EOの悟りの定義

EOは、「悟りなき悟り」で、次のように述べています。


 悟りとは、「意識の未分化状態」「非対象化現象」であり、「原初の対象化」によって、「何かを認識したその瞬間」には、すでに分割が開始される。そして、その「何か」の中には、「在る」という「存在感が含まれている」。


 仏陀が、「どうしてもなくならない不安」といったのは、普通の不安のことではなく、意識に発生する「最初の第1分裂」、つまりは、もともとひとつだった意識が、断片化した段階で、どうしても、そこに発生してしまう、「断片化した意識が、元に戻ろうとする衝動」に起因するもの。


 意識の第1分裂というのは、我々人間の中でも休むことなく、今も、起きているわけで、その徹底的な「気持ち悪さ」を、意識しているかいないか。


「微妙な不安」


あの「不条理で奇妙な世界」を、歩いていけるのは、 純粋な「探求者」だけ。


悟り自体を、より変化または、より探索したり、「解明」しようとする人たち。
 
悟っておしまいなのではなく、彼らは悟りのエキスパートであり、「研究家」。


 彼らが解決しようとしたこと、取り除こうした不安というのは、それこそ、「宇宙の創生の段階」で生じてしまった「意識分裂」そのもの。


 存在しているか、いないかの、「基本的認識の明滅」が、「不意に」「消え去る瞬間」のポイントに、うまく、「身投げ」できるかどうか。


 肉体的には、変わらぬ分裂した、破片の状態にあっても、意識の次元においては、宇宙の初期分裂以前の状態になってしまったこと。

 

 人が、「在る」と感じる、つまり「存在感を感じる」ということは、それがいかに、無我の状態や無私の状態や、無思考の常態であっても、「在ると感じる」以上は、それは「非在性」または、何らかの対象に意識が分割されているということである。


「生きているのか、死んでいるのかを、確定するな」 「起きているのか、眠っているのか確定するな」「いるのか、いないのか、確定するな」


「未体験性の連続状態」


闇を対象化しているうちに、主体それ自体が闇に飲み込まれるということによって、一元性を獲得することもある


完全に、未分化、非対象化現象をといあう場合には、肉体上には、そのポイントがありません。言うまでもなく、頭頂よりも上空の空間にずらさないと、そのポイントは見つかりません。


だけです。
ただしこれは、前頭頂部と、頭頂部の十分な訓練がなされた後でしか、効果ありません。
か?
 

この衝動が、断片化した意識に落ち着きのなさを生み出して、意識の「動きを開始する」ための機能をします。機能というより、「罠」ともいえます。
 
つまり、「自分の位置確認」をするために、まずは、「自分の意識そのものの対象化」をはじめてしまい、「何かが違う」という「根本的違和感」を、そこに生じてしまい、何かを「探しに、動き出してしまう」というわけです。


それでも、意識が断片化した段階で、すでに運動を開始します。意識が落ち着かないので、どうにかして、元のひとつの状態に戻ろうとするわけです。


それが、探求者と、そうでない者の分かれ目です。
 
ようは、人というのは、ただ、存在しているというだけで、本来は、十分に、すでに不安な状態にあるということです。
 
体のどこも痛くもない、いつも満腹で、生活不安なし、セックス問題なし、人からも愛されて問題なし、したいことは何でも出来る。
でも駄目なんですよ。
 何をして、何を知って、何が、できたとしても。
例の「ここはどこ?私は誰?ナビ」が、動いてしまっていますから。 
「私は誰?ナビ」は停止することはあっても、「ここはどこ?ナビ」は停止は困難です。
仮に、それもうまく停止したとしても、最後に残るのが、「意識があるのかないのかセンサー」「意識の対象化分裂」です。


 
●ところが、それが極小のミニチュアという形で、つまり、一個人(一固体)の中で、
その最も初期のプログラムを解除する方法があったということ。それが可能であったこと。
それが悟りというものの「探求の歴史の記録」なのです。
 
それが回帰してゆく元の状態にも、多少のレベルがあるようですが、
光ではなく「闇」が介在すると、ほとんどの場合には、似たようなレベルの意識に
還元されるようです。
しかし、その後、彼らが世界の中に存続できる可能性は決して、保障されていないこと、
これもまた、悟りという現象の本質です。
 

【意識という「主体がある」という存在感である】
 
この主体は、「3~2」の領域では、すでに自分の自我というような主体ではないが、
さというのも、人は自分が「いる」のを「感じる」からだ。
それは瞑想に何の邪魔もしないし、延々と続く、ありのままの知覚や無心の邪魔もしない。
 
●だが、これこそが「存在と無」の間にある基本分裂だと言ってもよい。
あるいは、「意識の根本的な分裂」であると。
 
「3」や、特に「2」に至ると、人は、「個」から「全体的な存在」になったと感じる。
しかし、そこにはまだ全体というその領域、存在全体という、あたかも惑星の大気の
ような、「制限された光の世界」があり、
その空気は、そのさらに奥の「宇宙の母体」である「真空=闇」とはまだ対立している。


すなわち、「2」は「純粋存在的」ではあるが、「絶対無」とはまだ「結合をしていない」。
 
そこで、「2」から、さらに知覚の主体が存在する存在感覚を忘却して、「1」の状態に
なると「人間」においては、起きることは、以下の2つである。
 
■1/ひとつは、全く対象が存在しない体験で、これが起きた場合には、
 「2」でまだ存在していた「全体意識という主体の存在感」もなく、
     そこでは、ただ、ただ、歓喜的振動以外には、何も起き得ない。 
 
■2/もうひとつは、そこに知覚の対象物があった場合には、
     そこらにある木や石や情景に対して、人は全く分離を感じることができなくなり、 
したがって、石や木そのものに「なっている」という神秘体験をする。
 
和尚が、自己描写している彼の21歳のときの体験は、これである。
庭の木の葉脈までもが輝いて脈打って見え、あまりの至福で窒息しそうになった、
というものである。
 
●2の状態は、「ただ見ている」「ただ聞いている」。 
しかし、聞いているその「主体」は、まだそこにいる。
それは、「私」が音を聴いているのではないが、「意識としての主体」が、
無心に聞いている、または、自然にただ「聞えている」というのが「2」である。
 
●これに対して、「1」では、その主体すらもない。
もしもそこに対象があれば、「ただ対象しかなく」もしもその「対象すらもなければ」、
そこには純然たる「至福の充満」だけしかない。
 
これが人間の中では、たまたま「至福」として経験される、その最大の理由は、
おそらくは、EO師が「反逆の宇宙」の著作で解説していたように、「フィードバック発振
の状態」に似たことが、 意識のかなり深部で生じていると推測が出来る。


■「4」の中にいる、多くの者は、どういう人生をどう生きたり、何を多く知ったり、
実際に「体験」したり何を「体得」したとしても、単に「混乱の世界」を生きている。
それは、ただの知識、ただの記憶、ただの経験、ただの主観的世界だ。
 
いかに天才的になり、職人的になり、技を磨いて、何かに熟達して、
人生に成功したとしても、それは、まだ「思考操作の世界の事」にすぎない。
 
■「3」は、思考を操作するのではなく、思考との「同化を断ち切る道」である。
 
■「2」は、思考との「同化」を切るのではなく、「思考そのもの」を切断する。
 
■「1」は、無知覚、無対象でも、なおもそこに残っている「主体」を切る
(または溶解させる)ことである。
 
「2」の状態は、一生やっていても問題はないが、
「1」の状態は、高純度で、継続的に肉体にその負荷がかかれば、1ヶ月で死ぬと
いわれている。つまり厳密な意味においても「1」の状態の不断の持続のみが、
いわゆるサマーディと呼ばれるべきものである。
 
EO師は、「1」を基本ベースとして、一方の普通の生活では、「2から3」の間を
往来しつつ生きたようである。
また、EO師は、「1」の至福の中から、人間生活への「散歩」をしていたようです。
 
●ちなみに、死人禅の行法をやっている人たちは、かなり真面目に毎日継続して行った
とすると、ほとんどの人達は、容易に、まず、「3」に移行します。
 
この理由は、通常、「4」の混乱して、習慣的で統制のとれない、錯乱した思考、つまり、
自分で勝手に考え、勝手に連想し、勝手に苦しみを生み出している状態の原因となる、
眉間への集中が、「それよりも上の部位」へと上がるからです。


●ところが、「3」から、一向に、思考が完全停止した「2」へと移行しない場合には、
「闇の瞑想」、つまりは「0」の浸透が不足しているということです。
あるいは、何かひとつかふたつ程度、常に定期的にひっかかるテーマの思考が、
ずっと居座っているという場合が多い。
もしも、そうしたひっかかりが「現実に行動すること」で解消されてしまう場合は、
さっさと現実の行為によって解消してから、また座ればよいのである。
 
こうした場合には、かならず意識が、頭頂部ではなく、「河童の頭の、皿の部分」のように、
頭頂部を中心とした、半径十数センチの「円状」に広がってしまっています。
このときには、どうしても、しつこく気になることをさっさと、片付けるか、
さもなければ、「0」を注入するような闇の瞑想がなされれば、頭頂部の狭い中心に意識が
集束して、「3」の「思考観照」という状態から、「2」の「無思考状態」へと移行します。
 
●また、「2で止まったままになった者」がどうしても「1」の爆発を経験したいと思うの
ならば、意識を頭頂部から、その「上空の体外へ出す」以外にありません。
これ故に、和尚は「私は、常に肉体の周囲に舞いあがっている」と言っていたのである。
実際には、肉体の頭頂の上空に意識の集束点が移行したとき、人は「1」を実現します。
このときには、主体感覚すらなく、在るという感覚もなく「在る」、
つまり、和尚が「存在の詩」の、その最終章で、
 
       「全く、逆説的な意味において、あなたは在る」 
 
と述べたのが、この次元のことである。
意識の主体すらも失ったこの状態は、いわゆる宇宙意識ですらもない。
また、EO師は、この「2」から「1」への移行を刺激するような公案をいくつか
残していることは、よく知られたとおりです。
たとえば、まずは、ただ知覚が連続している「2」の状態に調整してから、
そこで、知覚している主体の意識が「そこに存在している感覚」が生ずる、「その手前」へ、
「それ以前の未知の領域に飛び込め」というものです。
「意識の存在感を感じる、その手前には、何があるのか?」という公案である。


なぜ、そこに「飛び込め」と言われるといえば、それは、それまで静寂な状態を維持して
いた「2」すらも失われるために、悟っただのと自負している者たちでさも、そこで、
「さらなる無知」に飲まれる恐怖から、「躊躇してしまう人達」がほとんどだからです。
 
また、いわばその「神域」は、「理解してはならないもの」であり、逆に、理解こそが邪魔
になり、そもそも、そこを「観察の対象」として「認識すること」すらも、
「1」への扉を閉ざすことになるのである。

 


●確かに、もしも「2」の状態にあれば、迷いというものもなく、自己感覚もない。
しかし、それでも座り続ければ、そこには「2」の限界が歴然と立ち塞がるのである。
座禅というものは、思考の妄想癖、頭の中のおしゃべり癖から脱却する技法である、
と同時に、あるレベルからは、何年も、時には死ぬまで「一歩も先に進まなくなる」
という「限界」を徹底的に瞑想者につきつける、という「冷酷さ」を持っている。
 
悟ったなどと思い込んでいる老師が、只管打坐をいくら続けて、あるいは只管打坐を
いくら弟子に強いても、悟りに対する「構造的な体験的把握」がなければ、
「2」から「1」へと移行することは、決して出来ない。
 
■「禅」というものは、闇の粗悪な「代用品」として、「無」という公案を取り扱うために、
闇によって、3から2へと移行するパターンが非常に多い。


●確かに、もしも「2」の状態にあれば、迷いというものもなく、自己感覚もない。
しかし、それでも座り続ければ、そこには「2」の限界が歴然と立ち塞がるのである。
座禅というものは、思考の妄想癖、頭の中のおしゃべり癖から脱却する技法である、
と同時に、あるレベルからは、何年も、時には死ぬまで「一歩も先に進まなくなる」
という「限界」を徹底的に瞑想者につきつける、という「冷酷さ」を持っている。
 
悟ったなどと思い込んでいる老師が、只管打坐をいくら続けて、あるいは只管打坐を
いくら弟子に強いても、悟りに対する「構造的な体験的把握」がなければ、
「2」から「1」へと移行することは、決して出来ない。
 


●なお、「1」や「2」に行くと、主体としての個体性は失われるが、ただし、それを表現
する「出力側」には、それまでのその個人の経験的な個性が「表現手段」に活用される。
個性というものは、意識して育てるようなものではなく、こうした、「上の次元から」の
自然な活用のされかたをされないかぎりは、その一方、普通に言われるところの個性は、
ただただ、その人の「悪癖」にすぎないものも多く、それは、本人にとっては、
自分という限界や周囲との誤差を、いちいち不安や苦痛として自覚してしまうような、
ただの「居心地の悪い記憶の集合」でしか、あり得ないのである。


 
●では、どうして意識にシャッター開きっぱなしみたいな解放状態である「散開」が
生じるのかというと、それは、まず「思考停止」=「2」から始まり、
次に「意識が対象化の癖を放棄したとき」=「1」です。
 
その時、本人には、「わからない」の「連続」だけが起き続けます。
全く何もわからなくなる、という状態に占領されると言ってもよいだろう。
ここまでくると、能動的に何かに意識の焦点を合わせることは不可能で、その結果として、
開いたシャッターの中に、対象物が勝手に入り込んでくるという状態になります。
 
それゆえに、禅などの初歩的なレベルの悟りが、さらに、もう一歩、
その先の、停止状態に占領をされたときの特徴としては、
「圧倒的な受動性」「特定の焦点の消失」「意識というフィルムが、光で焼き尽くされる」
ということが起き、これが正確な意味でも、俗に言われる「神秘体験」の全容です。
 
●そして、ここからその感度を、調整して帰還する人達もいます。
もしもこれを再び感度調整しないで、シャッターを開放のままにした場合には、
数週間で肉体(特に脳)は、破壊されるといわれています。
ただし、ほとんどの場合には、この世界に帰還することになるでしょう。
「完全に、生まれ変わった者」、または「原初の意識を追体験した者」として。

宇宙全史の英訳者からの質問

虚空蔵55

2014/1/24 No.255
 
只今「宇宙全史」第一巻の英訳が進んでいますが、その最中にもたらされた訳者からの質問とその回答になっています。
まだまだ全訳までは道遠しですが、とりあえず「宇宙全史」を研究されている方への参考書として、また補填材料として活用されればと思い掲載いたしました。
 
「訳者からの質問」 ●訳者 ○虚空蔵55
 
●心ある方々による「世界平和の祈り」をアンドロメダの方々が増幅し宇宙の応援をこの世に顕現させることと「ソロモンの叡智」とは、どのようにして大アセンションのイベントを決定づけるのでしょうか?
 
○ソロモン(地球の良心の化身)は、この終末期に地上にあることが出来ません。 よってその叡智はその弟子により反映されなければならないのですが、その弟子(大魔法使い)は現在幽冥界で拘束されています。このワークの初期の頃、私としばらく交信しておりましたが、そのあまりの強大な魔法の力と、彼のエゴのバランスがとれずに、幽閉されています(私の肉体を何とか乗っ取ろうともしていましたが、月読の大神の管理下ではどうにもならなかったようでした)。 ですからどうもそのあたりの按配は、私が何とかしなければならないのかもしれませんが、いかんせん私が覚醒できない限りまず無理な話なので、どうもその辺の要素が大きく絡んでいるのかもしれません
 
●「肉体の死」を体験せずにダイレクトに大アセンション後の世界にいく方々というのは、大アセンションのイベントを待たずしてそうした世界に移行していくのでしょうか?
 
○大アセンションを待たずして行く方もおられます。肉体的に死んで行く方もあれば(これが普通ですが)、稀に肉体のままアセンションするカタもおられます(仙人やドン・ファンのような存在です)
 
●大アセンションのイベント前に何らかの理由で(寿命や病気、事故等で)亡くなる、もしくは地上からいなくなる方々を「大アセンション後の世界  にダイレクトに移行する人」「地球霊界にとどまり地球で暮らす人々とともにアセンションする人」「ディセンションする人」の3パターンに分け  るとすると、それらの割合はそれぞれどのようになりますでしょうか?  また、大アセンションが起こるまでに亡くなる方々は全てこの3パターンにあてはまりますでしょうか?
 
○質問が間違っています。 パターンがあってそれに人類の行くすえが決定されるのではなく、人々の動向がパターン(割り振り)を決定していくのです。 つまりどこまでどれだけの人々が気づきを得ていくかということが、その全てを決定づけます
 
●大アセンションまでの浄化(選別)とは、漸次的に行われていくものでしょうか? それともこの選別にも大アセンションに対する「大ディセンション」のような形で何らかのイベントが予定されているのでしょうか?
 
○地球が決定的な岐路に立つ時があります。 それが目安として、現状2036年となっていますが、その「岐路」がどちらに傾くかで「大アセンション」か「ハルマゲドン」かという分かれになります。 またそうハッキリとは明確に区別できないような、どっちつかずの「岐路」もありえます。 その場合はやはり中途半端な事象が地上を覆うことでしょう
 
●エホバやエル・ランティは大アセンションの前に何かしますでしょうか?
 
○それぞれ色々やっている(あがいている)ようですが、いかんせん人類と同じく彼らにも残された時間は少ないのは否めないようです
 
●大アセンションのイベント後も地上に残り、ハルマゲドンの最中にあってアセンションしていく人々というのはどのような方々でしょうか?
 
○大アセンションの後地上に残る人は大きく分けて2種類あります。 1つは荒廃した地上に残って、そこでしかるべき学びを受ける人たち。 もう1つは、地上に残らざるを得なかった学びの薄い人々を導いていくためにあえて自ら残ることを選択した人々です
 
●「大アセンション後の世界」というのは「次元上昇した地球」のことでしょうか? それとも、アンドロメダ銀河にあるという「地球によく似た星」のことでしょうか? もしくは、どこに行くかは問題ではなくそれぞれがそれぞれの境涯に合わせてバラバラな星へいくのでしょうか?
 
○大アセンション後の地球というのは、ここでは荒廃した(次元がそのままマカ、幾分下降した)地球のことです。 「非公開情報6」で明らかにしましたが、人間にあるパラレルワールドは地球にもありまして、次元上昇した(アセンションした)人類がいなくなった地球は、それまでその人たちの力でなんとか保っていた次元が下降してしまい、より低い次元に移行します。 厳しいい状況になりますが、そこからの学びが課題として残された人類には与えられます
 
●地球自身のアセンションは地上から人類がいなくなった後に起こるのでしょうか? もしくは「次元上昇した地球」と「次元上昇しなかった地球」に分かれるのでしょうか? また、アセンション後の地球は何次元になるのでしょうか?
 
○地球の振り分けは、人間と同じで先ほどの質問の回答にあるとおりです。 またアセンション後の地球の次元は、その分岐点(大アセンションかハルマゲドン)の有り様に委ねられます
 
●大アセンションのイベントとは具体的にどのようなものでしょうか?
 
○これもその時点での人類の段階によるのです
 
●P64、後ろから2行目~ 「サナトクマラのサナトは死んでから~普段は〝サナト・何とかジャーナ〟と呼ばれて~」←「サナト」が贈り名であれば、普段(生前?)の呼び名にサナトはつかないのではないでしょうか?「クマラ」が贈り名だったのでしょうか?
 
○今でもそうですが、生前からでも特殊な能力・力を持った人には、人々が「聖なる・・」という敬称をつけて呼ぶことがあります。クマラも同じで、生前そういう形で一般に呼称されていましたが、亡くなった後「聖なるクマラ」という尊称を正式に献呈されています
 
●P468、1行目~ 「でも私たちが主に問題にしているのは物質体としての魂なのです。各階層にある魂の基準がひとつの要素として物質波動にはあります。その波動の周波数とは何を意味するかということです。」 ←ここでの論点は何ですか?
 
○この解釈は難しくて・・「各階層にある魂」というのは、「各階層にある自我」のことで、そのひとつとして物質界にある魂(自我・エゴ)の振動数のことについて書いているようです
 
●P500、9行目 「修羅界」←地球霊界構造でいうとどの辺りにございますか?
 
○この時空は非常に特殊なものでして、いわゆる層としてあるのではなく、縦に連なる(あらゆる階層を貫いて)有り様で存在しています。 ですから幽冥界にもあれば、霊界の上下界、神界、天界にまでその存在は及んでいます この特殊構造はそもそもこの宇宙が二元性に基づいて構成されているというところにあり、あらゆるものが二元の相克により現象として現れるために、その象徴として(象徴だけではなく具体化した存在でもあるのですが)の存在意義を有しています。 ですからこの宇宙に現れとして存在する限りは(ニサルガのように超越しない限りは)、神々といえどその有り様は二元対立の原則から離脱し得ないのです(もちろん現象界のような 切った張ったという低いレベルの表れではないのですが・・例えば「宇宙全史」第一巻に出てきました高次の銀河団と半銀河団との相克などです)
 
●また、以下の重複箇所に関してどちらを採用すべきかのご回答を確認しないままにしておりました。
 
○基本的に違和感が少ない限りは、このままでお願いします。 そもそも「宇宙全史」は、みわとの共同作業で、いついかなる時にどういう情報が降りてくるかは明確にできない状況での収録をしています。 その都度収録しているのですが、それを後から私がまとめているのですが、未だ覚醒していないため、明晰性にも限界があり・・おかしいかもと思いつつも修正できないまま掲載しています・・が、それはそれでいいようで、宇宙全史とはそういうワークなんだということ前提でお読みいただければいいと思います
 
●75頁の後ろから7行目以降と536頁の前から7行目以降の「以上が最近気づいたこと~」という文章
 
○75頁からの部分を削除してください。 更に74ページの後ろから6行目からも全て削除お願いします。 「宇宙全史」第一巻でダブっているところは、よほど違和感が無い限りそのままで結構です。 こういう文章を一巻の初めのどこかに挿入しておいてください↓ 「この宇宙全史は地上を遠く離れた異世界の様々な存在からの情報をみわと私が共同で取得し掲載したものですが、その情報が私たちにもたらされる時、本来まとまっているはずのものが、時空間の歪みやみわや私の精神的・肉体的なフィルターを通ることで(こちらサイドから見ると)テンデンバラバラに降りてくるように見えることがあります しかし後できちんと整理しまとめてみると、筋の通った情報につながります。 そこでとにかく降りてきたら「まず収録」というのがこの宇宙全史のワークの有り様になっています。 この本もそのようにして書かれたものですが、色々事情がありまして、複雑な構成を余儀なくされたばかりに、あちこちダブった文章が散見されますが、それはそれで有効な情報になっていますので、そのままお読みください。」 以上です
 
●24頁の前から3行目以降と522頁の後ろから3行目以降の「M理論にはまだもう少し先がある」という文章
●508頁の後ろから4行目と517頁の前から2行目の「グッドリーカンパニーがフリーメイソン支部団体である」という内容
●280頁の後ろから6行目と381頁の後ろから5行目の「1970年代のような~」という文章
●279頁の前から7行目以降と381頁の前から4行目以降の「ムルタルの街角の娼婦」に関する説明箇所
●278頁の前から4行目以降と380頁の後ろから5行目以降の「蜂人間」に関する説明箇所
●278頁の前から1行目以降と380頁の前から5行目以降の「ドラえもんの占い師」に関する説明箇所
●277頁の後ろから8行目以降と380頁の1行目以降の「とり人間」に関する説明箇所
●278頁の後ろから5行目以降と379頁の後ろから6行目以降の「まんじゅう星人」に関する説明箇所
●283頁の後ろから6行目以降と378頁の前から3行目以降の「ムルタムの支配者階級」に関する説明箇所
●275頁の前から1行目以降と377頁の前から6行目以降の「ムルタムの言葉」に関する説明箇所
●P4、3行目 ここでの「存在」とは実存、もしくは世界全体のことでしょうか?
 
○存在と実存は全く異なるものです。 実存は究極の有り様だとニサルガが明らかにしてくれましたが、それでも遥か上位の存在から見ると「実存」すらも「深遠」に至る中間地点だということも明らかにされています。 しかし「存在」は明らかに二元性の産物で、「存在」と「非存在」の双方があって初めて成り立つものですから、非常に根源的な言葉のようですが所詮はかないものになります。 私は解るものという前提でニサルガやドン・ファン、五井先生を説いてきましたが、今の時点でほとんどの方たちが理解していない(し得ない)という事実に愕然としている状況です。 私たちの宇宙を含むすべての存在・ALL・・か(この私たちの宇宙+他の宇宙を含む実存→さらにその実存を含む(超えた)存在→さらにその存在を超えた存在→・・・・といまだ私の探求は行きつく先が見えていませんが、そのすべてを包括するもの=ALLといっていいかもしれません
 
●P4、4行目  「「宇宙」の章」が本文に見当たりません。説明が必要でしょうか?
 
○この私たちの宇宙限定の説明をする章が存在するのですが、それがまだ明かされていません。おそらくその一部が第二巻で記されます
 
●P4、8行目~ 「元素記号でできた」とは、「元素記号で表現できる」もしくは「元素でできた」という意味で解釈して宜しいでしょうか。
 
○確かに少しおかしな表現でした・・「同じ元素で出来た」に換えていいと思います
 
●P4、11行目~  「基本」の章が本文に見当たりません。説明が必要でしょうか?
 
○これもありません・第一巻に分散されてしまっているので、ここは修正が必要でしょう。 「修正」↓  今ここではこれから読んでいただく「地球全史」の予備知識としてとりあえずお持ちいただきたい概念を簡単にご説明しております
 
●P5、後ろから6行目~  「「基本」の章」がございません。削除して宜しいでしょうか?
 
○削除OKです→「物質周波数は「基本」の章及び(なし)「地球霊界構造」の章で詳述しておきました」
 
●P7、8行目~ 「「基本」の章」と「「宇宙」の章」がありません。補足説明が必要でしょうか?
 
○この部分はそのままで→(「宇宙の章」「基本の章」は第二巻以降で詳述されるはずです)
 
●P8、5行目~ 「なぜなら」とはどのような接続でしょうか?
 
○削除OK
 
●P9、後ろから5行目~  (本文)  「物質波動」とは、物質の根源を追究していきますと波動であるという理論が現代の量子論にあります←「「物質波動」という表現が量子論にあり、これを踏まえて作った言葉」という意味でしょうか?
 
量子論にあるからそこから作ったということではなく、そこに合わせて説明したといった方がいいかもしれません。 上の方は私が「物質波動」という言葉を使用することにあまり好感触を示していません。どちらかというと「人間界の理解のためにやむなく使用することを許可する」という感じです。 ですからもっと何かいい表現方法や説明があると思うのですが、私が一部の量子力学の概念しか知らないためこういう表現になっています(確かに物質は根源的に波動なのですが、それが何の波動か(媒質は何か)ということが問題なのだと思います。おそらくエネルギーの波動なのだと思うのですが、それを単純に「物質波動」と表現してしまうところに違和感があったのでしょう)
 
●P4、1行目~ 「私たちはたとえ閉じ込められているとしても、その外には私たちの太陽系を含む銀河系があり~」とありますが、銀河系の大きさを持つシールドの中には  太陽系しかないのであれば、シールドの「外」にあるのは「銀河系」ではなく「銀河」もしくは「銀河星雲」ではないでしょうか?
 
○これはどちらでもいいようで、言葉の問題のようです。訳すとき困るようであれば、「銀河」「あるいは「銀河星雲」でも結構です。ちょっと質問の意味がハッキリしないのですが・・ ↑ この質問は「銀河系」という言葉自体が一般には「銀河の中でもさらに太陽系を含むもの」という限定的な意味で使われており、その「銀河系の大きさのシールドの外」ということですので、銀河系よりも大きな「銀河(もしくは銀河星雲)」という表現の方が適切ではないかと考えての質問でした。 どちらの表現を使うかは翻訳者と相談します
 
○銀河系が限定的に使用されているということは知りませんでした。  本当でしょうか? また太陽系の時空間が銀河の大きさだとしても、それは本来の銀河系とは全く関係ありません。 そこを関係づけようとするところに無理があります。 次元が異なれば、時空間が折り重なっていても全く関係性を持たずに存在できるのです。 そういうわけで「銀河系よりも大きな銀河」という概念は存在しないと思います。   私の記憶では「銀河」「銀河系」「銀河星雲」は細かな部分ではニュアンスは違 いますが、ほぼ同じ概念です。 ただ銀河系という意味には、銀河星雲以外にも、銀河と明確な重力関係があるアンドロメダなども含むことがあるかもしれません
 
●P5、最後の行 「真空伝達要素」←一般の表現で見当たりませんでした。「真空中で伝達される地球世界の構成要素」位の意味でしょうか?
 
○宇宙空間であるところの真空中を伝播するエネルギー要素という意味です。 例えば「光」あるいは同じく「電磁波」といったものです。 シールドされている太陽系に外部から届くエネルギーという意味です
 
●P21、8行目~「〝宇宙全史〟は、全世界の約37万人の方たちをターゲットに書かれています。この数字は人類のわずか14パーセントのさらにまた1パーセントの数です。」 ←ここでの「37万」という数字が、2007年の国連調査による推定の世界人口(66.7億人)から割り出せないのですが、これはどういう理由でしょうか?
 
○この数字はいつも算出法を忘れてしまい困っているところのものです。 当時の人口66億人×14%×1%×0.3%という計算式だったような気がしますが・・これだと約28万人になってしまいます。 もう一度確認しますので(実はすでに何度も確認しているのですが・BBSでは過去に正確な算出法があるはずです)しばしお待ちください ↑ 確認したところ28万人が正しい数字でした (本来何%とかおっしゃらずに何人とハッキリおっしゃって下さればいいと思うのですが・・そこはどうやら人類を個々人では見ておられずに、全体をひとかたまりとしてその何%の部分が・・という感じで表現されているような気がします。そしてその割合(%)は、日々刻々と変化しているのだと思います
 
●P22、後ろから3行目~ 「~地球の二元性と関係がある~本文でお確かめください。」←本文で「時間」と「地球の二元性」の関係についての説明箇所が見つかりませんでした。BBS抜粋の箇所ではありますが補足説明が必要でしょうか?
 
○二元性自体は単純に説明できるのですが、地球に組み込まれている時空間に反映されている二元性は、「宇宙全史」全体からくみ取らねばならないほどややこしい構造(概念)になっています。 つまり「本文」とは、これから継続して発刊されるであろう「宇宙全史」も含めての本文で、そこから学んでくださいという意味です
 
●P23、12行目~ 「この物質波動論は~本の中では詳しく説明しております。」 ←8章で物質についての最低限の説明はなされていますが物質波動論の詳細はなかったように思われます。こちらもBBSの抜粋箇所ですが補足説明が必要でしょうか?
 
○確かに物質波動論は詳述していません・・するつもりでしたが、いろいろ事情があり放置されています。  
①物質波動論はシンプルに物理学の量子力学の概念に準じています。  
②しかし月読の大神からは、あまりなじめないという感触を頂いていまして、そのまま進めていいのかどうか迷いがありました(物質波動論というより物質波動の係数・・物質波動が400とか120とかいうやつですが、あれは私が考え出した概念で、人類にわかりやすい目安と思ったのですが・・・月読の大神はお付き合いしてくださいましたが、やはりなじめないようでした)。  
③そんなわけでいつかどこかで修正が入ると思いますが、今はこのまま進めていきます。  
④ただ物質波動論に関しましては、詳細はないという注意書きを入れても構いません
 
●P25、1行目~ 「(ミノタウロスは)現代でも存在しております」とありますが、これは「地球霊界に魂として存在している」という意味でしょうか?
 
○形として顕現するには時代が固まってしまっていますので、中々難しいのですが、確かに魂としてはミノタウルスという種族は存在しています。そして普通に人間として生活しています。 直接人間を食べるという性癖も持っていますが、「狩る」という傾向の強い者た ちです(まれに食べたりもします)
 
●P25、8行目 「エホバのように」という箇所は「エホバもまた」という解釈で宜しいでしょうか?
 
○解釈は結構ですが、文章はそのままで
 
●P26、13行目 「〝認識〟の章」←こちらは2巻以降ということで宜しいでしょうか?
 
○これも書いていません。 BBSの方で小菅正三さんの著作を紹介したくだりで、少し書いた覚えがありますが・・いつかちゃんと書きます
 
●P28、6行目 「〝平行宇宙〟という項目」←7章における図入り(p438)の5次元平面での無数の世界線の説明のことでしょうか? ←また「パラレルワールド」の訳には「並行」が一般に使われるようですが、宇宙全史では「平行」で統一して良いでしょうか?
 
○実は平行世界もパラレルワールドも間違ってはいませんが的確な表現とはいえないのです。ですのでどちらも使用しているのですが・・どちらかに統一しても結構です。 これもそのうちキチンとした構造を説明しなければならないのですが、まだまだそこまで皆様がついてきていないということと、宇宙全史が続刊出来ていないということがあります。 (この問題は「非公開情報6」である程度解明しておきました)
 
●P28、16行目 「実質上のアセンション」と「実際のアセンション」という表現がありますが、これは具体的にそれぞれどういう意味でしょうか?
 
○「実質上」というのは、その区切り(時間)でアセンション出来る人たち・出来ない人たちという振り分けをします。 そこから「実際の」までは、上の方たちや、それに連なるいわば事務手続きといいますか・・まあ・・色々ややこしい準備があるようです(この間に振り落とされた人たちを、出来るだけ拾い上げようとする働きをする方たちもおられます)。その期間を「実質上の」としています
 
●P37、11行目~ 「(2007年)12月20日に起こったことですが、本では書けるようになっていると思います。」 ←本文に見当たりませんでした。この内容は「時間」の本で語られるということでしょうか?
 
○少しはBBSなどで書いていますが、きちんと書いていないと思います。  そのうち書きますが・・証明が難しい事件です。  例えば私が元いた世界と今の世界との相違・・というものが「具体的に指摘できない」ということがあります。  世界一の高さのエベレストですが、あれは現在の世界では8848メートルという高さですが、前の世界では「8」が3つ付くという数字ではなかったような気がしていますが、はっきりとは覚えていません。  それは私が覚醒していないから起こる現象で、そういう客観的な事実は、私のあやふやな記憶に頼るしかなく、どこかに拠り所がないかと今でも考え続けています  ただ一つ・・客観事象ではなく、主観的なものでは明らかに異なるということがありますが、それはまたその時に書きます。 (この問題も「非公開情報6」で解明しておきました)
 
●P39、1行目 「守護霊神」←「守護神」でしょうか?
 
○私を司る方たちはちょっと複雑でして、本来は肉体(家系にまつわる)の霊人が守護霊をやるのですが・・それはおられることはおられるのですが、他があまりにも巨大な神霊なので、隅っこでちょこんとおられるような形になっています。 私の直接指導は大魔法使いのじい様ですが、この方は本来なら「守護神」という働きをされる方ですが、その上に五井先生や植芝先生、宇宙神であられる月読の大神などが控えておられるので、役割としては守護霊という形になってしまっています。 ですからここでは守護霊神という表現になっています
 
●P56、3行目(質問文章中) 「高次元(愛の方)の場合は対象」←不自然に挿入されており以下の内容と若干重複しています。英訳においては削除して宜しいでしょうか?  
 
○これはどなたかの質問の文章ですので、あまり厳密に考えなくてもいいと思うのですが・・英訳に支障があるのなら削ってもいいかとも思います
 
●P61、5行目 「高級心霊」←「高級神霊」でしょうか?
 
○これは単純に間違っていました。修正しておいてください
 
●P68、7行目 「円ではなくリング」←一重ではなく二重ということでしょうか?
 
○言葉が足りなかったようです・・円とは円盤のことで、リングとは腕輪のような感じのことです
 
●94頁3行目~ 「やがてセッションが進むにつれ方向性がかなり違ってきました」
 
○本来は書いてあるように(一般的な)科学的探究として地球の歴史を霊的に調  べていこうとしていたということ。  それが次第に科学的な(現在の人類のアカデミックな認識レベル)探究を超えた段階にまで参入した記述が必要になってきているということです。  しかしその段階における「科学的な認証・証明」ということは、後の世の研鑚に待たねばならず、私たちはただひたすら現在の地球の進むべき方向性を、この探求の中で見出していかねばならないのです
 
●94頁8行目~ 「2008年という時代の制限」
 
○私たちのワークでは、毎年毎年ある一定の段階をクリアしていくという制限(もしくは修行)を課せられています  この年の制限が何であったのか既に忘却してしまっていますが、おそらく「2012年の地球滅亡」という実際に目の前に迫った区切りを回避すべくあった課題であったと思います。  この「2012年」の区切りは、五井先生によってすでにある程度回避されていますが、それでもその余波のようなもの大きくこの世界に反映する予定ではあったのです(地震や災害ですが)。 それを出来るだけ少なく回避すべく、(当時の私たちはまだ力不足でしたので) 「宇宙全史」という本を出すことで、その代替としたようでした
 
●P134、後ろから5行目 「この本の成り立ちは最終章で詳しく書いておきました」←見当たりませんでした。抜けているか、散逸しておりますでしょうか?
 
○なし。削除OK
 
●P161、最終行~ 「モーゼという存在が〝怒りに震える神〟というものですから、そのモーゼの神はいわば地獄霊のような存在~」 ←モーゼに対する「怒りに震える神」という表現は一般的には見られないのですが、これは宇宙全史におけるモーゼの魂の位置づけを表わしたものですか? 「そのモーゼの神」というのは、「怒りに震える神としてのモーゼが信仰していた神」ということで、更にはそれがエホバであったということですか?
 
○モーゼも次元が高く「神」といえるということ。 「怒りに~」というのは宇宙全史における位置づけを表現したもの 「地獄霊」は「地獄神」に修正 例えばも少し卑近な例いいますと、ビリケンさんという可愛い神様がいますが、あれの本体は「小鬼」です。 小悪魔に近い存在ですが、人間からすると「願望成就(限界はありますが)」の神様というカテゴリーになります。 また「菅原道真」を祀ってある全国にあります天満宮ですが、あれも神社であり、神様になっていますが、菅原道真自体は「うらみつらみ」の象徴のような方です。 そのレベルでも神として崇められれば、神となるのがこの世の有り様なのです。 言ってしまえば神にも色々ありますよ・・ということです。 (菅原道真自体は、自身がそういうレベルの解消すべき形質を持ちつつも、神としての存在と崇められつつ、そこで自ら学びと進化をしていかねばならない存在と言えるのです)
 
●P166、3行目~ 「そういう状態にあるとき」とありますが、これは具体的にどういう状態のことですか?
 
○進化の途上で肉体偏重の時とそうでない時もあるということ
 
●P179、3行目~ 「とりつく相手の姿に変化します」←相手に合わせて変化するということですか?
 
○とりつかれた人が、ニビルにいる存在のことを自分に似た物として認識するということ
 
●P179、後ろから4行目~ 「ニビルは最後にエンキというものが出現しています」 ←ニビルという星にメソポタミアのニビル信望者の影響でエンキという存在(住人?寄生体?)が生まれたということでしょうか? もしくは単純にニビル派がエンキという神をまつり上げるようになったということでしょうか?
 
○エンキという神を崇めるようになったということ
 
●P268、2行目 「〝精神世界〟の章や〝宇宙〟の章~」←「精神世界」の章も2巻以降に収録予定でしょうか?←補足説明が必要でしょうか?
 
○「この事実は「精神世界」の章」←以下加筆「(存在しません)」や「宇宙」の章←以下加筆「(第二巻以降で説明していく予定です)
 
●P268、最終行 「〝イエス〟の章で詳しく明らかに~」←6章の「イエスの前世(27万年前)」で書かれてある、住居周りのブロックにウランが入っていた話でしょうか?
 
○6章の「イエスの前世(27万年前)」で、に修正
 
●P281、4行目~ 「量子力学と申しますのは突き詰めてしまえば、人間の五感の限界を見定め、その〝観察〟限界の中の科学としているところに現実性があるのです。」 ←一般的な認識と違い量子力学というものの実態はあくまでも「人間の観察限界内の事象を対象とした科学」であり、だからこそ現実に応用が出来ているということでしょうか?
 
●五感の限界外の事象をその限界内にもってきて理解できるようにしている所に価値がある、ということ
 
●P290、後ろから3行目 「実はまだ~そのことはまた後ほどお話します。」←具体的な箇所を意図しておりますでしょうか?それとも全体に散逸しておりますでしょうか?
 
○後に出てくる色々なこと。このまま加筆無しでOK
 
●P420、7行目~ 「それではこの後はキリスト教創始者であるイエスの生涯と私の好きな二人の日本人のカッコいい死に様をご覧ください。」 ←「イエス」と「二人の日本人」の章までは4~5章をまたぎますがこのままの表現で宜しいですか?
 
○章はまたぐがこのままでOK
 
●P425、後ろから5行目 「〝宇宙〟の章の〝実存〟の項」←「宇宙」の章が2巻以降ということはこの前に説明していますが、「〝実存〟の項」についても補足説明が必要でしょうか?
 
○以下に修正→「いつか書くであろう「実存」に関わる文章をお読みください。」
 
●P431、3行目 「高橋信次はここが完全には開いていなかった」 ←(P219の最終行で)8つの上位チャクラ以外にもサハスララが開いていなかったとありますが、それに加えてスワディシュターナも完全には開いていなかったということですか?
 
○サハスララに加えて。  発言者は月読大神
 
●P431、後ろから4行目~ 「〝それは体験、経験したことを味わうためなのです。感情がないと味気のない人生になってしまいます〟」←この括弧内はどなたの発言ですか?もしくは単に強調でしょうか?
 
○これは括弧をとって普通の文にする
 
●P432、後ろから4行目~ 「扁桃腺が~」←ここから数行のやり取りは、誰とのものでしょうか?
 
○月読大神
 
●P433、後ろから4行目 「〝人間の叡智を現す〟」←これは誰かの発言ですか?もしくは強調でしょうか?
 
○月読大神
 
●P437、後ろから4行目 「〝基本〟の章の〝世界構造〟の項」←「〝世界構造〟の項」がないという補足説明が必要でしょうか?
 
○「今回は収録していません。そのうち詳しく説明します。」と加筆
 
●P439、5行目 「多層世界」←「平行世界」と同じものですか?
 
○平行世界と同義
 
●P440、4行目~ 「図2を見ていただきますと元ダマは6次元世界の集合魂の中にある自分の本体のようなものです。」 ←図2に「6次元」の説明がございません。抜けておりますでしょうか?
 
○以下のように文章を訂正 「元ダマは5次元の上位次元である6次元世界の集合魂の中にある自分の本体のようなものです。」
 
●440、後ろから4行目 「〝阿頼耶識界〟ということもあります」←「阿頼耶識界と呼ばれることもある」という意味ですか?
 
○6次元界は阿頼耶識界という世界であるということ。
 
●P454、10行目 「魂の容量という言葉があります」←精神世界でよく「魂の大きさ(キャパ)」という表現が使われるということですか?
 
○宇宙全史において。 「容量」は「大きさ」とは違うので意味を尊重
 
●P462、2行目 「それは宇宙空間の真空という状態には何も存在がないと信じられているからなのです。」←そのように信じられているだけで実際は人体が膨らむような結果にはならないということですか?
 
○意味がおかしいので削除
 
●P462、10行目~ 「それは私たちが〝魂魄体〟といっているものです。」←精神世界一般でということでしょうか?それとも宇宙全史の中でということでしょうか?
 
○宇宙全史の中で
 
●P463、5行目~ 「その基本物質が自らの波動を下げていくことにより、物質として顕現します。」 ←振動することにプラスして波動を下げる必要があるということでしょうか?
 
○基本物質・・・の波動を下げていく・・というのが正解です。  ただそれだけのことで、本日よくお話ししまして、本来はエネルギー(基本物質→物質よりは精妙な波動を持ちますが、それでも準位は物質に近いものです)の波動を上げ下げすることで、私たちの目に可視として顕現するということです
 
●P463、後ろから2行目~ 「他にはない特殊な形」←具体的には形に柔軟性が乏しいということでしょうか?
 
○ここでの「形」は「性質」位の意味 ・P465、5行目~ 「振幅」の説明から「波形」についての説明に移っていますが見出しがありません。「波形」という見出しの追加の必要はございますか?
 
○見出しは必要なし。文章をくっつける
 
●P466、後ろから3行目 「多様性の効果」←地球という特殊な環境における多様性のことですか?
 
○宇宙の意志としての「普遍的な多様性」のこと
 
●P467、2行目~ 「〝中庸〟というのはダイナミックな生き様」←個人レベルで柔軟性が必要な生き方であるというですか?もしくは個人差が大きいという意味でしょうか?
 
○中庸というのはその人その人にあった生き方をまずは社会の中でバランスをとって保つということ。  そしてレベルが上がると(エゴがなくなってくると)その中庸の意味がますます純化して、自分のやることが世界と調和したものになる。  ここで一番言いたいのは「中庸=普通」ではないということ。個人レベルで柔軟性に富んだものであれば、外から見てもダイナミックということ
 
●P469、後ろから6行目~ 「私たちの魂というのは」←「私たちのような地球で学びが必要な魂」ということですか?
 
○人類のこと
 
●P469、後ろから5行目~ 「ある一定の外れている精神における粗い波動の魂」←どういう意味ですか?
 
○私達人類は宇宙の中でも速やかな進化の流れから外れた落ちこぼれであるということ
 
●P471(図3) ←地球霊界構造のヒエラルキー図において「地球霊界」図の中に「霊界」が入っておりますが、「地球霊界」と「霊界」という表現はこのままで宜しいですか?
 
○「地球霊界」という表現を「地球次元の階層構造」に変更
 
●P476、7行目~ 「何とか今年中(2008年度中)には次の巻を出したいと思っています。」←修正が必要ですか?
 
○「2013年(もしくは2014年)現在まだ発行していません」に変更
 
●P476後ろから4行目~とP477後ろから4行目、P479最終行~ 「世界構造線(世界座標系)」、「世界線(世界座標系)」←「世界構造線」と「世界線」とは同じものですか?もしくは使い分けておられますか?                          ←「世界座標系」とは3DCGの世界で使われている用語(立体の配置を決める基準)を転用したものでしょうか?
 
○「世界構造線」は「世界線」のことで同じ意味で使用しています(世界構造線の方がより広範囲をカバーします)。数学上で用いられる座標系と同じ概念ですが、5次元までカバーしたもので、それを画像化している点が少し異なります
 
●P477、7行目 「善妖精(妖怪)と悪妖精(妖怪)」←「妖精の中でも特に悪と善の傾向が強いもの」が「妖怪」ということですか?それとも単純に妖精=妖怪ということですか?
 
○妖精=妖怪ということ(妖精にもいろいろあるので、面倒なのでここでは統一しておきます)
 
●P479、2行目 「別名〝魂魄体〟ともいわれており」←精神世界一般での話でしょうか?それとも宇宙全史の監督方がそのようにも呼んでおられるということですか?
 
○宇宙全史において
 
●P479、7行目 「かつてはこの黒い領域が地獄界といわれていたところになります」 ←下幽界(地獄界)に加えて、ということでしょうか?また、上幽界や阿頼耶識界の黒い部分は地獄と認識されてはこなかったということでしょうか?
 
○下幽界(地獄界)に加えてということ←特に言及必要無し
 
●P479、7行目~ 「6次元までは他の階層にも白と黒の中間地帯に精霊界が存在しています」←人間界と地獄界にも精霊界はございますか?
 
○人間界、地獄界にもある←特に言及必要無し
 
●P480、6行目 「この6次元境域には特殊な空間がありまして、それについては〝魂〟の章に書いておきました~」←見当たりませんでした。抜けておりますでしょうか?
 
○「特殊な空間」とは「因果律のための空白地帯」のこと
 
●P480、後ろから5行目~ 「物質波動帯域が700~800でブレ幅が上下30ずつあります」←図3(P471)では物質波動800の-30が抜けておりますでしょうか? ○800の-30が図にないのは意図的
 
●P483、2行目と4行目と7行目 「(アスタロット)」「(メフィスト・フィレス)」「(厄災の王)」←ここでの括弧にはどのような意図がございますか?
 
○括弧はとる
 
●P483、5行目 「ローマ法王は現代文明に対応しているものとしてある」←現代文明の在り様を象徴しているということですか?
 
○現在存在しているローマ法王がその集合魂の現れであるということ
 
●P483、後ろから2行目 「土台が同じ・共通」←具体的にはどういう意味ですか?
 
○具体的には次元が同じだが明るさが違うということ
 
●P487、6行目 「最上層の魔導士は現在5人いまして」←プレアデス派の中でもメフィストと同じポジションにいる魔導士が他に4人いるという意味ですか?                   ←ルターと対になっている「魔術師」(P483、2行目)と、ここでいう「魔導師」の違いはどこにございますか?
 
○魔導師で統一
 
●P487、後ろから4行目 「独特の地域」←具体的にはどういう地域でしょうか?
 
○霊的にも土地的にも暗くて陰鬱ということ
 
●P493、3行目 「回路のチャンネル」←「チャンネル」自体が本来「回路」とか「通路」という意味ですので、ここでは「スイッチ」というような意味でしょうか?
 
○スイッチの意味
 
●499、9行目~ 「隠れた秘密アイテムのようなものを入れてフリーメイソンを設計しています」←具体的にはどういうことですか?
 
ダヴィンチの秘密のアイテム・・・は、あるようですが、明確にはお答え頂けませんでした。 たとえば「自然界のエキス・要素を結集して、地上に顕現する」というような言い方ですが、簡単にいいますと、芸術的なインスピレーションを受け取る方法というようなものだったようですが・・そういう儀式が当時はあったようでした。 しかし今は形骸化され、あまり意味を持たなようです。 その他にも何かもっと深い秘密がありそうですが、その探求に今は時間をかけていられないので、まあそれくらいで・・
 
●501、6行目~ 「ヒトラーの転生でサタンは3回の小ダマの命数を得ています」←「命数」とはテーマ達成のための制限数のことですか?
 
ヒトラーの転生で3回の命数・・・サタンは通常の人間の3回分(人生としての)くらいのエネルギーは持って出ていたということでした。
 
●P508、最終行 「トップ3のアメリカ人が持つ特殊能力というのは物体移動ができるというものです」←「イニシエーションの能力に加えて」ということですか?もしくは、この能力をイニシエーションに利用するのでしょうか?
 
○イニシエーションの能力にプラスして
 
●P511、4行目 「国ができたときから」←「〝国〟という考えに基づいて人びとが集団として行動し始めた時から」ということでしょうか?
 
○本質的にはコミュニティが出来た時から、ということだが表現はこのままで
 
●P513、6行目 「私はこの宇宙のほぼ最高に近い存在ともお話しますが~それが私に与えられた力~それはある意味今の人類に与えられた力~」 ←特殊な能力を持っている虚空蔵55のみがコンタクト出来、そこからの情報を通じて間接的に今の人類にもコンタクトの可能性があるということですか? もしくは人類の誰でもコンタクトするつもりがあればそれが叶う(みわさんを通して)という意味ですか?
 
○そういった存在に質問しようとするということ自体誰でも出来るわけではない(皆何故かしない)という意味・・・(これは後ほどその本当の意味がわかってきています・みわがアンドロメダであり、私の本体が遊撃手だということでした)
 
●P516、後ろから6行目 「この5人の自我のフィルターを通すと」←トップ3の自我はフィルターとして機能しないのでしょうか(この5人の傀儡は自我が強いということでしょうか)?
 
○トップ3の自我もフィルターにはなるがそれはここでは言及していないだけ。ただし5人の方が人類に直接的な影響力があることは事実
 
●P520、1行目 「きっかけとしてフリーメイソンの霊団からインスピレーションを受け覚醒しています」←中山みきさんは接触をきっかけとしただけで対価は支払っていないのでしょうか?
 
中山みきさんがなくしたもの、あるいは明け渡したものは「女性としての通常の幸せ・この世の幸」というものでしたが、元々彼女はそういうものを求めてはいませんでしたし、あったとしても自ら捨てるつもりでしたから、フリーメイソンに奪われたという印象はなかったということです
 
●P528、4行目~ 「黒人のヒットメーカーもやられているはずです」←九ちゃんのヒットを手引きした人が黒人だったということですか?また「やられた」とは殺されたということですか?
 
○黒人のアーティストも差別の対象になっていたはず、という意味
 
●P530、1行目~ 「生命エネルギーの1種で異質な可能性の種」←ここでいう「異質な」とはどういう意味ですか?
 
○別な進化をもたらす「エネルギーの異質な可能性」ということ
 
●P535、7行目 「例の華族」←ここより以前に「華族」としての言及が見たりません。「ある皇族(P533、最終行)」のことですか?
 
○533頁最終行と534頁一行目~の「皇族」という表現を「華族」に変更
 
●P548、1行目 「人類の〝覚醒〟であるアセンションで扱う〝覚醒〟には1元(弦)という単位があります」 ←「1元(弦)」とありますが「単位」としては「元(弦)」でしょうか?また「元」「弦」と二種類表記があるのはどういう意味でしょうか?
 
○弦→波動(振動)のような意味、元→次元のこと。それぞれ意味を出して訳す
 
●P555、4行目~ 「このからくりは〝宇宙全史〟の中でお確かめください」←「今後の宇宙全史」ということでしょうか?
 
○今後の宇宙全史ということ
 
●P556、8行目 「今現在この時は非常に濃厚な時間です」←人類の歴史の中でも特に現在はいろんな要素(大アセンションなど)があって大切な時期(だが、普通の人はそのように感じていない)ということでしょうか?もしくは、いつも「今現在この時」という瞬間は実は非常に濃厚なものであるということでしょうか?
 
○今この時代ということ(いつも大事な時間ですがこの時期は特別です)
 
●P565、後ろから2行目 「心霊」←「神霊」でしょうか?
 
○神霊に修正
 
●P605、後ろから5行目~ 「そこまで求められていました」←集合魂から求められていたということですか?
 
○集合魂や地球などから
 
●P615、6行目 「藤吉」←初出ですので「山田藤吉」とした方が良いでしょうか?
 
○「竜馬らの身の回りの世話をしていた元関取の山田藤吉」に修正
 
●P616、後ろから3行目 「近江屋にあったとされる掛け軸、そこについた血痕は何なのでしょうか?確かどこかの展示館に転じされているはずです」←掛け軸は偽物ということですか?
 
○偽物です
 
●P636、後ろから3行目 「サークル」←「サイクル」でしょうか?
 
○「サイクル」に修正 ●
 
98頁4行目~ 「今の科学ではブラックホールとホワイトホールは入り口と出口と思われていますが、実際はその両方を同時に備えた奇妙な構造を持っています」 ←ブラックホールが入り口と出口であるのと同様に、ホワイトホールもまた入り口と出口であるという認識で宜しいでしょうか?
 
○そういう認識で結構です。表現が難しいのですが、科学的(今の科学ではありませんが)にいいますと、BHもWHも同じもので、その時の条件や目的により、エネルギーを吸い込むこともあれば、吐き出すこともあるようです。やがてこの事実は人類が理論的にか、観測事実が先かわかりませんが、発見されるかもしれません
 
●111頁後ろから4行目~ 「地球の歴史を書き換えなくてはならなくなったのですが~」←書き換えたのはどなたでしょうか?JUMUでしょうか?
 
UMUの管轄でJUMUが書き換えています ●115頁後ろから5行目~ 「エントロピーに関しましては「基本」の章で説明しておきました」←「基本」の章はありませんので削除した方が良いでしょうか? それとも「次巻以降で説明予定」とした方が良いでしょうか? ○「次巻以降で説明」にしておいて下さい
 
●133頁7行目~ 「3億8538年前」←正しくは「3億8538万年前」でしょうか?
 
○その通りです。3版では修正してください。
 
 
●135頁最終行 「この章「地球全史」の後半で出てまいりますが「恐竜人間」事件がありまして」←この章(第3章)は「地球全史」ではなく、また恐竜人間のくだりは第5章「地球全史2」にありますので、「この章「地球全史」の後半」という箇所は「「地球全史2」の章」と修正して宜しいでしょうか?
 
○それで結構です
 
●140頁2行目 「(いて座の方々は)恒星系や惑星などは造られるようですが、普通は自然にできているようです」←恒星系や惑星は普通は自然に出来るものだが、(太陽系のように)いて座の方々が造ることもあるということでしょうか?
 
○太陽系はこの宇宙の中でも特殊なゾーンです。その特殊な時空間に、物質レベルの惑星群を創り上げるのには、自然な成り行きでは無理があったようで、この宇宙では普通はあまりないのですが、宇宙の総決算場という舞台を創り上げるために働いておられます
 
●163頁5行目 「上を変えるしかないというのが現状です」←ここでいう「上」とは具体的にどなたでしょうか?
 
○残りの14%で、迷妄に彷徨う人々を導いていける指導者たちですが、その方たちをどう変えていくかということです(彼らもやはりエゴを抱えて入るのです)
 
●173頁3行目 「「黙示録」の章でも書いておきましたが」←「黙示録」の章はありませんので削除して宜しいでしょうか?
 
○削除してください・黙示録は収録しましたが、今の人類に聞かせる内容ではないので、そのままになっています
 
●175頁後ろから6行目、後ろから3行目~ 「30体のうち7体は残りましたが、23体はすぐに戻っています」 「27体がすぐに帰ったのは、~27体で帰れたということです。」←プレアデス系の入植第4弾の方々のうち「すぐに帰った」のは23体か27体のどちらでしょうか?
 
○これは23体ですね
 
●179頁7行目 「地球のあらゆる階層の波動を乱して」←ここでの「階層」は「次元」のような意味でしょうか?
 
○次元で結構です・次元とは認識の指標(指数)のようなもので、魂の境涯を現す数値です。ですからわかりやすく階層ともいいます
 
●197頁後ろから5行目~ 「その存在(妖怪という存在)がなくなる時、ちょうどその時に私たち人類は地球始まって以来の大アセンションという大きな関門を通らなければならないのです。それは何を意味しているのでしょうか。」←残りの妖怪達が自然霊となって地上から去っていく時期と人類の大アセンションの時期が偶然重なっているということでしょうか? それとも、妖怪のアセンションが人類のアセンションのスイッチのようなものになっているということでしょうか?
 
○人類のアセンションの時期は、妖怪の消失だけが要因ではなく、多くのファクターが重なっていますし、上位の方たちの意志も大きく関与しています(天之御中主大神などは多分飽きています)。このように他にも色々あるのですが・・偶然ということはなく、あらゆるものが必然といえば必然なのです
 
●205頁9行目~ 「性器は普通にありますが、体と比べると小さいようです」←これは男女ともでしょうか?
 
○男女ともです
 
●206頁6行目~ 「海の中とはいえある程度は生物が残っていたのです」←海の中で生きるという選択をした妖怪たちにとっての食糧となる生物が海の中に残っていたということでしょうか?
 
○食料も居心地も共に求めた・環境もまあ(地上よりは)よかった
 
●292頁4行目~  (本文) あとの肉体はそのまま放牧しています。これで多少は繁殖力などが強くはなったようでした。 哺乳類のDNAにおける雌雄分岐遺伝子というのがあるようなのですが、この部分が元々少し弱かったところを補強しています。この「雌雄分岐」というDNAにおける塩基は、ある意味進化の要のようで「バイセクシャルでもなく極端なオス・メスでもない調和された雌雄」ということが大切だったようです。 ←「雌雄分岐遺伝子の補強」というのは放牧を通して繁殖力を強化したことと同  義でしょうか?もしくは、放牧とは関係なく他の手段で補強を行ったのでしょうか? また、「雌雄分岐遺伝子の補強」によって「バイセクシャルでもなく極端なオス・ メスでもない調和された雌雄」が実現されたということでしょうか?
 
○放牧を通して補強はしていません(多少は効果がありますが)。 エストラダから来た肉体から抽出した遺伝子でバランスの良い雌雄分岐遺伝子を一定数の肉体に補完し、それを放牧している(放置している)人間たちの中に更に混ぜることで、自然に全体を強化しています その効果は確かにありましたが、現実問題として単純な男女の分化の明確化だけではなく、潜在的バイセクシュアルという生命本来の有り様にも気づくことができるような余地を残しています。 しかしこの余地が現代の段階では、同性愛などに大きく反映されてしまっていますが、そんな中から肉体という段階を超えての愛を模索するという学びが用意されてもいるのです
 
●294頁9行目~  (本文) 人間の優しさの部分を「情」と判断していたメンバーたちの勘違いは、恐竜人間に「邪悪さ」というとんでもない形質を持たすことになるのです。「情」という感情は二元性の形質です。その中には「執着」とそれが実現しない裏の形質として「冷酷さ」というものを併せもっているものです。しばしば「情」を二元性のカテゴリーを持たない「愛」と勘違いされる方がおられますが、「情」と「愛」はまったく違うものなのです。←ここでいう「情」ではない「人間の優しさ」とは、ドン・ファンのいう戦士の 条件の一つの「やさしさ」と同義でしょうか? また、「愛」という表現を、英語の「love」のような言葉で訳しますとどうして も二元性をはらんでしまいますことから、ここでの「愛」は仏教でいう「慈愛(mercy)」という意味で訳して宜しいでしょうか? また、先の「情」とは「愛情」のことでしょうか?
 
○まず本文では「情」を二元性を持つ性質、「愛」を二元性に属さないものとしてありますが、これは便宜的な方便のようなもので、実際は共に二元性に属するものになります。 ただ「宇宙全史」第一巻を読む段階の方たちに、いきなり二元性を超えるロジックを展開しても理解できそうもなかったので、そういう形にしてあります。  ただ愛は情よりは遥かに軽く波動の高い「執着」ですが、それでも二元性にあるものになります。 しかし物や肉体に関わるものに対する執着(情)と、肉体や物を超えたところに関わる執着(愛)では雲泥の差があり、愛を単純に執着のカテゴリーに入れておくには少し無理があるようです。 どちらかというと愛は、全ての生命への共感と一体感を標榜したものになります。 また仏陀の専売特許の慈悲は、さらにその愛を遥かに超えた次元から、愛を標榜するだけではなく、全ての生命にその進化の道筋と限りないエネルギーを与え続けています。 それでもこの仏陀の慈悲であっても、やはりそれは二元性に属するものになります。  (補足ですが「情」そのものは、単純な執着ではなく、物や肉体に関わる執着に人の感情が関わるとき、その感情が引き起こす一種の印象(インパクト)の記憶になります。そしてこの情(印象)は、脳における記憶ではなく、少し上位の(気体・気の体にある)脳のような部位に蓄積されるので、通常の脳の記憶と異なり、人に対する影響力に強い(深い)ものがあるのです。また愛情と情は少し異なっていまして、情よりは愛情の方が「自分だけに関わる執着」からは少し脱却していますので、上位にくるものになりますが、それでもそれが愛に昇華するには、まだまだ修行が必要でしょう) 人間の本当のやさしさとは「強さ」から来る二義的な性質のことをいいます。 本当に強い人間は、世界を乱暴に扱うことはなく、そっと触れては、いつの間にか誰にも知られず、記憶にも残らず風のように去っていきます。 そこにエゴの痕跡はなく、ただ彼の仕事が残るだけです。 まるで一陣の風が、山々の草木をなびかせ、湖畔にさざ波を走らせ、浮雲を流しても、それはただ季節が移り変わっていくだけの印象しか残さないようなものです。 ですから本当のやさしさとは、本当に強い人間にしか備わらない形質をいうのです。 「愛」という単語の英訳に関しまして、もう少し探求するようにというお言葉が月読の大神からありました。 このBBSをご覧になっている優れた英訳者がおられましたら、参考意見などお聞かせください

虚空蔵55様に関する記載

(非公開情報No.1より)
「私は実は非常に強力な大魔法使いでした。


 おそらく人類史上最大の魔法使いだったと思われます。
 しかしその歴史(私の関わった歴史)は、今すべて封印されています。


 そしてその封印がその能力と共に、やがて解かれようとしているのです。
 それは私の覚醒に従って徐々に解かれていく事でしょう。


 その封印を解く事は、実はかなり危険という事があるようです。
 ですから今生私の魔法の能力は、ほぼ完全に封印されてこの世に出てきております。


 しかしその危険を冒してでも、私を使わないとこの世界はどうにもならない状態に陥ってしまっていたのです。


 うまくいけば人類は大アセンシヨンをクリアできる……が、私が狂ってしまうと、人類どころか世界を消滅させてしまうというくらいの危険度があるということです。
 ですから非常に危ない賭けであり、一か八かのやむを得ない最終手段でもあったようでした。
                                            」
2008/1/1 No.26
「私はこれまで様々な霊能者にお会いしてまいりました。そのたびに言われるのは「あなたはすでに超能力的には開いているように見えるが、なぜそれを求めているのか」ということでした。
実はずっと私の守護神である「大魔法使いのじい様」が私の超能力(法力)を封印して来ていたのです。
それには訳がありあまり詳しくはお話していただけないのですが、どうやらその能力で大昔にとんでもないことを仕出かしてしまったらしいのです。
この地球でではないようですが・・・どこか別の宇宙でやってしまったらしいのです。
ひとつの文明を壊すどころではなく、惑星でもなく、宇宙そのものをどうやらどうにかしてしまったらしいのです。
何のお話かよくお分かりにならないでしょうが、とにかくとんでもないやつらしいのです・・・私は。
ですからある一定の(かなり高いのですが)ハードルを越えないとその能力は覚醒させて頂けないようです。
しかもそのハードルを越えたとしても、少しずつしか開かせませんよといわれております。最終的に全開させていただけるのは、みな様方を無事アセンションに導くことができたら・・・ということらしいです。
今全開してしまうと、私はすぐに(即)この世をおさらばしてしまうそうです。
(そうですかね〜)
今生では翼をもがれた存在であるようになっているらしいのですが、それも今回が最後らしいので、何とか大人しくしてお勤めをさせていただきます。」


2008/1/27 No.37
「これも以前書きましたが、私とアンドロメダの方が一緒に何かするということはまず有り得ない状況なんだそうです。
それが実現しているということは「UMUが私の守護神の大魔法使いのじい様にお願い」したらしいのです。
それでお互い引き合わされこのお仕事をするようになったようでした。
そもそも私はこういう地球の表舞台に出てくるキャラではないのですが、今回はどうしてもどうしようもなくの起用ということでした。
本来私にはあと10年間じい様指導の修行があったようでした。
それがすべてぱあになり、少しじい様は機嫌が悪いようです。
私の集合魂はアセンションやハルマゲドンなどどうでもいいようです。」


2008/7/10 No.81
「さて確率は低いのですが、うまくクンダリーニが覚醒しましたら、その先にある一つの目標が「肉体の完全覚醒」という事らしいのです。
私はクンダリーニの覚醒が「肉体の完全覚醒」と思っていたので「え?まだ
その先があるのですか}と思わず聞き返してしまいましたが、このあたりは色々シチュエーションがあるらしく、クンダリーニの覚醒自体にもほとんど無数と言っていいほどの段階があるようです。
そして今お話ししましたように、その先の最終目標として「肉体の完全覚醒」という事を目指さなければならないようです。
(クンダリーニ、及びその覚醒につきましては、ご自分でお調べになるか、第3巻をお待ち下さい。本来このワークでは、すでに精神世界のおおよそのメソッドや方法論はご存知である方たちが対象であるという前提条件の上で書き進めているものでもあります)


「宇宙全史」第一巻でも書いていましたが、私は人間の肉体を「穢れたもの」「克服すべき汚れた存在」とは考えておりません。
それは精神と共にある一定のレベルまで昇華すべきアイテムだと思っています。
実際このワークの中で明かされる肉体の精妙さ、ポテンシャル(潜在能力)、可能性は実に驚くものがあります。


目指す所は結構な高みなのですが、私たち自身はみな様とほとんど何もかわらない普通の人間です。
おそらく多くの方は「特別な人間」「選ばれた人」「救世主」などと勘ぐっておられるかも知れませんが、本当に普通のどこにでもいるような凡庸な人間なのです(もし異なるところがあるとしたら、それはほんの少し考え方が偏っているといったところでしょうか)。
その凡庸な人間が覚醒できたなら「その方法論をそのままみな様方に適応できるのではないか」・・・というわりと安直な期待の元にこのセッションが進行しているのです。
つまり私のクンダリーニが開くのなら、それはみな様のクンダリーニも開くということなのです(みな様が望めばということですが)。


ですから私たちのワークは、情報収集はもちろんですが、虚空蔵55とみわの覚醒に関しまして、とにかくなんでもありの、掟破りの、ハチャメチャな進行になっています。」


2008/10/2 No.342
「私の転生はまだしばらく秘されるのですが、かつてエジプトのスフィンクスをつかさどる大魔法使いでもありました。


そういう事もあったのです。


あの謎々を問いかけるスフィンクスは、今皆様方に新たな謎々を問いかけています。」


2008/11/20 No.380
「左に書くとお約束しています「美しい約束」という文章は実はすでに書いてしまっているのですが、そこには私の正体が書かれています。
覚醒も(たぶん)もうすぐなので、書いてしまってもいいかなと思っていたのですが、私の守護神である「大魔法使いのじい様」から待ったがかかってしまいました。


既存の日本という国のアイデンティティである「天皇」や「古代日本」の真実を明らかにしていくことはかなり危険なことらしいのです。
そこにまた私の正体をさらすことは重ねて「愚かなふるまい」としてたしなめられてしまいました。


そうした危険から身を守るすべを、まだ私たちはまったく知りません。
しかし私の中で目覚めつつある「大魔法使い」は、おそらく人類史上未曾有の力を持つ者です。
その力がすべて私の覚醒で顕現するかどうかはハッキリしませんが、少なくともそれまで自重することが賢明なようです。」


2008/12/21 No.411
「最近私は未来予想というのをあまりやっておリません。
それは私の第一段階の覚醒(大魔法使いとの合体)いかんにより、その後の世界状況が大きく変化して行ってしまうからでした。


それももう間もなく落ち着きます。
(実はまだ合体していません・・・しかしすでに期日は決定しておりまして、目前に迫っています)


「十の願望成就法」は、私が大魔法使いに変身する前の皆様へのささやかなプレゼントでもあります。
(もちろん受け取れる方だけにですが)


もし100%この魔法を使い切る事が出来る方がおられたら、この魔法は世界をも手に入れることができるものだという事が証明されるでしょう。」


2008/12/31 No.436
「二つ・・・私が合体するのは守護神の大魔法使いのじい様ではありません。
(このじい様はいまだ人間としての転生はありません)
お話しがややこしいのですが、合体するのは封印されていた「私自身」です。


もう一つは「宇宙全史」第二巻の発売は、まだ決定されておりません。
(私の書き方が曖昧で申し訳なかったのですが、今回の覚醒いかんにかかっております)


今大変なときですが時間をみては「ゆらぎ」と「カオス」と「フラクタル」の勉強を少ししております。
この三つはどうやら数学的に見ても何かしら関係があるようなのですが、その詳細といいますか・・関係性の意味が分かりません。
とにかく知らない数学用語ばかりが飛び交う世界なのです。


ワイエルシュトラス関数
ベッセル関数
ラグランジュ恒等式
エルゴード定理
等々・・・
そもそも私はすでに微分積分が分からなくなってしまっています・・ああ・・・


「カオス」「ゆらぎ」「フラクタル」はこの宇宙の構造を追及するとき、大きな解明の鍵になるはずなのですが、その関係性の概念がまったく私にはつかめていません。
合体後は記憶能力と明晰性が飛躍的に段階を上げるようですが、果たしてこれまでサボっていた数学が(飛躍的に)理解できるかどうかは不明です。


もしtotoさんがこのあたりを整理してくださると大変助かるのですが・・・いかがでしょうか。


ちょっと漠然とした質問になってしまっていますが、やがて「次元」と「時間」の解明が「宇宙全史」第二巻で語られます。


そうしますと「次元」に関しましては「フラクタル」という概念をどうしてもすり合せないといけないようです。


どうもうまく説明できません・・また機会があれば書いてみます。」


2009/1/15 No.464
「私の第一段階の覚醒は「本体」との合体ではなく、分離していた私自身の魂との合体でした。

 

 


このシチュエーションは、あまり普通の方たちにはなじみがありませんので、ここではうまくご説明できないのですが、「宇宙全史」第三巻で語られるかもしれません。

 

 


というわけで私は相変わらずまともな覚醒を果たしているわけでもなく、普通の人間のように日々を送っております。


問題は強大な力を持った私の魂の片割れ(大魔法使い)との合体なのですが、とりあえず合体はしましたが、その時の合体率が37%でした。


これが50%を超えないとまだお互い意思の疎通が出来ませんので、身体も自由にコントロールする事が出来ません。

 

 


彼(大魔法使い)は、合体後日々私の脳や松果体などを色々勝手に改造していますが、本格的に動けるようになりますのはまだもう少し先のようです。

 

 


そんなわけでご質問の日本や世界の行く末を語るのは、二月の半ば過ぎくらいになるかもしれません。


今しばらくお待ち下さい。

 

 


しかしあの存在(大魔法使い)が目を覚ます事が許されたという事は、日本も世界も徹底的に変えるという上の強い意志を感じます。


どうも(最近感じますのは)この私たちの生存するオーム宇宙自身が、今回のワークをチラチラうかがっているような気がしています。


直接には手を出すということはないかもしれませんが、大分気にはしているようです(ひょっとするともっと上の存在かも知れませんが・・・)。」


2009/2/12 No.111


「エル・ランティにだまされて地球に連れてこられたイルプロラシオンという星の住人6000万人がおりましたが(この方達の大部分は現在エル・ランティ系もしくはエホバ系の宗教団体に入っておられます)、このイルプロラシオン人は、そのもともとの性格からして、非常に依存性が強い方たちでした。
だからこそエル・ランティにいいように利用されてしまっているのですが。


ここまで依存性が強いと「覚醒」という境地には程遠いのですが、一年前くらいに確認しましたところ、何と地球に来てから現在まで3億6572万年の間にイルプロラシオン人から3人覚醒者が出ていたのです。
しかもその覚醒の内容が「二元性を超える」覚醒でした。
これに関しまして私は非常に興味を持ったのですが、取材は不可でした。
理由はこの覚醒は彼ら自身のものであり、それをどうするか(どう扱うか)は彼ら自身の問題なのです。
かなり粘ったのですが、どうしても教えてもらえませんでした。
しかしその中のお一人は現在インドで生きておられるということです(ある程度有名な方だそうです)。
それにしてもイルプロラシオンからの「覚醒」という快挙の裏には・・・その実体は、この地上で悶え苦しみ、のた打ち回って、人間の極限を超える凄まじい体験を重ねた果てに獲得されたものでもあるのです。


これに関しましては(まだJUMUとコンタクトをとっている時代でしたので)JUMUの方たちも感心をされていて、
「これこそがある意味地球の成果だ」
ということをおっしゃっていました。」


虚空蔵55
2016/2/1 No.314


夜明け前  私の覚醒は節分の翌日に実行される予定です。  2月3日の節分を過ぎ、一晩寝って起きたら世界が変わっているということです。  完全覚醒の模様は人それぞれで一概にはいえませんが、私の場合は寝て起きたら「使用前・使用後」みたいに変わっているようです。  節分近くになりましたら何か変化があるかと思いましたが、いまだに特別な変化はありません。 ただ月読之大神のお言葉で、  「あなたと連動して覚醒する人が出る可能性は大きいね」  その場合、やはりその覚醒は人それぞれの立場からの覚醒になります。  それでも(今生であり得るかどうかという)覚醒が差し迫っている方たちがいると思うと何やらうれしい気がしますが、ここで問題があります。  私に関わる方々、あるいはこの宇宙全史に関わっていなくても、すでにその境涯にあり、やがてこのワークに参入してくる人たち、そういう方たちは機が熟していると節分を境にして覚醒を得る可能性があります。  それほどこの地上で完全覚醒を得る機会に立ち会うということは貴重な体験なのです。  ただ問題があって、  この宇宙全史という稀な機会に立ち会い、幸運にも覚醒のチャンスに巡り合っているのに、自らそれを拒否してしまう人たちがほとんどであるということを月読之大神からお聞きしました。 つまり今まさに覚醒の機が訪れているのに、「気のせい」とか「怖い」とかでフタをしてしまう皆さんがいるのです。  それを月読之大神は、  「もったいないね」  とおっしゃいます。 ただそれも修行といいますか、そういうことも経験して、  「ああ!しまった」  「今度そういう機会があったら必ず速やかに受け入れよう」  という覚悟が出来、これからの学びの励みにもなるのですが、やはりそれではあまりにも「もったいない」のです。  例えばこのBBSで以前書いてきましたが、夢の中で怖い夢など、悪夢を見たとき、夢の中で、  「五井先生助けて下さい」  とか、世界平和の祈りが唱えられたら、それはある一定の段階に到達しているという証明になります。 覚醒は色んな形で訪れますが、寝ている間にも来ます。 その時恐怖で拒否したり、無視してしまったりすることが「もったいない」のです。  私の覚醒は2月3日の夜に訪れるはずです。  その覚醒は私にすべてを捨て去ることを求めています。  名声や財産  家族や友人  美味しいものや美しい女性  地上にあるそれらすべての欲望を捨てること  完全覚醒とはそういうものなのです。  そしてその圧倒的な  エネルギーの爆発の余波は  節分の日に  すべての人に  平等に訪れますが  受け入れられる人は  限られているのです  そのために  皆さんは  ここで学んで来たのでは  ないのでしょうか。


虚空蔵55


2011/5/8 No.215


伊吹山
私の肉体改造はこのワークと共に始まりました。
その過程において外見上はあまり変わりばえのしないもので、例えば最初はあごのかみ合わせの矯正からそれは始まったのです。
あごのかみ合わせなど大したことはないと思われるかもしれませんが、かみ合わせは頸椎(けいつい)から脊椎にかけてのゆがみの原因となり、最終的には姿勢から四肢の変形、内臓の不調・疾患にまで反映することがあります(実際は脳に対する影響もあるのですが)。
些細なことのようですが、それが身体全体に反映するのが私たちの肉体の深遠なところなのです。
以前ここでどなたかのご質問にお答えしてあごのかみ合わせの矯正が必要とお話したことがありますが、おそらくスルーされていると思います。
肉体改造と申し上げますと、魔法のような変身や超能力を身につけてドラゴンボールにあるようなスパーサイヤ人になることを想像されるかもしれませんが(最終的にはそうなるのですが)、実際は本当に地味なところからの出発だったのです。
それを理解していないと気ばかりあせって、結果だけを求め、思い込みだけのイメージを追い求めてしまい、最終的に「何だこんなもの何になるのだ」とふてくされて放棄してしまうことにもなりかねません。
この宇宙全史のワークをある程度ごらんになっている方が初めに気づかれることはその「リアル」さにあるのです。
これまでの精神世界における展開は、例えば人の前世にしてもやたらブッダの弟子とか、大天使や、聖徳太子アレクサンダー大王など、とにかく有名人の羅列が普通でした。
宇宙全史ではそういうことはめったにないですし、逆にあまり「そうであってほしくない」くらいの情報ばかりが出てきています。
リアルな世界は実際には不思議に満ち、はかり知れない可能性を秘め、無尽蔵の喜びを供給してくれます・・・が、私たちが今選択しているこの世界は「限定」され「閉じられ」、「味気ない」世界になっています。
しかしそれも私たちにとってはリアルな世界なのです。
そして私たちはそこから出発するしかないのが現状なのです。
「こうあればいい」「こうあってほしい」という願望、思い込みのイメージからは何も生まれず、エゴのループにはまり込んでしまい、ただただエネルギーを消耗してしまうだけなのです。
あごの矯正の後は、胃の洗浄でした。
洗浄といいましても実際に水で洗浄するわけではなく、ピロリ菌をなくすことでした。
その次は鼻の奥から口蓋にかけての洗浄・・・これは実際にハーブ液で洗浄しました。
あのインド人のやるような鼻うがいを毎日朝晩やったものでした。
そして朝早くに10分間の日光浴。
また全体的な体質改善として、以前あん様にも申し上げましたがマクロビなどのスープを摂取し、肉食を変化させたりもして来ました(牛→豚→鳥)。
こうしたわかりやすいイントロから始まりまして、次第に私の肉体改造は深部へと移行していったのです。
私は元々出目が魔道師という変わった集合魂を持っていますので、肉体改造そのものがあまりなじみのないものでした。
なぜなら通常変身するとか身体能力を上げるというようなことは、ほぼ一瞬で出来てしまう種族だったからです(個体差はありますが)。
それではなぜ肉体の構造やシステムに沿って一つずつ問題をクリアしていくという面倒なやり方をしているのでしょうか。
以前にもお話しましたように私は今生が初めての生となる魂でした。
つまりある意味ロボットのように集合魂により作られた存在なのです。
それは(これも書いておきましたが)ラムサという存在と同じような有様ではありますが、造られた目的がちょっと異なっています。
ラムサは集合魂の最終的な成就・・・仕上げのような存在として地上(過去の宇宙のどこかの惑星ですが)に送り込まれましたが、私は集合魂のカルマの清算を生業とする魂として造られたものです。
私の集合魂は約6000体の魂の塊です。
その中には魔道師ばかりではなく仙人や少々わけのわからない存在も交じっています。
それは西洋と東洋の魔法使いたちを統合するような有様で、地球界の進化を裏から支えてきた者たちであり、地球界にありながら独自の道を模索し、この宇宙における最高峰の覚醒を求める者たちでもありました。
たとえば皆様は宇宙全史をすでにお読みですのである程度はご理解いただいていると思うのですが、現在伝わっている地上の歴史のほとんどは表面上の出来事で、その本質はほぼ水面下で進行し決定づけられて来たものです。
表面上の歴史はすべて人類の勝手な解釈で、自分たちの都合のいいように書き換えられ伝承されて来ています。
それを今まで裏の者たちは何もいわず人類のなすままにしておいたのですが、私という存在により今始めてその全貌が明かされようとしています。
それは私が裏の者でありながら人類の一員としての形も持ってしまったために出来ることだったのです(本来は裏も表もないのですが、あえていいますと声高に主張するものが表になるのがこの世の常とでもいうのでしょうか)。
さてどうして私はそんなに複雑な有様なのでしょうか。
一つずつ説明していきます。
①私は集合魂のカルマを刈り取るためのロボットとして造られ地上に派遣された。
②ただそれだけのために造られたため、魔法はもちろんあらゆる不思議の能力を封じられている。
(封じられているというよりは「封じざるを得ない」といった方が正確かもしれません。集合魂にカルマがあるということは、それなりの解消すべき課題があるということであり、本来持つ能力に制限がかけられているということもあるのです)
③本来あるべき力を封じられているばかりでなく、集合魂のカルマを背負っているため常人よりも身体能力が劣っている。
こうした理由により私は本来今生では覚醒などあり得ない存在であり、生まれてから死ぬまでただひたすら集合魂のカルマをせっせと刈り取るためだけの存在でした。
ところがどうしたことかこのロボットはある時期、覚醒というものに気付き、その道を探り始めます。
集合魂も私が覚醒することに否定的ではないのですが(私が覚醒するとカルマはすべて自動的に解消します)、集合魂は彼等なりのやり方でカルマを刈り取りたいというそのやり方に一種の矜持(きょうじ)がありました。
私はどんな方法であろうと覚醒すれば良しという考え方ですが、集合魂サイドはどうにもそこに関しましては頑固というくらいにかたくなに譲ろうとしません。
そして集合魂のやり方というのは、とても過酷な方法論でもあったのです。
若い頃は私もずいぶん無茶をして何度か死にかけましたが(通常は死んでいたのですが、集合魂がそれでは困るとそのつど助けています)、さすがに学んで今はそういう無茶にはあまり意味がないという考え方になっています。
しかし集合魂はやはりどうしても自分たちのやり方でカルマを解消したいという方向性を曲げようとしません。
このワークの初めから私と私の集合魂との間で色々意見を交わしたのですが、どうしても譲っていただけません。
五井先生や植芝先生は私のやり方に同意されていますが、月読の大神はどうも集合魂のやり方にも共感があるようです。
そんなわけで私の覚醒は通常の覚醒と異なり、色んな思惑、葛藤が重なる中かなり複雑な様相を呈して来ています。
私には構造として集合魂のカルマが、霊的、気的、肉体的にブロックが何重にもかけられています。
そのブロックは通常の霊媒師くらいでは全くわからないほどに厳重かつ精妙にかけられています。
ですからゲリーボーネルやアマーリエさんなどは私を視て「あなたには超能力があるはず・・・」と判断ミスをしてしまったりします。
私にかけられたブロックはみわでさえも解き明かすことが出来ないほど厳重に、しかも何重にもかけられています。
そのブロックはすべて私の集合魂に関わるカルマと関連していて、一つ一つそのカルマをクリアしていかないと解除されないようになっているのです。
さてここにとてもわかりにくい問題があるのです。
それは私のカルマは集合魂のものですが、私のものでもあるのです。
私は今生初めて造られた魂ですが、その魂には仮の転生や仮の天命などが付与されています。
カルマもまた組み込まれているのですが、そのカルマは申し上げておりますように集合魂のカルマでもあります。
ところがたとえそれが集合魂のものであってもいったん私に組み込まれたものはあくまでも私のカルマとなります。
そしてそのカルマは私の性格に影響を与え、行動を制限し、運命路線がカルマの発現に沿って進行するようにします。
これがわかった時、私はこの状況の理解が非常に困難な事態に陥りました。
私の普通に考えていることや行動していることが私のものではないということは、その責任は一体どこにあるのでしょうか。
例えば私はトライアスロンという趣味を持っています。
しかし冷静に考えてみますとそんなに強いわけでもないのに、なぜモチベーションが持続するのか不思議ではあるのです。
それは集合魂が自分たちのカルマの刈り取りのために、わざわざ辛い苦しい状況を作るためにやっていることでした。
でもそのモチベーションは私の内から生ずるモチベーションでもあるのです。
そう感じてしまうのです。
だから私が自ら望んで過酷なトライアスロンというスポーツをやっていると思い込んでしまっています。
私の動機、希望、欲望、モチベーションの全ては、集合魂からもたらされていたのです。
しかしここが不思議なところなのですが、私は私の意思で自らそう望んでトライアスロンをしていると思っています。
その結果常に過酷な環境に自らを追い込み苦しんでいるのです。
私とて人間ですから(マゾではないので)快適な人生を歩みたいとは思うのですが、私自身が集合魂ということは、そういう選択の余地はないということでもあるのです。
このあたりの詳細はいずれまたお話しますが、今回は肉体改造に焦点を当ててお話します。
初期の段階ではかつてのギリシアの医療・医学の神々が担当として改造に当たっていましたが、とうてい私の厳重なブロックには太刀打ちできず、途中から植芝先生がお代りになりました。
先生は私の厳重なブロックなど眼もくれず(全く問題にされず)着々とやるべきことを(体育会系のノリで)進行しておられます。
以前ここで「地上最強の生体」と植芝先生のことをお書きしたことがありますが、その強さは肉体ばかりではなく霊的にも強力なエネルギーをお持ちの方でした。
植芝先生のやり方を拝見していてまず驚いたのは、人間の肉体の複雑さ、精妙さということでした。
今では医学もかなり発達して来て人体の構造やシステムも随分解明されつつありますが、植芝先生の情報と比較すると幼稚園と大学院以上の開きがあり、逆に人体のポテンシャルに驚異を覚えてしまいます。
これもいつか「宇宙全史・肉体改造篇」というタイトルで一冊書いてみたいと思っています。
さてそれではなぜ私は自身の肉体を改造しなければならないのでしょうか。
一番の目的は「覚醒」にありました。
通常覚醒するためにはあらゆるカルマを清算しなければなりません。
カルマは魂レベルにも保存されてはいますが、その反映として肉体(DNA)にも刻まれています。
それが病や事故、不幸などを誘引します(もちろん負の現象ばかりではなく、幸福や成就といった正の現象もあるのですが、中々少ないようです)。
つまり覚醒するためには肉体にある故障や不備、積もった澱(おり)などをまず解消していかないといけないということがあります。
二つ目の理由になりますが、私の場合は現在魔法が使えないため通常の肉体を使用しての「人類に対する啓蒙」というお役目がありますので、よけいに肉体をま ず何とかしなければならないということがありました(この目的が自分だけの欲望に起因するのか、世のため人のためということになるのかというところが重要 な問題なのですが、覚醒以前にこの問題を議論するのは結構難しいところなのです)。
しかしここで集合魂が持つこだわりが私の邪魔をします。
今年の4月まではとにかく身体からカルマの澱(おり)を排出するということを延々して来ました。
また私は今生においても出会う事象、出会う人々の障害を吸い取るということをして来ていますので、そのまた貯まった澱も除去していかねばなりませんでした。
それがまたバカにならないくらいに貯まりまくっていたのです。
私はラムサと造られ方が同じ有様なので比較しますと、ラムサはF-1カーのようなもので、私の方は最近のトレンドである自走式の掃除機みたいなものでしょうか。
とにかくぶち当たるもの全てのゴミを吸い取れるだけ吸い取るのです。
ですから私と出会う方たちは、なぜか気分が楽になったり逆に悪くなったりします(これはその方の持つカルマによって変わります)。
それが何十年間分も貯まっているのです。
普通の方ならとっくに重篤(じゅうとく)な病に倒れているか、まず死んでいます。
それでは私はそんなに頑丈に出来ているのかというとそうでもないのです。
かつては(といいましても1年前くらい前までですが)常に風邪をひいたりして小出しに毒出しはしていました。
もっと積極的には私がマラソントライアスロン等のレースに参加して、そこで苦しむことによりカルマを浄化するという方法もとっています。
これは相当きつくて、どうして私がこんなに遅いのか、どうしてこんな屈辱を味合わなくてはならないのか、なぜあんなにトレーニングしたのにこんな結果なの か・・・という葛藤をさんざん味わうことになっていました(レース中の肉体的な苦痛ももちろんあるのですが「報われない」という因果は、人間関係、仕事、 あらゆる面において私に付きまとうものでした)。
そしてこの何年間は、みわが毎日のように私の澱を取り除いてくれていたのです。
その作業は最初の頃にはみわには大変な重労働、私にとっては常に激痛を伴うとても苦しいワークになりました。
一回のワークを5時間から長い時だと10時間以上行います。
その間本当に厳しい激痛が延々続くことになります。
また同時に初めに書きましたような自然療法や漢方っぽい治療法を施されていました。
こうしたワークにより、私の中に長年貯まっていた毒は次第に排除されたのですが、集合魂が持つ私の肉体に反映する最終的なカルマが奥底に残り、どうしても中々取り去ることが出来ない状態が続きました。
そんな状況の中、私は4月に大きなトライアスロンのレースをひかえていました。
そこに向けてギリギリの攻防が続いていたのですが、皆様もご存じの例の津波・大地震災害が東北太平洋岸を襲い、その余波も含めて鎮静化のため私たちのエネルギーが大幅に割かれる状態になってしまいました(すでにここで書いていましたが特にみわはひどいものでした)。
そこで本来なら何とかなっていたはずの私の最終的な(肉体に潜む)カルマがエネルギー不足でどうしても取れずにいたのです。
そんな時植芝先生の技が行使されたのです。
後でお聞きするとかなり危険なことだったようですが、私の魂魄体(気体でもあるのですが)を脊椎を中心にして真っ二つに割り、その中に居座っている澱の塊をさらけ出すということをされました。
こんなことを常人に施すとたちまち死んでしまいますが、植芝先生のやり方は「大胆かつ繊細」というのが常の有様で、ギリギリの線で私は生かされていました。
さてここで露わにされた私の澱は表面は「仏の顔」をしていますが、裏面は「悪い顔」をしています。
これが私の集合魂が持つ最後の澱でした。
しかしそれが出て来はしましたが中々取れないのです。
みわがどのように努力しても尾っぽのように脊椎の奥に絡んだ一部がどうしてもそこから離れようとはしません。
そこで伝えられたのが「山に行きなさい」ということでした。
その時馴染みのある山々を色々あげたのですが、結局私の故郷の山である伊吹山に行くことになりました。
私に馴染みのある他の山にはいまだ雪が残り、登ることが無理だったのです。
次回は伊吹山において不可思議な光景が展開します。

 

 


2011/3/31 No.210


すでに書きましたが私という存在はこの地球で幾転生を重ねてきた魂ではありません。
色々複雑な事情はあるのですが、簡単に申し上げてしまいますと「創られた」存在なのです。
それも私の集合魂がやっています。
つまり私は私の集合魂により今回初めて地上に生を受けた存在ということになります。
私には本来人間たちが持つような「過去世」や「カルマ」「天命」などといったものは存在しません。
しかし現実的には「過去世」も「カルマ」も「天命」も存在しています。
いったいそれはどういう意味なのでしょうか。
まず私の集合魂の正体を明らかにしておきます。
これは本来絶対に明かしてはならない秘密なのですが、時勢が時勢だけに開示の許可が出ています。
たとえばわかりやすい例ですと「ダーナ神族」と呼ばれるアイルランドの神話に出てくる種族が私の集合魂がまとめてこの地上に降りた時期でもありました。
今回の文明ではそこが源流となり、ヨーロッパ全土、アフリカ、インド、シベリア、アメリカ南北大陸等に散って行ったのです。
つまり魔法使い(魔導師・カスタネダ風にいいますと呪術師でしょうか)の源流がそこにありました。
ダーナ神族に関しましてはいつかまた詳しくお話ししますが、我々の集合魂はそれよりもはるか昔から地球の深遠なる過去を経て、常に地球文明の裏方で生態系を支えるという役を果たしてきています。
さて私の変わったアイデンティティですが、精神世界を少しかじっている方ならご存知でしょうか・・・「ラムサ」という存在があります。
(現在でも本が売られていますので興味のある方はお求めになってみて下さい)
このラムサは私も興味があり、以前に調べたことがあったのですが、その時はある種の「神話」というお話でした。
しかし彼もただ一度の生で地上での使命を果たしています。
私のアイデンティティが分かった時点でもう一度確認してみました。
すると彼も私と同じく彼の集合魂により作られた存在でした。
そんなに簡単にそういう魂が作れるのかというとそうでもないようなのですが、集合魂の傾向性と力にもよるようです。
しかしなぜ最初に調べたときは「神話」ということだったのでしょうか。
そこを確認してみました。
ラムサはJZ・ナイト(以下ナイト)という一人の女性チャネラーにより降ろされた物語ですが、ここからは一般に知られていない多くの秘密が開示されていきます。
まずナイトという女性は魔女です。
それも上の方がおっしゃるには「卓越した魔女」という表現をなさいました。
わかりやすくいいますと「すごい魔女」とでもいうのでしょうか。
魔女といいますと皆様は、何やらドロドロした中世の魔女狩りに出てくるような魔女や白雪姫に出てくる毒りんごの魔女を想像されると思いますが・・・まあそういう魔女も確かにいることはいますが、大概の魔女は普通の人間たちの中に混ざって共存して棲息しています(そもそも自分自身が魔女とは自覚していない方がほとんどです)。
私の周りにも様々な魔女たちがいますが、雑魚(ざこ)魔女といわれるような魔女から、ホワイト系の中々大した魔女までワラワラと存在しています。
魔女の定義は難しく・・・妖怪たちと似たようなアイデンティティを持つのですが・・・「その存在の在り様を曲げない」「ひよらない」とでもいうのでしょうか、いってしまうとかなり「がんこ」な魂ではあるのです、
似たような存在に「仙女(せんにょ)」というのがありますが、彼女たちは非常に軽い存在で、どちらかというと魔女たちの方が人間界との関わりが「濃い」在り様になっています。
たとえば仙女系には夜の酒場のホステスなどが多いのですが、魔女たちはそれぞれが深く人間にかかわり、どちらかといいますと執着が仙女たちよりは濃いともいえます。
しかし先ほどいいました私の周りにいるホワイト系の魔女などは、ある意味仙女系に近いような在り様としては軽い存在になってしまっています。
いつかまた魔女のお話は詳しくすることにしまして、話をラムサに戻します。
(なお魔女や仙女の定義にはもちろん術が使えるということがあります。それは「集中力が人並み以上にある・優れている」ということも出来ますが、そのお話もまた後日です)
ナイトという女性は実際に過去世のお話をラムサという形で降ろしてはいますが、その過去はこの地球での過去ではないのです。
しかもこの宇宙におけるどこかの惑星の過去のお話でもないのです。
それはかつてあったこの宇宙の過去世での事件でした。
わかりにくいのですが私たちの宇宙は現在64回目のサイクル(現代科学風にいいますとビッグバンによる創造の回数)にあたりますが、その以前のサイクルの中で繰り広げられた物語でした。
いつか私はこの63回の宇宙の履歴をたどってみたいと思っているのですが、その一部がこうした形で見られるとは面白いものです。
ナイトはこの私たちの過去のオーム宇宙で実際にラムサという存在の弟子でした。
(その宇宙のその惑星の人間?もやはり私たちと同じく二足歩行でした・どうもオーム宇宙では二足歩行が過去も現在もトレンドのようです)
その彼女がかすかな、本当に限りなくかすかな記憶を頼りに降ろしたのがラムサの物語であったのです。
本来過去の宇宙のサイクルの履歴はすべて天之御中主大神の中に収斂(しゅうれん)され結晶化しています。
それをあれだけ克明に「降ろした」ということが上の方たちをして「卓越した魔女」といわしめているのです(通常の霊能者程度ではとてもできない離れ業なのです)。
アメリカのラムサのカリキュラムなどに行って修行された方は経験されているでしょうが、色々ハイカラなことはいってはいますが実際にやっていることは魔女の修行法です。
それなりの効果がある場合もありますが、弱い方などは中々危ないこともありそうです。
ラムサは過去のその宇宙のその惑星で彼の集合魂により「集合魂の成就」という目的で創られました。
つまり集合魂の最終段階の仕上げのようなものでした。
そして彼はその役を見事はたしています。
いってしまえば非常にかっこいい存在ですが、私は似てはいますがどうもそういう形ではないようなのです(つまりあんなにかっこよくはないということです)。

 

 


伊吹山
カスタネダ著「沈黙の力」(二見書房)202ページより
ドン・ファン「誰かがわしらに、うぬぼれを切り捨てていかなければならないことを気づかせてくれるものがいるとしたら、それこそが本物の助けだ」
この宇宙におけるあらゆる存在は最終的には天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおおかみ)に収斂(しゅうれん)します。しかしこの地上に生きてそのたぐいまれなる極みまで自らを鍛え抜いた戦士に対して、この宇宙(天之御中主大神)は「自由」を与えます。いや与えるというよりは「自由」であることを「放置」します。人間として究極の自由を得ることを成就したドン・ファンが最も大切な基本的な教えとして私たちに残した言葉が上記の抜粋でした。
私たちの宇宙を統(す)べる天之御中主(あめのみなかぬし)の裏方としての存在である月読の大神がこうおっしゃいました。
月読の大神「エゴ(うぬぼれ)を薄くするには、まず少しでもエゴを希釈(きしゃく)しておかなければそれは不可能な作業」
つまり「エゴをなくしていくことが最も大切なことだ」と理解するためには、「ある程度エゴを薄くしておかないとそのこと自体が理解できない」ということです。
よく考えると「そんなことは不可能」と思えてしまうのですが、それでもそんな中でも普段から、少しずつでも気づきを得て、一歩一歩エゴ(うぬぼれ)を薄めていくという作業以外に、そのがんじがらめの罠からは抜け出す術はないのです。
多くの方たちが夢中で生きています。
エゴという「自己イメージ」の夢の中で生きているのが私たちです。
こういう形を想像してみてください。
①あなたの身体全体を取り囲む丸いボール(球体)がある。
②そのボールの中にあなたはいるわけですが、ボールの中から見た球の表面(内
 面)はすべて鏡面になっています(鏡のようになっています)。
③そのボールがあなたのエゴなのです。
 ですからあなたはあなた自身のエゴをそこに投影することで、それがあなたを取 り囲む世界だと勘違いしておられます。
④あなたはそのボールの内側に映ったものを世界と認識していますので、あなたの 見ている世界はあなた自身(エゴ)だということになります。
 いわゆる客観的な世界(客観でもないのですが、一応大多数の方が共通認識でき るという意味での客観です。それが鏡面を通してうっすらと透けて見えます)は あるのですが、それを認識するときにあなたはエゴというフィルターを通して世 界を色づけしてしまっているということです。
⑤そのためあなたが面白くなければ世界も面白くなく、あなたが苦しければ世界も 苦しく映ります。それが「世界はあなたが創造している」あるいは「世界はあな た自身である」という本当の意味でもあるのです。
⑥この時私たちは自動的に二つの大きな負債を抱えることになっています。
エゴを支える(作り出す)ためにエネルギーを使いきっていることから来る疲弊(消耗)と世界を正確に見ることが出来ない迷妄(無知)・・・この二つを常に人類が抱えてしまっているのです。
さてそれでは私が抱える集合魂の肉体に組み込まれた最後のエゴの澱(おり)を外すために私の故郷の山である伊吹山での出来事を調べていきましょう。
その日は4月17日(日)で、あの大地震の後しばらく続いていた天候不順もおさまり暖かく風もなくとてもいいお天気に恵まれました。
新幹線で東京から米原まで行きそこから北陸線に乗り換える予定でしたが接続が悪くタクシーで伊吹山登山口まで行くことにしました。
米原に立ち寄るともう10年以上前から私は「湖北のお話」という弁当を買うことにしています。そろそろお腹がすいたのでそれを買い求めタクシーの中で登山口につくまでに食べていました。そんなに時間はかからず、おそらく25分ほどで伊吹神社の鳥居の前まで送ってもらいそこからスタートです。
元々頂上までは行く必要はないというご宣託がありましたので、普段着のジャケットとズボンに小さなリュックという軽装で山登りです(しかしどこまでとはまだこの時はわかっていなかったのです)。
登山口からすぐの所で正式な登山口と裏道のような分岐点があり、違和感がなかったので私は裏道をたどることにしました。そちらは主に今は使用されていないケーブルカーの保守点検用の道として小さな車が通れるだけの舗装された道になっていました。伊吹山をご存じの方は全体的に「平原・草原の山」という印象があると思いますが、こちらの道をたどると鬱蒼とした森林地帯に入っていきます。
後でお聞きするとそれも意味のあったことでした。
そして一般の登山道と合流する3合目からは視界が開けて通常の伊吹山のイメージの通りの大草原のシーンが続きます。
どこまで登ればいいのかわからないのでとりあえず上を目指しますが、5合目からは岩が多くなり、やや登山という趣になって来ます。
こうして7合目を越えますとだいぶ上に登ってきた感があり、眼下には米原彦根の小高い山に挟まれた平地が見え、その向こうには穏やかな鏡のような琵琶湖が横たわっているのが見えます。そこで何やら不思議な感覚にとらえられ、しばらく下界の風景を眺めていますとあたりの音が急に静かになったような気がしてきました。
穏やかな日ではありましたが、微風はあり登山者も日曜日だったのでそこそこおられたのですが、突然上りも下りも登山者が途切れ、ただ私と目の前に広がるパノラマだけの空間に取り囲まれてしばらくそこで佇んでいました。
その時ふとあることを思い出しました。
今見ている眼下に広がるその場所は、日本で最初に統一国家が造られた琵琶湖王朝の礎(いしずえ)となった場所でした。
日本で最初の統一国家は第16代仁徳天皇(AC357年~388年)の時代に築かれています。しかしその前の15代の応神天皇(AC310年~338年))の時代に基礎として、今私が見ている米原平原(そういう公式名称はないと思うのですが)に天皇が居を構え町が出来ています(応神天皇仁徳天皇との就任時期がつながっていませんが、そこにはややこしい事情があるのでいずれキチンとお話しします)。
そしてそこを中心にほぼ日本をまとめているという形になりつつあったのです。
(それまでの天皇は定住ということがあまりなく、戦の場所が生活空間でした。後でも書きますが、天皇は今と異なり政務はもとより戦いもその主なお仕事でした)
古代の日本史はもう2年ほど前にある程度収録してあったのですが、あまりにも複雑怪奇に入り組んだ内容だったため保留にしてありました。
初代の神武天皇(この方は実際には存在しておりません)からとりあえず聖徳太子までは何とかたどりたいと収録していましたが、その少し前までたどり着いたところでストップしています。
さて眼下に広がる米原平原に居を構えた応神天皇の時代ですが、この時日本をほぼ統一しかけていたのですが、その時の日本の人口はどれくらいだったかご存知でしょうか。
おそらくそんなことはどんな歴史学者にもわかるはずはないでしょうが、ここで面白い事実が知らされています。
日本全体で人口は約1万8千人
北海道と沖縄では各1千人
そして何と世界全体でも当時は80万人ほどの人口しかいなかったのです。
皆様は現在を通してしか過去の歴史を推測することが出来ないでしょうが、当時の人類はそんなものだったのです・・・というよりも現在の人口の方が異常だということもいえるのですが。
さて当時の日本の人口が1万8千人でしたが、統一国家が出来た仁徳天皇の都では何人くらいの人々が集っていたのでしょうか。
そこには何と日本人口の4分の1強の5千人の人間が集まっていました。
その琵琶湖王朝の都での当時の人々の実際の暮らしぶりは非常に興味のあるものですが、それはまたいつか「宇宙全史・古代日本史編」で詳細にお知らせします。
米原平原はその琵琶湖王朝の前身でしたが、この場所で琵琶湖王朝が築かれたわけではありません。
ここから内部外部も含めて凄惨な闘い、政略、跡目争いの醜い争奪戦があり、聡明(しかし苛烈)だった仁徳天皇が琵琶湖沿岸の別な場所に日本で最初の統一王朝を開いています。
眼下に広がるこの米原平原では当時もその後(関ヶ原の戦いもここでした)
も権力争いのポイントとなるスポットでした。
そこを眺めているうちにおそらく10分間くらいだったかと思いますが、いきなり私の中の何かが解放されたような気がした時、再び1千メートル以上の上空にあるその空間がまた再び通常の世界に戻り、細かなざわめきが登山者の行き来と共によみがえってきたのです。
後でみわに聞きますと、彼女の自宅から私にエネルギーを送り続けているうちに、ちょうどこの頃いきなりものすごい負荷がみわを襲い彼女は血を吐いています。
この時私は陰胎(いんたい・ナワール)に入っていました。
そんなみわのことはつゆ知らず、それでも「あゝもうここまででいいんだ」と気づいて、それ以上は登らず下山しています。
私の中の「集合魂の澱(おり)」などの様なものは、通常こういう形で外れると自然の中に溶け込むように吸収されていくのだそうですが、この時は私が眺めていた米原平原のあの古代の時空間に吸い込まれて行きました。
先ほど少し古代日本のお話をしましたが、当時の日本(ばかりでもないのですが)における権力争いは実に陰惨なもので、殺戮と拷問、復讐と怨念、陰謀と策略、飢餓と弱肉強食、気狂いと呪術といった様々なファクターが入り混じったまったく今からは想像も出来ないほどの何でもありの世界でした。
とにかく強い者、勝った者が正義の時代でして、その頂点にいたのが天皇でした。
当時の天皇は今のような「日本の象徴」ではなく、闘いの最先端を駆け抜ける戦士でもあったのです。
そして私の肉体における最後のカルマがその当時のその時空間に呼応するかのように吸い込まれていったのです。
その後再び同じルートを下った私は登山口でタクシーを呼び、米原ではなくもう少し北の長浜という人口が5万人弱の小さな町に行きました。
ここは私が生まれた故郷で、伊吹山に登った後は立ち寄るようにとのお達しでしたので久しぶりに戻ったのですが、古い記憶ではありますが昔の記憶とのあまりの変貌ぶりには驚かされました。
それでも懐かしいところがあちこちにあり歩き回ったのですが、その日は何やら町おこしということなのでしょうか、あちこちでイベントがあるらしくどこへ行ってもかなりの人出で大変な騒ぎでした。
そもそも以前から上の方から私はしばらく故郷に戻ってはいけないといわれておりましたのでこの機会に一つしんみりと味わっておこうと思ったのですが、とてもそういう雰囲気はすでになかったのです。
私の実家はその当時琵琶湖に流れ込む川のほとりにありました。
そこからは東に伊吹山が見え、西は琵琶湖の西岸に沈む夕焼けが赤々と見えたものでした。
秋も深くなり冬のにおいを北風が運んでくるようになると、その夕焼けの色は黄金色を交え東の伊吹山に反射して長浜の町全体が冬支度を始めます。
湖岸までは実家から子供の足で歩いて5、6分でしたから小さい子供でも遊びのカテゴリーに入っていましたので、毎日のように遊びに行っていたものでした。
当時は今のように琵琶湖沿岸が埋め立てられてはいなくて、葦が茂る湖岸と、その湖岸に広がる小さな丘陵が続く畑、今はなき長浜城跡の豊公園という湖岸を囲むような公園があり、遊ぶには事欠かない恵まれた環境でした。
私が4才の時のことです。
その琵琶湖湖岸の丘陵地帯の畑の中に湧水が出る浅い井戸がありました。
その時は近所の子供たち何人かと一緒に遊んでいたのですが、ふとはぐれたような形になり、一人きりでその井戸のそばにいた時のことです。
そこで私はそれまで生まれて来てから持ち越してきた、すべての不思議の能力、これから開花するであろう才能、開発されるべく眠っていた智慧のすべてを忘却(もしくは封印)しています。
その代わりに集合魂の解消すべきカルマを背負込んだのです。
その井戸は現実に存在する井戸でしたが、私がその場に立ち会った時には半分陰胎、半分現実の世界にまたがっていたのです。
その井戸のことを「産土(うぶすな)の井戸」といいました。
その時から私のただひたすらカルマを解消するという人生が始まったのです。
その井戸は今は埋め立てられてなくなっていますが、当時あったであろうその産土の井戸のあたりにも行ってみました。
しかしそこは近代的なきれいに整備された公園と、そこでのイベントに集う人々と拡声器の音、車の喧騒でごった返していたのです。
確かに一時的にはこの町はいわゆる「町おこし」というイベントで賑わうこともあるでしょうが、本来の琵琶湖を中心とした湖北の自然と調和した町としての観光誘致の可能性は、湖岸を埋め立てることによりすでになくなってしまっていました。
早々にそこを立ち去り、整備された湖岸沿いにタクシーを走らせ、米原からまた新幹線で東京に戻りました。
私の肉体の奥底に潜んでいた集合魂の最後の澱が抜けました。
それで私は肉体的に劇的に変化し、すぐに迫ったトライアスロン大会でいい成績を得られたのでしょうか。
またその最後のカルマが抜けたということは、すなわち覚醒が得られるということだったのでしょうか。
次回はそのあたりを詳しくお話しします。」 

 


伊吹山3
 
 ここからは書下ろしになります。
 
 すでに4月の大きなトライアスロンレースは終わり、結果は惨憺たるものでした。
 そのレースは最初に3キロ海を泳いで、次にバイク(自転車)で宮古島を155キロ走ります。最後にフルマラソン(42・195キロ)を走るのですが、ほぼ一日をかけてのレー スですから、皆さん何かしら途中で飲んだり食べたりしています。
 ところが私は例の(天変地異)負荷がここでかかって来て、バイクの途中から何も直べられなくなってしまったのです。
 通常レースではスイムから上がりバイクにうつる時着替えます。そしてバイクからランに移勧するときもやはり着替えるのですがこれをトランジッションといいます)、何も食べられなくなってしまったバイクを終えてトランジッションで着替えをしている時にびっくりしてしまいました。何と私の下半身の男性性器がなくなってしまっていたのです。さすがにあわてましたが、よく見てみると性器が身体の中に完全に陥没してしまっていたのです。寒いときや恐怖におびえた時などは小さく縮んでしまうということは普通にありますが、元々それほど大きなものではないのですが、そんなに小さくもないそれが体内に格納されてしまう
という異様な状況は、特殊な肉体環境に私を置くのが目的のようでした。
 特殊なといいますのは、ちょうど仏陀が覚醒後そういう形にご自分の身体をされていました。もちろんそれは肉体だけの問題ではなく、実際はバイクパートにおける激しい肉体疲労(ここでは栄養素をとれなくす
ることなどで、極限状況を作り出していました) により、私のリビドー( 性的なエネルギー) を昇華させるという離れ業をやっていたのです。
 ランに入ってからもまったく何も食べられず、それでも何とか走り切りましたが、私のランを見ていた知人は「何か走り方が変だったよ」という感想を漏らしていました。
 リタイヤ百数十名を出し、完走者が1200人の中で、ちょうど中間ほどの順位でゴールしています。へとへとのゴールにもかかわらず、これまでと少し変わっていたのはレース後の肉体がいつもよりも元気だということでした。
 
 私の肉体改造は大きく分けて三つのカテゴリーに分類されます。一つはすでに書いておきましたように私の集合魂のカルマやこれまで生きてきた私自身のカルマ(澱・毒素) を出してしまうためのエクササイズ。
 もう一つは覚醒のためのエクササイズで、これはかなり特殊な改造になっています。そして最後の三つ目は、私の個人的な目標である「肉体の限界を究めたい」あるいは「肉体の可能性を探りたい」というポジティブなものです。やはりこの中で 手ごわいのは「集合魂のカルマ」の刈取りで、どこまでやったら先が見えてくるのかわからないところが精神的にも肉体的にも厳しいものがありました。
 今回のこのレースと同じように(いやもっと過酷に) これまでトライアスロンはもちろんマラソンのレースでもその都度大きな負荷をかけられ、若いころはまだそうでもなかったのですが、ここ数年はとんでもない苦しさを味わっていました。
 そしてそのたびに「これでもうおしまいだろう」「やっとこれで終わりになる」という希望的観測が粉々に壊され、深い絶望の淵に立たされることになっていました……が、おそらくここが問題なのだと思うのですが、そのこれでもかこれでもかというくらいに果てしなく思える出口のないカルマの刈取りに精神的に負けていたら、それはそこですべてが終わっていたような気がします。
 つまりそこでは私の精神的な耐久性のようなものが試されていたのかもしれません。今はさらっと書けますが、振り返ってみますと「中々厳しかったなあ」という感想が実感です。
 
 さてそれではこれまでのレースと同じように今回もやはりカルマ消化のためのイベントだったのでしょうか。
 それがどうもこの頃からちょっとニュアンスが変って来ていました。つまり疲労困憊して終わった後も、それほど芯から疲れ果ててしまっているということがなくなっていました。いつもならレース後はお腹もす
いているのですが、内臓が疲弊してしまっていて、ほぼ何も食べられない状態が続くのですが、そういうこともなくビールも飲めましたし、普通に食事もでき、その後バイクの後片付け(トライアスロンはこれが大
変なのです) もさっさとやってしまっていました。これは延々続けられていた肉体改造の一つの成果だと思います。その時筋肉の質が少し変わって来ていたのです。
 このレースを終え次の大きなレースが佐渡であるのですが、それに備えようとしていた矢先、申し込みはしたのですが先着順で落ちてしまいました。これまであまりそういうことがなかったので、どうしたことか
と考えていましたら、月読の大神から、
 
「もういいよ」
 
 というお言葉がありました。それはもうレースをやらなくてもいいよということではなく、集合魂のカルマ刈取りのためのレースはもういいよという意味のものでした(実際にはまだまだ集合魂のカルマの刈取り
は続いていくのですが、これまでのこういうやり方はもういいよという意味のようでした) 。
 そしてそこから全く別のエクササイズが始まったのです。
 
 東京近郊の修験の山を駆ける
 
 今年(2011年)の5月後半から始まったこのエクササイズは、まず御岳山からスタートしました。
 最初は私一人でコースを下見に行きましたが、次からはみわと二人で行くのですが、彼女は運動というものをあまりしたことがないので中々大変なようでした。
 最初は短いコースで最終的には御岳の駅からすぐに走り出して、御岳山山頂まで一気に登り、そこから奥ノ院→大岳山→御岳に戻って→日の出山→つるつる温泉という結構ハードなコースを駆け抜けます( 最後は温泉に入れるのですが) 。
 この頃から植芝先生から加圧トレーニングを始めるようにといわれます。加圧トレーニングとは腕や腿の付け根をバンドのようなもので圧迫して、血流を抑え運動することで、通常のエクササイズと異なる様々な効果が得られるというものです。
 しかしこれが実際にやってみるとかなりきつく、そもそもものすごく痛いのです。血管が膨れ上がり、息が苦しくなり、吐きそうになってしまいます。
 私の血管はすでに毛細血管も含めすべて改造済みだそうで「切れたりしないから安心してやりなさい」といわれますが、この痛さはやってみた人にしかわからないかもしれません。
 加圧トレーニングは右や左の筋肉を意識的に鍛えることが出来るため、私の右偏重の筋肉を調整するためと(それに伴う血管や神経、ホルモンバランスも同時に調整しています) 、カルマの解消、エゴの希釈化ということも同時にやっているようです。
 
 御岳に通うようになり、最初は浅い陰胎まででしたが、次第に深い陰胎に入るようになっていきます。この段階の陰胎は「変化」の陰胎で、肉体的にはここに入るとものすごい負荷がかかり、精神的にも肉体的に
も消耗してしまいます。
 この頃現世的にも様々な案件が重なり、寝不足、バイオリズムの低迷期、私の肉体(特に腰)の調整、さらに陰胎に入るという4重苦をよくクリアしたねとお褒めの言葉を頂きました。
 
 御岳山系を駆け廻っていますと、色々修験者のお話をして下さいます。私たちもそこそこきつい肉体行だと思っていましたが、彼らは昼も夜も冬の雪中でさえも修行を続けます。夜は山野で仮眠をとるだけ、食事
は谷川の水と山菜の食べられるものを見分けて食します( 一応塩と穀類の蒸して干し固めたものも持っていたようです。それを少しずつ水で嚙み砕いて食べています) 。初心者は悪いものを食べてしまい、下痢や嘔吐で体力を使い果たし、そのまま野垂れ死にして行くものも結構いたようです。
 本格的な修験者の修行はテレビで有名になった千日回峰行の比ではなく、とことん突き詰めてしまうと山塊の獣のような在り様になってしまいます。それは「獣に堕した」という意味ではなく、限りなく自然に
近い生命の在り様として完成された姿になっています。
 それでも私はその時は「それは自らの肉体修行という過程を通しての、人より(超能力を得たいとか色んな意味で) 強く、優勢になりたいというエゴの欲望の究極の姿ではないのか」と考えていましたが、その修行を極めた方にお聞きすると、最終目的は一言、
 
 「祈り」
 
 とおっしやったのです。
 そのお言葉をお聞きしてから私たちの本格的な山での修業が改めてスタートしています。
 
 6月16日からは別な陰胎に入るようになり、感覚としてはサラサラした流れの世界に浸かっているような感じです。
 このあたりから私の走り方に変化が出て来たようで、泥をはね上げなくなったと後ろからついて来るみわにいわれました(今までは相当泥をあびていたのね、スミマセン) 。
 
御岳のケーブルヵーの入り口から山頂までのちょうど中間地点あたりにお地蔵様があります。いつも賽銭なしでお祈りだけをしていくのですが、この日はみわに五円をあげて下さいといわれる。
 どうやらここのお地蔵様はだいぶ格が上のお地蔵様で、ちょうどオリンピックのマークの五輪の全体を丸くつなげたような形がお地蔵様のシンボルらしく、洒落ではないのですが、それで御縁をつなげたようです。
 
 私の肉体改造は霊的、気的、肉体的にそれぞれが密接な関係を保って構築されています。その中でサプリメントという補助食品も結構大量に摂取するように指示されています。これはおそらく通常の人の飲む数倍
から十数倍の量を毎日二回飲んでいると思います。それでも同じビタミンやサプリを続けるというのではなく、その都度その時に必要なものの用法と容量を指示されます。
 例えばこの時には今まで飲んでいたものに加えてビオチンという聞いたこともないようなものを飲むようにいわれています。これは通常は美容関係のものらしいのですが、私の場合は細胞質の変化を促進させるという意味で用いられるようでした。
 私の身体の細胞には約一年ちょっと前に私の肉体の最盛期、16才の時の細胞の核が埋め込まれています。ただそれが中々活性化しないでいるのですが、その賦活化のためにもこのサプリが必要だということのよう
でした。
 
 初めのうち御岳の陰胎は「横の陰胎」という表現で教えられていましたが、次に入ったサラサラの陰胎は、現世から見ますと180度の角度を持つ次元の高い陰胎のようでした。そして右の陰胎、左の陰胎というよ
うに現世的にいいますと左右のカテゴリーがあるようで、それが人間の右脳左脳という理性、情動の部位に関わって来ているようです。ここは入っている時間は短いのですが、効果は強烈で、私たちの後押しをしてくれる力が手に入るということでした。
 
 実際この日の最終局面で山を降りてつるつる温泉に至る舗装道路(約1キロ程ありますが) に出ると、いきなりみわが私よりも早く走りだしています。いくら疲れているとはいえ素人のみわに抜かれるほど衰えて
はいないはずですが、どうしてもみわに追いつくことが出来ません。この時みわは陰胎の効果で(無理やり)走らされていたのです。
 
 6月27日が御岳最後のエクササイズになりました。
 天気予報でこの日はかなり暑くなるということでしたが、御岳の駅を降りますと霧雨が降っています。そのまま河原に降りて遊歩道を御岳のケーブルカー乗り場まで走ります。この時すでに陰胎に入っていました。
そこでいきなり「今日はあなたの慈悲を大きな慈悲が包むだろう」というお言葉が降りて来ています。
 最後の日なので何か特別なことをする必要はないのかお聞きすると「前回あなたはお掃除をしたから今回はもういいよ」といわれました。
 私は小さな時から高校生くらいまで一人でいつも田舎の山野をほっつき歩く少年でした。そんな時よく汚れている神社の境内や山の中の朽ちかけた祠などを適当に無意識に掃除をしていたものです。その癖で前回杉の枯葉などで汚れていた御岳のお地蔵様の祠を掃除してお水を差し上げておいたのですがそれをいわれたのです。
 いつもはこのお地蔵様は普通のお地蔵様とは異なり、半分は怖いお顔の面を持つ存在なのですが、この日はなぜか優しいお顔になっていました。
 そして最後の山を降りてつるつる温泉に向かう舗装道路に入りますとみわが先行しますが、相変わらず本来のスキルに似合わず飛ばしていきます。ところが追うのに精いっぱいの私が途中からいきなりすごいスピードで彼女に追いつき追い越し、さらに加速して走り出すのです(おそらくキロ3分近くは出ていたと思います) 。
 他人ごとのようですが、自分で走っているわけですからその感覚をいいますと、最後の激しい山行を終えやっと一息つくところなので、足は痛くてガタガタで息が上がっているのですが、そんなことは関係なく足
がいくらでも前に出る……そんな感じです。しかもつるつる温泉まで走り終えても、息切れしているはずの息が全く切れていないことに気づきます。
 その時あゝこれが「あなたの慈悲を大きな慈悲が包むだろう」ということなのかなあと思ったのでした(おそらくそれは現象面に現れた一部にしか過ぎないのでしょうが、これまでまったくといっていいほどそういう経験がなかった私には新鮮な感覚でした) 。
 ただそういう現象があったといっても、それがこの時を境にして私の運動能力がいきなり上昇してしまうのかというとそういうことでもないようなのです。それはあくまでもそういう肉体の可能性を持つようになったというしるしで、その特質がキチンと肉体に反映されるのには「馴染ませる」という時間と修練が必要のようです。実際その後の私は前と同じようにキロ6分で走るのがやっとのほぼ常人以下のアスリートに戻っています(キロ3分とかキロ6分というのは、ーキロを何分で走るかという目安です。例えばキロ6分というのは時速10キロで走る速度のことで、フルマラソンだと4時間ちょっとで走ることになります) 。
 ちなみに私のフルマラソンの最高記録は30代の時で3時間6分というのがあります。しかしそれ以降はほとほと情けないようなタイムで、どうしてもサブスリー( フルマラソンで3時間を切る) という限界を超え
ることは出来ませんでした。またこの30代のころの無茶なトレーニングで、身体のあちこち(特に腰)が複雑に損傷してしまい、致命的な欠陥を抱えた体になっでしまっていたのです。
 それを今私のカルマと共にその損傷した肉体の回復も含めて、植芝先生が色々施して下さっているのです。
 さてこれで御岳山系の修行が一段落しました。この頃から鳥の胸肉を食べるように指示されます。
 ご存じのように鳥の胸肉には何やらイミダペプチド(イミダゾールペプチド) という怪しげな持久力アップの成分が含まれています。それを体内で製造できるまで(製造できるように馴染ませるために) 食べると
いうことのようです。通常人には中々そういうことは出来ませんが、それが出来る身体になるというのが肉体改造の一つの構造のようです。
 
 次にいよいよ6月も末の30日から高尾山系での修業に入ります。京王高尾山口駅からスタートし、景信山を経て陣馬山の下までほぼハーフマラソンの全長約21キロの行程を走破します。陣馬山から下りると温泉が
色々あり、そこでもまた疲れた体を癒すことは出来ました。
 スタートの高尾山から山頂までのコースは色々あるのですが、私たちは稲荷山コースというラインを選択します。高尾山くらいの山で迷うことはないとタカをくくっていましたら、景信山でコースを逸脱してしまい山の怖さを改めて思い知りました。この頃から天候も暑さを増して来ていました。私は本来持久走者なのであまり塩辛い汗はかかない身体になっているのですが、高尾山ではものすごく塩辛い汗をかいていました。
 これは私の中で細胞が変化しつつあるので代謝を潤滑にするため、細胞のシステムを変えるため古いシステムを入れ替え排出するための現象だそうです。つまりたとえシステムであってもそれを排出するということは、一種の老廃物という形にして排出されるということだそうでした。
 
 高尾山を走っていますと、最初の内はカラス天狗が遠くの方からひょい、ひょいとのぞいていますが、次の日あたりからやがて大天狗が私たちのそばにつくようになります。
 高尾の大天狗は高尾殿と呼ばれていて(カラス天狗たちがそう呼んでいます) 、日本における三大天狗山は、この高尾山と出羽三山羽黒山、そして義経(牛若丸) が修行した京都の鞍馬山になります。他にもお
られるのですが、この三山がメィンになり統括しておられるようです。
 そもそも世界における天狗の本拠地をご存じでしょうか。
 それはシベリアとモンゴルの間のあたり、森林地帯もありますが平原や岩山のある広大な大地を拠点としておられます。
 高尾殿は普段は日本全国を巡っておられますが、彼ご自身のいい方ですと遊び7分仕事3分の「遊行」という言い方をされます。もちろん大天狗としてのお仕事はキチンとされていますが、天狗の在り様そのものが「遊ぶことが大好き」という面が大きくありますので、そういう言い方になるのだと思います。
 大天狗さんは歌舞音曲は大好きですし、珍しいもの美味しいものにも目がありません(もちろん直接食べるのではなく、その精を味わうのですが、私たちは肉の身ですから、精を味わうと聞きますと何となく味気
ない気がしますが、本来は精の中にその存在が持つすべてがより凝縮した形で存在しているのです) 。とにかく面白いこと楽しいことが好きで、どちらかといいますと非常にカラリとした存在感をお持ちの方です。
 牛若丸はもちろんですが、植芝先生も故郷の裏山で修行のお手伝いをして頂いたようです。高尾山では単純に陰胎に入るということではなく、天狗のテリトリーと陰胎界をつないで肉体修行の後押しをして下さいました。
 みわという存在は非常に上の世界の繊細な空気(気配) を察知するのが得意ですが、彼女によりますと、私と高尾山(高尾殿)は馴染みがいいらしく、ありていにいってしまいますと「気に入られた」ということのようでした。
 しかしそれは私のバックに月読の大神という巨大な存在が控えておられるので、そういう感じになっているのではないかとお聞きしますと「いやなものなら誰が何をいっても動かない」という性格らしく、有難いことに純粋に気に入ってもらえていたようです。
 
 7月も半ばに差し掛かりますと、みわをもっと追い込むように指示されます。みわは元々アスリートではなく、かなり無理して私についてきてはいるのですが、さらに厳しく引っ張るようにというお達しが出てい
ます。そうすることでみわのエゴを昇華しようという算段のようで、私も心を鬼にして引くようにしていました。
 そして7 月26日には高尾最後の修行の日だったのですが、みわの疲れがとれずにこの日は中止になっています。みわにはまだまだ天変地異の負荷が大きくかかっていまして、それを抱えての肉体修行ですから実に大変だったと思います。それで私もつい手をゆるめてしまうということがあったのですが、そういう時は「もっと厳しく」というお言葉が降りてきました。
 この頃私が大天狗さんに「そろそろ終わりなので何か術を教えて下さい」とお願いすると「私の眷属( 仲間• 弟子) になるのならいいよ」というお言葉、どうしようか迷っていますと月読の大神が「好きなようにしていいよ」とおっしゃいます。
 何やら怪しげな雰囲気なので五井先生にお聞きしますと「あなたは最初からそういう選択はしていないね」とおっしやいました。
 どうやら一種のおためしだったようで丁寧にお断りしましたが、それでも高尾殿は「いつでも来ていいよ」と優しくおっしゃって下さいました。
 
 高尾山も最終段階に入って来ていますが、それで私の肉体能力が格段に上昇したかといいますと、相変わらずそうでもなく登りのステージではゼイゼイ• ハアハアいっています。ただ体の中身は色々いじくられているようで、色々ホルモンが出ているらしく、手の指に小さな水ぶくれのようなものが出来たりしています(これはかゆいのですが、以前からホルモンが異常に分泌されると出来ていました) 。またこの頃から塩ブ
夕(豚肉を塩漬けにしたもの)を食べるようにいわれます。
 この塩ブタは主に細胞間液、細胞質の浄化と変質を促すためのものだそうです。
 私の場合は塩ブタからかなり脂肪分を除去したものを摂取しています。
 
 高尾山の修行は8月1日に終わりました。
 結局御岳山も高尾山も私たちの毒出し(浄化) がメインで、直接的な運動能力の向上といったものはあまり見出せませんでした。
 それをどう受け止めるかは個人的な問題ですが、私の場合は「基本、土台をキッチリ固めてからの進化」というプログラムだと理解していましたので焦る気持ちもありましたが、倦まずたゆまず、くさらずへこまず黙々とワークを続けていくしかない状態でした。
 上の方からはあまりそういう注意や助言というものがないので、通常は初期の段階でめげてしまうのですが、それも修行……特に「不屈の精神」を試されているという意識がありましたので、何とかクリアできて
来たのだと思います。
 すでに書いてはおきましたが、細胞や循環器系、筋肉組織などの肉体が変ったからといって、肉体そのもののパフォーマンスがその日からガラリと一変するということはあまり期待できないもので( そういう人も稀にはいますが) 、少しずつ慣らしていく、徐々に調和(一体化)させていくという作業が必要になります。
 こうした順序を経たワークをさせて頂いている私でも、常に頭痛がしたり、筋肉に異常が出たり、浄化の場合は皮膚表面に次々と妙な湿疹やできものが出て来るという様々な肉体の変調が出現します。それを一気に変身させようとすると肉体が異常をきたしたり、下手をすると破損、精神の異常、あるいはその存在自体がキメラといわれる変態形になってしまったりしてしまいます。
 例えば私の筋肉は最終的にはピンク筋というものに変化していくのですが、その前の段階として現在は白筋と赤筋を混じり合わせているという工程にあります。こう書きますとまるで絵の具を混ぜているような感覚ですが(実際にそのようなのですが)、その過程がとても大切な作業になっています。
 そしてこうしたワークの間はあまり運動パフォーマンスは上がらず、逆に下がったりもしますので現実は非常にがっくり来るのですが、そこで何事もないような顔をして黙々とワークを続けることが大事なようです。
 
 以前はまったく私たちの覚醒ということに関して言及がなかったのですが、この頃になりますと月読の大神から「覚醒への過程として」とか「それが目標だろうよ」というようなお言葉が頻繁に降りて来ています。
 いよいよかという思いが私のエゴをくすぐりますが、それでも肉体の変革は見た目にはほとんど変わらない有り様で、めげてしまう気持ちが時々出て来るということの繰り返しです。
 現在これを書いているのが9月1日になっています。8月中に富士山に登頂する予定でしたが、様々な理由から遅れてしまっています。しかしすでに私は単独で8月25日の雨の日に富士山の8合目まで登っていました。それはみわと二人で行く予行演習のようなもので、コースの確認と何か不備がないか確かめるためでもありました。本当はその日も頂上まで行く予定でしたが、登り始めから降っていた雨が8合目からは非常に強くなり、雷も交えてきましたので大事をとって引き返しています。すでに書きましたがお盆の時期は富士に日本中の不成仏霊が集います。またなぜかその時期に多くの人々も富士登山を行っています。そのため膨大な負荷が富士山にかかっており、その負荷の浄化がお盆以降約半月にわたって行われます。雨風雷、台風がこの時期の富士山に多いのはその浄化のためなのです。そういう時期に私たちが登るのも最終的な浄化のためということがあるので仕方のないことだということでした。
 
 うまくいくとみわが富士山でまず覚醒するようですが、どうしても不確定な要素が多くて「さらにもう一度みわが一人で行く必要があるかもね」というお言葉も降りて来ています。
 本当は富士の結果が出るのを待って本にしたかったのですが、どうやら時間切れです。
 
 次回は何とか「宇宙全史」第2卷を出したいと願っています。
 
 富士登頂
 
 最終稿で富士山登頂の記が間に合いましたので簡潔に書いておきます。
 
 9月7日に行 ってきました。
 それまでの不安定なお天気とはうって変わり星がきれいに瞬く夜空が広がっていました。
 スバルラインで5合目に着いたのは午前4時半でした。
 今日はみわに極限までの負荷をかけないといけないというので、ほぼインターバルなしで薄い空気の中限界まで登っては休み登っては休みを繰り返し9合目まで行きました( 休むといっても10秒くらいですが) 。
 みわはすでに足は限界にきていて、ガタガタ震えるひざを時々手で支えて虚ろな目をしながら、息は薄い空気の中ぜえぜえいいながらついて来ています。9合目の中ほどで天帝様から「まよくやったわね」という
お言葉を頂いた後、登頂に成功しています。
 直後にみわは手を伸ばした状態で身体をへアピンのように前に折り曲げたまま30分ほど昏睡状態に陥ります。その間色んな人が「この子大丈夫?」と声をかけてくれますが適当に答えるのが私の役目でした。とにかく登頂した直後にその状態になっていますから、後から後からゾロゾロ人が来るのです。みわはその状態で硬直したままなので他に運ぼうにもどうにも出来ないという状態が続きました。
 結局みわは天帝界との完全な接続が30分程で終わり目覚めますが、身体がものすごく冷え切っていて、しかもそこは富士山頂で、お天気がいいとはいえ気温はかなり低いところですから「寒い」「寒い」と震えています。
 実際に触ってみると氷のように冷え切っていて、急いで陽だまりに移動し上着を着せるとすぐにまた昏睡してしまいました。
 
 しばらくすると目覚めたの ですぐに下山します。
 途中何気に振り返ってみると、右肩の富士の稜線から急速に白い雲が湧きあがって来ていて、それが雌雄つがいの白鷗、ついで獅子、その後すぐに竜神の背中に観音様がのられて出現されました。観音様は白衣観
音で、この方は2年くらい前に修行した奥入瀬の滝でお会いした方でした。霊的な水脈が日本中につながっているようなので、どこへでも出現なさるようでした。
 その時「水分(みまく)り」とのお言葉……よくわからなかったのですが、「慈雨」のような意味で日本中の(霊的な)水脈を通して、慈悲の恵みを授けてあげましょうというような意味だと思います。
 ちなみに私たちのワークには水神様も関わっておられますが、この方は自然霊に近い方で、人間にとって
は厳しいといいますか「理(ことわり)」を厳然として遂行されるというような非情の存在です。
 富士山の修行はこれで終わりましたが、本格的な修行は実はこの後から始まっています。そしてそれはまたいつか機会がありましたら書いてみようと思います。
 

DNA

カープDeNAが最下位争いをしている今日この頃ですが、DNAについて検索して読んでいると色々と面白い御教示を見つけました。ぜひお読み下さい。

 

「宇宙全史」を読むとどうしてDNAが変化するのか

 

私たちの肉体は常に上位の身体(魂)から、調整を受けています。
(上位といいますのは、肉体なら魂魄体・魂魄体には霊体・霊体には神体というように上の身体の事です・しかしこれは非常に簡略化した説明です)

この場合上からどうやって調整するかといいますと、肉体の細胞の核にあるDNA細胞に対応する魂魄体のDNAが情報を伝達するのです。
魂魄体といいましても、非常に肉体(物質レベル)に近い波動の魂魄体ですから、ある意味その二つのレベルのDNAは「共振」するという形で、情報(エネルギー)を伝達します。
(先ほど肉体・魂魄体・霊体・神体等・・・大まかなご説明をしましたが、実はそういう風にはキッチリと分かれているわけでなく、いうならばグラデーションのようにつながっている存在なのです。でもこれは図で描いてご説明しないと中々理解してもらえないかも知れません。しかしここでそういう説明は出来ませんので、とりあえず、魂魄体でも非常に肉体に近いレベルの魂魄体から肉体に作用が伝達されるとお考え下さい)

つまり人間の上位にある「本体」が思惟した事を、肉体に届けようとすると、グラデーションんのような縦に連なる(霊体→魂魄体→肉体という)身体を通して、肉体にまで届けなければならないのです(この縦に連なる体というのを理解する事は中々大変だと思います)。
しかし現状今の人類の大多数は、この情報を正確には受け取ることが出来ません。

さてat様のご質問ですが「宇宙全史」を読むとどうしてDNAが変化するのか・・・というのにお答えします。

「宇宙全史」にある情報は、ある意味人類にとって「ものすごく事実に近い情報」なのです。
そういう情報はおのずと「力」を持つのです。

at様は「宇宙全史」第一巻をお読みになったと思いますが、あれをどこまでご理解されたかは分かりませんが・・・色々な方がすでにお読みになって、様々な反応をなさったはずです。
多くの方はショックを受け、その内容を拒否するか、本を廃棄するかしたかもしれません。
ある方は「ひょっとしたら本当かもしれない」と少しは受け入れたかもしれません。
またある方は「これは事実だ」と心からその内容を受け入れたでしょうか。
しかし「受け入れた」方の中でも、
「事実を受け止め、それからどうするか考えた方」
「事実を受け止めはしたが、そのあまりの内容に絶望してしまった」
極端にいいますとそういう風に分かれることもあります。
問題は「心から」受け入れた、理解したかという事なのです。

いずれにせよ「受け止めた」方のDNAは変化を始めています。
「心から受け止める」という事は、その方の潜在意識までその情報が伝達されたという事でもあります。
その方の潜在意識にまでその情報が行くということは、ほぼ「本体」にまで届いているという事でもあるのです。
「宇宙全史」の情報は「事実」ですから、本体は肉体がこれまで「無明にさまよっていた」と思っていたら、突然「真実」に目覚めたと判断します。
そうすると今度は本体は時期が来たという判断をして、「覚醒」の伝達信号を肉体に発信するのです。

しかし今度は以前と違って「すでに肉体から本体までいわば逆の形で情報伝達の通路が形成されてしまっています」ので、容易に本体の「覚醒」信号が肉体に届くのです。
そうすることにより肉体のDNAは変性を始動するのです。
(2008/12/30 No.104)

 

 

人間( 魂)とは情報で出来ている。そしてその情報は記憶に由来する。つまり人間とは「記憶」で
ある。記憶がなくなれば人間は死ぬ。その記憶とは思考レベルの単純な時系列経験のような記憶から、肉体(DNA や臓器類他) が持つ独自の記憶、さらに潜在意識以下の精妙な波動の記憶も含まれる。

肉体(身体)というものは、「現れ」ではありますが、一種の魂でもあります随分粗雑な魂ですが、やはりそれでもエネルギー塊が個性という「我(エゴ)」を伴う魂なのです その中で「記憶」の占める位置は、大まかには「脳」といってしまってもいいのですが、実際は既に書いたように「身体の全てに」各々の組織(細かくはDNAなども)が「記憶」を持ちますというより、その組織そのものが「記憶」といってもいいかも知れませんもっといいますと「記憶」が体を構成しているといってもいいでしょう だから皆さん方は、私が継続している肉体改造など関係ないと思っておられるかも知れませんが、そこを正さなければ到底「完全覚醒」など叶わないのですそこが難しいところです 

さてそれではなぜ私は自身の肉体を改造しなければならないのでしょうか。
一番の目的は「覚醒」にありました。
通常覚醒するためにはあらゆるカルマを清算しなければなりません。
カルマは魂レベルにも保存されてはいますが、その反映として肉体(DNA)にも刻まれています。
それが病や事故、不幸などを誘引します(もちろん負の現象ばかりではなく、幸福や成就といった正の現象もあるのですが、中々少ないようです)。
つまり覚醒するためには肉体にある故障や不備、積もった澱(おり)などをまず解消していかないといけないということがあります。

 

 

「人類のDNAは、超人がこの世で得た想念で変わるのですか」

このご質問にお答えします。

サタンほどの者になりますと、その力で人類全体を左右する可能性を持つようになります(想念では変えることは出来ません・あくまでも力が必要です)。

但しこの場合「可能性を持つ」ということでありまして、「可能」ということでもないのです。

一つにはサタンがその生で肉体を持ち、環境や生きていく上での障害を越えて、彼のポテンシャル(潜在的可能性)をどこまで出す事が出来るか・・・という条件が一つあります。
サタンの分身であるエル・ランティが、19世紀のイギリスでベンジャミン・ディズレーリとして生きたとき(「宇宙全史」第一巻参照)、幼い頃からの家庭教育(マザコン)で彼自身の本来の力が出し切れず、結局フリーメイソンに頼ったということがありました。

いかに超人といえど、今生肉体として生まれてきた限りは、肉体の法則に従って生き、その上で必要な力を手に入れなければならないのです。

もう一つは、超人がその力を行使して人類を自由に操ろうとしても、それを人類が受け取らなければその力は実行されません。

たとえばヒトラー(これも「宇宙全史」第一巻参照)はサタンが演じておりましたが、彼の「世界滅亡」という野望は、人類が受け取る事を拒否しております。
(ここの解釈は非常に難しく、単純に「人類が拒否」という事でもないようなのですが、今はあまり触れません)

つまりいかに強力なパワーを持つ超人が現れ、私たちを支配しようとしても、私たち自身がそれを受け入れない限り、そのパワーは有効にはならないのです。
しかし私たちはこれまでの歴史を見ていますと、ほとんど常に彼らの言いなりでした。
それは私たちが、

「何か頼るべきものが必要だ」

「何かに依存しなければ生きていけない」

そう思い込んでいたからでした。
でも実はいかに強力な超人があなたを支配しようとしても、本当にあなたが心底拒めば、その支配から外れる事は可能なのです(この世界はそういうふうに創られています)。

「もし理想的なDNAの変化のさせ方があるなら知りたい気がしますが、それが個人が書くべきテスト用紙の答え、なのでしょうか?
あるがままに受け止める、とニサルガダッタ先生の本に書いてあるので、私が考えなくてもいいなら、あっさり答えていただければと思います」

このご質問のお答えです。
一般的に理想的(普遍的)な解答というのはこの世界では存在しません。
At様ならat様のオリジナルな解答があるだけです。
そしてそれはあなたが自身で見つけなければならないものなのです。
ニサルガは確かに「あるがままを受け入れよ」とおっしゃいますが、そのあるがままは「あなたのあるがまま」を受け入れ、そこからどうしますか・・・という事です。
あなたはニサルガは、何もしないでのあそこまでの境地に至ったとお思いでしょうか。
下のBBSでも書いていましたが、「あるがままのあなたをキッチリと見て・受け止めて」そこから始めましょう・・・という事です。
その勇気がat様にはおありでしょうか。

最後の「素直」という言葉を私が前回お送りしたのは、いい意味での「素直」という事でしたが・・・今回改めて上にお聞きしますと、

「これはあまりよろしくない素直も含んでいるなあ」

というお答えがありました。
At様のおっしゃるとおりの部分もあるようです・・・ね。

ご健闘をお祈りします

虚空蔵55

(なおノロウィルスで私の体を改造したのは、たまたま私が当時ノロに感染していたから、ついででやったみたいです。ウィルスは、上の方々が肉体界に良くも悪くも使用する中々重宝な手術道具のようです)

 

 


●「出生は肉の親とどの様な関係性があるのでしょうか。また、地球原人が亡くなった場合は地球の集合魂に帰っていくのでしょうか」

○親との関係性はあるといえばあるのですが、それ程濃くはありません。DNA因子によらない出方もありますから、人それぞれのようです。
地球原人が死んだ場合は、地球に戻ります。
地球原人の集合魂=地球という形になっています。

●292頁4行目~  (本文) あとの肉体はそのまま放牧しています。これで多少は繁殖力などが強くはなったようでした。 哺乳類のDNAにおける雌雄分岐遺伝子というのがあるようなのですが、この部分が元々少し弱かったところを補強しています。この「雌雄分岐」というDNAにおける塩基は、ある意味進化の要のようで「バイセクシャルでもなく極端なオス・メスでもない調和された雌雄」ということが大切だったようです。 ←「雌雄分岐遺伝子の補強」というのは放牧を通して繁殖力を強化したことと同  義でしょうか?もしくは、放牧とは関係なく他の手段で補強を行ったのでしょうか? また、「雌雄分岐遺伝子の補強」によって「バイセクシャルでもなく極端なオス・ メスでもない調和された雌雄」が実現されたということでしょうか? ○放牧を通して補強はしていません(多少は効果がありますが)。 エストラダから来た肉体から抽出した遺伝子でバランスの良い雌雄分岐遺伝子を一定数の肉体に補完し、それを放牧している(放置している)人間たちの中に更に混ぜることで、自然に全体を強化しています その効果は確かにありましたが、現実問題として単純な男女の分化の明確化だけではなく、潜在的バイセクシュアルという生命本来の有り様にも気づくことができるような余地を残しています。 しかしこの余地が現代の段階では、同性愛などに大きく反映されてしまっていますが、そんな中から肉体という段階を超えての愛を模索するという学びが用意されてもいるのです 

 

 

「ラ」についての御教示 2009/4/9 No.703

ソマチットに関しまして、私はまったく知りませんでした。
調べてみますとこの宇宙におけるかなり重要なファクターのようで、簡単には説明できないもののようです。
 
まずソマチッドという名称ですげ、本来は「ラ」というそうです。
何といいますか・・・上の方たちはそう呼称しておられます。
そもそも私たちがこの世界で何をどう呼称しようが、上の方たちはあまり(ほとんど)気になさらないのですが、この「ラ」に関しましては、わざわざ「その名は違和感がある(ソマチッドって何?という感じで)」おっしゃってきました。
そんなわけでここではソマチッドのことを「ラ」とします。
(これまでこの宇宙全史のワークの中では、本当に固有名詞というものが重要視されていませんでした。ですからエホバという名称の源流をたどるのも、えらく苦労したものです。それは上の方たちの意向でもあるのでしょうが、だいたいは「あなたたちが必要なら好きな名前をつけておけばいいよ」くらいのスタンスだったのです。そんなわけで「宇宙全史」では「シマシマ惑星」とか「JUMU」とか、ない知恵を搾り出して名称を考えていたのです。この関係性はおそらく古代の精神世界でも同様で、メソポタミア古代イスラエルギリシア、エジプトなど神々との交信があったとき、おそらく彼らは彼らの言語で、彼らの単語を何かしら適当に当てはめていたようです。それが現在私たちにはもっともらしい精神世界の語句になっているのです。例えば大天使の名前や悪魔の名前、天上界や星々の名前などもそうです。今ここではこの宇宙における非常に根源的な情報が日本語で降りてきています。そこには次の時代の基礎となるべき情報を多く含んでいます。やがて「宇宙全史」に使われている語句が、世界の精神世界の標準語句になるときが来るかもしれませんね。でもその時にはある意味日本という国が、世界のリーダー的な存在になっていなければならないのでしょう)
 
なぜこの「ラ」がわざわざ呼称を特定されたのかといいますと、先ほど書きましたように「この宇宙の基本構成要素」として結構重要な位置を占めているということがあるからなのです。
もちろん地球上の最古の生物かどうかとか、DNAの前駆物質がどうかとかの細かい側面は持っているのですが・・・少しそういうことを収録してはみたものの、とてもここだけでご説明できる代物ではないと判断したしました。
キチンとご説明するにはおそらく「宇宙全史」の中で章立てをするくらいの分量がいるかもしれません。
 
ここで少しだけ収録した概要を書いておきます。
「ラ」は生命体ではあるようです。
ウィルスに似ていますが、生命としてはもっと「完全」なもので、ウィルスは上の方がおっしゃるには「ラ」に比べると「粗雑」だそうです。
最古の生物かどうかということですが、「宇宙全史」第一巻で明らかにされていますように、地上の生命はいわば実験室で創られたものです。
そういう意味では、創られた元のもの(材料)という意味ならそれでいいそうです。
DNAの前駆物質ではあるのですが、情報格納庫としての意味に限定されます。
生命体ですから、生命の定義の一つとして「自己増殖」「自己の相似体を複製できるか」という部分は、ウィルスと似ていまして、つながる所を利用して増殖は出来るということでした。
つまり増殖には媒体が必要ということで、ここはウィルスと似ています。
 
それではそもそも「ラ」とは何かということですが定義としては、
 
「宇宙が存在するためにバランスをとるためのもの」
 
という壮大なお答えがきました。
具象的に見ますと「ラ」には表の顔と裏の顔がありまして、表が「生命を生み出す」という顔、裏が「ダークマターのようなもの」という顔を持ちます。
もう少し深く見てみますと、
 
「生命と存在と宇宙の接点のようなもの」
 
「存在そのものに関わってくる」
 
それが「ラ」なのです。
ここではそうした漠然とした表現しか出来ませんが、そのうちキチンと解明していきます。

真我・実存に関する考察

 
実存と真我に関する御教示を先日まとめています。
 
以前、それをもとに自分の拙い体験を加えて考察した原稿がありましたので、掲載します。ご意見をいただければ幸いです。
 
 
①一回目は、壮大な叙事詩「宇宙全史1」における実存のご説明です。
 
「そこに書かれる物語にある「永遠」を読み解かねばなりません。本当の詩には必ず「永遠」が潜んでいます。言葉を綾なすことで、永遠を。表現することも可能なのです。」と2016/9/26 No.3039で御教示いただいています。
いい文章だなと憧れて、私も実存を言葉で表現できないかと思ったのが今回の間違いの始まりでした。
 
「魂」の章で、「実はこの「 実存」の探求が「宇宙全史」という本のテーマです」と明言されておられます。
 
虚空蔵55様がBBSでこの方向の探究に関わる御教示をされるときは、ひときわものすごい愛を感じますので、本当にこの言葉通りなのだとひしひしと感じます。
 
 
 「ここでお話している「私」は自我(エゴ)の私ではありません。ニサルガダッタの提唱されている「私は在る」という意識感覚(根源的なアイデンティティ)というのが最も正確な言い方だと思います。この実存にかかわる部分は直接ニサルガダッタの日本で出ている唯一の本「私は在る」をお読みいただくか、この本の「宇宙」の章の「実存」の項をご覧ください。お勧めはニサルガダッタの本の方です。」
 
ニサルガダッタの本は二冊邦訳されており、kindle unlimitedでも読めます。それが使える方はぜひダウンロードして下さい。
 
 「魂(体)は実存があってこそ意識を持ち認識が可能になるのです。つまり実存が私たちの存在のすべての在り様に焦点を当てることにより、命を吹き込み存在を現すのです。人間という存在は人間界・魂魄界・幽界・霊界......と延々と果ては究極の実存界まで切れずにつながっている存在でもあります。その段階のどこに気づいているかということが、今のあなたの居場所になっています。現在は人間という存在に気づいている段階ということでしょうか 。ここでは「私」「意志」「気づき」という単語を使ってきましたが、どれも同じものの側面を指し示す言葉です。実存はそれ自体では顕現しません。その原初の顕現が「私」であり「意志」「気づき」でもあるのです。それこそが私たちを私たちたらしめている根源だといってもいいと思います。
しかし 本当は魂といわれるものは自分の各段階における体であり、そこに命を吹き込む大元は「実存」であるということを知りました。それではその肝心の「実存」とは一体何なのでしょうか。この世界(宇宙)では疑問や謎を突き詰めていきますと、究極的には必ず「実存」に至ります。しかしここではもう少し「魂」について深く掘り下げていきます。
私たちは実存という存在により命をもらっています。すると私たちの上に存在する魂魄体、幽体、霊体 ......等は私たちとはまったく関係がないのでしょうか。そうでもないのです。実存は私たち肉体にどうやって作用するのかと申しますと、直接作用するということではなく上から順番に「霊体」「幽体」「魂魄体」と作用しながら下がってきて「肉体」に作用するの です。
ひとつ上位の体(魂)が私たちに「意志」を吹き込むのですが、そのときダイレクトに「実存」の生命を流し込むというのではなく、上から順番に「実存」の意志が流れてくる間にある霊体(魂)のクセや習慣、傾向性を反映していきます。」
 
「この元ダマが受けた実存の反映を、順に下位次元に降ろして行っているのです。 この場合元ダマは実存の反映を一本の線で受け入れています。その線は言うならば「祈り」や「憧憬」という感じのものなのです。 次元の元ダマからしますと、そのずっと先にある 「実存」 は自らの故郷であり、母であり父でもあり、憧れの 理想郷でもあるのです 。ですからそこから降りてくる「線」に対しての思いは究極の「愛」というものかもしれません。
その体を上から順番に通って究極の存在であるところの「実存」が肉体に反映しているのが、今の私たちという存在です。
先ほど私は「実存」が上から順番に「神体」「霊体」「幽体」を通して「肉体」に働きかけていると申し上げました。そしてこの「 実存」により単なる体である魂に命が入り、 魂が意識を持つのです。ならば魂の目指すべき基準とは「実存」そのものではないでしょうか。自分の究極の本体であるところの「実存」を私たちはまったく知らないまま、意識しないまま自分というものを「魂」と勘違いしています。」
 
「私たちの魂である肉体はこの地上界において進化のための学びを模索中です。そしてその進化の目指すところは「神聖」なるものでした。それはある意味「元なる自分」への回帰でもあります 。「元なる自分」とは「実存 」のことです。体であるところの魂はその「 実存」という「私 」を顕現する場です。場所であり顕現する道具でもあり、現れそのものであもります。 そうしますとその価値は何を持って決められている のでしょうか。すでに答えは出ていますが魂(体)は、自分であるところの「実存」を現すということが基準になるのです。しかし実存は善でも悪でも表現できるものではないようです。また大きさや重さ、広さや高低でも表すことができません。」
 
「もっと突き詰めますと「言葉では表せない存在」なのです。なぜなら言葉とは二元性の表現だからです。 これは少し難しいのですが 、認識の表現が言葉です。 そして認識そのものが二元性の原理に基づいて起動す るものなのです 自分があって認識すべき対象物があるという状況において初めて認識が成り立つのです そうすると「実存」をどのように表現することができるのでしょうか。結論から申しますとそれはできないのです 。「実存」そのものを表す言葉はありません 。それを指し示す言葉もないのです。しかしニサルガダッタはうまい表現方法を教えてくれました。「それ(実存)は否定的表現をもって間接的に限定することができる」というものです。」
 
「たとえば「実存」は善でも悪でもない。「実存」は暖かいということでもなく、寒いということでもない。 「実存」はあるということもなく、ないということもない。「実存」はすべてでもありすべてでもない。こ んな感じで否定形の文章ならば実存の在り様を特定できるのです もちろん実際には特定はしていないのですが 。しかし今のところ「実存」そのものを指し示し、解明することはできません。それはこれまでのどんな聖賢 、マスターであっても 言語で解説することは 「不可能」と言わしめた存在でもあります。 それが私たちの本体なのです。」
 
「実はこの「 実存」の探求が「宇宙全史」という本のテーマです。たとえその解明が不可能であっても 、で きる限り その存在の 間近まで迫りたいと思っていました。」
 
「ところが 2008年に入りまして突然謎の存在から「実存の解明は可能です」という天恵が降りてきました。確認しましたがそれは科学的に解明できるもの だということでした 。「私にそれが出来るのでしょうか」という 問いに、「 可能性はある」というお答えを ただきました。皆様は私がこの情報を聞いたときどれほどうれしかったかお分かりになるでしょうか。これまでどんなマスター達もなし得なかった「実存」の解明の可能性があるということは、人類にとっては最高の福音なのです。」
 
「今回の第一冊目の「 宇宙全史」は、収録が大混乱の内に締め切り を迎えてしまいました 。地球の秘密をどこまでも妥協なしに深く深く突き詰めていくと、とんでもないシステムが人類 をがんじがらめにしていました。その機構から抜け出ない限り人類に救済の道はなかったのです。しかも人類はあと6年で史上始まって以来の大関門を迎えます。その時までに何とかしないと人類に未来はありません。 そこで私は興味本位の探求をいったんあきらめ、人類を自分たちの自由に操る勢力と対峙することにしました。「実存」の探求はこの卷では導入部だけにとどめておきます。メインは地球を自我自欲のままに翻弄する存在を明らかにし、人類に目覚めてもらうよう働きかけることです 。どんなに狡猾なシステムを明らかにしても 、人類がそこに気づきそこから抜け出ないことには何も変わらないからです。すべては人類の手に、人類の気づきにかかっています」
 
 
この謎の存在はおそらく月読之大神で、このとんでもない、本来御言葉をいただくことも考えられないような存在ですが、虚空蔵55様とみわ様の翻訳では、なのよ、だわねを含む現代語り口で、我々下々の人間の程度の低い悩みごとに対し、とても人間業ではない快刀乱麻の御回答を下ろしていただいており、それだけでとても驚きます。いつもそれを味読させていただいておりますが、何度読んでも、どこまで理解できているのかおぼつかない深い内容で、新しい気づきが生じます。
 
② 前回の宇宙全史1のTEXTで、「実存はそれ自体では顕現しません。その原初の顕現が「私」であり「意志」「気づき」でもあるのです」とあります。
 ここでの「私」は、「私は在る」という意識感覚(根源的なアイデンティティ)とされています。
 
 
 瞑想は、エゴである「私」の部分を落として、この根源的なアイデンティティを際立たせることを目的としています。瞑想における世界平和の祈りをはじめとした祈りの効果もこれと結びついています。またそれによってエネルギーを貯めることがそれに向かうためには必須です。
 
 
 実存は「意志」であり、「気づき」であるということですが、今回は、この「意志」と「気づき」について、その後の御説明を含めて検討します。
 
 
2020/1/7 No.424の宏史様への御回答、
 
「宇宙全史における「意識」の定義です。
①「意識」とはこの現れの宇宙における根源的なエネルギーである。
②「意識」は真我から最初に染み出たもので、その出た瞬間に二元性を発現する。
③ オーム宇宙における原初の二元性は、意識が陰陽に分かれた時に発現したとする。
④ 陰陽に分かれた意識(エネルギー)は、確かに二元性を構築し続けるが、それが陰であれ陽であれ意識自体はあくまでも二元性の範疇にはないともいえる。
⑤ 原初のオーム宇宙における陰陽の配分は、若干陰が勝っていた」
 
「No.3207のワンオーワン様への御回答、
 
「「意識」の定義は(中略)宇宙に遍満するエネルギーであり、全ての源である」
「それを愛と表現しても間違いではない」
「意識自体に二元性はなく、陰陽に分けたために二元性が発現している」
「その意識が二元性の中で目的を持ち、方向性を示すとき、それを意図と呼ぶ」
 
「「実存」とは「真我」と「生きる世界」の境界線上にある境涯。「実存」から「意識」がほとばしり、「意識」から「意志」が生まれている」
「至高なるもの(真我)から意識というエネルギーが出て来る。そしてそこ(意識)から意志が発現している」
「「供給体」というこの宇宙に供給されるエネルギーはすべて「真我」から来ている。それはまず「意志」として顕現して来る」
 
「ニサルガはこの発言(「あなたはすべてに遍在する、永遠で無限の創造的気づき-意識なのだ。」)の段階ではまだ真我には至っていませんでした。彼のいうところの「実存」は真我と「生きる世界」との境界線上にある境涯でした。」
「ニサルガは「意識」を「永遠で無限の創造的気づき」としている」
「ニサルガの概念自体がよく整理されていない。「意識」は二元性を孕んでいる」
 
 
以上の御教示を整理しますと、
①真我から意識というエネルギーが出て来るその発生の瞬間では、意識自体には二元性がない。
②オーム宇宙における原初の二元性は、意識が陰陽に分かれた時に発現した。
③しかし陰陽に分かれた意識は、確かに二元性を構築し続けるが、それが陰であれ陽であれ意識自体はあくまでも二元性の範疇にはない。
④その意識が二元性の中で目的を持ち、方向性を示すとき、意識から意志が発現する。
 
「ニサルガは「意識」を「永遠で無限の創造的気づき」としている」「ニサルガの概念自体がよく整理されていない。「意識」は二元性を孕んでいる」のところですが、ニサルガダッタは「永遠で無限の創造的気づき」で、真我を語っており、それを二元性である意識と呼んでいることが誤解だということだと考えました。
 しかし、上にあげた宇宙全史1では、「実存」の原初の顕現が「私」であり、ここでの「私」は、「私は在る」という「意識感覚」(根源的なアイデンティティ)であるという説明に「意識」という言葉が使用されており、ここでの定義と齟齬が生じることになりますが、これからは厳密に「意識」の定義をここで説明されているように使用したいと思います。
 
202020/2/4 No.3938の私の質問に対する御教示
「真我になるとは、我々末端の個である意識がこの大元の意識に遡行して、それが真我に帰還することなのでしょうか」
「はい
ただ「大元の意識」などという事は書いていないはずです。」
2020/5/21 No.3998の御教示
「先日いただいた「ただ「大元の意識」などという事は書いていないはずです」との御教示が、最初はよく理解できませんでした」
「ここはとても難しい内容になります。
どっぺんさんから頂いた文章は、
「真我になるとは、我々末端の個である意識がこの大元の意識に遡行して、それが真我に帰還することなのでしょうか」
多分この部分だと思います。
どっぺんさんが「大元の意識」をこの宇宙に遍満する「意識」というエネルギーとされていたのならそれは正解です(本当はちょっと違うのですが)。
私のその時の理解は、どっぺんさんが「真我」=「大元の意識」とされたように読み取れましたので「それは違う」と書いたのです。」
 
 
「私は在る」を顕現しようと修行している無明の身には、実存も真我も守護霊も集合魂も全く区別がつきません。
 ニサルガダッタの「実存」(真我と「生きる世界」との境界線上にある境涯)ではまだ二元性の世界だということでしょうか。
 真我に至ると溶けこんで消えていくと言われる意味は二元性のなくなる様を表しているのでしょうか。
 
虚空蔵55様が、2008/11/5 No.97で
「ニサルガや地球上で究極の覚醒を果たした方たちが告げる福音は「最終的に私たちの行き着くところは実存である・私たちはそこから来てそこに戻る存在」という事であった」
 
「この実存を私たちの世界の二元性の言葉や表現方法で表すことは不可能である。
それゆえそれを知るには「実存である」という状態になるしかない」
 
「月読之大神が「実存は一種の緩衝地帯である」 と教えられた。
「ここに「実存」を超える世界が明示されてしまった。 また新たな人類の探求の視野が開かれてしまった」
 
「「実存」の(間接的に指し示す)概念は、「すべてのすべてであり、無限であり無でもある。満たされており何も無く、ただ無窮の至福に満ちた、ありとあらゆるものの根源であり、始まりでもあるもの」」
 
「私はこの情報を「宇宙全史」第一巻でご紹介した菅野正三さん(現在7次元レベルにて時空間の探求にいそしんでおられます)にお伝えしました。
すると「私の研究の角度と視野が突然開かれた」とおっしゃって、小躍りして喜んでおられました(おじいちゃんですが、相変わらず子供のような方でした)」
 
「月読之大神は日本における主宰神としての名称ですが、実際そのキャラを使って私たちを指導してくださっておられるのは、二元性のこの宇宙を超えたところにある「実存」という緩衝地帯さえも更に超えたところにあるゾーンから来ておられるエネルギーです」
 
「その実体は月読之大神というキャラを超え、世界を超え、地球をも太陽系をも超えた所から来るエネルギーで」
「我々の銀河を超え、このオーム宇宙をも超え、地上で二元性を極め超越された最高の叡智である聖賢が体得した境地の実存さえも超えた境涯を教えて下さる存在」
と書いておられます。
 
「この実存を私たちの世界の二元性の言葉や表現方法で表すことは不可能である。
それゆえそれを知るには「実存である」という状態になるしかない」
に関して思うことですが、この前の私の質問の前に、実存そのものを語ることは不可能であるが、間接的に表現する道がないか考えました。瞑想中に自分の状態を観察しようとすると、その瞬間、その瞑想の状態は失われてしまい、後ではそれを追うこともできず、言葉の羅列になるだけでした。
 何か出てくるとそれは思考、マインドで、瞑想は一元の状態で無くなります。絵にも描けず、言葉にもなりません。輪郭的なことを述べるだけです。
 
④真我はエネルギーを取るために宇宙を作っているという真我に完全覚醒し、更にそこを突き抜けた仏陀と遊撃手の有様(言葉では矛盾しますが)を知りたがっているのは私だけではないでしょう。動画での御教示と虚空蔵東京本をしっかりと読んで思慧を続けていきたいと思います。
さらには今のところ望み薄になっていますが、エゴの本を拝読できる日が来ればとても嬉しいです。またいつか続きを書きますのでよろしくお願いします。

瞑想と集合点

瞑想に関して重要な御教示を集めてみました。

私も瞑想を毎朝一時間行っていますが、エゴによる夾雑物にもっと気づくことが大きな課題です。

 

 

「瞑想には様々な効能・効果があります

ただ突き詰めると


「瞑想」=「エゴの稀釈化」という等式になります


瞑想について色々書いておりますが、それは各方面からの見方で、究極の目的は、この「エゴの稀釈化」なのです

このポイントが分からないと、必至に瞑想に励んでいても色んなものが見えたり、不思議な体験があったりすることがあるでしょうが、それが正常な道程に導くことはないのです

スーザンさんの質問では「瞑想によるエネルギー取得効果」が言及されていますが、確かに瞑想による活力の取得効果はあるのですが、それはひとえに「エゴの希釈」があっての2次効果に過ぎません

(ただこの図式は少し難しく、あまり触れてはいませんでした・「エゴの本」が出せればいいのですが現状難しいです・ただ「35部品」の中で触れられていますので、そちらで確認してみて下さい)」

 


「瞑想」のメソッドとしての位置づけは、「注意力の特化」ということがいえます。

日常の注意力である通常の認識力とは異なり「夢見の注意力」というものを獲得するた めに「瞑想」は行われます。

もっとわかりやすくいいますと(すでにどこかで書いておきましたが)「覚醒しながら 眠る」或いは「眠りながら覚醒している(気づいている)」というメソッドです。

このような「特殊な注意力」の獲得は「完全覚醒」には欠くことのできないファクター となりますが「完全覚醒」までいかなくても、ありとあらゆる術や超能力、神々との交流 (巫女)等の獲得にも欠くことのできないメソッドとなっています。

この注意力が進化していきますと「別な自分」といいますか「分身」といいますか何か そういうものも獲得できるようになり、この世での生き方自体がだいぶ楽になっていきま す。

ただ何度もいいますが、この瞑想は覚醒に至る一つの道ではありますが、一つの段階で あることも事実なのです。

もう一つ瞑想のいいところは、瞑想中は(あなたの守護霊や応援が上質のものであれば) あらゆる場面からあなたをフォローできるというところにあります。

瞑想中は(フォローがないと)ほぼ無防備な状態になりますから、健全な瞑想に(上質 な)神仏の加護というものが必須条件となります。

 


「忍び寄りの術」

既にこの回答でも書いておきましたが、瞑想は上位の注意力(視点)を養うという要素 を持っています。

そして「エゴの俯瞰」というメソッドは、皆さんあまり馴染みがないので書いていなか ったのですが、ドンファン流のいい方でいいますと「忍び寄りの術」というカテゴリーに 入ります。

その効果は様々ですが、ここでのテーマに沿って申し上げますと「上位の視点を固定する力」を得るということになります。

この意味は、例えば瞑想中、たまたまエーテル体に接触しても、通常そこに常駐は出来ません。

そこまでのエネルギーがないということはありますが、エーテル体に特化した視点を固定する力がないという事がいえるのです。

「エゴを俯瞰する」ということは、ただのエゴの希釈メソッドのようですが、実際は深 い意味を持つ位置づけになります。

そしてエーテル体でもコーザル体でもいいのですが、その世界に視点を固定する(出来る)ということは、その世界の住人になるということでもあり、既に地上界からは出てしまっていると考え てもいいのです。

しかしながら、この境地に至るには、「エゴの俯瞰」という課題を、常時、どこまでも 深く精緻にもっていく必要があるということがあります。

いずれにしても宇宙全史にある課題は、極めれば究極の境地をも望むことが出来る可能 性を潜在しています。

その最たるものが「お祈り」ですが、そんな簡単な課題を中々クリア出来ない方が多いのも事実です。

 


「本当の「エゴを無くす」ということ

これは秘儀に近い事ですが、今回はどっぺんさんの特集のような本になっていますので、 開示しておいてもよいとのことです。

ほとんどの修行者はこの段階で、壁にぶち当たり挫折していきます。 それを概括してしまえば確かに「エゴに負けた」ということになりますが、これから書く ことをよくよく踏まえていれば、クリア出来る方もおられるかも知れません。

詳細は「エゴ」の本で書くことにしますが、このシステムの理解は、どんな段階の方でも 同じように通用する知恵ですからご利用ください。

皆さん方は[エゴを薄くする]あるいは「エゴを無くす」という課題に取り組むとき、例 えば何か嫌なことがあって怒ってしまったというようなあとに「ああ、また自分は小さな エゴに取り込まれて、俯瞰することなくエゴの怒りに巻き込まれ、本来の自分を忘れてし まっていた」と反省します。 確かに反省するのはいいことですが、やはり「エゴと本心の自分との分離」は大切です。

大切ですが、それが宇宙全史を学んでも、他の色んな関係書籍を読んでも、中々はかどら ないということがありますと段々めげて来るようです。

エゴを薄くするエクササイズの初期段階では、割合気づきも多く、スムースにクリア出来 ることも多いのですが、エクササイズが次第に高度な段階に来ますと、中々はかどらなくて、手ごたえもなく「本当にこれでいいのか?」という疑心暗鬼に陥ったりしてしまいます。

秘儀といいますのはここからです。 エゴを薄くするのが難しい理由は色々ありますが、その最たるものは「自分が自分を否定しなければならない」というところにあります。

つまり、通常自分と思っていたものを「これは自分ではない」と認識していかなければな らないのです。 ここで色んな葛藤があるのですが、それは初期、中期段階のエクササイズにおける現象で、 精神世界大学課程の段階での「エゴ滅却エクササイズ」は更に分かりにくいものになって いきます。

それまでにエゴを薄くしていく作業を延々繰り返していきますと、やがてこの段階では「手 ごたえ」は次第に薄くなっていきます。それはある意味確実にエゴが薄くなってきたとい うことがいえますが、実際は「本当のエゴ」といいますか。根源的な部分のエゴがしっか りと残ってはいるのです。 そこから更に先に進んでいくには、それまでの手法では到底太刀打ちできない、手の届か ないところにあるエゴとの闘いがあるのです。 この段階で冒頭に書きましたように、人は「壁にぶち当たり」「エゴに負けて」いきます。

この壁というのは「自分ではどうにも手の届かないところにある課題」とでもいうのでし ょうか、そういうものが残っていきます。

背中の痔みで、手の届かないところがあるという方もおられるでしょうが、本来日々のエ クササイズで肩の関節をほぐしておくと、ちゃんと探いところには手が届くのですが、そ れを怠っていると、どうしても手の届かないところが出てきます。

エゴの滅却も同じで、普段からエゴを俯瞰していくという作業を続けていますと、やがて本心の自分と偽の自分という見分けが進んでいきます。

しかし、背中に手の届かないところが無くなるほど関節を柔らかくして精進していても、背中の奥といいますか、身体の中に痔いところがあった時はどうするでしょうか。 さすがにそれは背中の表面と、身体の肉の中という全く次元の異なるものですから、いくら肩の関節を柔らかくしてもどうにもならないことでしょう。

それと同じで、どんなに自分の分かる範囲でエゴを薄くしていっていても、それは頭の中、思考レベルのエゴのお掃除に過ぎず、エーテル体、アストラル体レベルに構成されてしま っているエゴには届いていないのです。 そこがクリアにならないと、精神世界大学レベルのエゴ・エクササイズは成就しません。

もちろん、この段階で霊的な視力の覚醒があり、エーテル体やアストラル体に直接アクセスできる方は幸いで、そこはご自分で何とか出来るかも知れません。 (しかしこの段階にある霊道の開いている方は、よほどの覚悟がないと正常な進化が望め ないということがあります。つまりよからぬ方向にズレていくか、引き込まれていく可能性が大きいのです)

霊道が開いていなくても、深い瞑想に入り、よくよく内観できる方はそこでクリア出来てしまう場合もあります。 本筋はこの瞑想によるクリアが理想的ですが、それにはいくつかの心構えがあります。 そうしますとそういう能力もなく、思考レベルでエゴの消却しか出来ない私たちは、如何 にして上位のエゴと対峙し、それを薄く出来るのでしょうか。

結論からいいますと「それは出来ない」のです。

しかし、それでは身も蓋もありませんので、ここではそこを何とかクリアしたいと思っています。

この上位に存在するエゴといいますのは、もうほとんど「自分」といってもいいレベルの エゴでして、それの克服、滅却は、ほば覚醒という段階に入っていきます。 この段階のエゴを克服するには、前に述べましたように同じく「エゴを俯瞰する」という 立場に立たなければなりません。

そのためにエーテル体、アストラル体、コーザル体にアクセス出来るように瞑想していく のです。 (これらの上位に位置するエゴの具体的な構造と、その解消法は「エゴの本」の中で語られる予定です)

しかし、その瞑想が得意でない方もおられます。 そういう場合は守護の神霊にお任せするのが一番です。 これまで培ってきたお祈りの力が、その本領を発揮するのがこの段階で、そのための「普段からのお祈り」なのです。

たとえ瞑想が得意であっても(スムースに瞑想に入っていけても)、そのガイドはやはり 守護の神霊にお任せした方がいいのです。 それは既に語り尽くしている理由によりますが、その方本人にふさわしい守護というもの がありますから、その方面に詳しい守護霊、守護神様にお任せというのがベストでしょう。」

 


「集合点の移動は「守護の神霊との同調」とは異なります。

そぅいう場合もありますが、基本集合点の移動は「新しい世界を組み立てる」ことになります。

それは並行世界への移動でもあり、次元移動の世界構築でもあります。

次元移動とは「上昇」「下降」共に含みます。

この概念はとても難しく、ましてや実行するには結構な修練を積まないと出来ません。」

 

 

 

「集合点

 集合点とはすべての生命体が持つ「知覚を発生させる器官」または「知覚を構成する構造体」をいいます。

 肉体器官にはなく(肉体器官の場合は目や耳、皮膚などの感覚器官がそれに当たります)上位の次元の身体(光る球体)に存在します。

 この集合点の概念は非常に優れたモデルで、これまで如何にしても計ることが出来なかった「他人の認識と自分の認識」の客観的な差異を提供してくれます。

 例えば、「あの人はこのラーメンを美味しいといっているが、その美味しいは私の感じている美味しいと同じかどうか」「あの人が見ている青の色は、私の見ている青と同じだが、私の感じている青とあの人が感じている青は同じように感じている青なのだろうか」

  こうした命題は主観にゆだねられるものになり、それを客観的に評価する方法はありませんでした。

 しかしドン・ファンたちの集合点という概念では、そこが客観的に認識できてしまうのです。

 このあたりはまたいつか詳しく書きますが、今はこの集合点が私たちの世界を創っているということを理解して戴きたいのです。」

 

「集合点は私たちの身体の中のエネルギー繊維と外の世界のエネルギー繊維を同調させることで、外のものが何であるかという感覚(認識)を得ます。

 それが「知覚」ということで、私たちは「知覚」によって世界を認識し、世界を創造しています。

 今はテーマが少し違いますのでわりとはしよって書いていますが、この概念はとても重要で、ドン・ファンたちの功績はこの集合点を明らかにし、その集合点を操ることで覚醒に至るという方法論を体系的に造り上げたことだと思います。

 他にも唯一仏陀の教えの中にこの集合点を意味するものはあるのですが、それは深く秘されています。

 小乗の教えの中にあるのですが、悪用も出来るものなので完全に秘教として埋もれてしまっています。

 ドン・ファンの系列の中でも、古い呪術師たちはやはりこのメソッドを悪用して、呪術という名の悪い部

分を特化していったということがありました。」

 


「さて精神世界の中では全く語られることのないマイナーな概念の大雑把な説明をしてきましたが、この集合点が移動することで私たちの認識は変化します(この移動が私たちの世界移動と同じ意味を持ちます)。

 つまり知覚が変わりますので、認識が変わり、世界が変わっていきます。

 その変化は単に「違ったように見える」というようなものではなく、明確な集合点の移動は世界が全く変わるという状況をもたらします。

 その結果私たちはこの身このままで別な世界に移動し(本当は移動するわけではなく、世界が変わるだけなのですが)、この世界からは消えてなくなってしまいます。

 そういう劇的な変化をもたらすのが集合点の移動なのですが、この集合点の移動にも2種類ありまして、

「縦方向の移動」・通常私たちのいうところの上下の次元移動

「横方向の移動」・これが並行世界の横方向の世界です

 そして集合点の縦方向とは、集合点が身体の内部方向へ移動することであり、横方向とは身体の表面上だけをウロウロする移動になります。

 この「身体の表面上の移動」という表現がわかりやすく。パラレルワールドの横の世界とは私たちと同じ世界線上にありながらも異なる世界構造を有しているのです。

 私たちが経験する一般的な集合点の移動は夢を見ている時です。この時集合点は移動しやすくなっており、明断夢などを見ている時は結構あちこち動いています。

 それを起きている時に移動させる技術がドン・ファンたちの技なのです(膜想はその中の一つの静的なパターンです)。」

 


「呪術師(戦士)にとって最も大事な事実は「集合点を動かす」ということよりも「生き物にはすべて集合点という感覚を生み出す器官があり、それが世界を創造し、その集合点を動かすことで数多の世界を経験(創造)することが出来る」という事実を知ることです。

単純に集合点を動かすだけなら、極端な飢餓や恐怖、発熱、異常な経験などでも集合点は動きます。

しかし集合点の意図的なコントロールとなると、それはもう戦士の統括された行為である「夢見」と「忍び寄り」をマスターするしかなく、その取得はとび抜けた才能を持ってしても、一生をかけた苦闘の末、勝ち取ることが出来るかどうかということも未知数なのです。」

 

「守護霊様からです。

「これよりさらにエゴの観察がスムースになるだろう」

あなたの精進が進むようです。

「エゴの観察」とは「エゴを俯瞰して観る」ということですから、それがスムースに出来るということは実はとても大きな意味があるのです。

詳細は「エゴ」の本で明らかにされますが、「俯瞰する(上から見る」ということは、すでに「その上の世界にある」といえるのです。

例えばあなたがあなたの感情を冷静に俯瞰して観られれば、あなたはすでにエーテル体~アストラル体の住人としてあるということがいえるのです。

そうして「感情」から「思考」と俯瞰していけるようになりますと、さらに上のメンタル体へと移行していけます。

そのきっかけとなる「エゴの俯瞰」は大きな進歩になるのです。」