自己憐憫

自分の「自己憐憫」のパターンに深く気づき、それを修正しようとすることは、カルマの解消につながり、覚醒の上の段階を目指す上で大変重要な課題です。

 

過去の御教示をもう一度引用します。

 

『あなたが周りの方々を憐れんで見るとき、あなたはあなたご自身をも憐れんでしまっています。
 
それを「自己憐憫・じこれんびん」といいます。
 
それが私がここで言い続けている「人類を自由から隔絶し、縛り付けている鎖は自己憐憫」なのです。
 
本来この自己憐憫がなければ、人はもっと自由に生を謳歌(おうか)できるのですが・・・。
 
自己憐憫とはただ単純に「自分がかわいそう」と思うだけではなく(それがベースにありますが)、
「自分はこれだけ(いっぱし)のものだ」
「本当は自分は もっと出来るのだ」
「もっと幸せであるべきだ」
「そういう状況にあるのはすべてまわりのせい」
「世間が悪い」
「社会が悪い」
「政治のせい」
「親が悪い」
「友達のせい」
「天気が悪い」
「コーヒーが熱かったから」
・・・と延々責任を転嫁(てんか)し続けます。
その結果ご自分の中の本当の原因をいつも見過ごしてしまうのです。
ちょうどあなたがまわりの不都合をただスルーしてしまうように・・・です。』
(2010/5/15 No.1074)
 
『エネルギーをなくし、子供に愛着を持つ親は、
 
①やさしくない
 
②忍耐力がない
 
③情に流される
 
④酷薄になれる(裏切られたと思い込み深い復讐の念を持つ)
 
一般的に③と④は「人間的」といわれている形質でもあります。
 
愛情や愛着という一種の執着を持つ人々は、それが裏切られると思うとたちまち豹変して「残忍」にもなれますし「酷薄」「冷酷」にもなってしまいます。
その残忍性は「愛着」の度合いに比例します。
 
つまり愛着(執着)が強ければ強いほど、裏切られたと思うときにはその反動として強力な復讐心が湧いてくるのです。
 
私が以前からよく申し上げています「情の深い人ほど冷酷になれる」「非情な人が本当はやさしい」ということがここにあります。
 
③と④は情(執着から派生する感情の一種)という一般的に「人間的」といわれている形質ですが、この情に「自己憐憫」が絡むことで、さらにその効果は加速されていきます。
 
自己憐憫」は人類の最大の敵であり、エゴの中心に位置する最強の暴君でもあるのです。
 
「私はよくやっている」
「自分を認めてほしい」
「なぜ自分だけほめてくれないのか」
「私にだけ挨拶をしてくれない」
「ぞんざいに扱われた」
「私だけが苦しんでいる」
「もっといい思いをしたい」
「もっといい容姿に生まれたかった」
「もっといい子がほしかった」
「どうして私にこんなバカな子供が生まれたのか」
「本当はこんな人生ではないはず」
 
そこには「感謝」がないのです。
 
生かされてあるということ、日々の当り前に、ただそれだけのことを感謝できないのです。
 
私たちは過去生からの因縁で生まれ、生き、死ぬということを繰り返していきます。
今自分の前に現れている現実は、すべて自分が招いたものだということがわからないからそう思ってしまうのです(つまり今眼前に現れている現実は、自分が招いたものである。そしてそれは今解消すべき時として、縁あってこうして現れているのであるから、学びとして受け止め精一杯の努力で受け止め解消していくということ)。
 
その形は私たちが「学習」すべき最も効率的なシステムにもなっています。
早くさっさと学ぶべきことを学んで次の段階にいけば、もっと軽い生が待っているのですが、それに足枷を強力につけているのが「自己憐憫」というエゴなのです。
 
「学ぶべきことを学ぶ」とはまず眼前の現実を受け入れるというところから始まります。
それがなければ(つまり試験用紙を受け取るということですが)そもそも試験は始まらないのですが、大概の方はこの段階で挫折してしまいます。
現実を受け止めないのです。
「何かもっといい世界がどこかにあるはずだ」
「自分にはいつかきっと王子様が現れて抱っこされてお姫様になる」
「現実がダメなら精神世界で・・」
「こんなに苦しんでいるのは、きっと自分には救世のお役目があるに違いない」
だから皆さん様々な詐欺や怪しげな精神世界、宗教団体に簡単に引かかってしまうのです。
 
しか現実を受け止めると申しましても、ただ受け止めそこから何の努力もしないというのはまたちょっと違います。
全身全霊でやるべきことをやって、その結果をすべて真摯に受け止める・・それが本来あるべき私たちの姿なのです
2012/11/10 No.237)』