魔女に関して

質問があったので検索してみたら、シュタイナーや芸術に関する御教示か出てきました。

 

「魔女といいますと皆様は、 何やらドロドロした中世の魔女狩りに出てくるような魔女や白雪姫 に出てくる毒りんごの魔女を想像されると思いますが・・・ まあそういう魔女も確かにいることはいますが、 大概の魔女は普通の人間たちの中に混ざって共存して棲息していま す( そもそも自分自身が魔女とは自覚していない方がほとんどです)。 私の周りにも様々な魔女たちがいますが、雑魚(ざこ) 魔女といわれるような魔女から、 ホワイト系の中々大した魔女までワラワラと存在しています。 魔女の定義は難しく・・・ 妖怪たちと似たようなアイデンティティを持つのですが・・・「 その存在の在り様を曲げない」「ひよらない」 とでもいうのでしょうか、いってしまうとかなり「がんこ」 な魂ではあるのです、似たような存在に「仙女(せんにょ)」 というのがありますが、彼女たちは非常に軽い存在で、 どちらかというと魔女たちの方が人間界との関わりが「濃い」 在り様になっています。 たとえば仙女系には夜の酒場のホステスなどが多いのですが、 魔女たちはそれぞれが深く人間にかかわり、 どちらかといいますと執着が仙女たちよりは濃いともいえます。 しかし先ほどいいました私の周りにいるホワイト系の魔女などは、 ある意味仙女系に近いような在り様としては軽い存在になってしま っています。いつかまた魔女のお話は詳しくすることにしまして、 話をラムサに戻します。( なお魔女や仙女の定義にはもちろん術が使えるということがありま す。それは「集中力が人並み以上にある・優れている」 ということも出来ますが、そのお話もまた後日です)」


「②のオタクに代表される妖怪たちの面倒を見るというのは、 やはり魔導師たちが妖怪の面倒を見なければ
ならない時に、あまりやってこなかったという事があります( もちろんキチンとやっていた方たちもいまし
たが、全体の方向性はマイナスという形になっています) 。
この地球では太古の昔から人間と妖怪たちが共存、 或いは敵対し合い、色々混じり合って暮らして来まし
た(「宇宙全史」第1卷参照)。
魔導師は人間の暗い部分(邪悪な部分) を司るという仕事もありましたが、妖怪たちの教育という仕事も
請け負っていました。
そこでは「面倒をあまり見なかった」というのではなく、 むしろ彼らを使役していたという部分も見出せ
ます。


魔女に対しても同じで、やはり魔導師と魔女を比べてみますと、 段違いに力の差があります。
そういう優位な立場を自覚せず、 安きに流れてしまった魔導師たちのカルマは今回の地球の総決算に 至り
まして、 どうしても清算しておかねばならない状況に追い込まれています。 」


「」追補1
シュタイナーに関してはこの方の質問以来ずっと忘れていました( もう10年になるのですね) 。
シュタイナーの著作は文中でも書きましたように若い時にずいぶん 読ませていただきました。ただ最終的
に彼の「教育的」 な部分が面倒になってそのままになってしまっています。
(面倒という言い方はこの当時の私の「粗い」部分で、 私の集合魂である魔導師の方たちは「教育」が苦
手で、本来魔導師の仕事は(色々あるのですが、 妖怪の教育という部分が大きく占めていました。
もちろん人間の教育というところも変わったカテゴリーでは請け負 っていましたが、いずれにせよ彼らに
はそういう義務のようなものがあったのです。
ところが全員ではないのですが、ほとんどの魔導師は「 人間的な教育」が苦手で、どちらかといいますと
「体育会系」のノリの教育体制に偏っていました。
魔導師になるには魔導師としての才能がないと難しい職業なのです 。
そのため魔導師という存在は世襲ではありません( 稀にありますが) 。
人間世界のように世襲で何とかなってしまうようなレベルの職業な らいいのですが、
魔導師は踊ったり歌ったり何か物を売るような具合にはいかないの です。
彼らには一般的に魔法使いとか魔女とか、 巫女とか神官と呼ばれている職種に近い有様で非常に特殊な才
能が求められます。
才能がある子供をさらって来て特殊な訓練をさせます。
それこそ崖から落としたり、雪原に裸で放り出すとかですね。 そうするといくら才能があっても、その才
能を発現する前に多くの子供が死んでいくのですが、 それが当たり前のようにやっていた時期もありました。
扱う力がとても危険なものであり、 特殊なものでしたからやむを得ない部分もありましたが、 それでも段
階を重ねていくという当たり前の道を踏んでいく教育システムとい うものを彼らは知らなかった、知ろうと
もしなかったということがありました。
それで私が彼らのそういうカルマを背負うことになったのですが、 そのため教育という言葉に「面倒」と
反応していたようです。
現在私が「目の前の出来ることを粛々とこなしていきましよう」 と皆さんによくいうのは、
そうしないことの弊害や、 非効率的な事実をよく知っているからです)
また彼は神智学的な部分に大きな影響を受けていたので「年代記」 的なところはかなり抽象的になってい
たように思います。実際ヴラヴァッキー女史(神智学の創始者) の年代記は抽象的な表現になっています。
私は双方の書籍を読みましたが、 そのあたりでやはりうざったくなりやめています。
その時強く印象に残ったのは、もし私がそういう立場になったら、 出来るだけ抽象的な表現はやめようと
考えていたことでした。
しかし自分がそんな立場に立つことになろうとは夢にも思ってはい ませんでしたが。
それでこの「宇宙全史」が出来たのですが、
問題は本来ある「抽象」をいかに「具象化」するかという作業は、 人間である私ばかりでなく降ろす側の存在達にも重い負荷をかける ことになります。
抽象を抽象のまま表現することはそんなに難しい事ではないのです 。
(実際はそうでもなくこの濃い肉体界(現象界) において抽象を追求し抽象にたどり着くのは容易なこと
ではないのです。それが出来るのはごく 一部の芸術家や数学者、物理学者、或いは詩人などでしょうか)
しかし抽象を具体化するという作業は、 まさしく私たち人間がやっていること「魂の欲求を地上に反映す
る」なのですが、 皆さんよくご存じのようにそれがいかに大変なことか、 どれだけエネルギ—が費やされる
かお分かりと思います。
例えば絵画で具体例を出しますと、 ピカソのような抽象画は描く人がその段階まで来てしまうと思うま ま
に描けるという、まさにアーティスト現象にハマります。 その時は融通無碍、自由奔放に芸術を楽しめるの
ですが、彼が青の時代あたりで苦しんでいたころは、 彼の中の抽象の欲求を具象化しようとしたため、
その軋鑠といいますか摩擦のためにしばし苦しむのです。
しかし抽象をそのまま抽象として表現できる自由性を獲得してしま えば、それこそ芸術活動は幸福そのも
のとなるのです。
ただそこには「他人にどう思われようが関係ない」 という条件が付くのですが。
だから彼の絵はわかる人と分からない人がいて、
ダヴィンチの絵(具象絵画)は大半の人が(「分かる」 と思っている)のです。
精神世界も同じです。
抽象表現はいかにも何か在りなんとする思惑を感じさせますし、 思惑以上のものをも想像させます。
そういうものに引き寄せられる人たちは大勢いるので、 それはそれでその目的に叶ったものならいいので
すが、私は皆さんを迷妄の中に導こうとしているわけではなく、 逆にこの世界の謎を、この世界の罠を、そ
の迷宮性の中から引き出そうとしているのです。 それには抽象を具象化する必要があったのです。
そうしないとあなた方は抽象を自分のいいように勝手に解釈してし まうからです。具体化して示すとそう
いう余地がないですから厳しい現実を目の当たりにしなければなり ません。
そういうやり方をするかどうかは、 降ろす立場の人により異なりますが、「具体化できない」とか「 エネ
ルギーがない」 など降ろす能力がない場合は抽象に甘んじてしまうよりないでしょ う。
もう一つ示される側(皆さん方ですが) がそれを受け取れるかどうかということがあります。つまりその
現実の衝撃耐えられるかどうかです。
例えば(「質疑応答」6のあとがきでも書いておきましたが) 医者に癌告知をして欲しいかどうかという
ところでしようか。
強い人はそれを望むでしょうが、 弱い人は現実を見たくないでしょうし、 知ってしまうとさらに衰弱していくでしょう。
逆に強い人は癌告知を得ても、死ぬまでの周辺整備や遺言状、 葬式、お墓の準備などすべて手際よく片付
けて、清々として死に臨んでいくことでしょう。
人類の大半はこの弱い人です。
だからこそ宇宙全史ではそれを補う「五井先生の祈り」 をお教えしているのです。
しかしここでも真っ先にそれに取り組むのは「強い人」で、 拒み続けるのは(エゴの強い)弱い人なのです。
エゴの強い人は一見強そうに見えますが、 固くて厚いエゴの殻を剥がしますと脆弱な本体の正体が見えて
きます。