謙虚さと敬いに関するご教示です。
2015/2/12 No.2292
私はあまり「謙虚さ」という言葉が好きではないのですが、それでも広大な精神世界において導きを願うという希望があるのなら、そこには「導いていただく」という一種の「謙虚さ」というものがないと中々上からの指導というものが得られないようになっています。
上の方々はそもそもそういうえり好みはされませんが、こちらサイドが「エゴ」という「非謙虚さ」を持って「あれは嫌」「こっちがいい」「もっと早く楽にして」等々自分勝手な欲望のまま突き進んでしまうと、結果宿命のままの道を歩むことになってしまいます。
そこには「運命・カルマ」からの脱却という可能性は全くなく、ただひたすらカルマを償却しながら再びその負荷がより深いカルマを生み出す負の連鎖に入っていくのです。
このBBSを見ていますと、大体どんどん進化していく方というのは、上辺だけではない「謙虚さ」というものをお持ちです。
それは「己の小ささ」を自覚する謙虚さであり、「エゴというものの愚かさ」を知る謙虚さでもあります。
よく例えでいわれることですが、
「コップに水がいっぱい入っていると、そこにはもうそれ以上のものは入れられない」
「しかし水をすべて捨ててしまえば、そこには信じられないような美酒が一杯入るのだ」
心の中にエゴという大して美味しくもない水を一杯にしていますと、覚醒という美酒を入れる隙間がないという事なのでしょうが、そのポイントはやはり「謙虚さ」というエゴにとらわれない、エゴから一歩退いた目線が必要なのかもしれません。
私という存在は見た目には到底「謙虚さ」という言葉とは縁が無いように見えるでしょうが、やはり上の方たちに対して敬うという気持ちは無いこともないのです。
以前ここでは何度か書いておきましたが、宮本武蔵の晩年の言葉です
「神仏を敬い、神仏を頼らず」
「宇宙全史」第二巻がペンディングのままで、宮本武蔵の素性が明確にされていませんが、彼はまさに「神仏に頼らない」独自の道をゆく野生児でありアウトローでもありました。
その彼が晩年残したその言葉には、人の世でどんな生き方をしようが、人から何と言われようが、自らの思いのまま生き抜いた誇りがそこにはありました。
しかしそれでも彼は「神仏を敬い」という謙虚さを持つ人物だったのです。
あるいはそういう謙虚さを晩年持つに至ったといってもいいかと思います。
この世界に一歩足を踏み入れてしまうと、完全覚醒するまではアルプスの尾根道をゆくようなものです(両わきは断崖絶壁です)。
たかが胸のチャクラが開いた、クンダリニーが上った程度の覚醒で舞い上がっていたのでは、その時はいいのですが、すぐに陰始に絡め捕られ引きずり落とされていきます。
その時一番役に立つメソッドが「謙虚さ」です。
しかし「謙虚さ」を知るには、世界の広大さ、五井先生を代表とする上の方たちの大きさ、高さを推し量る力量がなければなりません。
しかしそれすらもわからない方たちは「世界平和の祈り」をただひたすら行じて、五井先生にすべてをお預けするしかないのです。
2008 年5月18日No.232
私が「宇宙全史」のワークをしておりますと、
「そこまで疑うか」と上の方に云わしめるほど「猜疑心」丸出しで探求します。確かに私の場合は「猜疑心」丸出しではありますが、それは私のお仕事と割り切ってはいるのです。
宮本武蔵が確かこういうような事をどこかで書いておりました。「神を頼らず、ただ敬うのみ」
私もニュアンスは違いますが、「神を信じず、ただ敬うのみ」
そういうスタンスで、やりくりしております。お分かり頂けますでしょうか。
有難うございました。
2009/2/9 No.528
神話は基本的に伝承として、口から口へと伝えていくもののようです。
本来「信じる」「敬う」という心を物語として伝えていくものなのですが、現代では神話(物語)自体に力が失われてきています。
どちらかといいますと、それは今の漫画やアニメを媒体として受け継がれて行くのかもしれません。
神話に関しましては、教育とか教わるといった概念は、あまりなじまないでしょう。
国や社会のステイタスのための道具となってしまった時点で、それは力をなくしていくものなのです。
それはあくまでも「人と人を超えた存在との関係性」を、「信じる」「敬う」という形で伝えていくものでもあるのです。
これが漫画・アニメを媒体とするときは「ロマン」という形をとることもあります。