フロイトと自我(エゴ)

ジグムント・フロイトはご存じの通り、精神分析を創始した精神科医ですが、彼の「自我」と邦訳される原語は"Ich"です。これは英語のI(一人称のアイ)と同じ言葉で、私という意味です。

自我と訳されているのは、公式の英訳がIではなくegoになっているためで、これははっきり言って別の言葉になっています。

フロイトはエゴという言葉を使っておらず、私という日常語を述語化して使用しています。そして無意識はEsであり、これは英語のItになります。

ですから、"I am That"は”Ich bin Es”になり、これをそのまま訳すと「私は無意識です」となりますので、少し言葉から考えさせられます。

 

 
2013/5/30 No.1794の御教示です。
「izuwo様
●「エゴを薄めていって、自己を滅却したならば、私は何になるのですか?私はどこにあるのですか?」
あなたはどこにも存在しなくなります。
あるいはあなたはすべてに遍満します。
あなたは彼であり、彼女であり、樹木であり、動物たちであり、この地球であり、この宇宙であり、この宇宙をも超えたものだと知ることになります。
よくあるたとえ話ですが、自分を乞食と思い込んでいる王子様が、何かのきっかけで「自分は王子だったのか」と気づく時が覚醒です。
私たちは本来自由で軽やかで、冒険に満ちた愛そのものの存在なのですが、地上にしばりつけられ、実体のない欲望に取りつかれてしまっている「乞食」だと思い込んでいます。
あなたは自己を滅却したとき、王子様に戻る・・いやずっと王子だったことに気づくだけなのです。
●「なぜ、人類は理解不能で知りもしない愛というものを求めて、知ろうとしてのたうち回っているのでしょうか」
私たちはそこから始めなければならない存在なのです。
そこからしか理解できない在り様にまで落ちてしまっています(地球ではこれまでにもアセンションが何回もあり、そこでデセンションしてきた人たちが私たちなのです)。
何度もいいますが愛は理解不能ではありません。
それは世界がある限り(どんなにレベルの低い世界でも)形を変え、その世界に応じた有り様に適した愛となり(この前お話ししましたのは母性でしたが)皆様の前に顕現しています。
それを見つけるかどうかは皆様次第ですが・・
●「エゴである自分もわからない」
あなたご自身がエゴなのです。
他にエゴはありません。
①悪い自分をエゴだと思う
②自分勝手な思いをエゴだと思う
③人とうまくやれない自分をエゴだと思う
それらはすべてエゴではあるのですが、エゴの一部、表面的なものにしかすぎません。
「エゴとは何か」
と考えるからわからなくなってしまうのです。
エゴはあなたなのです。
あなたそのものがエゴです。
しかし最初は①~③のような感じで始められるのがいいかもしれません。
「エゴとは自分のこと」という命題は、禅の坊さんがある程度修行を積んで、高度な考案を突き付けられたときに取り組む命題です。
がんばって下さい
虚空蔵55」
と教えていただいているところとリンクして、先ほどのことを最近考えています。

魔女に関して

質問があったので検索してみたら、シュタイナーや芸術に関する御教示か出てきました。

 

「魔女といいますと皆様は、 何やらドロドロした中世の魔女狩りに出てくるような魔女や白雪姫 に出てくる毒りんごの魔女を想像されると思いますが・・・ まあそういう魔女も確かにいることはいますが、 大概の魔女は普通の人間たちの中に混ざって共存して棲息していま す( そもそも自分自身が魔女とは自覚していない方がほとんどです)。 私の周りにも様々な魔女たちがいますが、雑魚(ざこ) 魔女といわれるような魔女から、 ホワイト系の中々大した魔女までワラワラと存在しています。 魔女の定義は難しく・・・ 妖怪たちと似たようなアイデンティティを持つのですが・・・「 その存在の在り様を曲げない」「ひよらない」 とでもいうのでしょうか、いってしまうとかなり「がんこ」 な魂ではあるのです、似たような存在に「仙女(せんにょ)」 というのがありますが、彼女たちは非常に軽い存在で、 どちらかというと魔女たちの方が人間界との関わりが「濃い」 在り様になっています。 たとえば仙女系には夜の酒場のホステスなどが多いのですが、 魔女たちはそれぞれが深く人間にかかわり、 どちらかといいますと執着が仙女たちよりは濃いともいえます。 しかし先ほどいいました私の周りにいるホワイト系の魔女などは、 ある意味仙女系に近いような在り様としては軽い存在になってしま っています。いつかまた魔女のお話は詳しくすることにしまして、 話をラムサに戻します。( なお魔女や仙女の定義にはもちろん術が使えるということがありま す。それは「集中力が人並み以上にある・優れている」 ということも出来ますが、そのお話もまた後日です)」


「②のオタクに代表される妖怪たちの面倒を見るというのは、 やはり魔導師たちが妖怪の面倒を見なければ
ならない時に、あまりやってこなかったという事があります( もちろんキチンとやっていた方たちもいまし
たが、全体の方向性はマイナスという形になっています) 。
この地球では太古の昔から人間と妖怪たちが共存、 或いは敵対し合い、色々混じり合って暮らして来まし
た(「宇宙全史」第1卷参照)。
魔導師は人間の暗い部分(邪悪な部分) を司るという仕事もありましたが、妖怪たちの教育という仕事も
請け負っていました。
そこでは「面倒をあまり見なかった」というのではなく、 むしろ彼らを使役していたという部分も見出せ
ます。


魔女に対しても同じで、やはり魔導師と魔女を比べてみますと、 段違いに力の差があります。
そういう優位な立場を自覚せず、 安きに流れてしまった魔導師たちのカルマは今回の地球の総決算に 至り
まして、 どうしても清算しておかねばならない状況に追い込まれています。 」


「」追補1
シュタイナーに関してはこの方の質問以来ずっと忘れていました( もう10年になるのですね) 。
シュタイナーの著作は文中でも書きましたように若い時にずいぶん 読ませていただきました。ただ最終的
に彼の「教育的」 な部分が面倒になってそのままになってしまっています。
(面倒という言い方はこの当時の私の「粗い」部分で、 私の集合魂である魔導師の方たちは「教育」が苦
手で、本来魔導師の仕事は(色々あるのですが、 妖怪の教育という部分が大きく占めていました。
もちろん人間の教育というところも変わったカテゴリーでは請け負 っていましたが、いずれにせよ彼らに
はそういう義務のようなものがあったのです。
ところが全員ではないのですが、ほとんどの魔導師は「 人間的な教育」が苦手で、どちらかといいますと
「体育会系」のノリの教育体制に偏っていました。
魔導師になるには魔導師としての才能がないと難しい職業なのです 。
そのため魔導師という存在は世襲ではありません( 稀にありますが) 。
人間世界のように世襲で何とかなってしまうようなレベルの職業な らいいのですが、
魔導師は踊ったり歌ったり何か物を売るような具合にはいかないの です。
彼らには一般的に魔法使いとか魔女とか、 巫女とか神官と呼ばれている職種に近い有様で非常に特殊な才
能が求められます。
才能がある子供をさらって来て特殊な訓練をさせます。
それこそ崖から落としたり、雪原に裸で放り出すとかですね。 そうするといくら才能があっても、その才
能を発現する前に多くの子供が死んでいくのですが、 それが当たり前のようにやっていた時期もありました。
扱う力がとても危険なものであり、 特殊なものでしたからやむを得ない部分もありましたが、 それでも段
階を重ねていくという当たり前の道を踏んでいく教育システムとい うものを彼らは知らなかった、知ろうと
もしなかったということがありました。
それで私が彼らのそういうカルマを背負うことになったのですが、 そのため教育という言葉に「面倒」と
反応していたようです。
現在私が「目の前の出来ることを粛々とこなしていきましよう」 と皆さんによくいうのは、
そうしないことの弊害や、 非効率的な事実をよく知っているからです)
また彼は神智学的な部分に大きな影響を受けていたので「年代記」 的なところはかなり抽象的になってい
たように思います。実際ヴラヴァッキー女史(神智学の創始者) の年代記は抽象的な表現になっています。
私は双方の書籍を読みましたが、 そのあたりでやはりうざったくなりやめています。
その時強く印象に残ったのは、もし私がそういう立場になったら、 出来るだけ抽象的な表現はやめようと
考えていたことでした。
しかし自分がそんな立場に立つことになろうとは夢にも思ってはい ませんでしたが。
それでこの「宇宙全史」が出来たのですが、
問題は本来ある「抽象」をいかに「具象化」するかという作業は、 人間である私ばかりでなく降ろす側の存在達にも重い負荷をかける ことになります。
抽象を抽象のまま表現することはそんなに難しい事ではないのです 。
(実際はそうでもなくこの濃い肉体界(現象界) において抽象を追求し抽象にたどり着くのは容易なこと
ではないのです。それが出来るのはごく 一部の芸術家や数学者、物理学者、或いは詩人などでしょうか)
しかし抽象を具体化するという作業は、 まさしく私たち人間がやっていること「魂の欲求を地上に反映す
る」なのですが、 皆さんよくご存じのようにそれがいかに大変なことか、 どれだけエネルギ—が費やされる
かお分かりと思います。
例えば絵画で具体例を出しますと、 ピカソのような抽象画は描く人がその段階まで来てしまうと思うま ま
に描けるという、まさにアーティスト現象にハマります。 その時は融通無碍、自由奔放に芸術を楽しめるの
ですが、彼が青の時代あたりで苦しんでいたころは、 彼の中の抽象の欲求を具象化しようとしたため、
その軋鑠といいますか摩擦のためにしばし苦しむのです。
しかし抽象をそのまま抽象として表現できる自由性を獲得してしま えば、それこそ芸術活動は幸福そのも
のとなるのです。
ただそこには「他人にどう思われようが関係ない」 という条件が付くのですが。
だから彼の絵はわかる人と分からない人がいて、
ダヴィンチの絵(具象絵画)は大半の人が(「分かる」 と思っている)のです。
精神世界も同じです。
抽象表現はいかにも何か在りなんとする思惑を感じさせますし、 思惑以上のものをも想像させます。
そういうものに引き寄せられる人たちは大勢いるので、 それはそれでその目的に叶ったものならいいので
すが、私は皆さんを迷妄の中に導こうとしているわけではなく、 逆にこの世界の謎を、この世界の罠を、そ
の迷宮性の中から引き出そうとしているのです。 それには抽象を具象化する必要があったのです。
そうしないとあなた方は抽象を自分のいいように勝手に解釈してし まうからです。具体化して示すとそう
いう余地がないですから厳しい現実を目の当たりにしなければなり ません。
そういうやり方をするかどうかは、 降ろす立場の人により異なりますが、「具体化できない」とか「 エネ
ルギーがない」 など降ろす能力がない場合は抽象に甘んじてしまうよりないでしょ う。
もう一つ示される側(皆さん方ですが) がそれを受け取れるかどうかということがあります。つまりその
現実の衝撃耐えられるかどうかです。
例えば(「質疑応答」6のあとがきでも書いておきましたが) 医者に癌告知をして欲しいかどうかという
ところでしようか。
強い人はそれを望むでしょうが、 弱い人は現実を見たくないでしょうし、 知ってしまうとさらに衰弱していくでしょう。
逆に強い人は癌告知を得ても、死ぬまでの周辺整備や遺言状、 葬式、お墓の準備などすべて手際よく片付
けて、清々として死に臨んでいくことでしょう。
人類の大半はこの弱い人です。
だからこそ宇宙全史ではそれを補う「五井先生の祈り」 をお教えしているのです。
しかしここでも真っ先にそれに取り組むのは「強い人」で、 拒み続けるのは(エゴの強い)弱い人なのです。
エゴの強い人は一見強そうに見えますが、 固くて厚いエゴの殻を剥がしますと脆弱な本体の正体が見えて
きます。

 

 

不敬

「不敬」に関しての御教示です。


2011/4/12 No.212


「五井先生という方は「何でもいいから私とつながりなさい」「非難してもいいし、けなしてもいいからつながるように」と生前おっしゃっていました。


その慈悲のお心を弟子の私が薄いですが少しでも受け継ぎ形にしているのが最近の左の掲示板です。


ですから以前と比べるとだいぶ荒れていますが、これが本来の皆さんのお姿でもあるのです。


スッと一本世界平和の祈りに真っ直ぐ透き通っている方


わからないなりに何とかしがみつこうとしている方


よく勉強もせずにご自分の思い込みで意見をいう方


何とか自分だけ助かろうとする方


エゴのままに自分の思い込みをそのまま自己主張する方


最後の方のあまりにエゴの主張が強い方のご意見はさすがに掲載はしておりません。


それはあまりにエゴが濃いと「不敬」という穢(けが)れが出て来てしまうからです。


そしてその穢れを嫌う(好むか?)様々な存在がその方に憑(と)りつきます(中には凶暴なものもいるのです)。


それを防ぐ意味でもあまりにも「不敬」にあたると思われるものは掲載していないのです。


私が以前ここでよくご紹介していた「ニサルガダッタ」や「カスタネダドン・ファンシリーズ」などは実は非常に覚醒への近道なのですが、それがまず無理だということがわかってきました。


多くの方には無理な道なのです。
それが今までわかりませんでした。
これは私の特殊な事情にもあるのですが、それにしても気づくのが遅かったようです。


そこで最後の手段である「五井先生のお祈り」をご紹介したのです。
これならばどなたでもできる易行道ですが、それすらも出来ない方もおられるということもあるようです。


その場合はやはり少し無駄でも色々回り道をして、勉強をされてからということになるかもしれません。


そもそも「宇宙全史」第一巻は読むだけで覚醒できる書物です。
私はそういうふうに作っています(特に初版は)。


しかしそれには条件があったということも最近だんだんわかり始めてきました。


これもまたいずれ詳しくお話ししますが「理屈だけで覚醒する」という考案は、条件がそろえば可能なことなのです。
それにしてもほとんどの方が「宇宙全史」第一巻を理解しておられないということには驚きました。

洗練されたエゴ

洗練されたエゴを追求したいと思います。
まず御教示から。
 
「子供の時に育てるエゴは「愛されている」「守られている」「自分は生きていていいんだ」というエゴです。
そこに祈りがあるというのは実はとてもいいことなのです。
ただし親が「ちやんと唱えなさいよ」とか「毎日キチンとやらなきゃだめよ」というようなやり方ではう
まくいきません。
五井先生のようにやさしくお母さんと一緒に祈りましょうねという姿勢がそこには問われるのです」
 
「本当に完全覚醒に至るには適したエゴなど存在しませんが、すでに書きましたようにその前の段階では「洗練されたエゴ」というのが課題になります。
「整理されたエゴ」ともいいますが…
 
混乱した生活からは混乱したエゴしか生まれません(本当は逆でエゴが混乱しているので生活が混乱するのですが)。
常時エゴを見つめ、そこを整理していくと「エゴを薄くする」という次の段階に移行出来るようになっていきます」
 
 
「私たちは覚醒を本心から求めるまでは、エゴを洗練させなければなりません。
 
「エゴを洗練させる」ということはとりあえず、
 
①自分以外のもの(他人や木や雲なのです)を識別する
 
②識別したものと共存できるようにする
 
この二つが人間のエゴにとっての大きな使命です。
 
①は人が幼い頃にエゴを生み出すための作業になります
②は分離した世界で(大人になって)生き抜くためのエクササイズです
 
そして②の中で出来る限り自分(エゴ)の目的にかなった生き方を探るのが「洗練されたエゴ」なのです。
しかしこのエゴの中には、「エゴ」と「自らの本心(良心)」が混じってあります。
そこでどこまで「本心」を出していけるかが本当の洗練された「エゴ」になります。
その上でその「洗練されたエゴ」すらも薄くしていく作業が「覚醒」への道程になります」
 
 
「この地上のとらわれをすべて解くまでは、それまではそれなりに物質の重みといいますか、社会のシステムといいますか、人と人との付き合いといいますか、そういうものとうまく付き合っていかねばならないのが人間の宿命です。
 
どうせ付き合わなければならないのなら、洗練されたエゴで、洗練された付き合い方をしていくのがベストです。
 
そしていつか「もう人間は嫌だ」「人間社会はもう結構」となったら出家するなり覚醒を求めるなりなさればいいのです。
(ここが難しい判断なのですが、それが「逃避」「社会から逃げる」「人から逃げる」という選択はまた別なものです)
 
まだ未練があるうちは供養もしつつ、五井先生の祈りとともに生きていきましょう」
 
 

敬い 謙虚さ

謙虚さと敬いに関するご教示です。

 

2015/2/12 No.2292

 私はあまり「謙虚さ」という言葉が好きではないのですが、それでも広大な精神世界において導きを願うという希望があるのなら、そこには「導いていただく」という一種の「謙虚さ」というものがないと中々上からの指導というものが得られないようになっています。

上の方々はそもそもそういうえり好みはされませんが、こちらサイドが「エゴ」という「非謙虚さ」を持って「あれは嫌」「こっちがいい」「もっと早く楽にして」等々自分勝手な欲望のまま突き進んでしまうと、結果宿命のままの道を歩むことになってしまいます。 
そこには「運命・カルマ」からの脱却という可能性は全くなく、ただひたすらカルマを償却しながら再びその負荷がより深いカルマを生み出す負の連鎖に入っていくのです。 

このBBSを見ていますと、大体どんどん進化していく方というのは、上辺だけではない「謙虚さ」というものをお持ちです。 
それは「己の小ささ」を自覚する謙虚さであり、「エゴというものの愚かさ」を知る謙虚さでもあります。 

よく例えでいわれることですが、 
「コップに水がいっぱい入っていると、そこにはもうそれ以上のものは入れられない」 
「しかし水をすべて捨ててしまえば、そこには信じられないような美酒が一杯入るのだ」 
心の中にエゴという大して美味しくもない水を一杯にしていますと、覚醒という美酒を入れる隙間がないという事なのでしょうが、そのポイントはやはり「謙虚さ」というエゴにとらわれない、エゴから一歩退いた目線が必要なのかもしれません。 

私という存在は見た目には到底「謙虚さ」という言葉とは縁が無いように見えるでしょうが、やはり上の方たちに対して敬うという気持ちは無いこともないのです。 

以前ここでは何度か書いておきましたが、宮本武蔵の晩年の言葉です 

「神仏を敬い、神仏を頼らず」 

「宇宙全史」第二巻がペンディングのままで、宮本武蔵の素性が明確にされていませんが、彼はまさに「神仏に頼らない」独自の道をゆく野生児でありアウトローでもありました。 
その彼が晩年残したその言葉には、人の世でどんな生き方をしようが、人から何と言われようが、自らの思いのまま生き抜いた誇りがそこにはありました。 

しかしそれでも彼は「神仏を敬い」という謙虚さを持つ人物だったのです。 

あるいはそういう謙虚さを晩年持つに至ったといってもいいかと思います。 


この世界に一歩足を踏み入れてしまうと、完全覚醒するまではアルプスの尾根道をゆくようなものです(両わきは断崖絶壁です)。 

たかが胸のチャクラが開いた、クンダリニーが上った程度の覚醒で舞い上がっていたのでは、その時はいいのですが、すぐに陰始に絡め捕られ引きずり落とされていきます。 

その時一番役に立つメソッドが「謙虚さ」です。 

しかし「謙虚さ」を知るには、世界の広大さ、五井先生を代表とする上の方たちの大きさ、高さを推し量る力量がなければなりません。 

しかしそれすらもわからない方たちは「世界平和の祈り」をただひたすら行じて、五井先生にすべてをお預けするしかないのです。
  

2008 年5月18日No.232

 私が「宇宙全史」のワークをしておりますと、
「そこまで疑うか」と上の方に云わしめるほど「猜疑心」丸出しで探求します。確かに私の場合は「猜疑心」丸出しではありますが、それは私のお仕事と割り切ってはいるのです。
宮本武蔵が確かこういうような事をどこかで書いておりました。「神を頼らず、ただ敬うのみ」
私もニュアンスは違いますが、「神を信じず、ただ敬うのみ」
そういうスタンスで、やりくりしております。お分かり頂けますでしょうか。
有難うございました。


2009/2/9 No.528

神話は基本的に伝承として、口から口へと伝えていくもののようです。

本来「信じる」「敬う」という心を物語として伝えていくものなのですが、現代では神話(物語)自体に力が失われてきています。

どちらかといいますと、それは今の漫画やアニメを媒体として受け継がれて行くのかもしれません。

神話に関しましては、教育とか教わるといった概念は、あまりなじまないでしょう。
国や社会のステイタスのための道具となってしまった時点で、それは力をなくしていくものなのです。

それはあくまでも「人と人を超えた存在との関係性」を、「信じる」「敬う」という形で伝えていくものでもあるのです。

これが漫画・アニメを媒体とするときは「ロマン」という形をとることもあります。

自己憐憫

自分の「自己憐憫」のパターンに深く気づき、それを修正しようとすることは、カルマの解消につながり、覚醒の上の段階を目指す上で大変重要な課題です。

 

過去の御教示をもう一度引用します。

 

『あなたが周りの方々を憐れんで見るとき、あなたはあなたご自身をも憐れんでしまっています。
 
それを「自己憐憫・じこれんびん」といいます。
 
それが私がここで言い続けている「人類を自由から隔絶し、縛り付けている鎖は自己憐憫」なのです。
 
本来この自己憐憫がなければ、人はもっと自由に生を謳歌(おうか)できるのですが・・・。
 
自己憐憫とはただ単純に「自分がかわいそう」と思うだけではなく(それがベースにありますが)、
「自分はこれだけ(いっぱし)のものだ」
「本当は自分は もっと出来るのだ」
「もっと幸せであるべきだ」
「そういう状況にあるのはすべてまわりのせい」
「世間が悪い」
「社会が悪い」
「政治のせい」
「親が悪い」
「友達のせい」
「天気が悪い」
「コーヒーが熱かったから」
・・・と延々責任を転嫁(てんか)し続けます。
その結果ご自分の中の本当の原因をいつも見過ごしてしまうのです。
ちょうどあなたがまわりの不都合をただスルーしてしまうように・・・です。』
(2010/5/15 No.1074)
 
『エネルギーをなくし、子供に愛着を持つ親は、
 
①やさしくない
 
②忍耐力がない
 
③情に流される
 
④酷薄になれる(裏切られたと思い込み深い復讐の念を持つ)
 
一般的に③と④は「人間的」といわれている形質でもあります。
 
愛情や愛着という一種の執着を持つ人々は、それが裏切られると思うとたちまち豹変して「残忍」にもなれますし「酷薄」「冷酷」にもなってしまいます。
その残忍性は「愛着」の度合いに比例します。
 
つまり愛着(執着)が強ければ強いほど、裏切られたと思うときにはその反動として強力な復讐心が湧いてくるのです。
 
私が以前からよく申し上げています「情の深い人ほど冷酷になれる」「非情な人が本当はやさしい」ということがここにあります。
 
③と④は情(執着から派生する感情の一種)という一般的に「人間的」といわれている形質ですが、この情に「自己憐憫」が絡むことで、さらにその効果は加速されていきます。
 
自己憐憫」は人類の最大の敵であり、エゴの中心に位置する最強の暴君でもあるのです。
 
「私はよくやっている」
「自分を認めてほしい」
「なぜ自分だけほめてくれないのか」
「私にだけ挨拶をしてくれない」
「ぞんざいに扱われた」
「私だけが苦しんでいる」
「もっといい思いをしたい」
「もっといい容姿に生まれたかった」
「もっといい子がほしかった」
「どうして私にこんなバカな子供が生まれたのか」
「本当はこんな人生ではないはず」
 
そこには「感謝」がないのです。
 
生かされてあるということ、日々の当り前に、ただそれだけのことを感謝できないのです。
 
私たちは過去生からの因縁で生まれ、生き、死ぬということを繰り返していきます。
今自分の前に現れている現実は、すべて自分が招いたものだということがわからないからそう思ってしまうのです(つまり今眼前に現れている現実は、自分が招いたものである。そしてそれは今解消すべき時として、縁あってこうして現れているのであるから、学びとして受け止め精一杯の努力で受け止め解消していくということ)。
 
その形は私たちが「学習」すべき最も効率的なシステムにもなっています。
早くさっさと学ぶべきことを学んで次の段階にいけば、もっと軽い生が待っているのですが、それに足枷を強力につけているのが「自己憐憫」というエゴなのです。
 
「学ぶべきことを学ぶ」とはまず眼前の現実を受け入れるというところから始まります。
それがなければ(つまり試験用紙を受け取るということですが)そもそも試験は始まらないのですが、大概の方はこの段階で挫折してしまいます。
現実を受け止めないのです。
「何かもっといい世界がどこかにあるはずだ」
「自分にはいつかきっと王子様が現れて抱っこされてお姫様になる」
「現実がダメなら精神世界で・・」
「こんなに苦しんでいるのは、きっと自分には救世のお役目があるに違いない」
だから皆さん様々な詐欺や怪しげな精神世界、宗教団体に簡単に引かかってしまうのです。
 
しか現実を受け止めると申しましても、ただ受け止めそこから何の努力もしないというのはまたちょっと違います。
全身全霊でやるべきことをやって、その結果をすべて真摯に受け止める・・それが本来あるべき私たちの姿なのです
2012/11/10 No.237)』

イルプロラシオンのアセンション

別のブログに、上記の名前で、エルカンターレ大川隆法に関わる情報やエルランティ(エンリル)や高橋信二に関する情報を少しずつ挙げています。

イルプロラシオンから一緒にやってきた皆さん、いまイルプロラシオンの大集合魂がアセンションを目指して文字通り大集合しているそうです。

依存から脱却しましょう。

 

「「神が何とかしてくれる」
「これまで神にすがれば何とかなってきた」
「今回も必ず神が救ってくれるはずだ」
                                   
その思いは結局自己の存在を「神」という自分とは別なものへ依存• 委託してしまっています。
そしてその祈りの行き着く先はエル• ランティ派閥かプレアデス派閥、あるいはその背後で牛耳っているエホバにたどり着いてしまうのです。
 
「自己の存在」 「アイデンティティ」そういうものを自分の外に委託、依存してしまうことは、その時点で自らの運命を他人に明け渡したということなのです。
 
そのことに対して私はどこにも誰にも文句をつけようがないのです。
 
エル• ランティ派閥に力を与え続けているのは、地上で信仰をしている方たちなのです( それがどんな宗教であろうとです) 。
 
あるいはエホバにエネルギーを供給し続けているのは、自我自欲のままに他者を操り、搾取し、自分だけの快楽に身を任せる人たちでもあります。
 
そういう方たちが多すぎるのです」

と虚空蔵55様が書かれたのは2008年です。それから、本日まで様々な情報をいただき、陰始(糸)にたどり着きました。

そして地球がそれを整理しようとしています。

 

ぜひ「宇宙全史1」と「20年後世界人口は半分になる」をお読み下さい。