謎の一部が少しだけ解明されたということのようです。
天御中主大神のお名前が海外ではどういう形になっているのか調べましたが、日本のような純粋な形の
宇宙神」という存在はあまり見当たりません。
絶対神とか全てのすべてとか漠然とした形容詞はついているのですが、名前そのものが純粋な「宇宙神
というのは、どうやら日本だけのようです。
さて、この天御中主大神がどういう動機でこの私たちの大オーム宇宙をお創りになったのでしょうか。
私も色々お聞きしているのですが、私と天御中主大神との境涯の差があまりにもありすぎて、中々本音が
聞けません。
ただ月読之大神を通して、色々興味あるお話はいくつか伺ってはいるのですが、それをここで書くわけに
はいかないのです。
確かに「創造神」の遊びでできた……ということも出来ますが、単純にそういうわけでもないようです。
このあたりの方たちの境涯の動機• モチベ—ションというのは、本当に私たちの認識からしますとギリギ
リの攻防でやっと何がしかの成果が得られるという感じです。
しかも、その内容がきわど過ぎて、短い文章では皆様を恐怖のどん底に陥れてしまうかもしれません。
ですから、やはりここは「宇宙全史」第二卷をお待ちいただいた方が、お互い賢明かもしれません。
 
 
追補
天之御中主之大神を完全体ではないと書きましたが、この存在は実存(真我)を超えています。
真我の存在であるということは、私たちにとって既に「完全体」であるということですから それを超えてなお「不完全」とは如何なる状態なのでしょうか。
この辺りの事情は普通に話しますと「形ある宇宙を創造するために、あえて形(不完全体)をまとって顕現する」という状態なのですが、その説明は簡単過ぎるといいますか、省略し過ぎているようです。
しかし  そういう表現しかできないのが今の人類かも知れません。
今後の宇宙全史のワ—クと、皆さんの進化次第ではその辺りの事情がもっと明確にされるかも知れません。
こういう情報は精神世界大学レベル以上のものになっています。
それを小中学生レベルで納得しようとか、理解しようとしても無理があるのです。
まずはご自分の認識レベルを少しずつでも上げていけるように、五井先生のお祈りと、宇宙全史の質疑応答で勉強なさるといいでしよう。
 
 
「ゴミ」という認識は、
実存から、この宇宙に投射される巨大な しかし無窮に精妙な 根源波動には「ゆらぎ」として認識され るのです。
宇宙に投影された根源波動の「ゆらぎ」は、 を通して「因果律」として才—ム宇宙に反映されます。 霊界では「ゴミ」は、因果律に伴ぅ波動の「ぶれ」として認識されます。 そして地球では「ゴミ」は「ゴミ」......不要なもの、邪魔なもの、汚いものと認識されています。
EOの覚醒は実存にあります。
ただ  完全覚醒者たちの常であります「中途半端な状態」というのは、必須になっています。
何が中途半端化といいますと、真我には何度も到達してはいますが、そこに入り浸るということは出来な
い状態が続いていました。
つまり現象界 こちらの世界 とあちらの世界 真我 を行ったり来たりしているわけです。
その状態が必須というのは、どちらかに定着してしまいますと......例えば真我に定着すると、即座にこの 世界からは消えて行きます。またこちらの世界に定着してしまいますと、真我への道は深く閉ざされます。
ですから、そういう中途半端な状態 行ったり来たり を繰り返すように続けて、次第に真我に自らの存 在を慣らしていっていたのです。
 
それは奇妙な存在から「実存」さえも「理論で解明できるよ」という福音をいただいていたことでした。
その「実存」の理論解明はもっと後になるとは思いますが、原理的に不可能と思っていたことが出来るん だという「私の夢」がかなう可能性が見えてきたのです。
 
追補
本当に宇宙全史を学びたいのなら、やはりそこには「学ぶ」という姿勢がなければなりません。 いくら優れた ような 解釈を書いて来たとしても、仲間を集めて宇宙全史を語ったとしても、宇宙全史
の書籍を売ったとしても それは何の学びにもならないのです。
やるべきことは他にあったはずです。 そこにあなたの限界といいますか、エゴの領域から出ることが出来ないあなた自身の縛りがあるのです。 そこに気づかない限り、あなたはいつまでもどこまでも同じところをグルグル回り続けるだけなのです。
の完全覚醒という状態は、陰陽図などでは到底表すことなど出来ない境涯になります。
つまり、それは言葉や理屈では説明が出来ないものという理があります。
しかし、それを何とか「指し示すこと」くらい出来ないかというのが私の望みです。
実際そうしているのが現状ですが、 年の非公開情報 では、その外堀を少し埋めたという実感があります。
やがて  いつか月読之大神が仰るように実存そのものをつまびらかに出来る日が来ることを願っています。
 
追補
天之御中主之大神を完全体ではないと書きましたが、この存在は実存 真我 を超えています。
真我の存在であるということは、私たちにとって既に「完全体」であるということですから それを超え てなお「不完全」とは如何なる状態なのでしょうか。
この辺りの事情は普通に話しますと「形ある宇宙を創造するために、あえて形 不完全体 をまとって顕
現する」という状態なのですが、その説明は簡単過ぎるといいますか、省略し過ぎているようです。
しかし  そういう表現しかできないのが今の人類かも知れません。
今後の宇宙全史のワ—クと、皆さんの進化次第ではその辺りの事情がもっと明確にされるかも知れません。
こういう情報は精神世界大学レベル以上のものになっています。
それを小中学生レベルで納得しようとか、理解しようとしても無理があるのです。
まずはご自分の認識レベルを少しずつでも上げていけるように、五井先生のお祈りと、宇宙全史の質疑応答で勉強なさるといいでしよう。
 
EO情報には中途半端な部分があります。それはすべからく彼がイルプロラシオン出身だというところに
なります。つまり異例の大出世をした魂であったのです。
そのため 完全覚醒のために 経なければならない経験値が足らなかったということがあります。
それでも完全覚醒の道を見つけたということは、イレギュラー中のイレギュラーでした。
通常完全覚醒の道につくとその道程を何度かの生で繰り返し、次第に真我に近づいていきます 近づくと いいますか、真我の在り様に馴染んでいきます 。
その段階を「分割自我復元」を果たした人でも、数回は人生を繰り返さないといけないと もいってい ます。
その段階でその人の色といいますか傾向性が様々なものを引き付け、或いは耽ってしまうことがあります。
そこで深く関わらなければそのままクリアしていきますが、あまりそこに拘泥してしまいますと、道を外 れるかアナーキ—な思想に偏ることもあります。
はそこまで耽ることはなかったのですが、それでも傾向性としては色を深めています。
 
質疑応答15
仏陀はこの世界を去るときに幾つかの配慮(じひ)を残していっておられます。

その一つが真我(実存)とこの世界の境界付近に「仮の仏陀」を貼り付けておられたのです。
「仮の仏陀」といいましても、仏陀のことですから、私たちにとってはほぼ仏陀といってもいい存在感を持ったものです。

その「仮の仏陀」が私たちに先ほどの言葉を降ろして来ておられたのです。

また、この仮の仏陀は、真我を目指す魂たちを正しい方向に導くこともその目的の一つとしています。 仏陀ファンは多いですから、再び仏陀に会いたいと思ったなら、何としても真我を目指すしかないようです。
あなたが体験したものは実存 もしくは真我 です。
宇宙全史ではまだあまり実存(真我)についての説明を詳細にはやっていませんので曖昧な部分があるかも知れませんが決して魔境などではありません。
ただ真我の一瞥は稀有な事ではありますが、真剣にここで学んでおられる方たちには次々と顕現して来ることになっています。
そして一瞥の後、そこからどこまでその精度を深めていくか、一瞥の記憶を保持しつつ更なる真我の体現 を求めていくことがこれからのあなたの課題になります。
よかったですね
あなたは少し前に実存を垣間見るということをしていますが、それをキチンと落とし込むという作業がま だまだ出来ていません。
実存に入るということは確かに偉業ではありますが それが瞬間垣間見るだけであっては、一時の恩寵に 過ぎません。
そこからの修業が実は大変なのです。
「巻き込まれない」というのはとても大事です。
情を外していくというのは  冷たい人間になるというのとは違います。
巻き込まれてしまうと一緒になって溺れてしまうので、巻き込まれるのは慈悲の深さとは異なるのです。 患者さんたちが世界移動の波に乗れるかどうかは、その方たちの問題です。
もちろん、あなたは世界平和の祈りの中で彼らの天命を祈るのが最善ですが 実際に彼らが自らを助けるかどうかは彼らの問題になります。
おそらく、どこまでいってもこの問題はあなたにつきまとうかも知れませんが、そこをクリアしない限り 次の段階には行けないでしよう。
あなたの守護霊様からです
共依存ということに焦点を当てて瞑想してみなさい」
追補
共依存」 例えば目の前におぼれている人がいたとします。
 
丁度20 メートルほど沖を流されています。
大声で、
「助けて」
「私は悪くないのに  どうしてこんなことになったんだ」
「もうこんな世の中は嫌だ、死んでやる」
「あんたは医者だろう」
「早く私を何とかしなさいよ」
このように叫んでいます。
でも本当にそうでしょうか。
おぼれている人が、そんなふうに叫ぶでしょうか。
いえいえ、絶対にそんなことはないはずです。 本当におぼれていて、もうこのままでは死んでしまうという状況のときに、そんな文句は絶対に出て来ま
せん。
そういう場合はとにかく助かりたい一心で「助けて!」と叫ぶ以外にないのです。
あるいは叫ぶ余裕もなくブクブクと沈んでいきます。
つまり どんな症状であっても文句が出るうち、自己正当化のパフォ—マンスが出来るうちは大したことはないのです。
もちろんそれを続けていますと、漸進的な死という状況に陥ってしまいます。
とりあえず甘えが様々なパフォーマンスを生み出し、とにかく「救ってみなさいよ」的な傲慢な依存というスタイルを見せています。
そこに一緒に寄りそって、共におぼれていくのはかまいませんが、共依存とはそのような状態をいうので す。
おぼれる方も救おうとする方も相手がいないと芝居が成り立たないのです。
そして、その芝居は世界中で人が生きている限り、延々続いていくのです。
集合魂にカルマがあるのは、集合魂のエゴがあるからです。
或いはエゴがあるから集合魂があるといってもよいでしよぅ。
集合魂がカルマから自由になった場合、その行く末はそれぞれです。
つまり集合魂の段階により消えていくものもあれば、より高い段階に行くもの様々です。
私はブッダが消滅したとはいっていません。
「この宇宙からいなくなった」といっただけです。
ブッダがいなくなったこの宇宙には、減じたものも乗じたものもありません
そして、ブッダはこの宇宙に自らの跡を継ぐものを残しています
 
ただ一条の慈悲の光芒を
ただ一仄の慈悲の芳香を
ただ一影の慈悲の気配を
 
もはやこの宇宙に聞くことはないのです
それはこの宇宙に慈悲がなくなったというのではなく 彼らがそういう存在だったということです
さて、再びあなたの境涯についてです。
一瞬ではありますが真我(実存)に入っているにもかかわらず、相変わらずイルプロラシオンマスターな どといっているようでは先が思いやられます。
精進、精進、また精進ですね
 
追補
確かに精進、また精進なのですが、そこはがむしゃらに突き進んでもあまり果がいかないところです。 この本はほぼそこのところを会得していただくための教科書のよぅなものになっています。
落ち着いて、エゴの欲望に負けないで、平静さを武器に勝ち残って下さい。
 
月読之大神からです
「道なかばだが着実に進んでいるようだね」
 
あなたもそうですが、すべからく人はエゴを保持したまま真我 実存 に入ることは出来ません。
 
何度でもいいますがエゴの希釈は重要な ほぼ唯一の メソッドになります。
 
正直に言いますと、どっぺんさんレベルで実存をどうのこうのいえるレベ ルには本来ないのです。
それがここまで来てしまっているというのは、やはりここに宇宙全史 に深く関わって来ていたからです。
私自身のことは薄っすらと初期段階から分かってはいましたが 皆さん方がこういう段階に向けて進んで いけるとは正直半ばあきらめてもいたのですが、このワークは実に思いもよらぬ驚きをもたらしてくれてい ます。
それは、あの「百万円の本」を受け取れる人間はおそらく出てこないだろうと思っていた私にとっては大 いなる誤算だったわけです。
あなたは何と今の段階では大学に入学したレベルに達しています。
しまし、まだ入学したばかりです。
大変なのはそこからです
まだまだ質問は出てきますが大学卒業あたりになりますと、やがてそれも収束していきます
並外れてすごいのは
月読之大神と五井先生がタッグを組んだところです
それに乗っかれたあなたの幸運は
如何ほどのものなのでしょぅか
虚空蔵55
 
RIEさん、どっぺんさん、伊藤さんへの回答が遅くなってしまいましたが、明日はもう冬至ですので返 答しておきます。
これは返答であって回答ではないのでそのつもりでお聞き下さい。
人とも 月時点までの状況は各々の境涯に従って 人 様ですから、それはそれでいいのですが、問題 は 人に現れて来ている いわば 現象を 人がどう受けとめているかという所にあります。
「回答ではない」と書きましたのは、どういう対応をしようがそれはその方の自由であり、その自由は宇 宙が保証しています。
ですから正解というものはないのですが、これまでここで学んでおられれば、自ずと会得されているであ ろう智慧が、そこでどのように生かされていくかはとても大事なことになります。
特にこの時期、明日の冬至を挟んでのI年は、ほぼあなた方の進路を決定づけるものになります。
人の特徴はここを見ておられる方たちの代表のようなものです。 伊藤さんは「何者」かとコンタクトがとれていますし、 さんには作家さんの才能があふれ出て来て
いるようです。
どっぺんさんには真我との遭遇の兆候のようなものがあり、それをこの 人は「どうすればいいでしょう か?」と聞いて来ておられます。
これまでなら「こ っしたほうがいい」というお答えを差し上げていましたが、今回ばかりはそうはいかな いのです。
それはこの土壇場では皆さんが皆さんの思いで、自分のつながる場を求めていかねばならないからです。
ここで学んでおられる方たちには、そういう様々な境遇、境涯の変化が出てきているはずです。
それをどうしていくのか、それが今まさに問われているのです。
現れているものは何に「因」を持つのか
その「動機」は何によるのか
今なすベきことは何か
自分は急いてはいないか
天変地異や大疫病のような外変ではなく 自らの内部に起きる変革には、人それぞれの段階があり それ ぞれの対処により行き先が定まります。
大切なのは 覚悟
追補です
伊藤さんはコンタクトとれているものに嫌な感じがなければ  気にすることはありませんが  その状況を
どうするかはすでに書いた通りです。
さんは、降りてくる作家衝動による作品を自らの教義の布教に利用したいと考えておられますが、
そこに焦りがないか、行き詰まり感の打開のためという部分がないかどうか、本当にやりたいことは何か、
そこをよく見つめてみることです。
虚空蔵 55
 
 
どっぺんさんはまさしく真我 実存 を垣間見るといいますか、その一歩手前のゾ—ンに接触しています が、それが何だというのでしようか。
運が良かったり、高熱にうなされたり、死ぬような危機状況に陥ったり、何日も寝られない状況が続いた りしたとき、 たまたまベクトルが合って 稀にそういう境涯に 一瞬遭遇する人もいます。
一兆年に一人しか得られない完全覚醒を前にして慌てたり、うろたえてはいけません。
その覚醒を得たEO氏でさえ 今生では簡単に覚醒したように見えますが、実際は彼の集合魂を含めて、 無数の転生において想像を絶する修行を重ねて来ています。 ここへ質問はいくらでもして来て頂いて結構ですが、「腹を据える」という丹田をつくる 育てる とい う事は大事です。
それがないといつでも簡単に境涯をひっくり返されてしまいますよ。
まだまだ先はありますが、もう先はないともいえます。
やはりそれはあなた方次第というところでしようか。
 
 
追補
皆さん方の多くは、巷にあふれる様々な情報を元に精神世界におけるメソッドを駆使し、自己実現や覚醒を目指しておられると思います。
 
が しかし、そういったものは、どちらかといいますとあまりリアルではない取り組みになっています。
何がリアルではないのかといいますと、本やウェブに書かれてある内容それ自体もそうなのですが それ を読むときの皆さん方の姿勢にも問題があるのです。
一般的に人は物事を受け取る時 受け入れるとき に以下の反応をしています。
なるべく楽な方向性を選択する
自分の好きなもの 好み に傾いてしまう
思い込みを持ったまま、それが間違っているとかの判断なしに選択する
手っ取り早い自己実現を望む
とまあこんな感じでしようか。
いずれにしましても、たとえ書いてあるものがまともであったとしても そういうものは少ないのです
内容を取捨選択してしまっているわけですから、取得出来るものも自ずと限られまともな結果も反映されることは期待できません。
そもそも、人が何事かの自己実現を果たそうとしますと、宇宙全史では常々申し上げておりますように 「エネルギーの多寡」が問題になります。
 
しかし、そうした取捨選択をした方法に取り組み、何だかんだやって、結局無駄な時間と労力を費やして いますと、肝心なエネルギーを貯めることが出来ず、取り組んだエクササィズは無駄になり、その繰り返し でいつしか歳をとっていき、気がついたときには、何も成就しないまま人生の終焉を迎えることになります。
大体人間のI生とはそういうもので、体裁を保つために、或いは故人を慮って お葬式には「あの人はこ ういう人だった」 「I生懸命生きていた」 「優しい人だった」などとうわべの美辞麗句でごまかしています が、この世界では覚醒以外で本当に後悔しない生き方など存在しないのです。
しかし人間が人間であるとき、或いは完全覚醒していないときに、取捨選択しない生き方など出来るので しようか。
ハッキリ申し上げてそれは無理なのです。
人という限り、そこにはそれぞれに個性があり、その個性には「好き」 「嫌い」が厳然としてあり、集合 魂の傾向性や今生で培った癖、習性なども明確に反映しています。
そのため車でいいますと、ハンドルが曲がったままですので、グルグル同じところを回っているだけの軌 道 人生 になります。
周りが多少変わったりしますので、自分も少しは変わっていると思いたいのですが、実は同じ境涯の中で ハンドルが固定されたまま、グルグル回り続けているだけです。
エネルギー それはあたかも発電機のモ—ターがグルグル回るのと同じで、電気は生み出しているのですが、そのエネ
ルギーはすべて他にもっていかれてしまっています。
 
それを修正するためにハンドルを戻せばまっすぐ走るのですが、自分はハンドルを正常に握っていると思 い込んでいますから、直しようがないということがあります。
ここで問題なのは、曲がったハンドルを握っていて、それで正しいと思い込んでいることです。
人は皆好きこのんで誤った道を目指してしまうのです。
そのために私たちの修正には、上位の方たちの援助が必須になります。 そして その最善の援助のIつが「五井先生のお祈り」です。
人間社会に馴染んでしまった人ほど、そこにたどり着くのは難しいのですが、それでも何でもかんでも、 お祈りにしがみつくと言ったら語弊がありますが、おすがりするという気持ちが持てたら上々でしょう。
もう一つ軌道修正に有効な道具があります。
同じところをグルグル回らないために 現代ではとても便利な道具「力—ナビ」があります。 それを精神世界の中で例えてみますと「行き先を指し示す情報源」といえると思います。
つまり皆さん方の思惑に追従ない情報源ですね。
厳しい道かも知れませんが、結局それが成就への最短の道になるのです。
あとは心構えでしょうか。
どっぺんさんのように一定段階に至りますと、真我は目前というように見えます。しかしそこからが本当 の精進で その人の真価が問われる時なのです。
はやる心、急く心をおさえるというよりは、そこに拘らない、平常心を養うことは色んな意味でとても大切なことです。
この宇宙全史では散々述べておりますが、ひとえに「 エネルギーの多寡」に収斂します。
ただエネルギーの多寡ばかりではなく、質や在り様も重要なファクターになります。
ほとんどの存在は真我に至り  真我の至福に浸ることを良しとします。
いや、そもそも「至福に浸るその人」さえもなくなるのですから、そこを抜けるエネルギーというものは現状謎といわざるを得ません。
 
ここでどっぺんさんにとっては大事な情報を明かしておきましょう。 これまでに僅かな人たちだけが実存(真我)に到達出来ました。 しかし、そこをさらに抜けた存在は2人だけでした。
一人は仏陀
もう一人は、私とは異なる遊撃手でした。 この二人が抜けた後、どこで何をしているかは、いつかまた機会がありましたらお話しします。
 
虚空蔵 注:どっぺんさんは「真我を抜けた次元」と表現されていますが、その辺りにはすでに次元の認識とい いますか、概念が存在しません
白光霊団は五井先生の弟子筋という事もありません。
そもそも五井先生という固有名は既に存在せず、宇宙全史における皆さんの救済のためにやはり方便としてあるのみです。
例えば、生前、五井先生のお弟子さんだった村田先生や斎藤先生なども、だいぶ前に帰られてからほぼすぐに霊団と一体になってしまわれています。
霊団の中に溶け込まれたといってもいいのですが  彼らにおける「真我(実存)」というべき「帰属すべき根幹」が白光の霊団だったのです。
逆にいいますと、白光霊団がその本来の姿を地上に現すため、堀大な慈悲のエネルギ—である「白光霊団」から分離させて降ろして来たのが五井先生であり、その他のお弟子さんたちでした。
この場合、斎藤先生や村田先生などは確かにお弟子さんといえるのですが、白光霊団から直接分かれてきた魂ではない魂は  また別なカテゴリ—のお弟子さんという事になります。
先ほど書きましたように五井先生は白光の霊団に既に戻られていますから、白光の霊団を弟子筋というのは‘ それこそ筋が違います。 と書いておられますが、あなたは真我を未だ知りませんし、仏陀も知りません。
ましてや「本当の私は神であり  仏陀でした」とはちよっとがんばり過ぎです。
「多くの本に書いてあることですが」と書いておられるように、その知識は外部から取り入れたもので、あなたの内在の智慧から来ているものではありません。
この辺りは修正の多いところで、よくよく内観されエゴの罠といいますか エゴがあちこちからかき集 めたゴミのお掃除をしないといけないようです。
あなたは今の等身大のあなたで充分なのです。もちろん日々の精進は必要ですが それも有りのままでいいのです。
いい事ばかりあるわけないのが人間界です。
月読之大神に指導して頂いて、全てがうまくいくという事もないのです。
五井先生のお祈りを毎日、毎瞬していても、つらい事や悲しい出来事は現れてきます。
その時こそ、あなたの真我が起動するのです。
そこから皆さんの指導を、学びを培っていけばよいのです。
「実存」或いは「真我」どちらでも同じなのですが、それを表現する手段はこの世にはありません。
五感を脱して初めて見えてくる領域です。
そして、五感を通じて見る世界とは「エゴ」そのものですから、エゴからの脱却が「完全覚醒」にとっていかに大事かがわかると思います。
 
 
非公開情報9
 
覚者ニサルガが質問者からこういうことを投げかけられています。
「あなたは世界が戦争や飢餓にまみれているのをただ見ているだけですか」
ニサルガ
「私の世界には戦争も飢餓もない」
「それはあなたの世界にあるだけだ」
 
この部分だけを見ても何が何だかわからないでしようが、ニサルガは例えや比喩やちよっとカッコいい文 句でそう答えているわけではなく、実際に戦争も飢餓もない世界に生きているのです。
ただ彼は次元移動などは自由に出来る境涯なので、恩寵として私たちの前に出て来ているだけなのです しかし例え 恩寵として もこの世界 に残ること は肉体とし ての制限を 受けますし 、この世界 の重さも引き 受
けねばならないのです 。
そして彼の本体ははるかに軽い世界で生きているのです。
現在彼はすでに真我に埋没しほとんど連絡が取れない状態になっています
 
 
非公開情報12
 
完全覚醒とは、この私たちの棲息する宇宙における覚醒の限界のことをいいます。
つまり最終的な覚醒といぅものになります。
 
「最終的な覚醒」とは、この本では何度か出て来ていますが、この宇宙からの脱出という事で  それはオー
ム宇宙のカラクリから抜け出すという事になります。
もう少し具体的にいいますと、私たちの本源であるところの「真我 実存 」に目覚めるといいますか、
「自らがその本源である」と気づくことになります。
それが成し遂げられたとき、あなたは本当の意味での自由に気づくのです。
私にも、宇宙全史の初めの頃は同じような、そういう思いがありました。
実は、五井先生も植芝先生も、生前は同様の経験をされています。
精神世界では  色々勘違いされている方が多く、教えたいことは山ほどあるのに、それを受け取れる人がいないという事があります。
植芝先生などは力がおありでしたから、本来まず精神を鍛えなければならないのに、強くなりたいだけの未熟な入門志望者が押しかけてきたときは、ただしばらく黙って対峙するだけでしゅんとなってしまい、逃げ帰ってしまうというようなことが多々ありました。
 
完全覚醒間近の教えと、それ以前の教えはまったく違うのです。
 
完全覚醒の定義を書いておきます。
①輪廻の構造から外れる
②エゴがほぼない 現象界にいる限り、一定のエゴは保持しなければならない
③自らが真我(実存)である認識がある
④もう一つあるのですが今は秘されています
いずれにせよ1〜3 の定義をクリアした方だけが完全覚醒者とされます。 そして、この完全覚醒者たちの特徴は例外なく「永遠と対峙している」という事がいえます。 しかし、完全覚醒間近の境涯までの皆さんは「世界 現象 と対峙している」のです。 もう一度質疑応答の帯にあったキャッチです。
 
「あなた方の動機はものにあり」
「私の動機は永遠にある」
 
これも同じことをいっています。
現象界と向き合っているのと、永遠と向き合っているのには何の違いがあるのでしょうか。 もちろん違いはあるのですが、それは比較にならない程のとてつもない大きな違いです。 そこを混同してしまいますと、教える方も教えられる方も混乱してしまいます。 ですから、本来、完全覚醒間近の教えというのは、弟子が一定レベルに達するまでは秘されていたものでし た。
どんなに精神世界に精通していても、どんなに膨大な知識を有していても、この 精神世界では、先ほど3つの定義に触れる位置にいない限り、初心者なのです。
本当はここから長いくお話しが始まるのですが、今は私に時間がありません。
続きは「エゴ」の本の中でお読みください。
数多ある精神世界の情報は そのほとんどが脚色されているか、隠蔽されているか、過大表現されているか 単純に間違っているか、方向性を発信者のベクトルに引き込んでいるとか、とにかくリアルな情報といぅの は非常に少ないものです。 ましてや、完全覚醒という通常人にはあまり縁のないカテゴリーでは、そのほとんどの情報が 本人以外が 発信するもの以外は まやかしに近いものになっています。 そのいい例が「我こそが仏陀の再臨である」などと発信し、そこそこ 普通の人には 聞こえのいい教えを それらしく説いています。
そして、真我や実存などについても、もっともらしく話しています。
しかし、真の完全覚醒者とは、人間世界の道徳観や規則や法律、他人への配慮とか思いやりといったものは ありません。
もし、それがあるよぅに見えたのなら、それはひとえに彼らの最後に残された責務である「慈悲」から来て いるものになります。
 
そういうことを踏まえた上で、 EOの今回の完全覚醒という奇跡の実態を解明しておきます。
 
 
人の無意識領域=真我(実存)
 
ではありません。
人の無意識領域は単に人が意識していない(出来ない)領域に過ぎず「意識していない領域」はその人により様々です。
極端にいいますと無意識という領域を知らない存在さえいるのです。
ちょっとわかりにくいかも知れませんが、立場によって無意識の領域というのは存在しなくなります。
 
つまり無意識領域というのは努力すれば(あなたの仰るように)そこから様々なものを持ってくることは出来ますが、不可知領域である真我(実存)からは何ものも持ってくることなど出来ないのです。
 
真我(実存)という領域は「人間の無自覚領域」というようなものではなく、そういう領域すらも遥かに超えた在り様なのです。
あなたは通常の人間の「無意識領域」と「真我(実存)」の「無」を混同している、或いは同じものとしてみています。
もっといいますと通常の「無意識領域」というのは普通の意識領域と同じカテゴリー(領域)にあるもので、ただ視点が異なる立場から見るといい方が変わるだけなのです。
 
ですからあなたの仰るように無自覚領域から何やかやを引っ張り出してきて地上の何やかやの役に立てるということは出来ないことではありませんが、やっていることは同じく現れの世界において動き回っているだけのことになります。
 
 
これまでこの宇宙全史のワークでは不可知である真我の詳細な言及はなるべく避けていました。
そもそもそこに関して何かを言及するなどということは原理的に出来ない領域ですから、どう理解して頂ければいいのでしょうか(と最近は悩みまくっている私です)。
 
 
③「深遠」は「実存」を超えた先にあるところを指していたと思うのですが、
仏陀様と遊撃手様の二人しか到達しなかった所が「深遠」なのでしょうか?
それとも「深遠」のその先にまで至ったのが二人だけということなんでしょうか?
 
私が「深遠」もしくは「深淵」という言葉を使用する時は、場所ではなく「形容詞」として使用しています。
 
「実存(真我)」はこの宇宙を含む、あらゆる現れの世界の根源ですから、「そこを超えた先にあるところ」というものを指し示す言葉は存在しません。
 
仏陀が実存を超えたといういい方は事実ではあるのですが、「抜けた」といった方が正確かも知れません。
「抜けた」存在の中に遊撃手もいますが、それは確かに私の仲間ではありますが、私ではありません。
そして「抜けた」後その二つの存在がどうなったのかは、今ここでは語れない内容になっています。
いつか皆さんがそういう境涯にたどり着くことが出来ましたら、きっとお話しできるでしょう。
 
 
「オーム宇宙の更にその外となるのでしょうが、言葉で表現できる様な形なのでしょうか」
 
●言葉で直指することは出来ませんが、表現することは出来ます。
 
「宇宙全史」第一巻はそれを目指したものですが、果たしてあの物語をどこまで皆さんは昇華出来たでしょうか。
単なる興味ある物語の羅列として見ただけでは何も見えてこないはずです。
 
宇宙全史は散文で書かれていますが、本当は壮大な叙事詩なのです。
 
詩を解釈するには、そこに書かれる物語にある「永遠」を読み解かねばなりません。
 
本当の詩には必ず「永遠」が潜んでいます
 
 
「古池や 蛙飛び込む 水の音」
 
 
この短い句が詩の詩たるのは、そこに禅の公案と同じように「永遠」を包含するからなのです
 
逆にいいますと「永遠」を含まない詩は
 
単なる言葉遊びに過ぎません
 
数字を構築することで物質世界を超えた量子力学が表現できました
 
言葉を綾なすことで
 
永遠を
 
表現することも可能なのです
 
しかしここでも
 
それを受け取れる方がどれほどおられるでしょうか
 
 

虚空蔵55様
みわ様
五井先生
月詠之大神様
 
ご回答いただきありがとうございました。
矛盾を感じその矛盾が何なのか明確にできずつたない文章での質問となってしまい申し訳ありませんでした。
そちらでまとめてもらいやっと自分が感じていた矛盾が明確になりスッキリしました。
お答え頂いた
 
「エゴを薄くしていって信頼できる自分になりましょうね」
 
ということを聞いて初めて非公開情報8のURACHUさんへの回答の意味が分かった気がします。
 
宇宙全史ワークでは時々聞かれるお話ですが上の方々の短い言葉の中の行間や裏の意図込められたメッセージに気づくのはとても難しく感じます。虚空蔵55様がそういったことに気づくの本当にすごいなあと思います。
信頼できる自分になるまでは先の宣戦布告どおり敵対しなくてはならないわけですね。
 
「本当にそういう境涯に至りますと、そもそもセックスをしたいとはあまり思わなくなりますし、腹いっぱい食べたいとも思わなくなります
そうでない限り無理してそういうことを自分に課してもあまり意味がありませんし、却ってストレスをためることになってしまいます」
 
こちらのご回答で自分自身を振り返ると確かに無理してやってストレスを感じ辛かった事があります。
やりたいことはやってもいいとのことですがそれも過分に求めなければということなのですね。
エゴの増長の警告は先のご指導であった良心に従うということでふせげばいいのかと思います。
(ただその良心の声に気づけなかったりスルーしてしまい結局肉体を痛めてやっと気づくしょうもない私ですが…)
ただそうすると求めようともしなくなる境涯になるまではエゴを薄めるという作業はどういったものになるのでしょうか?
上記の回答のあとのある一定の段階まで育むことと合わせて考えますとどうにもエゴを増長させる方向ばかりにいってしまい薄める作業が抜け落ちてる感じがしますが…。
 
どこかで書かれていたと思うのですが
「もう自分自身ではどうしようもないことを自覚しお祈りに五井先生にすべてをお任せする」
表層意識の自分がいくら頑張ってもエゴを薄めるのは難しく意識の大半を占める潜在意識から働きかけてくださる世界平和のお祈りをし五井先生にお任せしようというようなことをどこかで書かれていたような覚えがあるのですが、今回ご指導頂いた「あなたの良心に従いなさい」という単純明快な言葉を忘れず消えてゆく姿とお祈りで五井先生のお任せすることがエゴを薄める唯一の方法でもう他に私が出来るエゴを薄める手段はないと考えてよろしいのでしょうか?
(よくよく考えてみますとお任せするのですから自分があれやこれやしていたらお任せしたことにならないですね)
 
 
宇宙全史でまかなっている覚醒が①~③までとはすごいですね。
虚空蔵55様の言われるように宇宙全史での内容とニサルガダッタ・マハラジの本や最近話題になったEO氏の言葉などからどうしても矛盾というか言われている内容に違いがありすぎてどういう意味かわからずとりあえずこういう考えもあるんだくらいで深く考えていませんでした。
 
生きたいという前向きな感情を育てようとは逆のようなことをEO氏の言葉がHPであったと思うのですがそれはEO氏が②の完全覚醒について語られているからで①の覚醒の話とは違うからなのかと腑に落ちました。
 
③の完全覚醒のさらなる上位の探求について不思議に思うのですが②の完全覚醒で完全なる無を求めるのにそこから先を無がどうして探求しようとなるのか不思議です。探究心が残っていては完全覚醒の②ではないと思うのですがそれとも探究心は②の完全覚醒でも残るものなのでしょうか?
 
③で興味深いのは不可知であるのに今こうして宇宙全史で不可知について語られていることが興味深いのと同時に不思議です。
 
天御中主大神様が③へ行こうとした時仏陀様を取り込んでゆこうとしたが仏陀様が地球の道筋がある程度つき後継者が育つまで行くことを拒否。覚醒者の有り様としてその思いは尊重されついにその思いが叶い天御中主大神様へと仏陀様は収斂され上位の世界へ旅立つべく我々からすれば消滅とも思えるような状態(不可知化)になることでその上位へと旅立たれたのかと今回のお話を聞いて思ったのですが違いますでしょうか?
 
遊撃手の有り様は本当に不思議ですね。
非公開情報9でニサルガの本体ははるかに軽い世界で生きていて恩寵としてこの世界に現れていることが書かれていたのを考えますと遊撃手の本体もしくは遊撃手の座はその③の世界からもしくは③すら超えた上の世界にあってそこからこの世界に恩寵として来ているのではないかと想像してしまいますがさすがにこの考えは単純すぎるような気がします。
 
2017・1・5

 

 


宏史様
 
「ただそうすると求めようともしなくなる境涯になるまではエゴを薄めるという作業はどういったものになるのでしょうか」
 
●私たちは覚醒を本心から求めるまでは、エゴを洗練させなければなりません。
 
「エゴを洗練させる」ということはとりあえず、
 
①自分以外のもの(他人や木や雲なのです)を識別する
 
②識別したものと共存できるようにする


この二つが人間のエゴにとっての大きな使命です。
 
①は人が幼い頃にエゴを生み出すための作業になります
②は分離した世界で(大人になって)生き抜くためのエクササイズです


そして②の中で出来る限り自分(エゴ)の目的にかなった生き方を探るのが「洗練されたエゴ」なのです。
しかしこのエゴの中には、「エゴ」と「自らの本心(良心)」が混じってあります。
そこでどこまで「本心」を出していけるかが本当の洗練された「エゴ」になります。
その上でその「洗練されたエゴ」すらも薄くしていく作業が「覚醒」への道程になります。
 
 
 
「今回ご指導頂いた「あなたの良心に従いなさい」という単純明快な言葉を忘れず消えてゆく姿とお祈りで五井先生のお任せすることがエゴを薄める唯一の方法でもう他に私が出来るエゴを薄める手段はないと考えてよろしいのでしょうか」
 
●そうお考えになって結構です。
 
「良心に従う」ということ自体が「祈り言葉を忘れない」ということです。
 
それは別のものではなく、どこまでいってもついて来るものです。
 
もちろん他にももっとつらく厳しく遠回りする道はありますが、それを選択したいのならここで学ぶ必要はありません。
 
 
「③の完全覚醒のさらなる上位の探求について不思議に思うのですが②の完全覚醒で完全なる無を求めるのにそこから先を無がどうして探求しようとなるのか不思議です。探究心が残っていては完全覚醒の②ではないと思うのですがそれとも探究心は②の完全覚醒でも残るものなのでしょうか」
 
●「完全なる無」とは確かに「完全なる無」なのですが、それはいま私たちのこの立ち位置から見ているから「無」なのです。
 
現実の宇宙構造は空理空論ではなく、すべからく実体のあるものになります。
確かにその「無」を言い表す言葉は存在しません。
またここから見ると実体もありません(二元性を超えています)。
だからとりあえず「無」としていますが、本来は「無」ですらないのです。


あなたのおっしゃるように「無の中に埋没した無がさらなる探求をどうして続けられるのか」という命題は存在していますが、ここではまだお話しできません。
あなたがもう少しここで学んで境涯が上がったらまた質問してみてください。
あるいは例の本が買えるくらいの境涯に至ったらそれはそれでクリアです。


 
 
「天御中主大神様が③へ行こうとした時仏陀様を取り込んでゆこうとしたが仏陀様が地球の道筋がある程度つき後継者が育つまで行くことを拒否。覚醒者の有り様としてその思いは尊重されついにその思いが叶い天御中主大神様へと仏陀様は収斂され上位の世界へ旅立つべく我々からすれば消滅とも思えるような状態(不可知化)になることでその上位へと旅立たれたのかと今回のお話を聞いて思ったのですが違いますでしょうか」
 
●面白いですが違います。
 
天之御中主神はやがて皆さんの前に出てこられます。
 
月読之大神と天之御中主神はこの宇宙の主催神です。
その主催神が出て来るということはこの地球が、オーム宇宙が最終段階だということでもあるのですが、そこにあるこの宇宙を超えた壮大なドラマは例の本に記される予定です。
 
そこには人類どころか神々までが知り得なかった物語と世界の構造が描かれるはずです。
しかしそれを読める方がどれだけおられることでしょうか。
 
それに値するあなたでありますように

虚空蔵55

 
 
 

戦士の生き方

「その人々とは「戦士」として生きる段階の人々です。

 

彼らは通常の生で「完全な生」を生きていますので、意識していようがいまいが、その生き方そのものがカルマを自ずから解消して行き、また新たなカルマを創造することもないのです。

 

 

 

戦士への道へ導けるのはナワールという莫大なエネルギーを備えた、一定の段階の覚醒状態にある存在だけです。

 

しかもその教えを受けられるのは、自ら志願してではなく「永遠(もしくは無限)・あるいは大いなる存在」に導かれた(選抜された)ものだけなのです。

 

そしてその「永遠」に導かれるためには、あなたにその準備が出来ていて、しかもその時にタイミングがあっていなければなりません。

 

 

 

「永遠の探求」を旅している存在です。

 

ドン・ファンの集合魂の代表のような存在がそれにあたります。

 

そしてドン・ファンの集合魂は魔導師の集合魂ではありますが、非常に特殊な集合魂です。

 

ドン・ファンの集合魂は「探求」に特化した専門集団といってもいいかも知れません。

 

 

 

ドン・ファンの完全なる戦士の生き方ですと、そこにあるのは「公平な観照者」という有り様しかありません。

 

本当に覚醒した人は「傍観者」という立場からしか世界を見ません。

 

しかし五井先生は一歩踏み込んで「公平な観照者」としての立場に踏むとどまっておられます。

 

ドン・ファンはこの世界を離れるまでは、やはり「公平な観照者」としてありましたが、離脱してからはほぼその有り様からも自由になっています。

 

 

 

 

 

ドン・ファン系列の戦士にあこがれを持つのはいいことです。

 

彼らの生涯をかけたその壮絶な忍耐と自己鍛錬、自らの愚かさへの明晰な戦略なくしては到達できるものでもないのです。

 

戦士たちがなし得た偉業に対して、本来私たち日常の意識しか持ちえない者たちが云々出来ることではないのですが、それでも一種の「あこがれ」として畏敬の念を持ちつつカスタネダを通して投影される彼らの姿を会間見ることは出来るのです。

 

 

 

 

 

あなたは人生のありとあらゆることを人任せにすることが可能です。

 

しかしいったん「覚醒」に関しましては、それはあり得ないのです。

 

様々な宗教や救世主、教祖様に自らをゆだね、救っていただこうという都合のいいやり方は、ここで何度も申し上げておりますように、自らのアイデンティティを放棄することであり、その姿勢はこの宇宙のセオリーに反するのです。

 

もちろん何かを学ぶときに「真摯な姿勢」「謙虚さ」「礼節」「思い込みを持たない心」「全托」等は必要ですが、それは「自らの判断を放棄してしまう」ということとはまた異なるのです。

 

あなたの外に救世主はなく、あなたを救うものはあなた自身であるのです。

 

 

 

ここでは何度もいいますが、よく勘違いされているのは「世界を救う」「他人を救う」というとんでもない欲望を持ってしまうことです。

 

エゴは自らを省みることから目を背けるために「世界」や「他人」を救うという行動、姿勢で満足しようとします。

 

それがほとんどの精神世界にある方たちの有り様なのですが、そこに気付くにはとても強い精神力が求められます。

 

ただ人を導けるとしたら、その方が(高度な)覚醒しているときだけです。

 

そこに至らずに「世界を救う」などと思っているうちは、勘違いも甚だしいということです。

 

 

 

もし私がシャギーさんの求めに応じて「戦士」としての教えを授けようとしたとします。

 

その結果は(私がいまだ覚醒していないために)ほぼ「愛欲」「金銭欲」「権力欲」にまみれた巷の宗教と変わらない在り様になってしまうでしょう。

 

そして私もシャギーさんもおそらくどうにもならないどツボにはまってしまうか、怨愛にまみれた道を歩むしかなくなるかもしれません。

 

 

 

先ほども書きましたが、そもそも覚醒した方は「世界を救う」「他人を救う」などという了見を持ちません。

 

つまりそういうことが出来る、やる、やらなければならないと宣言している教祖たちは覚醒していないということであり、そこから導かれる信徒たちの有様は悲惨な結果に終わります。

 

教祖は「弟子がなっとらん」信徒は「騙された」と互いにその責任をなすりあいます。

 

戦士への道へ導けるのはナワールという莫大なエネルギーを備えた、一定の段階の覚醒状態にある存在だけです。

 

 

 

しかもその教えを受けられるのは、自ら志願してではなく「永遠(もしくは無限)・あるいは大いなる存在」に導かれた(選抜された)ものだけなのです。

 

そしてその「永遠」に導かれるためには、あなたにその準備が出来ていて、しかもその時にタイミングがあっていなければなりません。

 

 

 

孤独な鳥であることを恐れず

 

誰よりも高く飛び

 

やさしくうたう

 

そしていったん飛び立てば二度と戻らないという決意を秘めて

 

しばしの旋回したのちに

 

この地上を後にするのです

 

 

 

皆様方は「この地上世界が大好き」なのです。

 

「覚醒を求めている」とは言っていますが、本当は他人や友人に話を聞いてもらって自分を認めてもらい、家族の団らんを求め、美味しいものを食べ、彼氏彼女を日々追い求め、少しでも人に認めてもらいた、世に認めてもらおう、人よりお金を持っていたい、長生きしたい、楽したい、子供の成長を楽しみにしたい・・・とその意識、思考は地上界にへばりついたままなのです。

 

 

 

本当に覚醒したいのなら、何度もここで申しあげていますように「覚悟」が必要なのです。

 

そしてその覚悟とは「この地上を離れる覚悟」なのです。

 

 

 

地上を離れる覚悟とは、

 

①「すべての執着から離脱する」

 

②「すべての欲望を捨てる」

 

①のすべての執着とは、あなたの友人、知り合い、家族、家系、仕事関係の付き合い、物に対する執着

 

②のすべての欲望とは、食欲、性欲、睡眠欲、権力欲、自己顕示欲、物欲、金銭欲

 

こうした私たちをこの地上界に縛り付けている「接着剤」を希釈していかないと、覚醒を得ることは不可能なのです。

 

 

 

他に方法はありません。

 

やがて(いきなりは無理なので)徐々に執着や欲望を薄くしていくと、その因となっているカルマが次第に解き放たれていきます。

 

そうすると欲望・執着の希釈により加速度がついて覚醒に近づいていくことになります。

 

 

 

しかし私たち凡夫にはそもそも「欲望を絶つ」「執着から離れる」ということが出来ません。

 

皆様は色々質問してこられますが、本当に覚醒したいのなら欲望と執着を絶てばいいのですが、そんな簡単なこと、シンプルなことが絶対に出来ないのです。

 

仏陀以来人類はそのことを耳たこほど聞いてはいますが、ただ聞くだけで決して実行しようとはしませんし、出来ないのです。

 

 

 

それでもエゴは何かしら秘められた、隠された特別な覚醒に向けてのメソッドがあると信じ、そういう秘法を伝授してくれる教祖やマスターを探し求めます。

 

たとえ一人街を出て、滝に打たれ、断食し、山々を回峰しても、そこに「人より優れた能力を得て、優位に立ちたい」「人から尊敬された」「楽したい」などという思念が残っている限り、正しい覚醒を得ることは出来ません。

 

それはただ街でやっていたことを環境かえて山でやっているだけなのです。

 

私自身今の環境に置かれて一番感じるのは「自力での覚醒は不可能」ということです。

 

必ずそこにはマスターや神霊、大いなる存在の導き、加護が必須となります。

 

しかしエゴは「そんなはずはない」「自分は自力で必ず成し遂げてみせる」とエゴらしい考えを修正しようとはしません。

 

そこがミソといえばミソなのですが・・つまり「謙虚さ」「礼節」「自己放棄」「大いなるものへの全托」という姿勢が芽生えてこない限り、覚醒への道が開けることはないのです。

 

それがいわば「覚醒」の安全装置ともいえる構造になっているのです。

 

(覚醒への安全装置とは、覚醒すると(その人の段階や方向性にもよりますが)ご存知のように様々な常識を超えた力を有することが出来るようになります。しかしこの安全装置がないと、その力をどう扱うかということがとても問題になってしまうのです・つまり自己の欲望のために使用してしまう、その結果地上界が大変なことになってしまうという図式です。ほぼ無限の力を有した覚者は、すでにその時人々をもてあそんで満足するという動機を持っていないのです)

 

今ある皆様方の欲望や人生の願望、やりたいことやしたいこと・・私はそれらを捨てろとはいいません。

 

もちろん皆様はそれが出来ないからですが・・しかしその中で少しずつでも今の生き方、現状の人生に疑問があるのなら、その時こそ世界平和の祈りを唱える時なのです。

 

そうすると知らない内に、苦心惨憺しなくても五井先生が代わって引き受けてくださり、いつの間にか何段か上の境涯に引き上げていただいているのです。

 

五井先生の世界平和の祈りは、それも含めてあらゆる側面からあなたに応じた方法で、あなたを成就に持っていくオールマイティのアイテムなのですが・・

 

それが信じられない・・わからないのは実はこの後のご質問(Kazu様のものです)にお答えする中である程度解明されていくのかもしれません。

 

それが「二人の日本人の章」というテーマですが、それはまた後のお話です

 

 

 

 

 

常人はいつも(無意識下で)「死」を恐れています。

 

それゆえ常に「死」に操られているのです。

 

しかし戦士は「死」を自分の行動の基準にもって来ます。

 

それゆえ逆に「死」を操ることさえ出来てしまうのです。

 

 

 

人間社会は「死」を忘れる事で、自分達は未来永劫永遠に生きる存在だと勘違いしています。

 

しかしどんな人にでも必ず死は訪れます。

 

人は皆確実に執行を待つ「死刑囚」なのです。

 

それを忘れてはなりません。

 

 

 

ドン・ファンは戦士に「完全な生活」を要求してきます。

 

それは「完璧な生活」という強迫観念的なものではなく、常に「死」と対峙した生活という意味です。

 

先ほどの「一年後に死ぬとしたら」という仮定を「一瞬後に死ぬとしたら」というより厳しい条件に入れ替えます。

 

それが人として、戦士としての「完全な生き方」なのです。

 

そこには間違いや不備はあるでしょうが、後悔はないのです。

 

それが「完全な生活」であり、覚醒に要求されている「準備」でもあります。

 

 

 

 

 

「中々危なっかしいワークですが、そこで必要とされる(必須項目といってもいいでしょう)条件が「整理整頓され、余計なものをすべてそぎ落としたエゴ」なの です。

 

そしてそれが「戦士としての生き方」をクリアした存在なのです。

 

 

 

戦士の生き方を一言で表現しますと「清々(すがすが)しい生き方」と申し上げてもいいかと思います。

 

精神世界にかかわる、かかわらないは別にして、人としての有様で「清々しさ」というのは、塵芥(ちりあくた)の現代社会に降り注ぐ一条の光、一陣の風のご ときものかも知れません。」

 

「中々危なっかしいワークですが、そこで必要とされる(必須項目といってもいいでしょう)条件が「整理整頓され、余計なものをすべてそぎ落としたエゴ」なの です。

 

そしてそれが「戦士としての生き方」をクリアした存在なのです。

 

 

 

 

 

これは右のNO1053のご質問に対する回答です

 

ペンギン様

 

「エゴの克服のため「戦士としての生き方」を身につけられるよう、今後も読みたいです」

 

カスタネダの文章は実に驚嘆に値するものです。

 

彼とはいつかじっくりと書物一冊分の質疑応答を交える予定ですが、当時(ドン・ファンとの修行中)録音も許されなかった状況で、しかもアウェイのメキシコで(彼はロス在住でした)、ペンとノートだけでよくあそこまで精緻にドン・ファンの言葉を拾えたなあと感心してしまいます。

 

カスタネダシリウス系の出身ということもありますが(それも特殊なシリウスです)、彼が残してくれた文章は、前人未到のワーク中の今の私にとってはほとんど唯一「役に立つ情報」でもあるのです。

 

前人未到という表現は現在私の指導をして下さっている植芝先生がおっしゃったお言葉です)

 

おそらくカスタネダの文章の本当の意味を理解している人類は、現在皆無に近いのではないでしょうか。

 

それほど難しい内容になっています。

 

かつてアインシュタイン相対性理論が発表された当時、よくいわれていた言葉がありました。

 

相対性理論を本当に理解している学者は、おそらく世界中に10人はいないだろう」

 

そういう表現に近いと思います。

 

ただ先日も書きましたように、私たちがこの広大な精神世界を模索(もさく)する中で、実際に自分の盾(たて)となり、矛(ほこ)となるものは、ドン・ファンが教えてくれる「戦士の生き方」しかないのです。

 

しかしその生き方を知らない方がいかに多いか、知ることがあっても理解出来ない方がほとんどです。

 

理解できても実行出来る方は、もっと少ないのです。

 

ましてや実行できても、それを生きているうちに成就出来るのは、果たして世界人口すべての中の何人おられることでしょうか。

 

それほど戦士の道は困難な道なのです。

 

だからこそ「戦士への道」へのチャレンジは、偉大なチャレンジになるのです。

 

(もちろん日常同じことを繰り返し、凡庸な生活に満足出来はしないのだが、やむなく、なす術(すべ)もなく、不平不満だけがつのり、エゴの命じるまま怠惰に生き、精神をおとしめ、肉体をただ病むにまかせて生きていくことに甘んじるのならそんな必要は毛頭ないのですが)

 

ドン・ファンの道は、限られた方だけにしか歩めない構造になっています(誰でもチャレンジは出来ますが)。

 

ところが五井先生の教えてくださる道は、多くの方たちが馴染めて実行出来、しかも効果の大きい道です。

 

そしてそれは仏陀の道でもあるのです。

 

その広大な道には「すべての衆生をひろいつくす」という静かな覚悟が満ちています。

 

仏陀はこの宇宙の64回の爆縮のサイクルのうち、確か34回(今手元にデーターがないので正確でないかもしれませんが、ほぼこの数字です)を監督としてやっておられます(仏陀は地球の総監督というだけではなく、宇宙全体の総監督でもあったのです)。

 

その仏陀の究極のテーマが一貫して「慈悲」でした。

 

今回の文明で多くの経典を残された仏陀ですが、それらをまとめて総括するならば、その真髄は「慈悲」なのです。

 

仏陀のすべての教え、すべてのメソッドの上にあるものが「慈悲」だということです。

 

それを五井先生が「宇宙全史」質疑応答2の中で教えて下さっています。

 

「慈悲」という言葉は私たち凡人には中々とらえどころのない概念かもしれませんが、その広大な流れに飛び込んでしまうのも一つのチャレンジかもしれません。

 

「戦士の生き方」と「慈悲」は全く違う概念のようですが、実はそこに流れる「非情さ」というベースでつながっているのですが、それはまたいつか機会があれば詳しくお話しいたします。

 

「虚空蔵さまがキメラにならないよう、読者一同、祈り始めていると思います」

 

「宇宙全史」第一巻の中でも少し出てきたと思いますが、キメラという存在にはずっと違和感がありました。

 

「単なる奇形や特殊な超能力者というものではないな」という気がしていたのですが、それが何なのかハッキリしませんでした。

 

しかし自分が実際にそういう局面に立ち会ってみると、雲が晴れるように明確に理解できてきたのです。

 

カスタネダの本を読むと出てきますが「変身する呪術師(ナワール)」という言葉があります。

 

カスタネダ自身も確か「カラス」に変身していたはずです(これは師であるドン・ファンがカラスが好きだということもありました)。

 

その他の呪術師も「コヨーテ」や「ピューマ」などの動物や「水」や「雲」といった自然物にも変身出来ていたようです。

 

しかし実際問題それを言葉どおりに信じられるかというと、おそらくどなたもその目で見るまでは納得できないかもしれません。

 

詳細に世界中の精神世界を検索しますと「変身」というカテゴリーは、わりあいよく出てくる言葉です。

 

西洋ですと「魔法」のカテゴリーにそれがありますし、東洋ですと「仙術」や「道教」の中にもあります。

 

また原始的な宗教(呪術か)にも存在します。

 

しかし見回してみますとオフィシャル(一般的)な宗教にはあまり見られない言葉でもあります。

 

ある意味それは「密教(秘密の教え)」ということでもあるのかもしれません。

 

つまり「常人は知る必要がない教え」という意味でしょうか。

 

特殊な人間だけが知り得る境涯かもしれません。

 

その理由は「危険」ということがまずあります。

 

「変身」の構図は「陰胎(ナワール)」を利用することにあります。

 

あるいは「集合点」を動かすことにあるといってもいいでしょうが、この説明はかなりややこしくなりますので、後日の説明にさせて頂きます。

 

最近「陰胎(ナワール)」という単語がよく出てきますので、ここでは簡単にその説明だけをしておきます。

 

この宇宙(オーム宇宙)は、大まかに申しあげまして「陰胎」と「陽胎」からできています。

 

(通常は大宇宙という物質世界の上位に霊界なり天上界などがあって・・・という単純な構造が常識になっていますが・・・まあ霊界さえもその存在を認知しておられる方は少ないのですが・・・)

 

たとえば霊界(幽界も天上界も含めて)などは、陰胎の中にポッカリと浮かぶ雲の様な世界になっています。

 

そしてこの私たちが棲息(せいそく)する物質世界は陽胎に属します。

 

皆様は「陰陽太極図」というのをご存知でしょうか。

 

丸い世界の中に陰陽の白と黒の勾玉(まがたま)のようなものがあり、そのマガタマの頭の部分にまた逆の陰陽(白黒)の点(一部)が入っているという図ですが、あれがこの宇宙の陰胎と陽胎の構図を(単純ですが)明確に表しています。

 

具体的に申しあげますと、私たちの世界(陽胎)の中にも一部「陰胎」があり、「陰胎」の中にも一部「陽胎」が存在するという構造になっています。

 

私が宇宙全史のワークを始めた頃、この宇宙における「反物質」の存在を追及したことがありました。

 

するとそれはこの宇宙の辺境に偏って集中していますが、人類にとってそこは到達不可能な場所でした。

 

つまりこの宇宙は長径(楕円の長い方の径)が約200兆光年ある構造をしていますが、その最辺境(辺縁)に反物質がある一定の隔壁(バリアー)を持って存在しています。

 

(この宇宙の構造の記述は、あくまでもワークの初期段階の認識でしたので、かなり修正があると思われますのでそのおつもりでお聞き下さい。つまりあまりにも既成概念にとらわれた私の頭から質問がなされた結果の宇宙構造ですので、あまり役に立たないかもしれません。宇宙を地球上の物質構造と同じ基準で考えていた頃のお話です。答える方もどう答えたらいいのかという感じで答えられていました。例えるのなら算数も知らない子供に量子力学を教えるようなものだったのかもしれません)

 

ここではその宇宙構造の話しではなく、反物質のことなのですが・・・実は反物質というのは、この物質世界(陽胎)に存在する(現れた)陰胎の物質なのです。

 

そういうバランスになっているようです。

 

ですからこの宇宙を解明していく上では陰胎、陽胎という構造上の探求は非常に大切な命題になっています。

 

 

 

昔からある「浦島太郎」のおとぎ話はみな様よくご存知だと思うのですが、あのお話しは陰胎に紛れ込んでしまった人間の実話でもありました。

 

かつては陰胎への入り口が、わりあいあちこちに開いており、またそこに入る条件の整った人間もいたのです。

 

現在この日本では(2月の上旬に収録した時点では)陰胎の入り口は、青森と秋田の県境に近い雪深い山峡にありました(常に移動しています)。

 

しかし現在ではよほどのことがない限り、陰胎に入れる人間は存在しなくなってしまったということです。

 

それは人類の意思(総意)が大きく関っていることでもあるのです。

 

今回は大分長くなってしまいましたので、このあたりの事情はまたいつかお話しいたします(実はペンギン様のご質問にありました「宇宙全史を漫画のようだ」という表現は、ある意味妥当なのかもしれません・不思議やミラクルを現実世界から追いやってしまった現代人が背負うものは、味も素っ気もない当たり前の世界しかないのでしょう・現代人はそれを選択したと申し上げてもいいかもしれません)。

 

桃源郷という理想郷が中国とインドの国境付近に昔から存在しますが(これは当時老子が創っています・今でも現存します)、他にも色々怪しげな秘境が存在しますが、陰胎はそうしたものとは別格のものですから、混同しないようにして下さい(もっと遥かに大きなものです・霊界がその中ではポツンとした点のような存在になります)。

 

色々書いてきましたが、陰胎という異空間(異世界)の特殊なエネルギーを利用することで、私たちは世界を変容させることが出来ます(ドン・ファン流に申しあげますと、集合点を移動させるということになります)。

 

「世界を変容させる」=「自分を変容させる」ということなので、本当に自らの肉体から変身してしまうことが出来るのです。

 

外見だけでも、肉体能力でも、その両方でも可能な領域に到達できるのです。

 

しかしそのアクセスを一歩でも間違えると、存在自体が消えてしまったり、先ほど出てきましたキメラという特殊な存在になってしまったり、よくても発狂してしまうということになりかねません。

 

中々危なっかしいワークですが、そこで必要とされる(必須項目といってもいいでしょう)条件が「整理整頓され、余計なものをすべてそぎ落としたエゴ」なのです。

 

そしてそれが「戦士としての生き方」をクリアした存在なのです。

 

戦士の生き方を一言で表現しますと「清々(すがすが)しい生き方」と申し上げてもいいかと思います。

 

精神世界にかかわる、かかわらないは別にして、人としての有様で「清々しさ」というのは、塵芥(ちりあくた)の現代社会に降り注ぐ一条の光、一陣の風のごときものかも知れません。

 

今夜は少し上級のカリキュラムでした。

 

有難うございました

 

 

 

 

 

ドン・ファン系列の戦士にあこがれを持つのはいいことです。

 

決して否定はしませんが、彼らの生涯をかけたその壮絶な忍耐と自己鍛錬、自らの愚かさへの明晰な戦略なくしては到達できるものでもないのです。

 

戦士たちがなし得た偉業に対して、本来私たち日常の意識しか持ちえない者たちが云々出来ることではないのですが、それでも一種の「あこがれ」として畏敬の念を持ちつつカスタネダを通して投影される彼らの姿を会間見ることは出来るのです。

 

 

 

 

 

○人の一生において最も大切なことは「その人の段階に応じた学びをクリアすること」です。

 

その段階とは人それぞれですので、何が最も大事かという一律の答えはありません。

 

そして呪術師(戦士)にとって最も大事な事実は「集合点を動かす」ということよりも「生き物にはすべて集合点という感覚を生み出す器官があり、それが世界を創造し、その集合点を動かすことで数多の世界を経験(創造)することが出来る」という事実を知ることです。

 

単純に集合点を動かすだけなら、極端な飢餓や恐怖、発熱、異常な経験などでも集合点は動きます。

 

しかし集合点の意図的なコントロールとなると、それはもう戦士の統括された行為である「夢見」と「忍び寄り」をマスターするしかなく、その取得はとび抜けた才能を持ってしても、一生をかけた苦闘の末、勝ち取ることが出来るかどうかということも未知数なのです。

 

ですから私はみな様にドン・ファンの生き方を進めることはしなくなったのです。

 

 

 

 

 

カスタネダ著「沈黙の力」(二見書房)202ページより

 

 

 

ドン・ファン「誰かがわしらに、うぬぼれを切り捨てていかなければならないことを気づかせてくれるものがいるとしたら、それこそが本物の助けだ」

 

 

 

この宇宙におけるあらゆる存在は最終的には天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおおかみ)に収斂(しゅうれん)します。しかしこの地上に生きてそのたぐいまれなる極みまで自らを鍛え抜いた戦士に対して、この宇宙(天之御中主大神)は「自由」を与えます。いや与えるというよりは「自由」であることを「放置」します。人間として究極の自由を得ることを成就したドン・ファンが最も大切な基本的な教えとして私たちに残した言葉が上記の抜粋でした。

 

 

 

私たちの宇宙を統(す)べる天之御中主(あめのみなかぬし)の裏方としての存在である月読の大神がこうおっしゃいました。

 

 

 

月読の大神「エゴ(うぬぼれ)を薄くするには、まず少しでもエゴを希釈(きしゃく)しておかなければそれは不可能な作業」

 

 

 

つまり「エゴをなくしていくことが最も大切なことだ」と理解するためには、「ある程度エゴを薄くしておかないとそのこと自体が理解できない」ということです。

 

よく考えると「そんなことは不可能」と思えてしまうのですが、それでもそんな中でも普段から、少しずつでも気づきを得て、一歩一歩エゴ(うぬぼれ)を薄めていくという作業以外に、そのがんじがらめの罠からは抜け出す術はないのです。

 

多くの方たちが夢中で生きています。

 

エゴという「自己イメージ」の夢の中で生きているのが私たちです。

 

こういう形を想像してみてください。

 

 

 

①あなたの身体全体を取り囲む丸いボール(球体)がある。

 

 

 

②そのボールの中にあなたはいるわけですが、ボールの中から見た球の表面(内

 

 面)はすべて鏡面になっています(鏡のようになっています)。

 

 

 

③そのボールがあなたのエゴなのです。

 

 ですからあなたはあなた自身のエゴをそこに投影することで、それがあなたを取 り囲む世界だと勘違いしておられます。

 

 

 

④あなたはそのボールの内側に映ったものを世界と認識していますので、あなたの 見ている世界はあなた自身(エゴ)だということになります。

 

 いわゆる客観的な世界(客観でもないのですが、一応大多数の方が共通認識でき るという意味での客観です。それが鏡面を通してうっすらと透けて見えます)は あるのですが、それを認識するときにあなたはエゴというフィルターを通して世 界を色づけしてしまっているということです。

 

 

 

⑤そのためあなたが面白くなければ世界も面白くなく、あなたが苦しければ世界も 苦しく映ります。それが「世界はあなたが創造している」あるいは「世界はあな た自身である」という本当の意味でもあるのです。

 

 

 

⑥この時私たちは自動的に二つの大きな負債を抱えることになっています。

 

 

 

エゴを支える(作り出す)ためにエネルギーを使いきっていることから来る疲弊(消耗)と世界を正確に見ることが出来ない迷妄(無知)・・・この二つを常に人類が抱えてしまっているのです。

 

 

 

ドン・ファンの教えはどちらかといいますと「密教」のカテゴリーに入ると申しあげましたらお分かりになるでしょうか(最も密教を知らないとどうにもなりませんが)。

 

五井先生の教えは「大乗」の教えです。

 

共に目指すところは同じなのですが、その方法論が違っています。

 

「宇宙全史」は今の所この地上では、究極の情報だと思いますから、私の中ではドン・ファンも五井先生も仏陀もイエスもみんな同じなのです。

 

しかし最近それは皆様方には通用しないということが分かってまいりました。

 

ですから近頃は多種多様な聖賢・覚者・高度な存在が私たちに関わってこられていますが、あまりここには書いておりません。

 

面白いのですが、そんな情報は単に皆様を混乱させるだけでしょうから。

 

(宇宙全史では最終的にすべて出す予定です)

 

おそらくすでにこれまでの情報だけでも相当混乱があると思います。

 

しかしそれは追々ここで補完してまいります。

 

五井先生が呪術をお勧めにならなかったのは、日本における呪術という意味と、メキシコ(というよりドン・ファン系統)の呪術はかなり意味が違っています。

 

その違いをここではご説明しません(あまりに面倒なので)。

 

しかしそれではやはり不親切でしょうから、逆にお二人の共通点を書いておきます。

 

五井先生は慈悲の存在ですが、私にとっては慈悲というより「究極のやさしさ」の存在でした。

 

慈悲には「情」がありませんが「やさしさ」にはまだほんの少しですが「情」が残っているのです。

 

本来「情」というものは覚醒においては、残してはならないものの代表です。

 

それをあえて残してでも人々に合わせようとなさった存在が五井先生でした。

 

ある意味表面的には「地蔵菩薩」に似ているかもしれません。

 

ドン・ファンが求める「戦士」としての特質には多くのものがありますが、彼の教えの最も難解な部分が、戦士としての基本的な姿勢でした。

 

私たちはこの現象界で覚醒を求めるとき、あまたの障壁、障害にぶち当たります。

 

多くの方がほとんど毎日、毎瞬そのストレスを感じておられるはずです。

 

人生は選択の連続です。

 

障壁にあって、その選択を迫られた時、迷った時は「心ある道を行く」というのがドン・ファンの根底を流れるエネルギーの質です。

 

「何が心ある道かは分からないが、しかしわしらはただひたすらまっすぐ目を前方に見据え、その道をどこまでも、力尽きるまで全力で歩んで行くんだよ」

 

それがドン・ファンカスタネダに伝えた最高の奥義でした。

 

ドン・ファンは完全に非情の存在です。

 

今私たちにかかわる時でも、普通の方ならかなり落ち込んでしまうだろうというほど辛辣に聞こえる事をおっしゃることもあります。

 

しかし私にとってその言葉は、本当に涙が出るほどやさしいのです(もちろんドン・ファンにからかわれるので、涙なんか出しませんが)。

 

五井先生の「究極のやさしさ」とドン・ファンの「心ある道」・・・この二つが私をして彼らを私の師としているのです。

 

しかしそれをご理解いただけるかどうかは中々難しい所かもしれませんが、それも皆様の学びかもしれません。

 

有難うございました

 

 

 

 

 

どっぺん様

 

 

 

あのEO氏でも、或いは以前お伝えしたA氏でも、完全覚醒しているのですが、この世に生まれて生きている限りその方の集合魂が持つカルマなり責務のようなものをクリアしていかねばならないという事があります。

 

 

 

お二人は今回の生が最終段階でしたが、完全覚醒の道にいる者にとって、転生の数は問題ではないのです。

 

 

 

私が今出し続けている「質疑応答」シリーズで、他の方たちの学びを自らのものとするという課題は実に重要なことで、その学びなくして完全覚醒などあり得ないのです。

 

今のあなたと同じようにEO氏もA氏も、前世でも真我の一瞥は何度も経験しておられます。

 

 

 

表面意識がいかほど覚醒を望もうが、集合魂の合意なくして覚醒はありません。

 

ましてや完全覚醒というものは、この宇宙を超えた合意がないと達成できないものなのです。

 

 

 

五井先生でさえも、みどりさんという奥様を迎えられたのは、集合魂の始末をつけるためでした。

 

まだまだ果たすべきこと、学ぶべきことがある限り、焦らず弛まず精進あるのみです。

 

 

 

 

 

 

 

虚空蔵55

 

 

 

 

 

ペンギン様

 

大浄化という現象がスルーされたわけではなく、今のままでは「延期」されただけの状態です。

 

ドン・ファンは本当に素晴らしいと思うのですが、難しいです。観たこともない世界を言葉で理解しようとするのは、難しいです」

 

正直私もそう思います。

 

この頃になってやっとカスタネダの書いていた本当のところが見え始めてきています。

 

ナワールという世界や、集合点の概念など、実際にそういう局面に至らないと私たちの頭には全くない構造ですので、理解が難しいと思います。

 

先日も書いておきましたが、どうしてメキシコの小さな呪術師集団が世界中の誰も知らないここまで深い世界の概念に到達できたのでしょうか。

 

シュタイナーや神智学関係者達でも、その片鱗にさえ触れていません。

 

(しかし本当のこの宇宙の構造を解明するには欠かせない要素なのです)

 

ドン・ファンを読む場合は、そうした実際の修行方法、メソッドを学ぶというよりは「戦士としての生き方」を学ばれた方が遥かに役に立つと思います。

 

「集合点の移動」などの実際的なワークは、その生き方を学び、実践出来てからということでしょう。

 

しかしそれも実行できる方は、少ないと思われます。

 

今私はナワール(陰胎)に入っていこうとしています(覚醒の前の段階で、そういう修行が必要なようです・非常に特殊なことらしいのですが)。

 

しかし一歩間違うと「キメラ」という微妙な存在にもなりかねない危険な修行でもあるのです。

 

またカスタネダの文章によく出てきました「非有機的存在」という生命体とも、接触が始まっています。

 

中々面白いですよ。

 

また詳しくはいつかお話しいたします。

 

有難うございました

 

虚空蔵55

 

 

 

 

 

貴子様

 

 

 

「また体が対応するようになるとは潜在意識でそう認識するということなのでしょうか」

 

 

 

日常であなたがやるべきことを果たしておられたのなら、それがすべてです。

 

「人事を尽くして天命を待つ」というちょっと大仰な言い回しですが・・・でもそういうことなのです。

 

 

 

固くお考えになることはないのです。

 

あなたはいつも着実にご自分の出来ることをコツコツと感謝を持って一つずつクリアしていかれる方です。

 

実は「戦士の生き方」の特徴のひとつに「謹厳’(きんげん)」というのがあります。

 

その生き方をある程度クリアしておられるあなたは、そのままで体がなすようにしておられればいいのです。

 

逆に潜在意識がどうのこうのとお考えになるとギクシャクしてきますので、いつも通りやるべきことを果たしたなら「後は何とかなるでしょう」でいいのです。

 

 

 

確かに私たちの肉体の多くは自律神経でまかなわれています。

 

その作用はご推察のように潜在意識がつかさどっていますが、今回の宇宙気流の作用を受け取る部分はもっと深いところに存在しています。

 

お任せしていると、その深層部分と潜在意識・表面意識の微妙なバランスが自ずとあなたの運命を変えていきます。

 

 

 

月読の大神が「今回は軽いノリだね」とおっしゃるのは、「あまり固く考えないでいいよ」ということでもあるのです。

 

「お任せする」ということが出来る方にはとても楽な恩寵ですが、ここまでのワークで、「どうしてもお祈りが出来ない」「本心からの祈りが無理」という方た ちには、中々難しい・・・ある意味苦しい状況だと思います。

 

それは「エゴにとって苦しい」状況だといえるのです。

 

 

 

エゴは「祈りなんて何になるのか」「祈りなんて他力本願な無責任な行為はもっての外」「一体祈って何がどうなるというのか」と考えます。

 

そのエゴを薄くしない限り、今回のこの壁は越えられないようになっているのです。

 

難しいのはそこのところであり、困難なのはエゴなのです。

 

 

 

 

 

でも実際今回の変化は実に大きなものがあるようです。

 

やがてそれを実感される方たちがここから出てこられると思います。

 

 

 

 

 

有難うございました

 

 

 

 

 

虚空蔵55

 

 

 

 

 

だいぶ時間があいてしまいました。

 

 

 

ご心配おかけしております。

 

もう少し時間がかかりそうなので、ここで少しご報告をしておきたいと思います。

 

 

 

今はまったく時間がとれない状況でして、これはおそらく9月の中ごろまで続くと思われます。

 

ひょっとしたら9月の4日までにもう一度書き込みが出来るかもしれません。

 

 

 

その時少し詳しくお話しいたします。

 

 

 

有難うございました

 

虚空蔵55

 

 

 

2008/7/16 No.83

 

これは右のNO288への返信です

 

 

 

やっとドン・ファン系の方のお出ましですね。

 

「戦士としての生き方」を矜持(きょうじ)としておられる方々ですから、まずこういう所には顔をお出しにならないのでさみしかったのですが、少しうれしくなりました。

 

 

 

ところでカルロス佐藤様がおっしゃるように「クンダリーニの覚醒」「出来なければ死」などと大風呂敷を広げたのですが・・・生還したのだから「きっとクンダリーニを覚醒したのでしょう」とお思いでしょうが、そうでもないのです。

 

以前とあまり私自身はあまり変わっておりません。

 

(こうして徐々に信用を失っていくのでしょうか)

 

 

 

実はあまり詳しくお話していないので、中々ご理解いただけないと思いますが、私の覚醒(肉体も精神も共に)は、多くの段階を踏む事になっています。

 

今回は「出来なった・成就しなかった」ということではなく、「約20パーセントの成就」というところでした。

 

そしてすぐにまた次の「ミトテ」がやってまいります。

 

(確かドン・ファン流の精霊を使ったセッションをミトテといいましたよね)

 

私の精霊は「非有機的存在」ではなく、髪が茶色で、一重のちょっと目がつりあがった細面の少女です(非有機的存在とは、カスタネダの本の中に出てくる人類とはまた違った進化系にいる存在です・先日たまたまですがその映像がネット上で公開されているのを発見してしまいました。もちろんその映像を撮った人たちはそれが非有機的存在とは知りませんが)。

 

彼女はものすごい美人ですが、メッチャメチャ気が強く、みわなんか子ども扱いです。

 

私のことを気に入ってくれたらしく、今回のセッションで「死なせる事はしない」と言ってくれました。

 

しかし「成就するまでやる」という事も言っています。

 

非常にピュアな存在で「目的達成の使命のためなら何でもする」という姿勢は、とうてい人間の比ではないようです。

 

(つまり手段を選ばないという怖さもあるのです)

 

 

 

今回のこのセッションの詳細は許されましたら「宇宙全史」第3巻に掲載予定です。

 

 

 

さてカスタネダとの共著という本は、「宇宙全史」とはまた別に出す予定です。

 

まだそのワークは始まっておりませんが、これは私がどうしてもやっておかねばならないお仕事になるようです。

 

 

 

その本が出た時に、冒頭の文章にしようと思っていた部分です。

 

 

 

カルロス・カスタネダと初めてつながった時の会話でした。

 

 

 

 

 

私「カルロスずっとそこで何か書いているようだけど、満足なのかい」

 

 

 

カルロス「いや書くことはたくさんあるんだが、読み返していつも絶望してしまうんだ」「ドン・ファンのことを研究しているんだけど、何だかもう何も新しいことが書けないんだよ」

 

 

 

私「私が質問するという形で答えてくれればいいから、地上でもう一度本を出さないかい」

 

 

 

カルロス少し考えて、

 

 

 

ドン・ファンは笑ってくれるかな?」

 

 

 

私「もちろん笑ってくれるさ」

 

 

 

カスタネダ「じゃあ、いいよ」

 

 

 

カスタネダは最初私たち異邦人に対して少し警戒心を持っていました。

 

(非常にシャイな人でした)

 

上の文章の前にも、私がわりあいずけずけと彼の中に入って行ってしまうので、戸惑いがあったようでした。

 

しかし最後の3行の会話を交わした時、カスタネダは私のことが理解できたようでした(私がどれだけドン・ファンを理解しているかということ、またどれだけカスタネダが好きかということが分かったようです)。

 

 

 

カスタネダの本は現在日本では10冊以上出ているはずです。

 

そのほとんどが二見書房から出ていますが、最後の方に出た「呪術の実践」というタイトルがあります。

 

私も何度もこのドン・ファンシリーズは読み返していますが、このタイトルの本だけは無理でした。

 

どうしても違和感を覚えてしまうので、なぜこんな本を出したのかカスタネダに聞いてみました。

 

「あれは私の周りにいた形にこだわる連中がどうしても出したいということで、ほとんど勝手に出した本なんだ」

 

それで私は納得したのです。

 

おそらくカスタネダ・ファンの多くは同じ思いを持っておられるのではないかと思い書いておきます。

 

 

 

 

 

それでは今夜はこのあたりで失礼致します。

 

 

 

有難うございました

 

虚空蔵55

 

 

 

 

 

質問1・10組の地球原人のペア(地球のエネルギーを受ける原人とそれを使う原人のペア)では「基本的にエネルギーを受ける方は女性が多いが稀に男性もいる」とのことですが、20体の中でも稀なこのエネルギーを受ける男性の地球原人は他の地球原人とは違う働きをするのでしょうか?

 

 

 

  • 男性といいましてもほぼ中性に近いような男性、もしくは男性に近いような女性といいますか…そういう形で現れるはずです。

 

ですから基本的に女性性がベースになっています。

 

またその働きは社会性を持った強力なカリスマ的リーダーシップを発揮していきますから、本来の地球原人とはだいぶ様相が変わった有り様になります。

 

この役割は元々地球原人が発展してそうなるということもありますが、通常の人間が(そういう資質を持っていればですが)進化して(地球がエネルギーを与えて)その役を果たすということもあるようです。

 

いずれにせよ激動ともいえる変革の中で、どう転んでも成功するように流動的な組み合わせは用意されているようです。

 

(やがて明かされる非公開情報8の中では、地球原人のまた別な側面も日本の古代の歴史の中で示されていきます)

 

質問2・『宇宙全史 質疑応答3』のP144で「集合魂の上位の魂」として「地球の魂」についての説明があります。

 

この「地球の魂」とは「地球という惑星も含む、そこに生存するあらゆる生命の総体が帰り着く、あるいはそこから派生した源」とのことですが、地球原人とはこの「地球の魂」が濃く地上に現れた存在のことでしょうか?

 

それとも、地球原人はあくまでも「地球という惑星」限定の意志が強く発現した存在でしょうか?

 

 

 

  • 「集合魂の上位の魂」とは地球という修行場に宇宙から集結した生命(魂)の大元(もしくは集合体・集合魂の集合体とでもいうのでしょうか)をいいます。

 

「地球の魂」とは地球という惑星の魂です。

 

私たちとは異なる進化形を持った魂で(いずれは私たち一人一人も惑星に進化することも出来るという可能性は持っていますが)、彼らは彼らの思惑(価値観)で生きています。

 

その地球の魂が地上に顕現した時「地球原人」となって現れます。

 

質問3・下記の引用箇所にありますように、地上から旅立ったドン・ファン達にとっても「地球」は依然として母体とのことですが、ここでいう地球とは「地球という惑星」のことでしょうか?

 

ドン・ファン「~呪術師が死の隠れた選択肢を選び取ったときに何が起こるかというと、彼らは非有機的存在へと変わるのだ。きわめて特殊化した、高速の非有機的存在、途方もない知覚の技を発揮できる存在へと変わる。

 

そのあと呪術師は、古代メキシコのシャーマンたちが最期の旅と呼んだものを開始する。そのとき、無限が彼らの活動領域になるのだ」

 

カスタネダ「それって、ドン・ファン、彼らは永遠の存在になるってことかい?」

 

ドン・ファン「呪術師としてのわしの合理的考えからすると、彼らの意識はいずれ終焉を迎える。非有機的存在の意識が終焉を迎えるようにな。しかし、わしはそれが起こるのを見たことがない。だから、直接には知っておらん。昔の呪術師たちは、こういうタイプの非有機的存在の意識は、地球が生きているかぎり存続すると信じていた。地球は彼らの母体なのだ。その母体が生きつづけるかぎり、彼らの意識は存続するというわけだ」(『無限の本質』241頁2行目~)

 

 

 

  • 地球という惑星を含む地球圏ということです。もう少し詳しくいいますと、太陽系全体が今の地球圏に入っていますから、そういう意味では太陽系全体といってもいいかも知れません。逆にもっと厳密にいいますと「この次元における地球圏」という言い方が最も正確な表現かもしれません。

 

「非有機的存在が地球が生き続ける限り生き続ける」といういい方はその通りで、それは「非有機的存在は地球の次元に囚われてしまっている」ということも出来るのです。

 

しかしながらドン・ファンなどの戦士たちが旅立った先には、地球圏を超えた世界が待ち受けていることは事実です…が、そこまで到達できるかどうかは彼らの問題になります。

 

なおカスタネダはつい最近まで死んでからあの世界では一人で彷徨っていましたが、今は(冬至を過ぎてから)ラゴルダや他の仲間たちとも再会できて、ドン・ファン達に合流すべく旅を急いでいます。

 

 

 

 

 

①やさしい(放縦に流されない丁寧さ)

 

②忍耐力がある(待つことを知る・機会を失わない忍耐を知っている)

 

③非情である(冷酷にならない平静さ)

 

④狡猾である(残忍にならない明晰性)

 

この4つはドン・ファンが提唱する「戦士」の条件ですが、それをクリアしているのが離脱している親の共通項といえば共通項です。

 

 

 

 

 

「向き合うと言う言葉が、難しさを感じさせます」

 

自分と向き合うということは、冷静に自らのエゴ(自分)を観察することです。

 

私が以前一生懸命「戦士の生き方」を力説していたころ・・必要な条件の中で、最後に「ユーモア」というフレーズを出していました。

 

芸人さんの得意技である「お笑い」の神髄は、自らの愚かさを笑ってしまうというところにあります。

 

戦士たちも段階は異なりますが、自分の恐怖や苦難、耐え難い試練、それに人類の愚かさなどに対して、立ち向かえるメソッドはただ一つ「ユーモア」だけなのです。

 

しかしそれが発動するには、真剣に自らに向き合える(自分の愚かさと対面できる)力がないと無理なのです。

 

一歩離れて、エゴと向き合うことで、本当の自分(向き合っている自分)は、エゴではないと理解できるようになります。

 

そして自分だったと信じていたエゴを笑い飛ばすことが出来るようになったなら、次第にエゴの支配からは抜け出ていくことが出来るのです。

 

まずは自らを見つめ続ける・・そこから始めて下さい

 

虚空蔵55

 

 

 

 

 

私の集合魂も私も共に過去において、相当な修行を果たしてある段階に至っています。

 

しかしその修行には、カスタネダが伝えるところのドン・ファンが提唱する、

 

「忍耐」・・・・(耐え忍ぶということではなく、待つということ)

 

「ユーモア」・・(永遠と向き合う時平常を保つため深刻にならないということ)

 

「狡猾さ」・・・(ずるさではない明晰性)

 

「非情さ」・・・(冷酷にならないための非情さ)

 

という4つの形質をすべて越えてこその修行なのです。

 

カスタネダを読みますと、もっと多くの学びがそこに書かれてありますが、単純にこの4つだけでもクリアできたなら、その旅人は「戦士」となるのです。

 

しかし海様の集合魂が求めてきているものは、戦士ではなく「兵士」なのです。

 

WARRIOR(ワーリアー)ではなく、SOLDIER(ソルジャ)を求めてしまっているため、混乱を極めているのです。

 

ご健闘をお祈りします

 

 

 

 

 

ペンギン様

 

 

 

ドン・ファンの系列の呪術師たちの教えは、おそらく(今回の文明)史上最も精緻で高度なものですが、それでも彼らが肉体を離脱するまでの探求の積み重ねという枠からは出ていないのです。

 

 

 

私たちのワークは非常に広大な世界を包括するということが前提になっていますが、彼らは地上で生きる中でのリアリティをより深く探求した系列の者たちでした。

 

たとえばナワール(陰胎・いんたい)という概念は、地球史上ほぼ彼らと私たち(宇宙全史のワーク)にしか出て来ておりません。

 

ナワールは宇宙の構造を語るときかなり重要な要素ですので、なぜ他の探求者や覚者、精神世界のマスターたちが言及していなかったのか調べてみました。

 

 

 

ひとつにはドン・ファンたちは系統だった知識の集積という事をやっていました。

 

いわゆる「古い見るものたち」は、彼らが得た魔法の知恵を世代にわたって受け継ぎ、そこに新たな情報を積み重ねていったのです(千年単位で受け継いでいます)。

 

その結果方向性は誤っていましたが(自由への道という立場からすると)、彼らの行き着いたシーンは恐るべきものだったというわけです。

 

(それをドン・ファンたち「新しい見るものたち」が修正しています)

 

その反面西洋や東洋のマスターたちは、ほぼ個人個人で道を探求しており、長くてもせいぜい弟子と師くらいの関係性が精一杯でした。

 

また彼らは、覚醒がその最終目的でしたから、覚醒してしまうとハッキリ申し上げて、地上のことなどあまり関心がなくなってしまい、世界の構造の深い意味や目的をわざわざ知りたがろうともしない人々に教えるということを避けていたようです。

 

またたとえ知りたがる人がいたとしても、ナワール(陰胎)を伝える言語が不足していたということもあります。

 

ですからここではいつの間にか陰胎という言葉を使っていますが、本来はかなり長い説明文がその前になければならないのです。

 

それほど陰胎は大切な概念であり、この宇宙における基本的な構造になっています。

 

たとえば霊界は皆さんよくご存知だと思いますが、あれは陰胎のごく一部というカテゴリーになっています(つまり陰胎の中の一部の領域が霊界)。

 

しかし今ここでは陰胎のくわしい説明は出来ませんので省いておきますが、ドン・ファンの話の中に出てくる「イーグル」という生命が地上での命を終えた時、そのエネルギーを食べるという存在は実際にはいる(ある)のです。

 

これはある程度「宇宙全史」第一巻の中でも書いておきましたが、ドン・ファンのイーグルの概念も宇宙全史のこれまでの説明も中途半端なものになっています。

 

一面だけから見ると正しいシーンなのですが、大きな立場から見るとそれは非常に大きな「愛」という構造に包まれているものになっています。

 

しかしそれを説明するには、この先まだまだ長い文章を必要としますので、しばらくここでお付き合いください。

 

いまここでこの段階で皆様がイーグルという存在を知ったところでどうなるものでもないのです。

 

ドン・ファンたちにとってそれは極めて危険な存在であり、かつ自由への飛翔の抜け道でもあったのですが、普通の方たちにとっては単なる概念、お話しに過ぎないのです。

 

たとえばここをご覧になっている方でカスタネダドン・ファンシリーズをお読みになった方がおられると思いますが、おそらくあの本の中に出てくるメソッド(修行法)を実際に実行した方はあまりおられないと思いますし、実行して何らかの成果を得られた方はもっとはるかに少ないでしょう。

 

それはあそこに出てくるメソッドを実行しようとするならば、ある一定の段階にまで肉体や精神をレベルアップしておかないと不可能だからです。

 

(70年代に多くのアメリカの若者たちが実際にメキシコの砂漠に出かけて幻覚キノコやサボテンを採取しカスタネダの経験をたどろうとしましたが、ほとんど不発に終わっています・そのメソッドをクリアできる段階に達していない人たちは、結局カスタネダの書くものをフィクションとして片づけるしかなかったのです・精神世界のマスターたちの中でも本当に覚醒できていなかった人たちはカスタネダを否定しています・たとえばラジネーシなどはそうでした)

 

もちろんその方法も中に繰り返し書いてあるのですが、そこをクリア出来た方はあまりおられないと思います。

 

私たちはそれぞれの進化過程で、それぞれの段階で学びが違いますし、その方法も異なるのです。

 

ですからどんな方にも、どんな状況にも普遍的に適応出来る五井先生のお祈りを皆様にお勧めしているのです。

 

世界平和の祈りを一度や二度口で唱えることは簡単なようでも、実際に真心から生きて唱えられる方はそうはおられないはずです。

 

それでももし皆様に覚醒の可能性があるとするのなら、その糸口は間違いなくあの祈りにあるということは間違いないのです。

 

 

 

有難うございました

 

 

 

 

 

虚空蔵55

 

 

 

 

 

Ⅰの①、②、③への回答です 「この異様なエネルギーの枯渇状態から、私が魂的に今、学ばないといけないこと、気づかないといけないことがあるとしたら何なのでしょうか?」 ●肉体は有限です。 それはその通りで、いくら精神世界的に、宗教的に、 「人間は無限なる存在」 「人間は肉体ではない」 「無限供給の元となれ」 と宣言しても、あるいは思い込んでも、所詮肉体人間は「有限」なのです。 では何故古今東西の賢者たちは「人間は本来無限なる存在」と私たちに教えるのでしょうか。 人間は「無限なる存在」です。 しかし私たちは自分自身でその「無限」を信じていません。 あるいは自分をまったくの「肉体」とみなしています。 そこで先ほど書きましたが、いくら「肉体ではない」と思い込んでも、宣言しても、それは「思う」という肉体・思考(脳)の作業であり「宣言する」という肉体の発声動作でしかないのです。 Ⅱのメールについてです 「驚くのは、覚悟を持ってBBSに書き込むと これほどまでにエネルギーが与えられるんだ…ということでした」 ●この現象は実はあなたがこの宇宙全史にアクセスしたことで根源からのエネルギーを受け取ることが出来ています。 まだその場限りですが、それでもそれが無限供給の本源からのエネルギーを受け取るということです。 私が変化しつつありますので、宇宙全史の場も刻々変化しています。 それでもやはりあなたは今のエネルギーシステムを見直さないと、未熟なままでの宇宙全史からのエネルギー供給ではすぐに元の木阿弥になってしまいます。 それは生徒さん達からの依頼心に駄々漏れで応えてしまうという姿勢のことです。 どこかで自分は肉体だと思ってしまっているところがあります。 出来ないことなら出来ないとハッキリ思ってしまえばいいのですが、何か義務感があって「やらねばならない」みたいなものがあるからおかしくなってしまうのです。 あなたのやっているワークは「やりがい」でもありますが「縛り」のひとつでもあるのです。 ですからすべての依存心を受けてしまうということを課しているのもあなたのワークでもあるのです。 月読之大神 「それは縛ることでもありやりがいでもありっていうジレンマなんだろうね」 「二重の鎖なんだろう」 Ⅲについてです 非公開情報3(欠番補足番です)の顛末の収拾がまだついていません。 それゆえこの情報がいつ出るのかは確定していませんが、講師レベルの方の覚醒への道標としてはおそらくとても参考になる内容になってくると思っています。 それはあなたのⅢのメールの回答になると思いますので、なるべく早く書き上げたいと思っています(おそらくだいさんにも必要だと思われます)。 Ⅳについてです 質問① 「やはり、宇宙全史でエホバという存在の意味が明かされている今 私に起きたこの事象は、エホバを信仰している方のエネルギーを私が、直接受けたことで 何らかのエネルギーの差異が起こり 警鐘、警告として、このような 車イスに乗るほどまで歩けなくなるという 事象が起こった…と理解しても良いのでしょうか?」 ●その通りです。 これはあなたの守り…集合魂(守護霊達)がやっています。 ここには少し矛盾と思える部分があるのですが… 集合魂はそういうところと接触するのは甚だ危険だとは周知しています。 だったら最初からそういう所に行かないように指導しないのでしょうか。 それは「それも集合魂が望むところ」なのです。 つまり集合魂として薄い知識として知っているだけではなく、肉体という濃い経験を通して「学び」を体験したいというところが大きくあるのです。 あたないとってはいい迷惑でしょうが、危険を承知で飛び込んでいくのはそういうことがあるからなのです。 (歩けないほどのダメージは、あなたがとても敏感な方ゆえのものです) 質問② 「世界救世教をはじめ、そこから分派した真光や手かざし系のものもいくつもあるようですが、その浄霊といわれるヒーリングのエネルギーは救いとしてこれから機能していくものなのでしょうか? 主(ス)の神というのが信仰の対象のようです」 ●手かざしでありましょうが、お祈りでありましょうが、何かの儀式でありましょうが、何をやってもいいのですが、 「それを誰がやっているのか」 「その行為がどことつながっているのか」 この2点が問題です…しかしあなたはすでによく分かっているはずです。 まあ確認の作業なのでしょうか。 「役割ではない人がスキルを学んだだけでは、エネルギーワークやヒーリングは機能しない 返って危険…。この認識で違ってませんか?」 ●すべての人間が何かしらの「役割」を担っています。 「役割」を特殊能力の必要条件としてしまいますと、自ずとそれは「エゴを肥大させる」というカテゴリーに導かれていきます。 ですから「役割」があるかどうかではなく、宇宙全史の根幹に係わる本来の人としての有り様「心ある道を行く者」であるかどうかというところに帰結します。 ドン・ファンがいうには、 「何が心ある道かは分からなくても、それでもわしらは全力で、力尽きるまで心ある道を行く」 その覚悟がある方が宇宙全史の講師たる所以です。 宇宙全史の講師になれば自ずとエネルギーは降りて来るのです。 (「自ずと」とは何もしなくてもという意味でもありますが、中々そう単純ではないということもあります・それが非公開情報3の内容です) 「母に「人のエネルギーを受けるからやめた方が良い」と言っても、 母曰く「人をみてあげていない時の方が、返って調子が悪い…」とか言っています」 ●あなたのお母さんは癒す相手のエネルギーを使って直していますから、とても効率的なやり方でやっているので大丈夫なのです。 その人の本心(本体)への扉をほんのちょっとだけ開く技を持っています。 その瞬間にほんとに一瞬だけ根源からのエネルギーが流れ出し、それを使って癒していますし、自分も少しもらっています。 だからとても効率的なやり方なのです。 (扉をすべて開いてしまえばいいと思いますが、そこまでできる能力はないようです・でもそういうテクニックは持っています) 質問④ 「宗教である限り、大本はエホバに行く着くなら、手かざし系のものは、最終的にはエホバにエネルギーを収奪されていく、何らかの仕組みの一端と考えてもよいのですか?」 ●これはすでに回答してあるとおりです。 確かに陰始のシステムはこの世界を縦横無尽に埋め尽くしています。 それでもその中でも本当の「自由」を求めて、果てしのない苦闘の道を選択する人もいるのです。 それが「戦士」であり 「自由への旅人」であり 「心ある道を行く者」です。 虚空蔵55

 

 

 

仏陀はこの宇宙の64回の爆縮のサイクルのうち、確か34回(今手元にデーターがないので正確でないかもしれませんが、ほぼこの数字です)を監督としてやっておられます(仏陀は地球の総監督というだけではなく、宇宙全体の総監督でもあったのです)。

 

その仏陀の究極のテーマが一貫して「慈悲」でした。

 

今回の文明で多くの経典を残された仏陀ですが、それらをまとめて総括するならば、その真髄は「慈悲」なのです。

 

仏陀のすべての教え、すべてのメソッドの上にあるものが「慈悲」だということです。

 

それを五井先生が「宇宙全史」質疑応答2の中で教えて下さっています。

 

「慈悲」という言葉は私たち凡人には中々とらえどころのない概念かもしれませんが、その広大な流れに飛び込んでしまうのも一つのチャレンジかもしれません。

 

「戦士の生き方」と「慈悲」は全く違う概念のようですが、実はそこに流れる「非情さ」というベースでつながっているのですが、それはまたいつか機会があれば詳しくお話しいたします。」

地球と集合魂について 美しい約束

 

「大切なお知らせNO5
ちょっと間が空いてしまいました。
それなりの理由があるのですが、おおむね私の至らなさが原因です。
さて今回は五井先生という存在が残された「世界平和の祈り」という平易でありながらはかりしれない力を持つ祈りの秘密を開放していきます。
その前にひとつ明確にしておかねばならない世界構造があります。
それは「宇宙全史」第一巻ではある程度ご紹介しておきましたが、魂のありように関することです。
私たちの魂というものの定義は、あまりハッキリとはどなたもご存じないと思います。
どこの精神世界のカテゴリーでもキチンとした定義というものは書かれてないはずです。
それを宇宙全史では「集合魂」という領域にまで突き詰め明らかにしておきました。
①つまり「個人的な魂」・・・これが私たちの個的な肉体に対応する魂です。
これは肉体の上位レベルに魂魄体(こんぱくたい)、幽体、霊体(神智学言語で記述しますと、エーテル体・アストラル体・メンタル体・コーザル体となります が、メンタル体・コーザル体は霊界の下位と上位という区分になります)という身体があり、その身体に対応した主体がそれぞれ魂といわれるものになります。
たとえば本来なら肉体の魂はそのひとつ上の魂魄体にあり、そこからの指導が肉体を導くようになっています。
しかし学びが進化していきますと魂魄体の魂(指導)は、幽体の魂に、そして霊体の魂へと変遷していきます。
今現在の私たちは本来なら肉体の上位の魂(魂魄体)に指導を受けていなければならないのですが、実際は肉体そのものの主体(エゴ)の思うままに動いてしまっているというのが現実です。
ですから少しでも上位の指導を受けやすくするために、エゴを薄くしていくという作業が切実に求められているのです。
②「集合魂」レベルの魂・・・さてお話しましたように個的な魂は様々なレベルがあるのですが、そうした個的な魂の似通ったもの(性向性が同じもの)が集まってひとつのまとまった集団になっているのが集合魂と呼ばれるものになります。
その集合魂がこの地球界の生命構造の基本となっていることはやはり「宇宙全史」第一巻でも書いておきました。
そしてその集合魂は霊界の上位レベル・6次元界(阿頼耶識界・あらやしきかいともいいます)に存在しており、そこから私たちは地上に肉体として降りてきています。
ここまでが「宇宙全史」第一巻での記述でした。
そしてここからが新しい魂の構造なのですが、やはりあまり簡単に書くことは出来ないのですが、現状やむを得ないないので書いておきます・・・本来はかなり複雑にオーム宇宙の構造と結びつた概念となっています。
まず皆様にとっては考えづらいかとも思いますが「集合魂は一個の魂とみなす」という構造をイメージしてみてください。
逆にいますと私たちの個的な魂とは「集合魂という一個の大きな単位から地上につかわされた(送り込まれた)ひとつの特徴ある部分(形質)である」ということなのです。
このイメージはエゴ(表面意識)には中々受け取れないかもしれませんが、実際はそうなのです。
本来ならここでカスタネダ描くところの「イーグル」と呼ばれる私たちが死んだ時に吸い込まれていく(食べられる)巨大な存在のお話が挿入されるのですが、今は煩雑になるので飛ばします。
つまり私たちは「集合魂」と呼ばれるひとつの構造物の一片(小さな部分)にしか過ぎないということです。
まずはここを理解しておいて下さい。
③「集合魂の上位の魂」・・・これが私たちのワークでは初めて出てくる構造です。
現在述べている情報は本来「宇宙全史」の本文で語られるべき内容です。
そのため付随する詳細な補填文章が必要ですが、緊急事態のためにかいつまんでお話しております。
そのことはよくよく頭に入れておいて下さい。
集合魂の上位にある魂とはどういうものなのでしょうか。
一言で申し上げますと「地球の魂」といえるかもしれません。
「地球の魂」・・・それは地球という惑星を含む、そこに生存するあらゆる生命の総体が帰り着く、あるいはそこから派生した源ということでもあります。
「宇宙全史」第一巻で詳細にお話しましたように、この宇宙の各方面から集められ、集まってきた私たちが、地球で学ぶということを始めるにあたってひとつの目的集団としての魂に帰属してしまうのが理(ことわり)になるようです。
その根源的な魂から各集合魂が派生し、そこからまた個々の魂が地上に降り立つという図式になっているのです。
(いいかたの問題ですが、その地球界の根源的な魂から集合魂が派生したのか、集合魂がさらに集まって根源的な魂に統一されたのかは定かではありません)
以前ここで私に五井先生が「美しい約束」という言葉を降ろされたことがありました。
その「美しい約束」の詳細はいまだ不明ですが、その約束はこの地球界の根源的な魂と交わされたものだということです。
そして世界平和の祈りは、この約束を元に、この約束を成就させるよすがとして地上に降ろされたものでもあったのです。
JUMU(じゆうむ・自由夢・・・「宇宙全史」第一巻参照)はこのワークではよく登場してきますがエル・ランティやサタン、それに世界中あちこちで出てく る多くの神々たちが皆様方を導こうとして努力していますが、それは阿頼耶識(6次元)界以下のカテゴリーでのお話なのです。
(JUMUという組織が中々ご理解いただけないようですが、これはある意味地球界における政治団体・・・国連組織のようなものだとお考えください。もっとも彼らが地球界の魂たちから選挙で選ばれたということはなく、自薦でみなJUMUに入ってきていますが)
たとえばエル・ランティは皆様を救おうと日夜努力していますが、その「救い」は、彼自身が神(全知全能)になることで成し遂げられます(彼はそう信じています)。
ですからまずは自分がエネルギーを得る、力を得るということを最重点課題に持ってきています。
そのためにはすでに書いておきましたように様々なことをしでかしています。
たとえば地球界での最大勢力となるために、地球に来た時にパイトロンというマシンで部下の魂を出来るだけ細かく分断、分解しています。
エル・ランティはJUMUの一員ですが、そこで主導権を得るには最大派閥になることが必要なのです。
どうやらむこうでも地上と同じく多数決の原理がまかり通っているようです。
そこで彼は手っ取り早く付き従う者たちの魂を分裂させて数を増やしたということなのです(もちろん分断された魂がどうなるかは彼の知ったことではないようですが)。
そうすることで彼が力を得る・・・つまりは神になるということにつながると思っています。
この地球界の3分の1の魂は、そういうエル・ランティに付き従っている、彼を信奉しているというのが現実です。
他の神々もまったく同じとはいいませんが、ほぼどんぐりのせいくらべ状態です。
それはまた6次元以下のレベルでの抗争・勢力争いでもあるのです。
そのレベルにはいまだ力、形、欲得、自尊心というものが幅を利かせています。
そこに多くの存在がアイデンティティ(存在意義)を見出そうとしていますし、生き甲斐ともしているのです。
私たちはすべからく学ぶということによりその領域を脱する宿命を負っていますが、あくまでもその領域の中での学びでもあるということがあります。
しかし五井先生の「美しい約束」は、そのカテゴリーをはるかに越えたところで交わされた約束であり、地球界における真に純粋な祈りでもあったのです。
ですからその祈りを私たちのエゴが判断する限りは、どこまでも理解できない「そんな祈りがなんになるのか」という理解しか得られないようになっています が、五井昌久という存在にスッと素直に入っていける方にとっては、形(力やお金、地位や名誉、美醜もそうですが)しか見えない世界、弱肉強食の世界、後生 大事に自尊心だけを握り締めている世界などからの脱出するためのメソッドとエネルギーが手に入れられるチャンスになるのです。
(少しフォローしておきますと6次元以下の世界であってもエル・ランティの存在のようなものばかりではなく、その範囲の中で(皆さんの欲望の中で)の願望 をかなえることで上の世界の恩寵(おんちょう)に気づかせるというやり方をしておられる方たちもたくさんおられます。問題はそれがどこでそういう存在とエ ル・ランティたちのような存在とを見分けるのかということですね)
今回この宇宙が終わるにあたって、皆様の最終学歴は「人(他の存在)のために祈れるか」というところにあります。
そしてそれがエル・ランティのような存在と本当の慈悲心を持った存在とを見分ける鍵ともなっているのです。
少し長くなってしまい私の今夜の時間が切れてしまいました。
以下・次回
お付き合い有難うございました」

                                                                             

                                                                        

 

それともう一つ、非公開情報No/8の御教示が大変勉強になりますので、非公開情報ではありますが、私へいただいた御教示であることに免じて、掲載をお許し下さい。

                                             


「これをご覧になっている皆さんは普通の方達と異なり一般的な「転生輪廻」という概念をある程度理解されているようですが、その場合の転生輪廻する特定の個人という存在はもはやあり得ないと明らかにしまし た。

                                      

それでは「今ここにいる私」は何者で、死んでしまったら一体どこに行ってしまうのでしょうか。

                                    

①死んで間もなく大きく二手に分かれます。一つは大したカルマも積まずにそこそこなお勤めを果たし、無事あの世に戻った方は、そのままお仲間の待つ集合魂へと戻ります。戻るとほぼ集合魂の中に溶け込み、その人生で得た情報や経験、カルマはすべて集合魂全体のものとして吸収されます( ここでお仲間とはいいましたが、実際には個々人のお仲間がいるわけではありません)

                                     

②もう一つはとんでもない人生をおくる羽目になり、集合魂のカルマの償却どころではなく逆にカルマを増やして散々好き勝手してあの世に戻った場合です。この一定以上のカルマを増やしてしまった魂はスムースに集合魂には戻れず、特定の場所( 一般には地獄とか幽冥界というような暗く重い波動のゾーン) に留まり、一定レベルの気づきが得られるまでそこに滞在することになります( この場合でも集合魂からは、何とかその境涯から助け出そうとフォローの友軍が行くのですが、それに気づけばまだいいのですが、ほとんどが気づくこともなく時間を無駄に過ごしています。この場合でも五井先生にご縁のある方は事情が異なり、格段に早く気づくよすがが与えられることになっています)

                                      

ここでは① の集合魂に戻った個人の魂のその後の行く末を追っていきます。

                                     

①集合魂は同じ仲間の私たち一人一人の魂が集合した個的な魂の集団塊のように考えてしまうが、本来それは一つの大きな生命体であると考えることが出来る

                                    

②その大きな生命体が地上での学びを画策する時、自らを小さく分散して地上に降りて行き、それぞれの人生をおくり、そこでの学びを再び集合魂に戻って共有するということが「効率的である」という理由で一般的なシステムとなっている

                                    

③つまり地上にある人間の個的な魂というものは本来なく、そこにあるのは集合魂( 大きな生命) から放たれた小さな分割された生命である

                                    

④地上にある時は例え小さな生命といえど自我( エゴ) を育成し「我ここにあり」という自覚を持つが、それはあくまでも仮のもので、集合魂という大きな生命体に吸収されればいわゆる「宇宙との一体感」のような「本来の我が家に戻った」感を得、充足に入り、個的な自我はほぼ消えていく

                                    

⑤しかし個的な魂が地上で学んだことや逆に積み重ねたカルマは共に集合魂の内部に情報として保管され、いつでも取り出すことは出来る( 保存される)

                                   

⑥その情報を元に「全く同じ人物( キャラ)• 人格• エゴ」が再びつくられ地上に戻すということはほぼない

                                   

⑦まったく同じ魂を再生して地上に戻すということはタイムパラドクスを起動してしまうので( それは防ぐ方法はあるのだが莫大なエネルギーを要する)避けられている

                                    

⑧実はこれまでの地球で極わずかにそういう例はあるのだが、今のこの地球の時空間に大きな影響を及ぼすので教えてはもらえない

                                   

⑨人間( 魂)とは情報で出来ている。そしてその情報は記憶に由来する。つまり人間とは「記憶」である。記憶がなくなれば人間は死ぬ。その記憶とは思考レベルの単純な時系列経験のような記憶から、肉体(DNA や臓器類他) が持つ独自の記憶、さらに潜在意識以下の精妙な波動の記憶も含まれる

                                   

集合魂に関わる情報はまだまだ数多くあるのですが、ここでは「個的な魂と集合魂の関係性」という点にフォーカスしておきます。

                                   

私がこの宇宙全史のワークで感じることは、多くの人たちは精神世界において「エゴを薄くしていく」というワークの重要性を認識していないということです。
精神世界に足を踏み入れたにもかかわらず、相変わらず「自己の目先の利益」「社会的なステイタス( 教祖のようなものになってみんなから尊敬されたい)」「超能力を手に入れて人より抜きんでたい」「お金を増やしたい」果ては「選挙に出て当選して社会を変えていきたい」等々ですが、それらはすべて精神世界の有り様ではなく、通常の人間社会の価値観に基づく思いであり、行為です。
エゴというのは「欲望にもとづく思い」ですから、「欲望」を薄くしていけばいいわけです。では欲望とは何かといいますと「欲望とは肉体に関わる、肉体より派生する願望」といえます。

                                    

私たちはこの世に生を受けて、この世界で生きていくためまず覚えなければならないのは、

                                    

①肉体を維持するための方法を学ぶ( しゃべる、歩く、食べる等々ですが、自らを傷つけるものから逃げる、避けるという行為もこの時学んでいきます)

                                   

②肉体をとりあえず維持できるようになると、次に人間社会において波風なく生きていけるようにするため「社会性」を学ぶようになる。この「社会性」とは家族との関係から始まって、学校の先生や生徒間、近所づきあいから会社での上司等との関係性などです

                                   

③思春期に入っていくと「性」に関わる欲望が大きくなり、あらゆる思考、行為の根底に「性への渇望」が秘められることになります( 恋愛ももちろんその一種です)

                                    

④そうしたことを学んでいくうちにやがて肉体は「もっと楽しみたい」という欲望を発していきます。
それが「趣味」であり食べ物やファッション、芸術への「嗜好」という一段高度な欲望へと変換されていきます

                                   

こうした欲望はエゴを形づくり、エゴは人格を形成していきます。そしてそこに明確な「私」が存在する(見える)ようになるのです。それが「我ここにあり」という人格を作り上げてしまうのです。                                   

                                                                                                                              

ただ① と②の間くらいに「愛されている」「必要とされている」という感覚を与えられていないと、全うなエゴ形成がなされず、成人してからも反社会的な人格のまま生きていかざるを得ないということになります。

                                    

さてこうして人間にはエゴ(自我)が形成されていき、それは人間社会で生きていくにはある程度役には立つのですが、それはあくまでも「人間社会の中」という非常に狭い限定された中だけで通用するチケットになります。
ましてやこの地球という「宇宙のクズの集まり」と規定される社会ですから、いつまでもそこに留まるということは本来の進化において停滞を招くことになります。そこでそこから抜け出て新たな境涯に脱出するためには、まずこの社会で自らの身を守る「殻•プロテクタ—」になっていた「エゴ」を脱がなければならないのです。
しかしあまりにも長い間「エゴ」を纏っていたため、エゴと本来の自己との区別がつかなくなってしまっており、「エゴを薄くする」という行為が「自分をなくしてしまう」という認識と重なってしまい中々出来ないようになっています。
それでも「エゴを薄くする」というステップは必須のものであり、覚醒(離脱) を求めるならば決して避けては通れない関門なのです。
またエゴは基本的に肉体の欲望から派生していますから、その欲望を打ち消していかないとエゴも薄くなっていきません。一般人にとってそこが最もとっつきにくい部分で、美味しい食事を制限したり、美しい女性とお付き合いできなくなったり、好きなギャンブルも出来なくなったりと中々受け入れることが難しいように出来ているのです。
ただ本当にもう覚醒するしかない、次の段階に行くと決めた人にはそういう欲望自体が次第に薄くなって いくことも事実です。
肉欲も食欲も世間様の様々な楽しみも味わっていきたいと思っている方には「エゴを薄くしていく」という方法論はまったく適応されませんし、そもそもそういう気にもならないでしょう。
「エゴを薄くしていくと集合魂との同通が出来るようになる」
エゴを薄くしていくと今までブロックとして機能していたものがなくなったので集合魂や守護霊との同通が出来るようになつていきます。
そこで初めて「自らの天命」や「正しい生き方」という指針が正確に理解できるようになります。その境涯が進みますと「一般社会への興味」が次第に薄れていき、隠遁生活とまではいかなくても、一歩も二歩も世間からは身を引いて、新しい世界に適応できるような準備を始めていきます。
こうして個我が集合魂へ帰る日が近づいていきます。
しかしエゴが濃くある人にとっては「集合魂の中に溶けていく」というイメージは「自らが消えてしまう」「無くなってしまう」という恐怖感を強く持つので、こうした過程はスムースには進まないでしょう。

                                   

ここではどっぺんさんの例をとって精神世界ではあまり馴染みのなかった「集合魂」の有り様とエゴを薄くするという精神世界では必須の階梯について説明してきました。

ニサルガダッタに関する

 

「2020/1/7 No.424宏史様での御教示

「⑫ 宇宙全史1のP54のニサルガダッタ様の言葉で
「しかし認識そのものも実はないんじゃよ」
とありニサルガダッタ・マハラジ様の本を読んで疑問に思ったのですが
認識以前の「それ」はどうやって「それ自身」に気づいたのでしょうか?
認識がないなら気づきようがないのではないのかと不思議に思います。
そもそも一体何が「それ」に気づきをもたらしたのでしょうか?
考えれば考えるほど不思議で答えが出ません。
「それ」は「それ自身」に気づいてはいません。
「それ」に気づくには、「それ」から離反する以外にないのです。
ニサルガは「それ」が「それ自身」を認識しているとはいっていないはずです。
「それ」に気づくのは、完全覚醒した「私」です。
ここで思い出して頂きたいのですが、ニサルガの実存は月読之大神が確か「過渡期的なもの」とか何とか仰っていましたよね。
今正確な言葉が思い出せないのですが、あの時のニサルガの境涯は、真我そのものではなく、そのほんの一歩手前にありました。
例えばEOはその3歩手前位で、どっぺんさんは1000歩手前位の関係性です。
しかしEOくらいになりますと、そこはもう完全覚醒者としての位置づけに入ってしまいます。
そこで再度確認しますと、「それ(この場合は真我です)」に気づいているのは、確かにニサルガですが、そのニサルガは「ほぼ真我」の状態のニサルガなのです。
この「ほぼ」が「それ」に気づいているのです。
しかし完全に真我に入ってしまいますと、その認識はもちろんなくなります。」
「2016/11/5 No.3207 ワンオーワン様での御教示
「意図」は思考の産物ではないということから、少なくとも二元性の範疇に属するものではないことが推察されます」
●確かにその通りなのですが「意図」は地上ではあなたのいうように、辞書的な意味では「思考」の「おもわく」「もくろみ」としても使用されています。しかしここではもう少し上の段階における「意図」を使用しています
「「意図」は思考の産物ではないということから、少なくとも二元性の範疇に属するものではないことが推察されます」
●そうでもないのです。「意図」は意識から出て来るもので、その時点で既に二元性を持っています。ギリギリ二元性を発現していないのが「意識」です
「以上から「意志」とは「実存」から発現するものであるということのようです」
●まず「実存」とは「真我」と「生きる世界」の境界線上にある境涯です(これはちょっと難しいので「宇宙全史」第二巻をお持ちください)。「実存」から「意識」がほとばしり、「意識」から「意志」が生まれています
「「意識は至高なるものの身体だ。至高なるものは意識しないが、それが意識を発現させるのだ。」(13「至高なるものの、マインド、身体」より)」
●確かに意識は至高なるものの身体ですが、その前に至高なるもの(真我)から意識というエネルギーが出て来るのです。そしてそこ(意識)から意志が発現しています」
「ニサルガダッタの「私は在る」という本の中でmasa様と同じような質問をニサルガにしておられる方がいます。
その質問にニサルガは「その戦争はあなたの世界にあるだけで、私の世界にはない」と喝破しております。
しかしその質問者は「あなたは今現在多くの罪のない子供たちが戦争の犠牲者となっているのをただ見過ごしているのですか」とつめよります。
さらに「私の世界に戦争はないとおっしゃるが、あなたが知らないだけで今日も世界のどこかで多くの子供たちが死んでいるのです」
とたたみかけます。」
                                   
「さて私はどうしたらみな様方にニサルガの言葉を理解していただけるでしょうか。
実はそれが「宇宙全史」の内容でもあるのです。
JUMUとこの世界の深遠な構造についていろいろうかがっていると、突然ニサルガダッタが出てこられて、
「認識があるから対象があるんじゃよ」
「認識がなければ対象(世界)もない」
「しかし認識そのものも実はないんじゃよ」
でお話がすべて終わってしまうのです。
なんと「宇宙全史」はわずか3行でおしまい・・・なのです」
「またニサルガは知恵というより叡智で覚醒をとことん求めた方でした。
彼の過去世を確認いたしましたら「ただの親父だよ」とおっしゃっておられましたが、実際はやはりチベットあたりのマスターで、ひたすら瞑想に瞑想を重ね「実存」を求め続けておられました。」
「書いておかなければならない一節があります。
それは「宇宙全史」シリーズには「時間」という本もあります。
そしてその担当者はなんとあのニサルガダッタなのです。
ニサルガをご存知の方は「二元性を超えた方がこんなプロジェクトに参加して来ないでしょう」
とまずお考えになるでしょうが、今回のプロジェクトで一番気軽に来てくださるのがこの方です。
二元性の秘密は彼の日本における唯一の書籍で散々明らかにされていますが、
それでもそれによって覚醒したという方を私は知りません(私が知らないだけかもしれませんが)。
覚醒の途上で頭脳に変化をもたらしたニサルガの文章をほとんどの方は理解できないのでしょう。
私は彼があまりにも頭がよすぎるのでその質問を直接してみました。
すると彼がいうには「師のいうとおりの修行をしていく中で自然に脳の活動領域(特に思考)が3倍になってしまった」
そうなのです。
あのニサルガの本の中でどんな難しい(ほとんど難題に近い)質問にも、
当意即妙で自然にスラスラと考えられないほどその場に合った深遠な答えを出しておられた彼の頭脳はすでに人類のものではなくなっていたのです。
「時間」は、その解読書、昔風に申し上げるなら分かりやすい「あんちょこ」のような感じになると思います。」
「他の方からも同じようなご質問が来ておりますが、「より効果的な方法」などというものは存在しないのです。
唯一申し上げられるのは「ただひたすら一心に祈る」それだけのように思います。
ただひたすら「世界平和の祈り」を祈る・・・それが秘訣だとお分かりになれば、どんなに安らかでしょうか。
エゴは奇妙な呪文やおどろおどろしい儀式、通販で買えるそこそこ高い(しかも色々うわさになっていて本にも書いてある)グッズが大好きです。
あるいはもう少しまともな方は、自らの力で修行をするということを好まれるでしょうか(私などはそうでした)。
実際私は現在もそういう形になっていますが、その実態は「エゴを放棄し、深い祈りと一体になる」というものが求められます。
私の修行は誰にでも出来るという形ではないようなのですが、それでも祈りという共通項はすべての人類に当てはまるのです。
回り道しても結局たどり着くのは(たどり着けたとしてですが)祈りなのです。
この世界からの脱出口は、ドン・ファンのメソッド、ニサルガダッタの叡智、仏陀の慈悲、インドの聖者たちの教え、クリシュナ・ムーティの透徹した洞察などなどたくさんありますが(皆様方の場合は)そこ(祈り)にしかないとお考え頂いていいと思います(ある意味五井先生のお祈りは、仏陀の慈悲の延長上にあるものですが)。」                        
                                              
                                  「心構えなどないのです。
まずその「(何か他のものがあるのではないかという)心」をなくして・・・それがただ「ひたすら」ということなのですが・・・祈ってみてください。
「自分には何かあるはずだ」
「もっと何か他にやり方がないのか」
「自分は人と違う役目がある」
「せっかくここのサイトを見ているのだから、誰も知らない(秘法のような)方法を教えてほしい」
「こうして精神世界に目覚めたのは、自分に何か役目があるはず」
そんなものはないのです。
いやあるのですが・・・「今あるあなたがそれ」なのです。
もしあなたが救世主ならすでにそういう形が自ずと現れています。
あなたが世界なのですから、まずあなたを救ってください。
「今を100%で生きる」
「100%で生きるとは完璧に生きるということではなく」
「今を100%で生きるとは、直後に死んでも悔いがないという生き方です」
今のあなたがすべてなのです。
そこをどう生ききるかということが今求められているのです。
祈りにすべてを注ぎ込んでください。
そしてそれがどういう未来をあなたにもたらすかを、ただ見ていてください。
あの単純なお祈りの文言がどれほど大変なものか、五井昌久という存在がどれほどのものかということを知っているのは、今地上ではおそらく私一人だと思います。
私の役目はただそれをお伝えすることだけなのです。
そのために色々回り道はするでしょうが、
他には何もないのです」
「No.1078 ミシェル様
「覚醒した人と無明の人とは、海で泳ぐ魚と陸に上がれる両生類程の違いがあると思っていました」
まさにそのとおりです(本当はもっと差がありますが)。
「覚醒の基準、種類・段階がグラデーションになっているということは無明と覚醒に境目・壁がない、であれば、日々エゴに陥らないように意思しつづければ、 より覚醒の度合いが高い状態になっていくはず」
ここが少し違っています。
確かに覚醒の基準・段階はグラデーションになっていますが、それが「無明と覚醒に境目がない」ということはないのです。
各々の段階、各々の覚醒に応じて、覚醒した前と後では大きな‘(精神的にも肉体的にも)変容があります。
「日々エゴに陥らないように意思しつづければ、より覚醒の度合いが高い状態になっていくはず」
これも理屈的にはあっているようですが、実際は「あなたご自身がエゴそのもの」ですから、エゴがいくら意思し続けてもエゴに気づくよすがはありません。
そこには「いったんエゴから離れる」という術(すべ)が必要です。
それが、
あらゆる「感謝」
五井先生の「祈り」
ドン・ファンの「戦士の生き方」
ニサルガダッタの「透徹した明晰さ」
などです(もちろん他にもたくさんありますが)。
どれを選択しても自由ですが、多くの方に適合するのは「感謝」と「祈り」でしょうか。
エゴの強力な方は、中々ここから始めるのが難しいかもしれません。
「自分はドン・ファンでいってみよう」「私は二サルガの叡智が好きだわ」などとチャレンジされるかも知れませんが、エゴを抱えたままでは絶対にその段階を クリアすることは不可能なのです。
「自分はまわりの多くの方たちの一人で特別な存在な訳はないと頭では分かっているのですけれども、いまのところ、心情的になかなか腑に落ちません」
人はどんな方でも特別な存在であり、皆オリジナリティをその存在の根源に有しています。
ただ表面意識のエゴの層において大概の人間は、ほぼ同じ反応、同じ生き様、同じ感覚、同じ行動様式で生きていますが・・・。
エゴの生き様こそ全く特別な存在ではないのですが、それこそが特別な自分だと思っているところにエゴの愚かさがあるのです。
「大海の一滴」とは無味無臭、没個性ということではなく「あなたはすべてとつながっているよ」ということなのです。
私たちは「エゴ」という奇怪極まりない構造により、世界と切り離されて生きているといつの間にか思い込んでしまっています。
いつかもう少し詳しくここら辺りをお話ししてみようと思います。
有難うございました」

こどもを産むとエネルギーを収奪される

人類の今回の文明(約12,000年前に始まっています)における基本的な教えのすべては、仏陀によってもたらされています。
あのニサルガの実存に至った覚醒さえも、仏陀の教えの中に包含されていました。
しかしその教えのすべてをマスターし、人々に正確に伝えることができた人物は一人としていなかったのです。
そこで仏陀亡き後、弟子たちは結集して各々の得意分野だけを後世の人々に伝えていくことにしたのです。
それがのちの仏教の各宗派となっていますが、あらゆる宗教、精神世界は大きく分けますと以下の3つになります。
①人間を守護する諸天善神(守護霊や守護神も含まれます)にその身を全託し、その加護と恩寵によりカルマ(エゴ)を軽くし、天命を全うする
②この世界の構造を解明してその虚構を明らかにし、マーヤ(幻影)から目を覚ます
③現実世界に隠されている秘密のエネルギーを見つけ、現象界において生身のままで自由と叡智と力を獲得し、さらに力を蓄えたものはこの地上界からさらなる自由を求めて旅立つ
これが仏陀の基本的な教えですが、①がイエス法然などが説いた祈りの教えとなり(イエスは時間的に仏陀より少し過去の方ですがカテゴリー的にはここに入ります)、②がインド系の覚醒メソッドや禅になり③が密教になっています。
もっと細かく分けることもできますが、基本はこの3つです。
そしてこの下のNo232に書いた①カルマをクリアする②ニサルガのやり方③ドン・ファンのやり方・・・に対応します。
①と③はそれぞれかなり特殊なやり方で、普通の人々には中々適応できないメソッドになっています。
そこで観音系の道筋として①の大多数の方たちが行じる事ができる救いの道として「祈り」の形を教えているのです。
もちろんどんな宗教にも秘教というジャンルは残されていて、特殊な才能のある人や力のある人にはそういう道筋も残されています。キリスト教イスラム教の中にも、そうした秘教といわれる特殊な道筋を求める宗派は存在しています(特殊といいますのは、大多数の人たちから見た場合のことで、本来はそちらの道筋の方が本道ではあるのですが)。
今回の文明ではイエスが西洋文明の浄化と基礎、仏陀が東洋文明の浄化と土台、そして地球界全体における二極化の確立、五井先生が終末期における最終調整(反転)をしておられます。
エスにおいては当時の西洋文明では、あれ以上の難しいことを説いても到底理解してもらえなかったので、平易な言葉や現象(奇跡的なこと)で人々を教え導くことしかできなかったのです。
しかし仏陀の場合は、インドという土壌にはすでにごく一部の人にではありますが、ある程度の実存への覚醒という道筋ができていて、また仏陀生誕に合わせて、それなりの弟子たちが生まれても来ていましたので、今回の文明の土台となるような法を説くことができたのでした。
さてこの仏陀教えや仏陀ご自身のことは、いつかまたどこかで詳しくお話しすることになるかもしれませんが、ここで改めて仏陀の教えの立ち位置を確認したのは、地球というこの宇宙の総決算である実験場における総監督としての仏陀の教えを再検討したかったからでした。
少しややこしい言い方になっていますが、それでは具体的に何がいいたかったのかをご説明してまいります。
地球界における覚醒・解脱・卒業の在り様②に続く
地球界における覚醒・解脱・卒業の在り様②
このシリーズは少し長くなりそうなので、先に右のNo1596のメールへの返信です。
(実は掲載しておりませんが、あのメールの後にもこの方から何通か送られてきていました)
これには五井先生がお答えになっておられます。
まず五井先生から
「この方に特定したことではなく、祈りを求める人たち全般にいえることだけどね」
という前置きがありまして、
「自分の内にある神、尊い存在というものを、まず素直な心で信じるようになること・・それが大事だね」
「個々人に必ずついておられる守護霊や守護神など、自分を守って下さる存在への、自分自身の清らかさ、清廉潔白さというもの・・・信じるために自らの「行い」「祈り」というものには、いつも目を見据えていかなければならないね(注視するというお言葉が同時に来ています)」
「まず祈りがあって、その先にそうした自らの清らかさというものが求められる、祈りの先にあるもの」
「これをずっと保つことが難しい」
「求めるのはいいのだけど、やはりいつの間にかおごり高ぶったり、浮ついたり忘れたり、やはりどこかで慢心というか、それが湧き出てくるのが、まあ、あなた達だからね」
以上が五井先生の言葉ですが、五井先生にしては中々厳しいお言葉です。
でも個人に向けたお言葉ではないと最初に断わっておられるところが、やはり先生のやさしさでもあるのでしょうか。
いずれにせよ、まずは祈りを求めること、しかしその先にある、世界平和を祈るものとしての自分自身の清廉潔白さというものが厳しく求められるのだという意識を、私たちは常に保つことの大事さを教えていただいています。
現在まんだらけでは会社説明会のビデオに使用する社歌を作っています。
これは昔からある「ズンドコ節」をカバーしたものになるのですが、この「ズンドコ節」は、いつ誰が作った曲なのかはわかっていません。
有名なものは「ドリフのズンドコ節」や「きよしのズンドコ節」などがありますが、一般には戦争中に海軍で作られたのではないかといわれている「海軍小唄」が源流とされています。
ドリフのものも「ひかわのズンドコ節」もこの「海軍小唄」から多少編曲してカバーしています。
そこで今回少し調べてみることにしました。
この唄の作者はM・Kという学生さんでした。
出身は門司で、福岡の学校にいる時に作っています。
当時彼は22歳でバンカラといいますか、洒落っ気のある粋を気取った学生でした。
この時はまだ戦争が始まっていなくて、その前夜という感じの時代で、大正とはまた違った「ワクワクするような」進取の気があふれている時代でもあったのです。
しかし戦争が始まってすぐにM・Kさんは学徒動員で中華・満州方面へ派遣されていきます。
そしてそこで(数えの24歳の時に)戦死しています。
彼は陸軍でした。
しかし彼の作った唄は海軍で広まり「海軍小唄」として歌われ続けていきました。
何故でしょうか。
実は陸軍に配属される前に彼は予科練に行っています。
そこから本来なら海軍航空隊に入るはずでしたが、なぜか陸軍に回されています。
その予科練で知り合った友人が海軍に入り、彼らがこの唄を海軍で波及させています。
当時の日本海軍は陸軍と比べてわりあいリベラルな雰囲気で、そういう唄を歌う余裕もあったのです。
なぜここでイニシャルだけのM・Kという表記しかしないのかといいますと、彼がものすごくシャイな方で、どうしても「勘弁してくれたまえ」とおっしゃるのです。
この唄は戦前から日本の土着のリズムとして、漁師や炭鉱労働者の中では歌われていたものでした。
しかしそれはあくまでも歌というよりリズムといった感じのもので、ここまで秀逸な曲に仕上げたのは彼の功績でした。
M・K作詞作曲
汽車の窓から 手を握り
送ってくれた 人よりも
ホームの陰で 泣いていた
可愛いあの娘が わすられぬ
一部ですが掲載させていただきました。
マイナーな曲調の中にテンポのあるリズムで「大日本帝国万歳」という時代に、はかない恋心をサラリと歌いきっています。
モダンでシャイでハイカラな彼でしたが、実際の恋は片思いに終わっています。
お相手は「深窓の令嬢」で、身分違いの恋でしたが、何も打ち明けられないまま戦場に散っています。
そしてその彼女も他の男性と結婚はしますが、結局戦争未亡人になっています。
中華戦線では苛烈な戦闘が続いていました。
そんな中彼の生き様は、上の方がおっしゃるのには「生き汚くないよね」という表現をされます。
よく「いぎたない」という表現を古い方はされますが、これは昔から「寝穢い」と書くのですが、本当の意味は「生き穢(きたな)い」、つまり見苦しい生き様をいいます。
戦場では彼の上官の中には、部下を見捨てて逃げたり、銃弾の盾に使う者もいましたが、彼は命のかかった戦場でそういう状況を見ても腐らず「生き穢くなく」戦い死んでいったのです。
M・Kさんの最後の思いです
「あっけなかったなあ」
「・・・お母さん・・・」
植芝先生や五井先生はこういう方がお好きなようです。
この宇宙全史のワークでは、どうしても彼の名前がほしかったので教えていただくようにかなりお願いしたのですが、初めは「門(かど)・・・」といいかけたのですが、それっきり黙ってしまわれました。
しつこくお聞きすると、最初に書きましたように、
「勘弁してくれたまえ」
「一人の名も無き防人(さきもり)だよ」
と困ったようにいわれたのです。
そこでイニシャルだけお願いして掲載することにしました(どうも当時イニシャルというのはカッコいいもののようでした・だからOKが出たのかもしれません)。
私たちは地位や名誉、自分の(ありもしない)功績や(大したことのない)知識に、何故かわけのわからない自負心を持っています。
「宇宙全史」を少しかじっただけで、大して理解もしていないのに、狭い了見の知識を繰り広げて大盤振る舞いをしてしまうのです。
古の時代に名を遺した方もいれば、無名のままに自らの功績を誇ることもなく、消えていった方も多くおられました。
そういえば「宇宙全史」第二巻に出てきますが、佐々木小次郎に剣を教えた先生もやはり無名(名を絶対に名乗らない方)でした。
共通するのは「恥を知る」「云わぬが花」という本来の日本男児生き様でした。
五井先生が求められていたのは、チマチマした世間体や知識のひけらかしではなく、自分自身の神性に対してどこまで清廉潔白であるかということです。
そこには外に向けて表明する何の主張もなく、何の迷いもない自分を信じる姿勢しかないのです。
カッコいいということを(人に見せるために)外に表明するのではなく、自分の中に表明すること(自分の中でカッコいいということ)、だから生き死にの戦場でもカッコよく生きられるし、死ねるのです。
世界平和の祈りはイントロ(導入部)は易しいのですが、その求められているものは大きいのです。
さてそれでは本題に入っていきます。
前回に今回における文明の法の基礎は仏陀が敷かれたとお話ししました。
のちにそれは細かくカテゴライズされて(各宗派に分かれて)散らばりましたが、それでも何とか現代に伝えられています。
しかしそれとは別にこの地球上には、人類が学ぶべき地上界の法則というものから外れた奇妙な教え(情報)が存在していました。
「宇宙全史」第一巻で書きました「恐竜人間」のお話は、そこに私たちのワークがたどりついたとき五井先生は、
「知ってしまったのか」
というお言葉を漏らされました。
それは今の段階の人間が「知るべきことではない」「知ってもどうしようもない」「理解できない」そういう想いがこめられていたのです。
ここでは恐竜人間というはるか昔のお話ではなく、もっと皆様に身近なたとえで解説してみます。
それは「子供を産む」という行為の中にある、知らなくてもいい情報です。
実はだいぶ前にこのBBSでもお話していましたが、おそらくどなたも意に介しておられなかったのだと思います。
それほど一般人には理解しがたい話なのです。
それはその情報が問題になってくるのは、かなり段階の高い覚醒を目指す者だけに限るからです。
たとえば(これも書いておいたはずですが)2003年に世界記録を出し、いまだにその記録が破られていないイギリスの女子マラソンランナーのポーラ・ラドクリフですが、彼女は2007年に出産した後はあまり芳しい成績を出していません。
もちろん原因は子供を産んだことだけではないのですが、最も大きな一因が出産だったことは間違いないのです。
男性でも女性でも子供を産む(もうける)ということは、その子供に生来持っているある種の貴重なエネルギーを受け渡すということになるのです。
ドン・ファン流にいいますと「腹にぽっかりとまっ黒な穴が開く」という表現になります。
そして2人3人と産んでいきますと、そのお腹には黒く重なった複数の穴があき、ひどい人は一つの大きな黒い穴のように見えるのです。
ラドクリフの場合は「忍苦」というエネルギーを子供に渡しています。
それがマラソンという過酷なスポーツにおいては(特に彼女ほどのレベルの人には)致命的に働いたといえるのです。
普通に生活している方でも、やはり子供を産んでしまうと(例外はあるのですが)そのほとんどが、エネルギーを渡してしまい、産む前と比較しますと明らかに(失くすエネルギーの種類によりますが)変化してしまっています。
それを「このところ急に老けたね」「歳だから仕方ないのかねえ」という形で納得してしまうのです。
しかし子供のころや若いころに持っていた、一種の「鋭さ」に近いエネルギーはすでになく、それを「親になったから」「大人になった」「歳をとった」という形で納得するしかないのです。
子供を産んで一番顕著なのは、親ばかになることです。
一見微笑ましいように見えますが、実はこれがエネルギーを失った大きな特徴になっています。
だいぶ長くなってしまいました。
次回はいよいよ仏陀の教えにもなかった「知らなくてもいいお話」の詳細です
地球界における覚醒・解脱・卒業の在り様③
1999年に人類は壊滅していました。
その時、五井先生を中心にして、そこにつながる方たちがそれを食い止めています。
五井先生のお役目は、本来仏陀が敷かれた今回の文明の仕上げでしたが、あまりにもその時点での人類の波動が粗く、低いものであったため(つまり壊滅せざるを得ない状況だったため)、「反転」というお役を担われていました。
しかし壊滅を食い止めることはできたのですが、「反転」とまではいかなかったというのが現実でした。
当時私は五井先生のそんなにお側にはいなかったものでしたが、それでも人類の業を一身に受けておられるそのお姿を遠目に見ていて、震え上がっていたものです。
実際にその本当の有り様を知ることが出来る今「普通の人間なら発狂してしまう」その苦しみは壮絶としかいいようがなかったのです。
本日(9月15日)みわと私にはこれまでにない重い波動がかかってきています。
みわもきつそうですが、それでも上の方がたにご挨拶するためワークルームに来ていました。
私の方は生身の人間ですから、フラフラになってしまい、今夜の「社歌」収録を中止にせざるを得ない状況になってしまいました。
しかしこれで世界のどこかの国で起こる地震や厄災がかなり軽くなるということなので、まあよしとするしかないのですが、五井先生がその身で受けられていた人類の業と比較すると、実にわずかなもののようです。
しかしそうして少しずつでも地球の澱を解消しておかないと、ギリギリの攻防の中、たちまちハルマゲドンの方に滑り落ちていくようです。
私たちのワークは五井先生の残された仕事を完遂するためにあります。
そのワークをつかさどるのは月読の大神、ご指導は五井先生と植芝先生が担当されています(本当はもっと多くの神霊が大勢おられるのですが、表立って今現在の御指導はこの方たちです)。
仏陀は現在すでに人間としての境涯(シッダルタとしてインドに出た時の記憶)を保っておられなくて、この時期もっと大きな働きをするために(人類にとっては)抽象的な姿で動いておられます。
(インド時代の記憶を保っていないといういい方は誤解を招きそうですが、そこに焦点が当たっていない、あるいはそこを重視していないといった方がいいかもしれません・それどころではないということのようです)
そして今私たちに課されたワークは「反転」でした。
それでは前回からの続き「子供を産むときに取られるエネルギー」のお話です。
私たち人間は子供を産むと、自動的にその子に両親の特殊なエネルギーを与えるというシステムになっています。
その「特殊なエネルギー」は、普通に暮らしている方たちにはあまり意味をなさないのですが、例えば覚醒を望むような生き方をしている特殊な人には「なくてはならないエネルギー」なのです。
つまりその子供に奪われてしまったエネルギーがないと、人は覚醒することが出来ないのです。
そしてその怪奇な構造は、私たちのこの宇宙の根幹に起因しているのですが、それをこと細かくここでは語ることはできませんので、やがていつか出るであろう「宇宙全史」第二巻で確かめてください。
しかしそれでは身もふたもないお話になってしまうので、その過酷な因果から抜け出すための方法を記しておきます。
①子供を他の子ども(他人の子ども)と同じように扱う
②もう少し進化して子供を一人の人間として扱う
①と②の違いは、①の場合だと単に無関心でも「他人の子どもと同じように扱えるということです。
つまり生まれた子供をコインロッカーに平気で捨てたり、児童虐待という日常における幼い段階も「自分の子供を他人の子どもと同じように扱う」というように見えてしまうことです。
もちろんこれは全く異なる意識段階で、本来の「子供を他人の子どもと同じように扱える」ということは、常に冷静に、その子供の本当に必要な人生の生き方を教育するという在り様なのですが、通常は「わが子可愛や」で、些細なこと(と見えることは)大概おざなりにしてしまうものです。
叱るときは叱り、指導すべき時にはきちんと教導するという姿勢がそこにあるべきなのですが、エネルギーを取られた親は、一種の「痴呆状態」にありますから、目先の利益(その場しのぎ)の子育てに終始してしまいます。
たとえば子供がしてはいけないことをしたとき、エネルギーのない親は「それをしてはいけません」ととりあえず叱ります。
そこまではどなたも同じですが、「今度したら許さないわよ」あるいは「出て行ってもらうからね」あるいは「ぶつわよ」というような脅しをいいます。
そこまではいいのです。
しかしエネルギーのない親は、その脅しを実行しないのです。
決して子供を家から追い出すようなことをしませんし、一度くらいはぶつかもしれませんが、やがて「ぶつわよ」という言葉だけになっていきます。
つまり実行力がないのです。
すると子供は親の意味のない「叱り」を意に介さなくなり、社会に出てその本当の意味が分かるまで、何も理解しないまま凡庸な人生を送るのです。
またそもそも「ぶつわよ」ということを言ってしまうまでに、親は子供をそこまで追い込まないで済んだポイントを持っているのです。
これは今の日本と中国の関係のようなものですが、最初の段階で子供が悪さをしたときに、キッチリとしつけておけばそれでよかったのですが、そこをおざなりにしてしまっているので、次の悪さ→「適当なお叱り」→また次の悪さ→「適当なお叱り」→さらにひどくなる悪さ→「いつになったらいうことを聞くのよこの子は!」という悪循環が出来てしまいます。
植芝先生は武人です。
常に「死」と対峙して生きておられました。
今でいうところの異種格闘技も真剣勝負で受けておられましたから「死」は常にそばにあったのです。
ですからそのお言葉には力があります。
私への御指導でも、いつも短い平易なお言葉ですが、そこには本当に深い意味がこめられていて、心に突き刺さる剣のように身に入ってきます。
しかし凡庸な母親の言葉には、なんの力もなく、ただ同じこと「やめなさいといつもっているでしょ」の繰り返しなのです。
そこには子供にとって「本当に家を追い出される」という意図がなく、平凡な繰り返し「いつもいっているでしょ」という音だけが聞こえているだけなのです。
言葉に力がないのです。
家を追い出すといったなら、本当に追い出すべきなのです。
その場合、追い出した子供がどうなるか、その後どうすべきかということも考えておかねばなりません。
そのうえで、不可能なことなら口に出すべきではないですし、口にいったん出してしまったものは親として責任を持たねばならないのです。
それが「覚悟」というものなのです。
親にそれがないと子供を正常に教育することなど出来ないのです。
(誤解なさらないでほしいのですが、家を追い出すとかぶつとかの方法論は、あまりお勧めできないもので、巷でよくみられるたとえばのお話で、本来はもっと穏やかな方法を推奨するものです)
さらにエネルギーのない親は、先ほど書いたような「児童虐待」や「コインロッカーに捨てる」という行為に及びます。
これは「自分ではどう育てていいのかわからない」というところから誘引される行為なのですが、その多くはその親のまた親から引き継いだトラウマに近いものを引きずっているからなのです。
今年の春ごろは、会社では毎月100人前後の面接を行いました。
現在は落ち着いて50人ほどになっていますが、その中で採用できる人材は5%ほどです。
それは募集に参加される多くの方が「会社が何とかしてくれるだろう」「この会社は漫画やアニメというわかりやすいものを扱っているので、割合楽に仕事ができるだろう」という安易な思いで来られる方が多かったのです。
確かに私もまんだらけで働かせていただいていて、楽しくて仕方がないのですが、決してのんびりしているわけではないのです。
面接に来られて、採用されない方のほとんどは、(本来キチンと育てられていれば)人類の中でも14%の中に入れるようなレベルにある方が多いのですが、その方たちは子供のころからの教育(社会・家庭・学校・友達との交わり)の中でかなりスポイルされてしまっているのです。
中でも最も顕著なのが「ちょっと可愛い女の子」風の女性にその傾向が見られます。
やはり生れ出て、容姿が可愛いと常に周りから甘やかされ、大概のことは許されていきます。そういう境遇の中で、自らの欠点を改め、常に人間としての進化を目指す人格というのは、よほど意志の強い方でないと無理なようです。
そうして出来上がっていく人格は、自分の思い通りにいかないと不平不満を持ち、忍耐力がなく、気に入らないことには身が入らず、仕事も飽きてしまうとすぐにやめてしまいます。
若いうちは男性たちも可愛いのでチヤホヤしてくれますが、年を取り容姿に衰えが来ると、たちまち人生の冬が訪れて来て、その頃には「自分を律する」という在り様など想像もつかない性格に仕上がっていますので、死ぬまでの時間は「地獄」となるのです。
男性も同じです。
(主に)母親が多いのですが、甘やかされ、学校を出るまで社会のルールや人間としての在り様というものをキチンと教えてもらえなかった人は、やはり常に何かに依存していなければやっていけないという(マザコンに近いような)依存症に陥っています。
それが会社依存というような形で現れてきますので、「会社で何かを成し遂げる」という形ではなく、「会社が何をしてくれるのか」という願望がものすごく大きく、とても使いものにならない人格に仕上がってしまっています。
本当に自分の子供をきちんと育てようと思うのなら、先ほど書きました①と②の在り様でないと難しいのですが、子供にエネルギーを取られてしまった親には、それが中々困難なことのようです。
この宇宙全史のBBSでずいぶん以前に「私には友人がいない」と書いたことがありました。
実際そうなのですが、「友人がいない」ということは孤独だということではなく、「友人」というくくりが私にはないということなのです。
例えば通常皆様方は「家族」というくくりには強く反応されます。
あるいはそれを「私の子ども」と言い換えてもいいかと思います。
私にも子供は通算7人おりますが、しかしどう考えてもそれが「私の子ども」という感じにはなっていないのです。
普通の会社の社長なら、自分の子供に跡を継がせたいとか、会社に入れて優遇したいと思うのでしょうが、私にはまったくその意図が存在していません。
もちろんほかの従業員の方たちと同じように、才能があればいくらでも引き立てていくのですが、なければアルバイトどまり、それでもだめならやめていただくという姿勢は、赤の他人と全くかわりはないのです。
才能がない自分の子供に跡を継がせて会社をつぶし、結果として子供を苦しめ、従業員を路頭に迷わせるというような愚かなまねはとてもできない仕様に私はなっているのです。
そこには「自分の子ども」というくくりが私にはなく、他人の子どもと同じとしか見られないからなのです。
確認ですが、自分の子供に愛着を持ってはいけないといっているのではないのです。
しかしそこには自分の子供に対するのと同じ愛着を他の子どもたちにも持ちなさいと申し上げているのです。
他の子どもとは、近所の子供も、アフリカの飢餓地帯で飢えて死にかけている子供も含まれます。
友達というくくりでも同じです。
「友達」というくくりの中で、皆様方は「友達以外は友達ではない」という差別をしているのです。
あるいは「家族」というくくりの中で「家族以外は家族ではない」という認識を無意識のうちにしています。
その結果「友達」以外が「家族以外」がどうなろうと知ったことではないという無慈悲な感覚を共有してしまっているのです。
しかし今の人類には「家族を大事にしよう」「友達は大切」「友達をつくろう」という公共広告機構並のスローガンがまず必要な段階なのです。
そうしないと人々は、自分の周囲の人間にさえも愛を見出すことが出来ないのです。
つまり「子供にエネルギーを取られる」というシステムは、とりあえず子供を大事に育てるということを強制的に行わせるためのやむを得ない過渡期的なシステムともいえるのです。
しかしそこから生まれる「愛着」という執着は、親も子供も次第に疲弊させてしまいます。
その悪循環から逃れるすべは先ほど書いた①と②しかないのです。
ただ②の「子供を一人の人間として見る」というレベルでは、子供に対する愛着というものはなくなり、もっと精妙な普遍的な「愛」だけがそこにあります。
そこでは「自分たちが年老いたら、子供に面倒見てもらおう」とか「子供は自分たちの所有物」「家系を継ぐべき者」という概念がなくなり、自分たちと同じ一人の人間としての存在を守り育むという形の子育てが生まれます。
そこからは「学歴」や「経歴」を重く見ることなく、その子供が人生で本当は何をしたいのかという基準で、その子の才能を伸ばす方向性を探る形の教育をしていくのです。
仏陀も実はこの事実を暗に説いておられました。
それは「出家」という形で「家族」もしくは「社会」からの離脱を促していたのです。
まずはそういう形から入っていかなければどうにもならない時代でした。
今でも「出家」「イニシエーション」という形はありますが、現実的なメソッドとしては、上記の①か②が望まれます。
しかしそれを実行できる方は、おそらくほとんどおられないと思います。
それほどこのシステムは強力に作用するのです。
それほど今の私たちは、このシステムを必要としている段階なのです。
次回はこの怪奇なシステムから逃れる術をさらに説いていきます
地球界における覚醒・解脱・卒業の在り様④
1999年ヨーロッパは壊滅状態にありました。
発端はイスラエルにおける核爆発でした。
この現象は、以前私たちにこの世界の黙示録が降ろされたとき、そこにあったハルマゲドンへの一つの道標でもありました(まだ皆様方にはお伝えしていないはずです)。
つまりこの世界がアセンションではなく、ハルマゲドンを選択するのなら、段階を経て落ちていくのですが、その一つの指標となる現象に「イスラエルにおける核爆発」というのがあったのです。
その現象は、どこか(パレスチナとか)からの核攻撃によるものではなく、自分たちがあわてて核爆弾の操作を誤り、自爆しています。
これは私たちに降ろされた黙示録でも、ノストラダムスの1999年の時も同じ現象となっています(自爆ということですが)。
(誤解しないでほしいのですが、私たちに降ろされた時の黙示録は、すでに1999年を何とかクリアしてからのハルマゲドンへの世界線を記したものです。ややこしいのですがそういうことを把握しておいてください。現在この黙示録はさらに修正され、別な世界線上の別な黙示録が存在しています)
この核爆発で、ヨーロッパ全土は一気に戦火が広がります。
イギリスはフランスと敵対し、ドイツはヨーロッパ全土を敵に回し、そのほかの大国も小国もみんな巻き込まれ、混乱のるつぼの中、わけもわからず半年余りで壊滅しています。
ノストラダムスの大予言は「ヨーロッパ限定」でした。
彼の時代は、ヨーロッパがすべてだったのです。
あるいは彼にとっての世界とは、ヨーロッパがすべてだったのです。
ですから世界が滅びるということは、すなわちヨーロッパが滅びるということでした。
しかし欧州が壊滅した後も、すでに世界大戦にまで拡大していた戦火は燃え続け、アメリカ、ロシアはもちろん中国、インド、日本も巻き込まれ、北半球はほぼ1年で壊滅しています。
すべて核による攻撃と、それによる各国の核保有庫での誘爆により大半が壊滅していました。
1年で北半球の世界は見る影もない状態にあったのですが、しかしそこで終わりではなく、そこから約10年にわたってゲリラ戦や小競り合いが生き残った者たちにより続けられ、憎しみの連鎖と果てしない暴力の中で最終的に皆が力尽きて終焉しています。
この時地上の人類は人口が100分の1に激減していました(放射能汚染による淘汰はもちろん、大規模な気象変動による飢餓、水質汚染や人類の免疫力の低下に伴うそれまで見たこともない恐ろしい疫病も蔓延して、生き残った人々は、核爆弾により一瞬で死んだ人たちをうらやむようにまでなってしまっています)。
その後人類の復興は、南半球から始まります。
最も無事だったのがオーストラリア圏でした。
アフリカは南半球にありながら、結構な戦火を受けていましたが、それでもオーストラリアに次いで復興が進んだ地域でもありました。
しかしこの復興は「新しい人類の始まり」ではなく、ハルマゲドンの後始末としての復興だったのです。
つまり決して人類の夜明けではなく、最終的には昔の映画「渚にて」にあったように、漸進的に人類はその後さまざまな苦難を抱えながら(カルマを消化しながらともいえるのですが)、絶滅していきます。
私は皆様方にあまり危機意識を喚起するような情報は書かないようにはしていますが、それでも安穏という日常性にいつまでもくるまれていますと、いつの間にか引き返せないような抜き差しならぬ未来に取り込まれてしまうのです。
あまり「こうなってしまうんだよ」「人類は滅びてしまう」というようなネガティブなことを書きますと、たちまち脆弱な人類の大多数の総念はハルマゲドンへ一直線となってしまいます。
しかしそういう危機意識を、ある程度認知していただいていないとやはり人は動こうとはしないのです。
その微妙なバランスが非常に難しく、私も筆が重いのですが、すでに「人類には知る必要のない情報」を開示していますので、勢いで色々書いておこうかとも思っています。
この冒頭の情報開示(すでに過去のものになってはいますが)でお伝えしたかったのは、現在の私たちの世界は、本当にギリギリのバランスで、いってしまいますと「上の方の恩寵に近いもので」継続(生存)出来るベクトルを保っているといえるということです。
しかしそれすらも日々危うい方向に傾きかけては、みわが修正するということをしております。
(実際にはみわ一人ではなく、現在この地上に出ているあと9人のアンドロメダにもその負荷は重くかかっていますし、日本ではほぼ覚醒している僧侶の方たちにも分担していただいています。9人のアンドロメダや、僧侶の方たちはその負荷がどこから何のために来ているのかは、おそらく理解していただいていないと思われますが、地球の緊急事態のため人類のため引き受けていただいています・この日本の僧侶という方たちは、特別高名であるということもなく、おそらくあまり世に知られていない方がたではあるのです)
さて「子供を産むと両親は子供にエネルギーをとられてしまう」というお話でした。
前回は子供への影響を主に書いていましたが、ここでは母親の変化を書いておきます。
まず子供を産むと(妊娠の段階から)母親は自分の子宮への関心(意識の集中)を急速に深化し始めます。
それは子宮という部分が人間の女性におけるエネルギースポットになっていまして、そこから(子供に)エネルギーが吸い取られているので、そこに集中せざるを得なくなってしまうのです。
そのことで母親には(一般的には)悲劇的な変化が訪れます。
先日テレビを見ていましたら・・・確か9月4日に放映された「踊る!さんま御殿」だったと記憶していますが、子持ち芸能人(母親たちで、一応モデルや美人ママとなっていました)達がさんまさんと子育てトークをしています。
しばらく見ていましたが、次第に気分が落ち込んでいきました。
それは彼女たちが子供を中心にして、旦那をないがしろにしていること・・・そのこと自体を当たり前と表明し、さらにそうすることが大事、美徳だと感じていたのです。
それが正しいことと主張してはばからないその態度には、本当に気味が悪くなったのです。
そうすることで、自分は「立派」だと思っているのです。
月読の大神
「醜いでしょう」
「エゴ丸出しだからね」
「そこに気が付かなければいけない」
「そこに自分の存在意義があるかのように、自分が何かえらいものであるかのように振る舞っているのは愚かそのものだね」
妻に子供ができると、父親は浮気に走ります。
それはそれまでのお互いを見ているという「ハネムーン感覚」が、急に妻の視線(意識)が自分に向かなくなったのを、意識的にも無意識的にも旦那は気づくのです。
そして男親には子宮はないのですが、別な形でやはりエネルギーをとられていますから・・・つまりエネルギーが満たされていない状態になってしまっているので、どこかでそれを満たそうとします。
妻でそれが出来ないので・・・それじゃあ・・・浮気という形になるのです。
エネルギーがなくなったその満たされていない状態を、妻は子供に求め、夫は他に求めるということなのです。
月読の大神
「その方が手っ取り早いでしょ」
「手っ取り早い方を皆さんやるだけよ」
男性がすべて浮気に走るかどうかは、その方の気質によりますが、それが内に向かう人は、何かマニアックなものに凝ったり、もっと別な何かで気を紛らわしたりします。
男性もエネルギーがなくなっていますから、余計に妻の心が離れてしまっているという影響を強く受けてしまっているのです。
月読の大神
「だから客観的になれないね」
「事象に引きずられてしまう」
「泰然としていられないのよね」
人により現象としての強弱はありますが、これが一般的な「子供を産んだ後の家庭状況」です。
本来なら「妻は夫を立て、家庭内を守りつつ、子育てをする」という形、夫は「仕事で社会に貢献し、その報酬で家庭を維持し、そのたくましい有り様で妻や子供たちを守り育てていく」という姿がベストですが、中々そういう家庭は少ないようです。
しかし私たちはどんなに困難な状況であろうとも、相手(妻や夫)が悪いと思いつつも、子育ての中で妻も夫も子供もお互いが成長できる選択を日々模索していくしかないのです。
そうしてその上で「世界平和の祈り」で五井先生にお願いして、足りない部分を補っていただき、さらによき未来となる方向性をご指導いただくことが出来るのです。
世界が破滅ギリギリの境界線で進行している今、皆様方にできることは、中東に行って戦争を止めることでもなく、中国に渡って首脳部と話し合い、日中友好を実現することでもなく、アフリカや中南米で進行している自然破壊を食い止めるために私財を投げ打つことでもないのです。
そもそもそんなことが出来ないのが私たち凡夫なのです。
まず身近な身の回りを整理し自分自身の清廉潔白さを証明して、世界平和の祈りを掲げたとき、そこからその人の新たな人生が始まるようになっています。
例えば「呼吸法」というシンプルな霊的覚醒を導く手法がありますが、どんな呼吸法であろうと、そこに何のベースもない人間が、どれだけ必死になって日々精進したところでなんの効果もないのです。
昔オーム信者たちがよくスッハ!スッハ!と激しい呼吸をしているフィルムがありましたが、あれでは血中酸素が過多になり、頭がボーっとなるくらいが関の山で、それを何か異質な霊的経験としているに過ぎません。
しかしベースが出来ている人が同じ呼吸法を実践すると、全く異なる成果がそこに出てくるのです。
ですからまず
①どんな形でもいいですから、世界平和の祈りをする
②それが継続できるようになったら、身辺の整理をする
(身近な人たちとの関係性の改善と自分自身の有り様の改善)
それがベースを作るということなのです。
そこを外しては次なるステップということはないのです。
さて「子供を産むと親はエネルギーを失う」という話をしてきましたが、この話にもやはり例外というものはあるのです。
その話を最後にしておきます。
テレビのバラエティなどによく出ておられるYOU(ゆう)という方がおられます。
この方はお子様を産んでからも自由奔放な生き方をされているので、きっとエネルギーをとられていないのだろうと推測し、皆さんの参考になるだろうと調べてみました。
しかしそこには全く想像もしなかった事実があったのです。
少し長くなってしまいましたので、そのお話はまた次回に・・
地球界における覚醒・解脱・卒業の在り様⑤
まずYOUさんのお話から
芸能人のYOUさんという女性がおられますが、彼女はお子さんを産んでからもわりあい自由奔放な生き方をしておられるようだと思い少し調べてみました。
すると今回の「子供を産むことによるエネルギー問題」・・つまり子供を産むことでエネルギーをとられてしまうという在り様から離脱しているわけではなかったのです。
彼女もやはりエネルギーをなくしていました。
しかもその生き方は「自由奔放」というよりは、もう少し「自堕落」に近いものでした(そこまでではないのですが)。
しかし見た目はとてもエネルギッシュで生き生きと輝いて見えます。
それは決してテレビの画面上だけではないのですが、それでは一体どこからそんなエネルギーが湧いてきているのでしょうか。
調べてみますとそのエネルギーは何と彼女のお子様から来ていたのです。
実は彼女のお子様は非常に段階の高い方で、以前ここで何度も出てきましたが、人類の14%のさらに6%のさらにまたその1%(人類の実数でいいますと現状では約60万人)に入る方だったのです。
最初の人類の14%というくくりは、現段階で覚醒の可能性を有している方たちです。
その6%が何とか覚醒できるだろうという段階で、さらにその1%は覚醒すれば、それぞれの分野で人類を導いていくべきエネルギーを有している方たちです。
その人類の指導者になる段階のお子様から彼女はエネルギーをもらっています。
何故なのでしょうか・・
その子は、彼女のことをすごく心配しているのです。
「危なっかしくて見ていられない」
「放っておけない」
いつもそう思っています。
だからエネルギーを彼女に与えているのです。
そして彼女にエネルギーを与えていなければ、彼はやがて人類の偉大な指導者として立つこともできるのですが、このままではどうもそうはならないようです。
しかしそれも彼女と彼の宿命で、彼女の今回の生は「刈取り(ご褒美)」の生で、彼は彼女をフォローするように宿命づけられています。
つまりそういう関係性を持つ前世があったということですが、それに関しましてはまた別のお話になります。
子供を産んでしまうとその両親はそれぞれ子供に特殊なエネルギーを与えるシステムになっていますが、その例外としてYOUさんのお話をするつもりでしたが、結局彼女もこのシステムの渦中にあったのです。
しかし実に稀ではあるのですが例外は確かに存在しています。
そういう親は一定の型にはまる生き方ではなく、それぞれの場所でそれぞれの有り様でこのシステムから離脱しているのです。
本当はその具体例を書くといいのですが、それはまた別な機会にいたします。
しかし見た目はバラバラでも彼らの共通項はあるのです。
それは、
①やさしい(放縦に流されない丁寧さ)
②忍耐力がある(待つことを知る・機会を失わない忍耐を知っている)
③非情である(冷酷にならない平静さ)
④狡猾である(残忍にならない明晰性)
この4つはドン・ファンが提唱する「戦士」の条件ですが、それをクリアしているのが離脱している親の共通項といえば共通項です。
それに反してエネルギーをなくし、子供に愛着を持つ親は、
①やさしくない
②忍耐力がない
③情に流される
④酷薄になれる(裏切られたと思い込み深い復讐の念を持つ)
一般的に③と④は「人間的」といわれている形質でもあります。
愛情や愛着という一種の執着を持つ人々は、それが裏切られると思うとたちまち豹変して「残忍」にもなれますし「酷薄」「冷酷」にもなってしまいます。
その残忍性は「愛着」の度合いに比例します。
つまり愛着(執着)が強ければ強いほど、裏切られたと思うときにはその反動として強力な復讐心が湧いてくるのです。
私が以前からよく申し上げています「情の深い人ほど冷酷になれる」「非情な人が本当はやさしい」ということがここにあります。
3と4は情(執着から派生する感情の一種)という一般的に「人間的」といわれている形質ですが、この情に「自己憐憫」が絡むことで、さらにその効果は加速されていきます。
自己憐憫」は人類の最大の敵であり、エゴの中心に位置する最強の暴君でもあるのです。
「私はよくやっている」
「自分を認めてほしい」
「なぜ自分だけほめてくれないのか」
「私にだけ挨拶をしてくれない」
「ぞんざいに扱われた」
「私だけが苦しんでいる」
「もっといい思いをしたい」
「もっといい容姿に生まれたかった」
「もっといい子がほしかった」
「どうして私にこんなバカな子供が生まれたのか」
「本当はこんな人生ではないはず」
そこには「感謝」がないのです。
生かされてあるということ、日々の当り前に、ただそれだけのことを感謝できないのです。
私たちは過去生からの因縁で生まれ、生き、死ぬということを繰り返していきます。
今自分の前に現れている現実は、すべて自分が招いたものだということがわからないからそう思ってしまうのです(つまり今眼前に現れている現実は、自分が招いたものである。そしてそれは今解消すべき時として、縁あってこうして現れているのであるから、学びとして受け止め精一杯の努力で受け止め解消していくということ)。
その形は私たちが「学習」すべき最も効率的なシステムにもなっています。
早くさっさと学ぶべきことを学んで次の段階にいけば、もっと軽い生が待っているのですが、それに足枷を強力につけているのが「自己憐憫」というエゴなのです。
「学ぶべきことを学ぶ」とはまず眼前の現実を受け入れるというところから始まります。
それがなければ(つまり試験用紙を受け取るということですが)そもそも試験は始まらないのですが、大概の方はこの段階で挫折してしまいます。
現実を受け止めないのです。
「何かもっといい世界がどこかにあるはずだ」
「自分にはいつかきっと王子様が現れて抱っこされてお姫様になる」
「現実がダメなら精神世界で・・」
「こんなに苦しんでいるのは、きっと自分には救世のお役目があるに違いない」
だから皆さん様々な詐欺や怪しげな精神世界、宗教団体に簡単に引かかってしまうのです。
しかい現実を受け止めると申しましても、ただ受け止めそこから何の努力もしないというのはまたちょっと違います。
全身全霊でやるべきことをやって、その結果をすべて真摯に受け止める・・それが本来あるべき私たちの姿なのです。
さてそれではなぜこれほど人類にとって重要なカラクリ(子供にエネルギーをとられるということですが)を仏陀は説かなかったのでしょうか。
そこからの離脱の仕方は説いておられましたが、その因となるこのシステムについては言及しておられません。
さらにやがて明らかにされますが、もっと根源的な、もっとおぞましいシステムが私たち人類には枷として課せられているのです。
それについても仏陀はもちろん(ドン・ファンたち以外は)全く触れていないのです。
インドの聖者たちも西洋の覚者たちも、中国や日本の覚醒者も言及していません。
何故でしょうか・・
その答えは、
「教えても仕方がない」
というものでした。
みもふたもないいい方ですが、仏陀からしますと、
「その中で学ぶこと」
「その中でしか学べない魂だから」
ということなのです。
地球界という場所はそういうところなのです。
だからそこからの離脱ということは教えてくださいますが、その意味やそのからくりは「教えても無駄」という感覚なのでしょうか。
実際にカスタネダはその著書の中で、ドン・ファンの教えとしてこうした多くの秘密を明かしていますが、カスタネダを注目する多くの人たちでさえ誰もそこにはフォーカスしていないのです。
それはフォーカスしていないというよりは、フォーカスできない・・そこにピントを合わせることが出来ないというのが正確なところなのでしょう。
このカラクリを見るには、人類の地平から一段高いところから俯瞰しないと見ることはできません。
そして例え見ることが出来ても(教えられても)それが何を意味するのかが分からないのです。
仏陀の教えは今回の文明の集大成ですが、それは「今の人類というカテゴリーの中での教え」なのです。
つまり手枷足枷がある中での人類の進化という限られた教えではあったのです。
もちろん仏陀は遥かに超越した法を説くことも出来ました。
しかしあえてそれをしておられません。
それは仏陀が今の地球という舞台の範囲で人類がやるべきことを説くということに専念されているからです。
しかし私はまた別な存在なのです。
私は本来あまり人類というものにフォーカスしていません。
私の集合魂はそれでも地球界における妖怪たちの指導(あるいはもっと包括的に裏の存在達の指導)という役目を持ってはいましたが、私は特殊な造られ方をした存在ですので、あまりそうしたことに縛られない在り様になっています。
ここでNo1596のふぁるこんパンチ様への回答となります。
私は五井先生の弟子ですし、その教えこそが人類成道への大きなカギになると知っています。
でも私の視点はまた別なところにあるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
「そんな知識や経験が不足すぎる私が、人様にとやかく偉そうなことは言ってはいけないと自覚してますが一言だけ発言させて頂きます。
>それともこのまま地球も人類も流されるままに滅亡に向かっていくのでしょうか
知識や経験の量や質を見るに同列とはとても申し得ませんが、お互い何があろうとも五井先生より学ぶもの同士”祈りの力”を信じようではありませんか!
これまでも何度も祈りの力で世界を破滅の危機から救って頂いた”救世の大光明”の方々の奇跡を今後も信じようではありませんか!
これこそが五井先生の本願だと確信した以上、私のような凡夫はただその船に乗り、ひたすら世界が平和であることを信じ続けたいと宣言いたします」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
世界中のどこの誰よりも五井先生の世界平和の祈りの力を私は知っています。
だからこそ皆様にお伝えしているのですが、何度も申し上げますが私の立場はまた別なところにあるのです。
私とみわは、上の方々の御指導で地球の負荷を解消する方向で頂いております。
しかしそれは(あくまでも私の感覚なのですが)「人類を救う」とか「地球を大アセンションに導く」というニュアンスではなく、ギリギリのところで人類が学びを得ることが出来るであろう舞台(世界)を残すための微調整という感じがしています。
(これも私の感覚なのですが)月読の大神ほどの存在なら、いとも簡単に人類くらい覚醒させるのは朝飯前なのです。
それをあえてなさらないで「学び」という進化にとっては必然のファクターを与えているというのは、どこまでも人類自らが進化という道筋を見つけ、歩んでいくことを望まれているからなのです。
仏陀や五井先生は「超」お節介屋さんです。
以前書きましたが、その慈悲は月読の大神が呆れてしまうほどのものでした。
私はそうではないのです。
仏陀や五井先生は本当に心底あなた方のことを考えておられます。
しかし私はハッキリ申しあげてどうでもいいのです。
人類が滅びようが生き残ろうが知ったことではないのです。
それは人類の問題なのです。
そして今、先ほど書いた14%のカテゴリーに入らない人々・・・86%の人たちがこの地球の命運を握っています。
この方たちが変わらない限り、人類の進化は難しいのです。
日本はもちろん世界中を見渡しても、その行く末はほぼ絶望的ですが、それでも月読の大神は「そう捨てたものではないよ」とも仰っておられます。
しかしそこには「世界平和の祈り」という五井先生のメソッドが必須だということもまた事実なのです。
果たしてどこまで人類は世界平和の祈りを受け止めることが出来るでしょうか。
ご指摘のように、私のスタンスはこういう言い方に現れています。
人類が覚醒するかどうかは皆さんの問題なのです。
だから五井先生の教えを勉強して、世界平和の祈りにかけるしかないのですが、それはもう全身全霊で行い、信じきるしかないのです。
私やみわは初めから申し上げておりますように救世主などというものではありません。
皆様方が世界平和の祈りを信じ切って一心に祈ることこそが、まさに皆様方を救うことであり、世界をそのまま成道させることにもなるのです。
今は86%の人々に、ニサルガの実存がどうのとか、ドン・ファンの戦士の道などを説いてもあまり意味がないのです(やはり段階を経ないと理解できないということがあります)。
もちろん私はこれからもニサルガとの対談やお約束しているカスタネダとの対話という本を書いていくでしょう。
しかしそれはあくまでも14%の方たちの覚醒のためであり、人類を導いていこうとする60万人の中にいる崇高な使命を持った方たちへのメッセージとなるものなのです。
私もみわもこのワークが終われば、一陣の風が巻き起こす道端の埃のように消えていきます(みわの方が私よりも少し先に行くようですが・みわというよりアンドロメダといった方が正確でしょうか)。
私たちのワークは来るべき人類の新たなる世界の礎となるべく定められています。
皆様の運命は皆様が選ぶのです
虚空蔵55