「その人々とは「戦士」として生きる段階の人々です。
彼らは通常の生で「完全な生」を生きていますので、意識していようがいまいが、その生き方そのものがカルマを自ずから解消して行き、また新たなカルマを創造することもないのです。
戦士への道へ導けるのはナワールという莫大なエネルギーを備えた、一定の段階の覚醒状態にある存在だけです。
しかもその教えを受けられるのは、自ら志願してではなく「永遠(もしくは無限)・あるいは大いなる存在」に導かれた(選抜された)ものだけなのです。
そしてその「永遠」に導かれるためには、あなたにその準備が出来ていて、しかもその時にタイミングがあっていなければなりません。
「永遠の探求」を旅している存在です。
ドン・ファンの集合魂の代表のような存在がそれにあたります。
そしてドン・ファンの集合魂は魔導師の集合魂ではありますが、非常に特殊な集合魂です。
ドン・ファンの集合魂は「探求」に特化した専門集団といってもいいかも知れません。
ドン・ファンの完全なる戦士の生き方ですと、そこにあるのは「公平な観照者」という有り様しかありません。
本当に覚醒した人は「傍観者」という立場からしか世界を見ません。
しかし五井先生は一歩踏み込んで「公平な観照者」としての立場に踏むとどまっておられます。
ドン・ファンはこの世界を離れるまでは、やはり「公平な観照者」としてありましたが、離脱してからはほぼその有り様からも自由になっています。
ドン・ファン系列の戦士にあこがれを持つのはいいことです。
彼らの生涯をかけたその壮絶な忍耐と自己鍛錬、自らの愚かさへの明晰な戦略なくしては到達できるものでもないのです。
戦士たちがなし得た偉業に対して、本来私たち日常の意識しか持ちえない者たちが云々出来ることではないのですが、それでも一種の「あこがれ」として畏敬の念を持ちつつカスタネダを通して投影される彼らの姿を会間見ることは出来るのです。
あなたは人生のありとあらゆることを人任せにすることが可能です。
しかしいったん「覚醒」に関しましては、それはあり得ないのです。
様々な宗教や救世主、教祖様に自らをゆだね、救っていただこうという都合のいいやり方は、ここで何度も申し上げておりますように、自らのアイデンティティを放棄することであり、その姿勢はこの宇宙のセオリーに反するのです。
もちろん何かを学ぶときに「真摯な姿勢」「謙虚さ」「礼節」「思い込みを持たない心」「全托」等は必要ですが、それは「自らの判断を放棄してしまう」ということとはまた異なるのです。
あなたの外に救世主はなく、あなたを救うものはあなた自身であるのです。
ここでは何度もいいますが、よく勘違いされているのは「世界を救う」「他人を救う」というとんでもない欲望を持ってしまうことです。
エゴは自らを省みることから目を背けるために「世界」や「他人」を救うという行動、姿勢で満足しようとします。
それがほとんどの精神世界にある方たちの有り様なのですが、そこに気付くにはとても強い精神力が求められます。
ただ人を導けるとしたら、その方が(高度な)覚醒しているときだけです。
そこに至らずに「世界を救う」などと思っているうちは、勘違いも甚だしいということです。
もし私がシャギーさんの求めに応じて「戦士」としての教えを授けようとしたとします。
その結果は(私がいまだ覚醒していないために)ほぼ「愛欲」「金銭欲」「権力欲」にまみれた巷の宗教と変わらない在り様になってしまうでしょう。
そして私もシャギーさんもおそらくどうにもならないどツボにはまってしまうか、怨愛にまみれた道を歩むしかなくなるかもしれません。
先ほども書きましたが、そもそも覚醒した方は「世界を救う」「他人を救う」などという了見を持ちません。
つまりそういうことが出来る、やる、やらなければならないと宣言している教祖たちは覚醒していないということであり、そこから導かれる信徒たちの有様は悲惨な結果に終わります。
教祖は「弟子がなっとらん」信徒は「騙された」と互いにその責任をなすりあいます。
戦士への道へ導けるのはナワールという莫大なエネルギーを備えた、一定の段階の覚醒状態にある存在だけです。
しかもその教えを受けられるのは、自ら志願してではなく「永遠(もしくは無限)・あるいは大いなる存在」に導かれた(選抜された)ものだけなのです。
そしてその「永遠」に導かれるためには、あなたにその準備が出来ていて、しかもその時にタイミングがあっていなければなりません。
孤独な鳥であることを恐れず
誰よりも高く飛び
やさしくうたう
そしていったん飛び立てば二度と戻らないという決意を秘めて
しばしの旋回したのちに
この地上を後にするのです
皆様方は「この地上世界が大好き」なのです。
「覚醒を求めている」とは言っていますが、本当は他人や友人に話を聞いてもらって自分を認めてもらい、家族の団らんを求め、美味しいものを食べ、彼氏彼女を日々追い求め、少しでも人に認めてもらいた、世に認めてもらおう、人よりお金を持っていたい、長生きしたい、楽したい、子供の成長を楽しみにしたい・・・とその意識、思考は地上界にへばりついたままなのです。
本当に覚醒したいのなら、何度もここで申しあげていますように「覚悟」が必要なのです。
そしてその覚悟とは「この地上を離れる覚悟」なのです。
地上を離れる覚悟とは、
①「すべての執着から離脱する」
②「すべての欲望を捨てる」
①のすべての執着とは、あなたの友人、知り合い、家族、家系、仕事関係の付き合い、物に対する執着
②のすべての欲望とは、食欲、性欲、睡眠欲、権力欲、自己顕示欲、物欲、金銭欲
こうした私たちをこの地上界に縛り付けている「接着剤」を希釈していかないと、覚醒を得ることは不可能なのです。
他に方法はありません。
やがて(いきなりは無理なので)徐々に執着や欲望を薄くしていくと、その因となっているカルマが次第に解き放たれていきます。
そうすると欲望・執着の希釈により加速度がついて覚醒に近づいていくことになります。
しかし私たち凡夫にはそもそも「欲望を絶つ」「執着から離れる」ということが出来ません。
皆様は色々質問してこられますが、本当に覚醒したいのなら欲望と執着を絶てばいいのですが、そんな簡単なこと、シンプルなことが絶対に出来ないのです。
仏陀以来人類はそのことを耳たこほど聞いてはいますが、ただ聞くだけで決して実行しようとはしませんし、出来ないのです。
それでもエゴは何かしら秘められた、隠された特別な覚醒に向けてのメソッドがあると信じ、そういう秘法を伝授してくれる教祖やマスターを探し求めます。
たとえ一人街を出て、滝に打たれ、断食し、山々を回峰しても、そこに「人より優れた能力を得て、優位に立ちたい」「人から尊敬された」「楽したい」などという思念が残っている限り、正しい覚醒を得ることは出来ません。
それはただ街でやっていたことを環境かえて山でやっているだけなのです。
私自身今の環境に置かれて一番感じるのは「自力での覚醒は不可能」ということです。
必ずそこにはマスターや神霊、大いなる存在の導き、加護が必須となります。
しかしエゴは「そんなはずはない」「自分は自力で必ず成し遂げてみせる」とエゴらしい考えを修正しようとはしません。
そこがミソといえばミソなのですが・・つまり「謙虚さ」「礼節」「自己放棄」「大いなるものへの全托」という姿勢が芽生えてこない限り、覚醒への道が開けることはないのです。
それがいわば「覚醒」の安全装置ともいえる構造になっているのです。
(覚醒への安全装置とは、覚醒すると(その人の段階や方向性にもよりますが)ご存知のように様々な常識を超えた力を有することが出来るようになります。しかしこの安全装置がないと、その力をどう扱うかということがとても問題になってしまうのです・つまり自己の欲望のために使用してしまう、その結果地上界が大変なことになってしまうという図式です。ほぼ無限の力を有した覚者は、すでにその時人々をもてあそんで満足するという動機を持っていないのです)
今ある皆様方の欲望や人生の願望、やりたいことやしたいこと・・私はそれらを捨てろとはいいません。
もちろん皆様はそれが出来ないからですが・・しかしその中で少しずつでも今の生き方、現状の人生に疑問があるのなら、その時こそ世界平和の祈りを唱える時なのです。
そうすると知らない内に、苦心惨憺しなくても五井先生が代わって引き受けてくださり、いつの間にか何段か上の境涯に引き上げていただいているのです。
五井先生の世界平和の祈りは、それも含めてあらゆる側面からあなたに応じた方法で、あなたを成就に持っていくオールマイティのアイテムなのですが・・
それが信じられない・・わからないのは実はこの後のご質問(Kazu様のものです)にお答えする中である程度解明されていくのかもしれません。
それが「二人の日本人の章」というテーマですが、それはまた後のお話です
常人はいつも(無意識下で)「死」を恐れています。
それゆえ常に「死」に操られているのです。
しかし戦士は「死」を自分の行動の基準にもって来ます。
それゆえ逆に「死」を操ることさえ出来てしまうのです。
人間社会は「死」を忘れる事で、自分達は未来永劫永遠に生きる存在だと勘違いしています。
しかしどんな人にでも必ず死は訪れます。
人は皆確実に執行を待つ「死刑囚」なのです。
それを忘れてはなりません。
ドン・ファンは戦士に「完全な生活」を要求してきます。
それは「完璧な生活」という強迫観念的なものではなく、常に「死」と対峙した生活という意味です。
先ほどの「一年後に死ぬとしたら」という仮定を「一瞬後に死ぬとしたら」というより厳しい条件に入れ替えます。
それが人として、戦士としての「完全な生き方」なのです。
そこには間違いや不備はあるでしょうが、後悔はないのです。
それが「完全な生活」であり、覚醒に要求されている「準備」でもあります。
「中々危なっかしいワークですが、そこで必要とされる(必須項目といってもいいでしょう)条件が「整理整頓され、余計なものをすべてそぎ落としたエゴ」なの です。
そしてそれが「戦士としての生き方」をクリアした存在なのです。
戦士の生き方を一言で表現しますと「清々(すがすが)しい生き方」と申し上げてもいいかと思います。
精神世界にかかわる、かかわらないは別にして、人としての有様で「清々しさ」というのは、塵芥(ちりあくた)の現代社会に降り注ぐ一条の光、一陣の風のご ときものかも知れません。」
「中々危なっかしいワークですが、そこで必要とされる(必須項目といってもいいでしょう)条件が「整理整頓され、余計なものをすべてそぎ落としたエゴ」なの です。
そしてそれが「戦士としての生き方」をクリアした存在なのです。
これは右のNO1053のご質問に対する回答です
ペンギン様
「エゴの克服のため「戦士としての生き方」を身につけられるよう、今後も読みたいです」
カスタネダの文章は実に驚嘆に値するものです。
彼とはいつかじっくりと書物一冊分の質疑応答を交える予定ですが、当時(ドン・ファンとの修行中)録音も許されなかった状況で、しかもアウェイのメキシコで(彼はロス在住でした)、ペンとノートだけでよくあそこまで精緻にドン・ファンの言葉を拾えたなあと感心してしまいます。
カスタネダがシリウス系の出身ということもありますが(それも特殊なシリウスです)、彼が残してくれた文章は、前人未到のワーク中の今の私にとってはほとんど唯一「役に立つ情報」でもあるのです。
(前人未到という表現は現在私の指導をして下さっている植芝先生がおっしゃったお言葉です)
おそらくカスタネダの文章の本当の意味を理解している人類は、現在皆無に近いのではないでしょうか。
それほど難しい内容になっています。
かつてアインシュタインの相対性理論が発表された当時、よくいわれていた言葉がありました。
「相対性理論を本当に理解している学者は、おそらく世界中に10人はいないだろう」
そういう表現に近いと思います。
ただ先日も書きましたように、私たちがこの広大な精神世界を模索(もさく)する中で、実際に自分の盾(たて)となり、矛(ほこ)となるものは、ドン・ファンが教えてくれる「戦士の生き方」しかないのです。
しかしその生き方を知らない方がいかに多いか、知ることがあっても理解出来ない方がほとんどです。
理解できても実行出来る方は、もっと少ないのです。
ましてや実行できても、それを生きているうちに成就出来るのは、果たして世界人口すべての中の何人おられることでしょうか。
それほど戦士の道は困難な道なのです。
だからこそ「戦士への道」へのチャレンジは、偉大なチャレンジになるのです。
(もちろん日常同じことを繰り返し、凡庸な生活に満足出来はしないのだが、やむなく、なす術(すべ)もなく、不平不満だけがつのり、エゴの命じるまま怠惰に生き、精神をおとしめ、肉体をただ病むにまかせて生きていくことに甘んじるのならそんな必要は毛頭ないのですが)
ドン・ファンの道は、限られた方だけにしか歩めない構造になっています(誰でもチャレンジは出来ますが)。
ところが五井先生の教えてくださる道は、多くの方たちが馴染めて実行出来、しかも効果の大きい道です。
そしてそれは仏陀の道でもあるのです。
その広大な道には「すべての衆生をひろいつくす」という静かな覚悟が満ちています。
仏陀はこの宇宙の64回の爆縮のサイクルのうち、確か34回(今手元にデーターがないので正確でないかもしれませんが、ほぼこの数字です)を監督としてやっておられます(仏陀は地球の総監督というだけではなく、宇宙全体の総監督でもあったのです)。
その仏陀の究極のテーマが一貫して「慈悲」でした。
今回の文明で多くの経典を残された仏陀ですが、それらをまとめて総括するならば、その真髄は「慈悲」なのです。
仏陀のすべての教え、すべてのメソッドの上にあるものが「慈悲」だということです。
それを五井先生が「宇宙全史」質疑応答2の中で教えて下さっています。
「慈悲」という言葉は私たち凡人には中々とらえどころのない概念かもしれませんが、その広大な流れに飛び込んでしまうのも一つのチャレンジかもしれません。
「戦士の生き方」と「慈悲」は全く違う概念のようですが、実はそこに流れる「非情さ」というベースでつながっているのですが、それはまたいつか機会があれば詳しくお話しいたします。
「虚空蔵さまがキメラにならないよう、読者一同、祈り始めていると思います」
「宇宙全史」第一巻の中でも少し出てきたと思いますが、キメラという存在にはずっと違和感がありました。
「単なる奇形や特殊な超能力者というものではないな」という気がしていたのですが、それが何なのかハッキリしませんでした。
しかし自分が実際にそういう局面に立ち会ってみると、雲が晴れるように明確に理解できてきたのです。
カスタネダの本を読むと出てきますが「変身する呪術師(ナワール)」という言葉があります。
カスタネダ自身も確か「カラス」に変身していたはずです(これは師であるドン・ファンがカラスが好きだということもありました)。
その他の呪術師も「コヨーテ」や「ピューマ」などの動物や「水」や「雲」といった自然物にも変身出来ていたようです。
しかし実際問題それを言葉どおりに信じられるかというと、おそらくどなたもその目で見るまでは納得できないかもしれません。
詳細に世界中の精神世界を検索しますと「変身」というカテゴリーは、わりあいよく出てくる言葉です。
西洋ですと「魔法」のカテゴリーにそれがありますし、東洋ですと「仙術」や「道教」の中にもあります。
また原始的な宗教(呪術か)にも存在します。
しかし見回してみますとオフィシャル(一般的)な宗教にはあまり見られない言葉でもあります。
ある意味それは「密教(秘密の教え)」ということでもあるのかもしれません。
つまり「常人は知る必要がない教え」という意味でしょうか。
特殊な人間だけが知り得る境涯かもしれません。
その理由は「危険」ということがまずあります。
「変身」の構図は「陰胎(ナワール)」を利用することにあります。
あるいは「集合点」を動かすことにあるといってもいいでしょうが、この説明はかなりややこしくなりますので、後日の説明にさせて頂きます。
最近「陰胎(ナワール)」という単語がよく出てきますので、ここでは簡単にその説明だけをしておきます。
この宇宙(オーム宇宙)は、大まかに申しあげまして「陰胎」と「陽胎」からできています。
(通常は大宇宙という物質世界の上位に霊界なり天上界などがあって・・・という単純な構造が常識になっていますが・・・まあ霊界さえもその存在を認知しておられる方は少ないのですが・・・)
たとえば霊界(幽界も天上界も含めて)などは、陰胎の中にポッカリと浮かぶ雲の様な世界になっています。
そしてこの私たちが棲息(せいそく)する物質世界は陽胎に属します。
皆様は「陰陽太極図」というのをご存知でしょうか。
丸い世界の中に陰陽の白と黒の勾玉(まがたま)のようなものがあり、そのマガタマの頭の部分にまた逆の陰陽(白黒)の点(一部)が入っているという図ですが、あれがこの宇宙の陰胎と陽胎の構図を(単純ですが)明確に表しています。
具体的に申しあげますと、私たちの世界(陽胎)の中にも一部「陰胎」があり、「陰胎」の中にも一部「陽胎」が存在するという構造になっています。
私が宇宙全史のワークを始めた頃、この宇宙における「反物質」の存在を追及したことがありました。
するとそれはこの宇宙の辺境に偏って集中していますが、人類にとってそこは到達不可能な場所でした。
つまりこの宇宙は長径(楕円の長い方の径)が約200兆光年ある構造をしていますが、その最辺境(辺縁)に反物質がある一定の隔壁(バリアー)を持って存在しています。
(この宇宙の構造の記述は、あくまでもワークの初期段階の認識でしたので、かなり修正があると思われますのでそのおつもりでお聞き下さい。つまりあまりにも既成概念にとらわれた私の頭から質問がなされた結果の宇宙構造ですので、あまり役に立たないかもしれません。宇宙を地球上の物質構造と同じ基準で考えていた頃のお話です。答える方もどう答えたらいいのかという感じで答えられていました。例えるのなら算数も知らない子供に量子力学を教えるようなものだったのかもしれません)
ここではその宇宙構造の話しではなく、反物質のことなのですが・・・実は反物質というのは、この物質世界(陽胎)に存在する(現れた)陰胎の物質なのです。
そういうバランスになっているようです。
ですからこの宇宙を解明していく上では陰胎、陽胎という構造上の探求は非常に大切な命題になっています。
昔からある「浦島太郎」のおとぎ話はみな様よくご存知だと思うのですが、あのお話しは陰胎に紛れ込んでしまった人間の実話でもありました。
かつては陰胎への入り口が、わりあいあちこちに開いており、またそこに入る条件の整った人間もいたのです。
現在この日本では(2月の上旬に収録した時点では)陰胎の入り口は、青森と秋田の県境に近い雪深い山峡にありました(常に移動しています)。
しかし現在ではよほどのことがない限り、陰胎に入れる人間は存在しなくなってしまったということです。
それは人類の意思(総意)が大きく関っていることでもあるのです。
今回は大分長くなってしまいましたので、このあたりの事情はまたいつかお話しいたします(実はペンギン様のご質問にありました「宇宙全史を漫画のようだ」という表現は、ある意味妥当なのかもしれません・不思議やミラクルを現実世界から追いやってしまった現代人が背負うものは、味も素っ気もない当たり前の世界しかないのでしょう・現代人はそれを選択したと申し上げてもいいかもしれません)。
桃源郷という理想郷が中国とインドの国境付近に昔から存在しますが(これは当時老子が創っています・今でも現存します)、他にも色々怪しげな秘境が存在しますが、陰胎はそうしたものとは別格のものですから、混同しないようにして下さい(もっと遥かに大きなものです・霊界がその中ではポツンとした点のような存在になります)。
色々書いてきましたが、陰胎という異空間(異世界)の特殊なエネルギーを利用することで、私たちは世界を変容させることが出来ます(ドン・ファン流に申しあげますと、集合点を移動させるということになります)。
「世界を変容させる」=「自分を変容させる」ということなので、本当に自らの肉体から変身してしまうことが出来るのです。
外見だけでも、肉体能力でも、その両方でも可能な領域に到達できるのです。
しかしそのアクセスを一歩でも間違えると、存在自体が消えてしまったり、先ほど出てきましたキメラという特殊な存在になってしまったり、よくても発狂してしまうということになりかねません。
中々危なっかしいワークですが、そこで必要とされる(必須項目といってもいいでしょう)条件が「整理整頓され、余計なものをすべてそぎ落としたエゴ」なのです。
そしてそれが「戦士としての生き方」をクリアした存在なのです。
戦士の生き方を一言で表現しますと「清々(すがすが)しい生き方」と申し上げてもいいかと思います。
精神世界にかかわる、かかわらないは別にして、人としての有様で「清々しさ」というのは、塵芥(ちりあくた)の現代社会に降り注ぐ一条の光、一陣の風のごときものかも知れません。
今夜は少し上級のカリキュラムでした。
有難うございました
○ドン・ファン系列の戦士にあこがれを持つのはいいことです。
決して否定はしませんが、彼らの生涯をかけたその壮絶な忍耐と自己鍛錬、自らの愚かさへの明晰な戦略なくしては到達できるものでもないのです。
戦士たちがなし得た偉業に対して、本来私たち日常の意識しか持ちえない者たちが云々出来ることではないのですが、それでも一種の「あこがれ」として畏敬の念を持ちつつカスタネダを通して投影される彼らの姿を会間見ることは出来るのです。
○人の一生において最も大切なことは「その人の段階に応じた学びをクリアすること」です。
その段階とは人それぞれですので、何が最も大事かという一律の答えはありません。
そして呪術師(戦士)にとって最も大事な事実は「集合点を動かす」ということよりも「生き物にはすべて集合点という感覚を生み出す器官があり、それが世界を創造し、その集合点を動かすことで数多の世界を経験(創造)することが出来る」という事実を知ることです。
単純に集合点を動かすだけなら、極端な飢餓や恐怖、発熱、異常な経験などでも集合点は動きます。
しかし集合点の意図的なコントロールとなると、それはもう戦士の統括された行為である「夢見」と「忍び寄り」をマスターするしかなく、その取得はとび抜けた才能を持ってしても、一生をかけた苦闘の末、勝ち取ることが出来るかどうかということも未知数なのです。
ですから私はみな様にドン・ファンの生き方を進めることはしなくなったのです。
カスタネダ著「沈黙の力」(二見書房)202ページより
ドン・ファン「誰かがわしらに、うぬぼれを切り捨てていかなければならないことを気づかせてくれるものがいるとしたら、それこそが本物の助けだ」
この宇宙におけるあらゆる存在は最終的には天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおおかみ)に収斂(しゅうれん)します。しかしこの地上に生きてそのたぐいまれなる極みまで自らを鍛え抜いた戦士に対して、この宇宙(天之御中主大神)は「自由」を与えます。いや与えるというよりは「自由」であることを「放置」します。人間として究極の自由を得ることを成就したドン・ファンが最も大切な基本的な教えとして私たちに残した言葉が上記の抜粋でした。
私たちの宇宙を統(す)べる天之御中主(あめのみなかぬし)の裏方としての存在である月読の大神がこうおっしゃいました。
月読の大神「エゴ(うぬぼれ)を薄くするには、まず少しでもエゴを希釈(きしゃく)しておかなければそれは不可能な作業」
つまり「エゴをなくしていくことが最も大切なことだ」と理解するためには、「ある程度エゴを薄くしておかないとそのこと自体が理解できない」ということです。
よく考えると「そんなことは不可能」と思えてしまうのですが、それでもそんな中でも普段から、少しずつでも気づきを得て、一歩一歩エゴ(うぬぼれ)を薄めていくという作業以外に、そのがんじがらめの罠からは抜け出す術はないのです。
多くの方たちが夢中で生きています。
エゴという「自己イメージ」の夢の中で生きているのが私たちです。
こういう形を想像してみてください。
①あなたの身体全体を取り囲む丸いボール(球体)がある。
②そのボールの中にあなたはいるわけですが、ボールの中から見た球の表面(内
面)はすべて鏡面になっています(鏡のようになっています)。
③そのボールがあなたのエゴなのです。
ですからあなたはあなた自身のエゴをそこに投影することで、それがあなたを取 り囲む世界だと勘違いしておられます。
④あなたはそのボールの内側に映ったものを世界と認識していますので、あなたの 見ている世界はあなた自身(エゴ)だということになります。
いわゆる客観的な世界(客観でもないのですが、一応大多数の方が共通認識でき るという意味での客観です。それが鏡面を通してうっすらと透けて見えます)は あるのですが、それを認識するときにあなたはエゴというフィルターを通して世 界を色づけしてしまっているということです。
⑤そのためあなたが面白くなければ世界も面白くなく、あなたが苦しければ世界も 苦しく映ります。それが「世界はあなたが創造している」あるいは「世界はあな た自身である」という本当の意味でもあるのです。
⑥この時私たちは自動的に二つの大きな負債を抱えることになっています。
エゴを支える(作り出す)ためにエネルギーを使いきっていることから来る疲弊(消耗)と世界を正確に見ることが出来ない迷妄(無知)・・・この二つを常に人類が抱えてしまっているのです。
ドン・ファンの教えはどちらかといいますと「密教」のカテゴリーに入ると申しあげましたらお分かりになるでしょうか(最も密教を知らないとどうにもなりませんが)。
五井先生の教えは「大乗」の教えです。
共に目指すところは同じなのですが、その方法論が違っています。
「宇宙全史」は今の所この地上では、究極の情報だと思いますから、私の中ではドン・ファンも五井先生も仏陀もイエスもみんな同じなのです。
しかし最近それは皆様方には通用しないということが分かってまいりました。
ですから近頃は多種多様な聖賢・覚者・高度な存在が私たちに関わってこられていますが、あまりここには書いておりません。
面白いのですが、そんな情報は単に皆様を混乱させるだけでしょうから。
(宇宙全史では最終的にすべて出す予定です)
おそらくすでにこれまでの情報だけでも相当混乱があると思います。
しかしそれは追々ここで補完してまいります。
五井先生が呪術をお勧めにならなかったのは、日本における呪術という意味と、メキシコ(というよりドン・ファン系統)の呪術はかなり意味が違っています。
その違いをここではご説明しません(あまりに面倒なので)。
しかしそれではやはり不親切でしょうから、逆にお二人の共通点を書いておきます。
五井先生は慈悲の存在ですが、私にとっては慈悲というより「究極のやさしさ」の存在でした。
慈悲には「情」がありませんが「やさしさ」にはまだほんの少しですが「情」が残っているのです。
本来「情」というものは覚醒においては、残してはならないものの代表です。
それをあえて残してでも人々に合わせようとなさった存在が五井先生でした。
ある意味表面的には「地蔵菩薩」に似ているかもしれません。
ドン・ファンが求める「戦士」としての特質には多くのものがありますが、彼の教えの最も難解な部分が、戦士としての基本的な姿勢でした。
私たちはこの現象界で覚醒を求めるとき、あまたの障壁、障害にぶち当たります。
多くの方がほとんど毎日、毎瞬そのストレスを感じておられるはずです。
人生は選択の連続です。
障壁にあって、その選択を迫られた時、迷った時は「心ある道を行く」というのがドン・ファンの根底を流れるエネルギーの質です。
「何が心ある道かは分からないが、しかしわしらはただひたすらまっすぐ目を前方に見据え、その道をどこまでも、力尽きるまで全力で歩んで行くんだよ」
ドン・ファンは完全に非情の存在です。
今私たちにかかわる時でも、普通の方ならかなり落ち込んでしまうだろうというほど辛辣に聞こえる事をおっしゃることもあります。
しかし私にとってその言葉は、本当に涙が出るほどやさしいのです(もちろんドン・ファンにからかわれるので、涙なんか出しませんが)。
五井先生の「究極のやさしさ」とドン・ファンの「心ある道」・・・この二つが私をして彼らを私の師としているのです。
しかしそれをご理解いただけるかどうかは中々難しい所かもしれませんが、それも皆様の学びかもしれません。
有難うございました
どっぺん様
あのEO氏でも、或いは以前お伝えしたA氏でも、完全覚醒しているのですが、この世に生まれて生きている限りその方の集合魂が持つカルマなり責務のようなものをクリアしていかねばならないという事があります。
お二人は今回の生が最終段階でしたが、完全覚醒の道にいる者にとって、転生の数は問題ではないのです。
私が今出し続けている「質疑応答」シリーズで、他の方たちの学びを自らのものとするという課題は実に重要なことで、その学びなくして完全覚醒などあり得ないのです。
今のあなたと同じようにEO氏もA氏も、前世でも真我の一瞥は何度も経験しておられます。
表面意識がいかほど覚醒を望もうが、集合魂の合意なくして覚醒はありません。
ましてや完全覚醒というものは、この宇宙を超えた合意がないと達成できないものなのです。
五井先生でさえも、みどりさんという奥様を迎えられたのは、集合魂の始末をつけるためでした。
まだまだ果たすべきこと、学ぶべきことがある限り、焦らず弛まず精進あるのみです。
虚空蔵55
ペンギン様
大浄化という現象がスルーされたわけではなく、今のままでは「延期」されただけの状態です。
「ドン・ファンは本当に素晴らしいと思うのですが、難しいです。観たこともない世界を言葉で理解しようとするのは、難しいです」
正直私もそう思います。
この頃になってやっとカスタネダの書いていた本当のところが見え始めてきています。
ナワールという世界や、集合点の概念など、実際にそういう局面に至らないと私たちの頭には全くない構造ですので、理解が難しいと思います。
先日も書いておきましたが、どうしてメキシコの小さな呪術師集団が世界中の誰も知らないここまで深い世界の概念に到達できたのでしょうか。
シュタイナーや神智学関係者達でも、その片鱗にさえ触れていません。
(しかし本当のこの宇宙の構造を解明するには欠かせない要素なのです)
ドン・ファンを読む場合は、そうした実際の修行方法、メソッドを学ぶというよりは「戦士としての生き方」を学ばれた方が遥かに役に立つと思います。
「集合点の移動」などの実際的なワークは、その生き方を学び、実践出来てからということでしょう。
しかしそれも実行できる方は、少ないと思われます。
今私はナワール(陰胎)に入っていこうとしています(覚醒の前の段階で、そういう修行が必要なようです・非常に特殊なことらしいのですが)。
しかし一歩間違うと「キメラ」という微妙な存在にもなりかねない危険な修行でもあるのです。
またカスタネダの文章によく出てきました「非有機的存在」という生命体とも、接触が始まっています。
中々面白いですよ。
また詳しくはいつかお話しいたします。
有難うございました
虚空蔵55
貴子様
「また体が対応するようになるとは潜在意識でそう認識するということなのでしょうか」
日常であなたがやるべきことを果たしておられたのなら、それがすべてです。
「人事を尽くして天命を待つ」というちょっと大仰な言い回しですが・・・でもそういうことなのです。
固くお考えになることはないのです。
あなたはいつも着実にご自分の出来ることをコツコツと感謝を持って一つずつクリアしていかれる方です。
実は「戦士の生き方」の特徴のひとつに「謹厳’(きんげん)」というのがあります。
その生き方をある程度クリアしておられるあなたは、そのままで体がなすようにしておられればいいのです。
逆に潜在意識がどうのこうのとお考えになるとギクシャクしてきますので、いつも通りやるべきことを果たしたなら「後は何とかなるでしょう」でいいのです。
確かに私たちの肉体の多くは自律神経でまかなわれています。
その作用はご推察のように潜在意識がつかさどっていますが、今回の宇宙気流の作用を受け取る部分はもっと深いところに存在しています。
お任せしていると、その深層部分と潜在意識・表面意識の微妙なバランスが自ずとあなたの運命を変えていきます。
月読の大神が「今回は軽いノリだね」とおっしゃるのは、「あまり固く考えないでいいよ」ということでもあるのです。
「お任せする」ということが出来る方にはとても楽な恩寵ですが、ここまでのワークで、「どうしてもお祈りが出来ない」「本心からの祈りが無理」という方た ちには、中々難しい・・・ある意味苦しい状況だと思います。
それは「エゴにとって苦しい」状況だといえるのです。
エゴは「祈りなんて何になるのか」「祈りなんて他力本願な無責任な行為はもっての外」「一体祈って何がどうなるというのか」と考えます。
そのエゴを薄くしない限り、今回のこの壁は越えられないようになっているのです。
難しいのはそこのところであり、困難なのはエゴなのです。
でも実際今回の変化は実に大きなものがあるようです。
やがてそれを実感される方たちがここから出てこられると思います。
有難うございました
虚空蔵55
だいぶ時間があいてしまいました。
ご心配おかけしております。
もう少し時間がかかりそうなので、ここで少しご報告をしておきたいと思います。
今はまったく時間がとれない状況でして、これはおそらく9月の中ごろまで続くと思われます。
ひょっとしたら9月の4日までにもう一度書き込みが出来るかもしれません。
その時少し詳しくお話しいたします。
有難うございました
虚空蔵55
2008/7/16 No.83
これは右のNO288への返信です
やっとドン・ファン系の方のお出ましですね。
「戦士としての生き方」を矜持(きょうじ)としておられる方々ですから、まずこういう所には顔をお出しにならないのでさみしかったのですが、少しうれしくなりました。
ところでカルロス佐藤様がおっしゃるように「クンダリーニの覚醒」「出来なければ死」などと大風呂敷を広げたのですが・・・生還したのだから「きっとクンダリーニを覚醒したのでしょう」とお思いでしょうが、そうでもないのです。
以前とあまり私自身はあまり変わっておりません。
(こうして徐々に信用を失っていくのでしょうか)
実はあまり詳しくお話していないので、中々ご理解いただけないと思いますが、私の覚醒(肉体も精神も共に)は、多くの段階を踏む事になっています。
今回は「出来なった・成就しなかった」ということではなく、「約20パーセントの成就」というところでした。
そしてすぐにまた次の「ミトテ」がやってまいります。
(確かドン・ファン流の精霊を使ったセッションをミトテといいましたよね)
私の精霊は「非有機的存在」ではなく、髪が茶色で、一重のちょっと目がつりあがった細面の少女です(非有機的存在とは、カスタネダの本の中に出てくる人類とはまた違った進化系にいる存在です・先日たまたまですがその映像がネット上で公開されているのを発見してしまいました。もちろんその映像を撮った人たちはそれが非有機的存在とは知りませんが)。
彼女はものすごい美人ですが、メッチャメチャ気が強く、みわなんか子ども扱いです。
私のことを気に入ってくれたらしく、今回のセッションで「死なせる事はしない」と言ってくれました。
しかし「成就するまでやる」という事も言っています。
非常にピュアな存在で「目的達成の使命のためなら何でもする」という姿勢は、とうてい人間の比ではないようです。
(つまり手段を選ばないという怖さもあるのです)
今回のこのセッションの詳細は許されましたら「宇宙全史」第3巻に掲載予定です。
さてカスタネダとの共著という本は、「宇宙全史」とはまた別に出す予定です。
まだそのワークは始まっておりませんが、これは私がどうしてもやっておかねばならないお仕事になるようです。
その本が出た時に、冒頭の文章にしようと思っていた部分です。
カルロス・カスタネダと初めてつながった時の会話でした。
私「カルロスずっとそこで何か書いているようだけど、満足なのかい」
カルロス「いや書くことはたくさんあるんだが、読み返していつも絶望してしまうんだ」「ドン・ファンのことを研究しているんだけど、何だかもう何も新しいことが書けないんだよ」
私「私が質問するという形で答えてくれればいいから、地上でもう一度本を出さないかい」
カルロス少し考えて、
「ドン・ファンは笑ってくれるかな?」
私「もちろん笑ってくれるさ」
カスタネダ「じゃあ、いいよ」
カスタネダは最初私たち異邦人に対して少し警戒心を持っていました。
(非常にシャイな人でした)
上の文章の前にも、私がわりあいずけずけと彼の中に入って行ってしまうので、戸惑いがあったようでした。
しかし最後の3行の会話を交わした時、カスタネダは私のことが理解できたようでした(私がどれだけドン・ファンを理解しているかということ、またどれだけカスタネダが好きかということが分かったようです)。
カスタネダの本は現在日本では10冊以上出ているはずです。
そのほとんどが二見書房から出ていますが、最後の方に出た「呪術の実践」というタイトルがあります。
私も何度もこのドン・ファンシリーズは読み返していますが、このタイトルの本だけは無理でした。
どうしても違和感を覚えてしまうので、なぜこんな本を出したのかカスタネダに聞いてみました。
「あれは私の周りにいた形にこだわる連中がどうしても出したいということで、ほとんど勝手に出した本なんだ」
それで私は納得したのです。
おそらくカスタネダ・ファンの多くは同じ思いを持っておられるのではないかと思い書いておきます。
それでは今夜はこのあたりで失礼致します。
有難うございました
虚空蔵55
質問1・10組の地球原人のペア(地球のエネルギーを受ける原人とそれを使う原人のペア)では「基本的にエネルギーを受ける方は女性が多いが稀に男性もいる」とのことですが、20体の中でも稀なこのエネルギーを受ける男性の地球原人は他の地球原人とは違う働きをするのでしょうか?
- 男性といいましてもほぼ中性に近いような男性、もしくは男性に近いような女性といいますか…そういう形で現れるはずです。
ですから基本的に女性性がベースになっています。
またその働きは社会性を持った強力なカリスマ的リーダーシップを発揮していきますから、本来の地球原人とはだいぶ様相が変わった有り様になります。
この役割は元々地球原人が発展してそうなるということもありますが、通常の人間が(そういう資質を持っていればですが)進化して(地球がエネルギーを与えて)その役を果たすということもあるようです。
いずれにせよ激動ともいえる変革の中で、どう転んでも成功するように流動的な組み合わせは用意されているようです。
(やがて明かされる非公開情報8の中では、地球原人のまた別な側面も日本の古代の歴史の中で示されていきます)
質問2・『宇宙全史 質疑応答3』のP144で「集合魂の上位の魂」として「地球の魂」についての説明があります。
この「地球の魂」とは「地球という惑星も含む、そこに生存するあらゆる生命の総体が帰り着く、あるいはそこから派生した源」とのことですが、地球原人とはこの「地球の魂」が濃く地上に現れた存在のことでしょうか?
それとも、地球原人はあくまでも「地球という惑星」限定の意志が強く発現した存在でしょうか?
- 「集合魂の上位の魂」とは地球という修行場に宇宙から集結した生命(魂)の大元(もしくは集合体・集合魂の集合体とでもいうのでしょうか)をいいます。
「地球の魂」とは地球という惑星の魂です。
私たちとは異なる進化形を持った魂で(いずれは私たち一人一人も惑星に進化することも出来るという可能性は持っていますが)、彼らは彼らの思惑(価値観)で生きています。
その地球の魂が地上に顕現した時「地球原人」となって現れます。
質問3・下記の引用箇所にありますように、地上から旅立ったドン・ファン達にとっても「地球」は依然として母体とのことですが、ここでいう地球とは「地球という惑星」のことでしょうか?
ドン・ファン「~呪術師が死の隠れた選択肢を選び取ったときに何が起こるかというと、彼らは非有機的存在へと変わるのだ。きわめて特殊化した、高速の非有機的存在、途方もない知覚の技を発揮できる存在へと変わる。
そのあと呪術師は、古代メキシコのシャーマンたちが最期の旅と呼んだものを開始する。そのとき、無限が彼らの活動領域になるのだ」
カスタネダ「それって、ドン・ファン、彼らは永遠の存在になるってことかい?」
ドン・ファン「呪術師としてのわしの合理的考えからすると、彼らの意識はいずれ終焉を迎える。非有機的存在の意識が終焉を迎えるようにな。しかし、わしはそれが起こるのを見たことがない。だから、直接には知っておらん。昔の呪術師たちは、こういうタイプの非有機的存在の意識は、地球が生きているかぎり存続すると信じていた。地球は彼らの母体なのだ。その母体が生きつづけるかぎり、彼らの意識は存続するというわけだ」(『無限の本質』241頁2行目~)
- 地球という惑星を含む地球圏ということです。もう少し詳しくいいますと、太陽系全体が今の地球圏に入っていますから、そういう意味では太陽系全体といってもいいかも知れません。逆にもっと厳密にいいますと「この次元における地球圏」という言い方が最も正確な表現かもしれません。
「非有機的存在が地球が生き続ける限り生き続ける」といういい方はその通りで、それは「非有機的存在は地球の次元に囚われてしまっている」ということも出来るのです。
しかしながらドン・ファンなどの戦士たちが旅立った先には、地球圏を超えた世界が待ち受けていることは事実です…が、そこまで到達できるかどうかは彼らの問題になります。
なおカスタネダはつい最近まで死んでからあの世界では一人で彷徨っていましたが、今は(冬至を過ぎてから)ラゴルダや他の仲間たちとも再会できて、ドン・ファン達に合流すべく旅を急いでいます。
①やさしい(放縦に流されない丁寧さ)
②忍耐力がある(待つことを知る・機会を失わない忍耐を知っている)
③非情である(冷酷にならない平静さ)
④狡猾である(残忍にならない明晰性)
この4つはドン・ファンが提唱する「戦士」の条件ですが、それをクリアしているのが離脱している親の共通項といえば共通項です。
「向き合うと言う言葉が、難しさを感じさせます」
自分と向き合うということは、冷静に自らのエゴ(自分)を観察することです。
私が以前一生懸命「戦士の生き方」を力説していたころ・・必要な条件の中で、最後に「ユーモア」というフレーズを出していました。
芸人さんの得意技である「お笑い」の神髄は、自らの愚かさを笑ってしまうというところにあります。
戦士たちも段階は異なりますが、自分の恐怖や苦難、耐え難い試練、それに人類の愚かさなどに対して、立ち向かえるメソッドはただ一つ「ユーモア」だけなのです。
しかしそれが発動するには、真剣に自らに向き合える(自分の愚かさと対面できる)力がないと無理なのです。
一歩離れて、エゴと向き合うことで、本当の自分(向き合っている自分)は、エゴではないと理解できるようになります。
そして自分だったと信じていたエゴを笑い飛ばすことが出来るようになったなら、次第にエゴの支配からは抜け出ていくことが出来るのです。
まずは自らを見つめ続ける・・そこから始めて下さい
虚空蔵55
私の集合魂も私も共に過去において、相当な修行を果たしてある段階に至っています。
しかしその修行には、カスタネダが伝えるところのドン・ファンが提唱する、
「忍耐」・・・・(耐え忍ぶということではなく、待つということ)
「ユーモア」・・(永遠と向き合う時平常を保つため深刻にならないということ)
「狡猾さ」・・・(ずるさではない明晰性)
「非情さ」・・・(冷酷にならないための非情さ)
という4つの形質をすべて越えてこその修行なのです。
カスタネダを読みますと、もっと多くの学びがそこに書かれてありますが、単純にこの4つだけでもクリアできたなら、その旅人は「戦士」となるのです。
しかし海様の集合魂が求めてきているものは、戦士ではなく「兵士」なのです。
WARRIOR(ワーリアー)ではなく、SOLDIER(ソルジャ)を求めてしまっているため、混乱を極めているのです。
ご健闘をお祈りします
ペンギン様
ドン・ファンの系列の呪術師たちの教えは、おそらく(今回の文明)史上最も精緻で高度なものですが、それでも彼らが肉体を離脱するまでの探求の積み重ねという枠からは出ていないのです。
私たちのワークは非常に広大な世界を包括するということが前提になっていますが、彼らは地上で生きる中でのリアリティをより深く探求した系列の者たちでした。
たとえばナワール(陰胎・いんたい)という概念は、地球史上ほぼ彼らと私たち(宇宙全史のワーク)にしか出て来ておりません。
ナワールは宇宙の構造を語るときかなり重要な要素ですので、なぜ他の探求者や覚者、精神世界のマスターたちが言及していなかったのか調べてみました。
ひとつにはドン・ファンたちは系統だった知識の集積という事をやっていました。
いわゆる「古い見るものたち」は、彼らが得た魔法の知恵を世代にわたって受け継ぎ、そこに新たな情報を積み重ねていったのです(千年単位で受け継いでいます)。
その結果方向性は誤っていましたが(自由への道という立場からすると)、彼らの行き着いたシーンは恐るべきものだったというわけです。
(それをドン・ファンたち「新しい見るものたち」が修正しています)
その反面西洋や東洋のマスターたちは、ほぼ個人個人で道を探求しており、長くてもせいぜい弟子と師くらいの関係性が精一杯でした。
また彼らは、覚醒がその最終目的でしたから、覚醒してしまうとハッキリ申し上げて、地上のことなどあまり関心がなくなってしまい、世界の構造の深い意味や目的をわざわざ知りたがろうともしない人々に教えるということを避けていたようです。
またたとえ知りたがる人がいたとしても、ナワール(陰胎)を伝える言語が不足していたということもあります。
ですからここではいつの間にか陰胎という言葉を使っていますが、本来はかなり長い説明文がその前になければならないのです。
それほど陰胎は大切な概念であり、この宇宙における基本的な構造になっています。
たとえば霊界は皆さんよくご存知だと思いますが、あれは陰胎のごく一部というカテゴリーになっています(つまり陰胎の中の一部の領域が霊界)。
しかし今ここでは陰胎のくわしい説明は出来ませんので省いておきますが、ドン・ファンの話の中に出てくる「イーグル」という生命が地上での命を終えた時、そのエネルギーを食べるという存在は実際にはいる(ある)のです。
これはある程度「宇宙全史」第一巻の中でも書いておきましたが、ドン・ファンのイーグルの概念も宇宙全史のこれまでの説明も中途半端なものになっています。
一面だけから見ると正しいシーンなのですが、大きな立場から見るとそれは非常に大きな「愛」という構造に包まれているものになっています。
しかしそれを説明するには、この先まだまだ長い文章を必要としますので、しばらくここでお付き合いください。
いまここでこの段階で皆様がイーグルという存在を知ったところでどうなるものでもないのです。
ドン・ファンたちにとってそれは極めて危険な存在であり、かつ自由への飛翔の抜け道でもあったのですが、普通の方たちにとっては単なる概念、お話しに過ぎないのです。
たとえばここをご覧になっている方でカスタネダのドン・ファンシリーズをお読みになった方がおられると思いますが、おそらくあの本の中に出てくるメソッド(修行法)を実際に実行した方はあまりおられないと思いますし、実行して何らかの成果を得られた方はもっとはるかに少ないでしょう。
それはあそこに出てくるメソッドを実行しようとするならば、ある一定の段階にまで肉体や精神をレベルアップしておかないと不可能だからです。
(70年代に多くのアメリカの若者たちが実際にメキシコの砂漠に出かけて幻覚キノコやサボテンを採取しカスタネダの経験をたどろうとしましたが、ほとんど不発に終わっています・そのメソッドをクリアできる段階に達していない人たちは、結局カスタネダの書くものをフィクションとして片づけるしかなかったのです・精神世界のマスターたちの中でも本当に覚醒できていなかった人たちはカスタネダを否定しています・たとえばラジネーシなどはそうでした)
もちろんその方法も中に繰り返し書いてあるのですが、そこをクリア出来た方はあまりおられないと思います。
私たちはそれぞれの進化過程で、それぞれの段階で学びが違いますし、その方法も異なるのです。
ですからどんな方にも、どんな状況にも普遍的に適応出来る五井先生のお祈りを皆様にお勧めしているのです。
世界平和の祈りを一度や二度口で唱えることは簡単なようでも、実際に真心から生きて唱えられる方はそうはおられないはずです。
それでももし皆様に覚醒の可能性があるとするのなら、その糸口は間違いなくあの祈りにあるということは間違いないのです。
有難うございました
虚空蔵55
Ⅰの①、②、③への回答です 「この異様なエネルギーの枯渇状態から、私が魂的に今、学ばないといけないこと、気づかないといけないことがあるとしたら何なのでしょうか?」 ●肉体は有限です。 それはその通りで、いくら精神世界的に、宗教的に、 「人間は無限なる存在」 「人間は肉体ではない」 「無限供給の元となれ」 と宣言しても、あるいは思い込んでも、所詮肉体人間は「有限」なのです。 では何故古今東西の賢者たちは「人間は本来無限なる存在」と私たちに教えるのでしょうか。 人間は「無限なる存在」です。 しかし私たちは自分自身でその「無限」を信じていません。 あるいは自分をまったくの「肉体」とみなしています。 そこで先ほど書きましたが、いくら「肉体ではない」と思い込んでも、宣言しても、それは「思う」という肉体・思考(脳)の作業であり「宣言する」という肉体の発声動作でしかないのです。 Ⅱのメールについてです 「驚くのは、覚悟を持ってBBSに書き込むと これほどまでにエネルギーが与えられるんだ…ということでした」 ●この現象は実はあなたがこの宇宙全史にアクセスしたことで根源からのエネルギーを受け取ることが出来ています。 まだその場限りですが、それでもそれが無限供給の本源からのエネルギーを受け取るということです。 私が変化しつつありますので、宇宙全史の場も刻々変化しています。 それでもやはりあなたは今のエネルギーシステムを見直さないと、未熟なままでの宇宙全史からのエネルギー供給ではすぐに元の木阿弥になってしまいます。 それは生徒さん達からの依頼心に駄々漏れで応えてしまうという姿勢のことです。 どこかで自分は肉体だと思ってしまっているところがあります。 出来ないことなら出来ないとハッキリ思ってしまえばいいのですが、何か義務感があって「やらねばならない」みたいなものがあるからおかしくなってしまうのです。 あなたのやっているワークは「やりがい」でもありますが「縛り」のひとつでもあるのです。 ですからすべての依存心を受けてしまうということを課しているのもあなたのワークでもあるのです。 月読之大神 「それは縛ることでもありやりがいでもありっていうジレンマなんだろうね」 「二重の鎖なんだろう」 Ⅲについてです 非公開情報3(欠番補足番です)の顛末の収拾がまだついていません。 それゆえこの情報がいつ出るのかは確定していませんが、講師レベルの方の覚醒への道標としてはおそらくとても参考になる内容になってくると思っています。 それはあなたのⅢのメールの回答になると思いますので、なるべく早く書き上げたいと思っています(おそらくだいさんにも必要だと思われます)。 Ⅳについてです 質問① 「やはり、宇宙全史でエホバという存在の意味が明かされている今 私に起きたこの事象は、エホバを信仰している方のエネルギーを私が、直接受けたことで 何らかのエネルギーの差異が起こり 警鐘、警告として、このような 車イスに乗るほどまで歩けなくなるという 事象が起こった…と理解しても良いのでしょうか?」 ●その通りです。 これはあなたの守り…集合魂(守護霊達)がやっています。 ここには少し矛盾と思える部分があるのですが… 集合魂はそういうところと接触するのは甚だ危険だとは周知しています。 だったら最初からそういう所に行かないように指導しないのでしょうか。 それは「それも集合魂が望むところ」なのです。 つまり集合魂として薄い知識として知っているだけではなく、肉体という濃い経験を通して「学び」を体験したいというところが大きくあるのです。 あたないとってはいい迷惑でしょうが、危険を承知で飛び込んでいくのはそういうことがあるからなのです。 (歩けないほどのダメージは、あなたがとても敏感な方ゆえのものです) 質問② 「世界救世教をはじめ、そこから分派した真光や手かざし系のものもいくつもあるようですが、その浄霊といわれるヒーリングのエネルギーは救いとしてこれから機能していくものなのでしょうか? 主(ス)の神というのが信仰の対象のようです」 ●手かざしでありましょうが、お祈りでありましょうが、何かの儀式でありましょうが、何をやってもいいのですが、 「それを誰がやっているのか」 「その行為がどことつながっているのか」 この2点が問題です…しかしあなたはすでによく分かっているはずです。 まあ確認の作業なのでしょうか。 「役割ではない人がスキルを学んだだけでは、エネルギーワークやヒーリングは機能しない 返って危険…。この認識で違ってませんか?」 ●すべての人間が何かしらの「役割」を担っています。 「役割」を特殊能力の必要条件としてしまいますと、自ずとそれは「エゴを肥大させる」というカテゴリーに導かれていきます。 ですから「役割」があるかどうかではなく、宇宙全史の根幹に係わる本来の人としての有り様「心ある道を行く者」であるかどうかというところに帰結します。 ドン・ファンがいうには、 「何が心ある道かは分からなくても、それでもわしらは全力で、力尽きるまで心ある道を行く」 その覚悟がある方が宇宙全史の講師たる所以です。 宇宙全史の講師になれば自ずとエネルギーは降りて来るのです。 (「自ずと」とは何もしなくてもという意味でもありますが、中々そう単純ではないということもあります・それが非公開情報3の内容です) 「母に「人のエネルギーを受けるからやめた方が良い」と言っても、 母曰く「人をみてあげていない時の方が、返って調子が悪い…」とか言っています」 ●あなたのお母さんは癒す相手のエネルギーを使って直していますから、とても効率的なやり方でやっているので大丈夫なのです。 その人の本心(本体)への扉をほんのちょっとだけ開く技を持っています。 その瞬間にほんとに一瞬だけ根源からのエネルギーが流れ出し、それを使って癒していますし、自分も少しもらっています。 だからとても効率的なやり方なのです。 (扉をすべて開いてしまえばいいと思いますが、そこまでできる能力はないようです・でもそういうテクニックは持っています) 質問④ 「宗教である限り、大本はエホバに行く着くなら、手かざし系のものは、最終的にはエホバにエネルギーを収奪されていく、何らかの仕組みの一端と考えてもよいのですか?」 ●これはすでに回答してあるとおりです。 確かに陰始のシステムはこの世界を縦横無尽に埋め尽くしています。 それでもその中でも本当の「自由」を求めて、果てしのない苦闘の道を選択する人もいるのです。 それが「戦士」であり 「自由への旅人」であり 「心ある道を行く者」です。 虚空蔵55
「 仏陀はこの宇宙の64回の爆縮のサイクルのうち、確か34回(今手元にデーターがないので正確でないかもしれませんが、ほぼこの数字です)を監督としてやっておられます(仏陀は地球の総監督というだけではなく、宇宙全体の総監督でもあったのです)。
その仏陀の究極のテーマが一貫して「慈悲」でした。
今回の文明で多くの経典を残された仏陀ですが、それらをまとめて総括するならば、その真髄は「慈悲」なのです。
仏陀のすべての教え、すべてのメソッドの上にあるものが「慈悲」だということです。
それを五井先生が「宇宙全史」質疑応答2の中で教えて下さっています。
「慈悲」という言葉は私たち凡人には中々とらえどころのない概念かもしれませんが、その広大な流れに飛び込んでしまうのも一つのチャレンジかもしれません。
「戦士の生き方」と「慈悲」は全く違う概念のようですが、実はそこに流れる「非情さ」というベースでつながっているのですが、それはまたいつか機会があれば詳しくお話しいたします。」