瞑想と集合点

瞑想に関して重要な御教示を集めてみました。

私も瞑想を毎朝一時間行っていますが、エゴによる夾雑物にもっと気づくことが大きな課題です。

 

 

「瞑想には様々な効能・効果があります

ただ突き詰めると


「瞑想」=「エゴの稀釈化」という等式になります


瞑想について色々書いておりますが、それは各方面からの見方で、究極の目的は、この「エゴの稀釈化」なのです

このポイントが分からないと、必至に瞑想に励んでいても色んなものが見えたり、不思議な体験があったりすることがあるでしょうが、それが正常な道程に導くことはないのです

スーザンさんの質問では「瞑想によるエネルギー取得効果」が言及されていますが、確かに瞑想による活力の取得効果はあるのですが、それはひとえに「エゴの希釈」があっての2次効果に過ぎません

(ただこの図式は少し難しく、あまり触れてはいませんでした・「エゴの本」が出せればいいのですが現状難しいです・ただ「35部品」の中で触れられていますので、そちらで確認してみて下さい)」

 


「瞑想」のメソッドとしての位置づけは、「注意力の特化」ということがいえます。

日常の注意力である通常の認識力とは異なり「夢見の注意力」というものを獲得するた めに「瞑想」は行われます。

もっとわかりやすくいいますと(すでにどこかで書いておきましたが)「覚醒しながら 眠る」或いは「眠りながら覚醒している(気づいている)」というメソッドです。

このような「特殊な注意力」の獲得は「完全覚醒」には欠くことのできないファクター となりますが「完全覚醒」までいかなくても、ありとあらゆる術や超能力、神々との交流 (巫女)等の獲得にも欠くことのできないメソッドとなっています。

この注意力が進化していきますと「別な自分」といいますか「分身」といいますか何か そういうものも獲得できるようになり、この世での生き方自体がだいぶ楽になっていきま す。

ただ何度もいいますが、この瞑想は覚醒に至る一つの道ではありますが、一つの段階で あることも事実なのです。

もう一つ瞑想のいいところは、瞑想中は(あなたの守護霊や応援が上質のものであれば) あらゆる場面からあなたをフォローできるというところにあります。

瞑想中は(フォローがないと)ほぼ無防備な状態になりますから、健全な瞑想に(上質 な)神仏の加護というものが必須条件となります。

 


「忍び寄りの術」

既にこの回答でも書いておきましたが、瞑想は上位の注意力(視点)を養うという要素 を持っています。

そして「エゴの俯瞰」というメソッドは、皆さんあまり馴染みがないので書いていなか ったのですが、ドンファン流のいい方でいいますと「忍び寄りの術」というカテゴリーに 入ります。

その効果は様々ですが、ここでのテーマに沿って申し上げますと「上位の視点を固定する力」を得るということになります。

この意味は、例えば瞑想中、たまたまエーテル体に接触しても、通常そこに常駐は出来ません。

そこまでのエネルギーがないということはありますが、エーテル体に特化した視点を固定する力がないという事がいえるのです。

「エゴを俯瞰する」ということは、ただのエゴの希釈メソッドのようですが、実際は深 い意味を持つ位置づけになります。

そしてエーテル体でもコーザル体でもいいのですが、その世界に視点を固定する(出来る)ということは、その世界の住人になるということでもあり、既に地上界からは出てしまっていると考え てもいいのです。

しかしながら、この境地に至るには、「エゴの俯瞰」という課題を、常時、どこまでも 深く精緻にもっていく必要があるということがあります。

いずれにしても宇宙全史にある課題は、極めれば究極の境地をも望むことが出来る可能 性を潜在しています。

その最たるものが「お祈り」ですが、そんな簡単な課題を中々クリア出来ない方が多いのも事実です。

 


「本当の「エゴを無くす」ということ

これは秘儀に近い事ですが、今回はどっぺんさんの特集のような本になっていますので、 開示しておいてもよいとのことです。

ほとんどの修行者はこの段階で、壁にぶち当たり挫折していきます。 それを概括してしまえば確かに「エゴに負けた」ということになりますが、これから書く ことをよくよく踏まえていれば、クリア出来る方もおられるかも知れません。

詳細は「エゴ」の本で書くことにしますが、このシステムの理解は、どんな段階の方でも 同じように通用する知恵ですからご利用ください。

皆さん方は[エゴを薄くする]あるいは「エゴを無くす」という課題に取り組むとき、例 えば何か嫌なことがあって怒ってしまったというようなあとに「ああ、また自分は小さな エゴに取り込まれて、俯瞰することなくエゴの怒りに巻き込まれ、本来の自分を忘れてし まっていた」と反省します。 確かに反省するのはいいことですが、やはり「エゴと本心の自分との分離」は大切です。

大切ですが、それが宇宙全史を学んでも、他の色んな関係書籍を読んでも、中々はかどら ないということがありますと段々めげて来るようです。

エゴを薄くするエクササイズの初期段階では、割合気づきも多く、スムースにクリア出来 ることも多いのですが、エクササイズが次第に高度な段階に来ますと、中々はかどらなくて、手ごたえもなく「本当にこれでいいのか?」という疑心暗鬼に陥ったりしてしまいます。

秘儀といいますのはここからです。 エゴを薄くするのが難しい理由は色々ありますが、その最たるものは「自分が自分を否定しなければならない」というところにあります。

つまり、通常自分と思っていたものを「これは自分ではない」と認識していかなければな らないのです。 ここで色んな葛藤があるのですが、それは初期、中期段階のエクササイズにおける現象で、 精神世界大学課程の段階での「エゴ滅却エクササイズ」は更に分かりにくいものになって いきます。

それまでにエゴを薄くしていく作業を延々繰り返していきますと、やがてこの段階では「手 ごたえ」は次第に薄くなっていきます。それはある意味確実にエゴが薄くなってきたとい うことがいえますが、実際は「本当のエゴ」といいますか。根源的な部分のエゴがしっか りと残ってはいるのです。 そこから更に先に進んでいくには、それまでの手法では到底太刀打ちできない、手の届か ないところにあるエゴとの闘いがあるのです。 この段階で冒頭に書きましたように、人は「壁にぶち当たり」「エゴに負けて」いきます。

この壁というのは「自分ではどうにも手の届かないところにある課題」とでもいうのでし ょうか、そういうものが残っていきます。

背中の痔みで、手の届かないところがあるという方もおられるでしょうが、本来日々のエ クササイズで肩の関節をほぐしておくと、ちゃんと探いところには手が届くのですが、そ れを怠っていると、どうしても手の届かないところが出てきます。

エゴの滅却も同じで、普段からエゴを俯瞰していくという作業を続けていますと、やがて本心の自分と偽の自分という見分けが進んでいきます。

しかし、背中に手の届かないところが無くなるほど関節を柔らかくして精進していても、背中の奥といいますか、身体の中に痔いところがあった時はどうするでしょうか。 さすがにそれは背中の表面と、身体の肉の中という全く次元の異なるものですから、いくら肩の関節を柔らかくしてもどうにもならないことでしょう。

それと同じで、どんなに自分の分かる範囲でエゴを薄くしていっていても、それは頭の中、思考レベルのエゴのお掃除に過ぎず、エーテル体、アストラル体レベルに構成されてしま っているエゴには届いていないのです。 そこがクリアにならないと、精神世界大学レベルのエゴ・エクササイズは成就しません。

もちろん、この段階で霊的な視力の覚醒があり、エーテル体やアストラル体に直接アクセスできる方は幸いで、そこはご自分で何とか出来るかも知れません。 (しかしこの段階にある霊道の開いている方は、よほどの覚悟がないと正常な進化が望め ないということがあります。つまりよからぬ方向にズレていくか、引き込まれていく可能性が大きいのです)

霊道が開いていなくても、深い瞑想に入り、よくよく内観できる方はそこでクリア出来てしまう場合もあります。 本筋はこの瞑想によるクリアが理想的ですが、それにはいくつかの心構えがあります。 そうしますとそういう能力もなく、思考レベルでエゴの消却しか出来ない私たちは、如何 にして上位のエゴと対峙し、それを薄く出来るのでしょうか。

結論からいいますと「それは出来ない」のです。

しかし、それでは身も蓋もありませんので、ここではそこを何とかクリアしたいと思っています。

この上位に存在するエゴといいますのは、もうほとんど「自分」といってもいいレベルの エゴでして、それの克服、滅却は、ほば覚醒という段階に入っていきます。 この段階のエゴを克服するには、前に述べましたように同じく「エゴを俯瞰する」という 立場に立たなければなりません。

そのためにエーテル体、アストラル体、コーザル体にアクセス出来るように瞑想していく のです。 (これらの上位に位置するエゴの具体的な構造と、その解消法は「エゴの本」の中で語られる予定です)

しかし、その瞑想が得意でない方もおられます。 そういう場合は守護の神霊にお任せするのが一番です。 これまで培ってきたお祈りの力が、その本領を発揮するのがこの段階で、そのための「普段からのお祈り」なのです。

たとえ瞑想が得意であっても(スムースに瞑想に入っていけても)、そのガイドはやはり 守護の神霊にお任せした方がいいのです。 それは既に語り尽くしている理由によりますが、その方本人にふさわしい守護というもの がありますから、その方面に詳しい守護霊、守護神様にお任せというのがベストでしょう。」

 


「集合点の移動は「守護の神霊との同調」とは異なります。

そぅいう場合もありますが、基本集合点の移動は「新しい世界を組み立てる」ことになります。

それは並行世界への移動でもあり、次元移動の世界構築でもあります。

次元移動とは「上昇」「下降」共に含みます。

この概念はとても難しく、ましてや実行するには結構な修練を積まないと出来ません。」

 

 

 

「集合点

 集合点とはすべての生命体が持つ「知覚を発生させる器官」または「知覚を構成する構造体」をいいます。

 肉体器官にはなく(肉体器官の場合は目や耳、皮膚などの感覚器官がそれに当たります)上位の次元の身体(光る球体)に存在します。

 この集合点の概念は非常に優れたモデルで、これまで如何にしても計ることが出来なかった「他人の認識と自分の認識」の客観的な差異を提供してくれます。

 例えば、「あの人はこのラーメンを美味しいといっているが、その美味しいは私の感じている美味しいと同じかどうか」「あの人が見ている青の色は、私の見ている青と同じだが、私の感じている青とあの人が感じている青は同じように感じている青なのだろうか」

  こうした命題は主観にゆだねられるものになり、それを客観的に評価する方法はありませんでした。

 しかしドン・ファンたちの集合点という概念では、そこが客観的に認識できてしまうのです。

 このあたりはまたいつか詳しく書きますが、今はこの集合点が私たちの世界を創っているということを理解して戴きたいのです。」

 

「集合点は私たちの身体の中のエネルギー繊維と外の世界のエネルギー繊維を同調させることで、外のものが何であるかという感覚(認識)を得ます。

 それが「知覚」ということで、私たちは「知覚」によって世界を認識し、世界を創造しています。

 今はテーマが少し違いますのでわりとはしよって書いていますが、この概念はとても重要で、ドン・ファンたちの功績はこの集合点を明らかにし、その集合点を操ることで覚醒に至るという方法論を体系的に造り上げたことだと思います。

 他にも唯一仏陀の教えの中にこの集合点を意味するものはあるのですが、それは深く秘されています。

 小乗の教えの中にあるのですが、悪用も出来るものなので完全に秘教として埋もれてしまっています。

 ドン・ファンの系列の中でも、古い呪術師たちはやはりこのメソッドを悪用して、呪術という名の悪い部

分を特化していったということがありました。」

 


「さて精神世界の中では全く語られることのないマイナーな概念の大雑把な説明をしてきましたが、この集合点が移動することで私たちの認識は変化します(この移動が私たちの世界移動と同じ意味を持ちます)。

 つまり知覚が変わりますので、認識が変わり、世界が変わっていきます。

 その変化は単に「違ったように見える」というようなものではなく、明確な集合点の移動は世界が全く変わるという状況をもたらします。

 その結果私たちはこの身このままで別な世界に移動し(本当は移動するわけではなく、世界が変わるだけなのですが)、この世界からは消えてなくなってしまいます。

 そういう劇的な変化をもたらすのが集合点の移動なのですが、この集合点の移動にも2種類ありまして、

「縦方向の移動」・通常私たちのいうところの上下の次元移動

「横方向の移動」・これが並行世界の横方向の世界です

 そして集合点の縦方向とは、集合点が身体の内部方向へ移動することであり、横方向とは身体の表面上だけをウロウロする移動になります。

 この「身体の表面上の移動」という表現がわかりやすく。パラレルワールドの横の世界とは私たちと同じ世界線上にありながらも異なる世界構造を有しているのです。

 私たちが経験する一般的な集合点の移動は夢を見ている時です。この時集合点は移動しやすくなっており、明断夢などを見ている時は結構あちこち動いています。

 それを起きている時に移動させる技術がドン・ファンたちの技なのです(膜想はその中の一つの静的なパターンです)。」

 


「呪術師(戦士)にとって最も大事な事実は「集合点を動かす」ということよりも「生き物にはすべて集合点という感覚を生み出す器官があり、それが世界を創造し、その集合点を動かすことで数多の世界を経験(創造)することが出来る」という事実を知ることです。

単純に集合点を動かすだけなら、極端な飢餓や恐怖、発熱、異常な経験などでも集合点は動きます。

しかし集合点の意図的なコントロールとなると、それはもう戦士の統括された行為である「夢見」と「忍び寄り」をマスターするしかなく、その取得はとび抜けた才能を持ってしても、一生をかけた苦闘の末、勝ち取ることが出来るかどうかということも未知数なのです。」

 

「守護霊様からです。

「これよりさらにエゴの観察がスムースになるだろう」

あなたの精進が進むようです。

「エゴの観察」とは「エゴを俯瞰して観る」ということですから、それがスムースに出来るということは実はとても大きな意味があるのです。

詳細は「エゴ」の本で明らかにされますが、「俯瞰する(上から見る」ということは、すでに「その上の世界にある」といえるのです。

例えばあなたがあなたの感情を冷静に俯瞰して観られれば、あなたはすでにエーテル体~アストラル体の住人としてあるということがいえるのです。

そうして「感情」から「思考」と俯瞰していけるようになりますと、さらに上のメンタル体へと移行していけます。

そのきっかけとなる「エゴの俯瞰」は大きな進歩になるのです。」