真我・実存について

宇宙全史1より
 
 ここでお話している「私」は自我(エゴ)の私ではありません。ニサルガダッタの提唱されている「私は在る」という意識感覚(根源的なアイデンティティ)というのが最も正確な言い方だと思います。この実存にかかわる部分は直接ニサルガダッタの日本で出ている唯一の本「私は在る」をお読みいただくか、この本の「宇宙」の章の「実存」の項をご覧ください。お勧めはニサルガダッタの本の方です。
 
 魂(体)は実存があってこそ意識を持ち認識が可能になるのです。つまり実存が私たちの存在のすべての在り様に焦点を当てることにより、命を吹き込み存在を現すのです。人間という存在は人間界・魂魄界・幽界・霊界......と延々と果ては究極の実存界まで切れずにつながっている 存在でもあります。その段階のどこに気づいているかということが、今のあなたの居場所になっています。 現在は人間という存在に気づいている段階ということでしょうか 。ここでは「私」「意志」「気づき」という単語を使ってきましたが、どれも同じものの側面を指し示す言葉です。実存はそれ自体では顕現しませんその原初の顕現が「私」であり「意志」「気づき」でもあるのです。それこそが私たちを私たちたらしめている根源だといってもいいと思います。
しかし 本当は魂といわれるものは自分の各段階における体であり、そこに命を吹き込む大元は「実存」であるということを知りました。それではその肝心の「実存」とは一体何なのでしょうか。この世界(宇宙)では疑問や謎を突き詰めていきますと、究極的には必ず「実存」に至ります。しかしここではもう少し「魂」について深く掘り下げていきます。
私たちは実存という存在により命をもらっています。すると私たちの上に存在する魂魄体、幽体、霊体 ......等は私たちとはまったく関係がないのでしょうか。そうでもないのです。実存は私たち肉体にどうやって作用するのかと申しますと、直接作用するということではなく上から順番に「霊体」「幽体」「魂魄体」と作用しながら下がってきて「肉体」に作用するの です。
ひとつ上位の体(魂)が私たちに「意志」を吹き込むのですが、そのときダイレクトに「実存」の生命を流し込むというのではなく、上から順番に「実存」の意志が流れてくる間にある霊体(魂)のクセや習慣、傾向性を反映していきます。
 
この元ダマが受けた実存の反映を、順に下位次元に降ろして行っているのです。 この場合元ダマは実存の反映を一本の線で受け入れています。その線は言うならば「祈り」や「憧憬」という感じのものなのです。 次元の元ダマからしますと、そのずっと先にある 「実存」 は自らの故郷であり、母であり父でもあり憧れの 理想郷でもあるのです 。ですからそこから降りてくる「線」に対しての思い究極の「愛」というものかもしれません。
その体を上から順番に通って究極の存在であるところの「実存」が肉体に反映しているのが、今の私たちという存在です。
先ほど私は「実存」が上から順番に「神体」「霊体」「幽体」を通して「肉体」に働きかけていると申し上げました。そしてこの「 実存」により単なる体である魂に命が入り、 魂が意識を持つのです。ならば魂の目指すべき基準とは「実存」そのものではないでしょうか。自分の究極の本体であるところの「実存」を私たちはまったく知らないまま、意識しないまま自分というものを「魂」と勘違いしています。
 
私たちの魂である肉体はこの地上界において進化のための学びを模索中です。そしてその進化の目指すところは「神聖」なるものでした。それはある意味「元なる自分」への回帰でもあります 。「元なる自分」とは「実存 」のことです。体であるところの魂はその「 実存」という「私 」を顕現する場です。場所であり顕現する道具でもあり、現れそのものであもります。 そうしますとその価値は何を持って決められている のでしょうか。すでに答えは出ていますが魂(体)は、自分であるところの「実存」を現すということが基準になるのです。しかし実存は善でも悪でも表現できるものではないようです。また大きさや重さ、広さや高低でも表すことができません
 
もっと突き詰めますと「言葉では表せない存在」なのです。なぜなら言葉とは二元性の表現だからです。 これは少し難しいのですが 、認識の表現が言葉です。 そして認識そのものが二元性の原理に基づいて起動す るものなのです 自分があって認識すべき対象物があるという状況において初めて認識が成り立つのです そうすると「実存」をどのように表現することができるのでしょうか。結論から申しますとそれはできないのです 。「実存」そのものを表す言葉はありません 。それを指し示す言葉もないのです。しかしニサルガダッタはうまい表現方法を教えてくれました。「それ(実存)は否定的表現をもって間接的に限定することができる」というものです。
 
たとえば「実存」は善でも悪でもない。「実存」は暖かいということでもなく、寒いということでもない。 「実存」はあるということもなく、ないということもない。「実存」はすべてでもありすべてでもない。こ んな感じで否定形の文章ならば実存の在り様を特定できるのです もちろん実際には特定はしていないのですが 。しかし今のところ「実存」そのものを指し示し、解明することはできません。それはこれまでのどんな聖賢 、マスターであっても 言語で解説することは 「不可能」と言わしめた存在でもあります。 それが私たちの本体なのです。
 
実はこの「 実存」の探求が「宇宙全史」という本のテーマです。たとえその解明が不可能であっても 、で きる限り その存在の 間近まで迫りたいと思っていました。
 
ところが 2008年に入りまして突然謎の存在から「実存の解明は可能です」という天恵が降りてきました。確認しましたがそれは科学的に解明できるもの だということでした 。「私にそれが出来るのでしょうか」という 問いに、「 可能性はある」というお答えを ただきました。皆様は私がこの情報を聞いたときどれほどうれしかったかお分かりになるでしょうか。こ れまでどんなマスター達もなし得なかった「実存」の解明の可能性があるということは、人類にとっては最高の福音なのです。
 
今回の第一冊目の「 宇宙全史」は、収録が大混乱の内に締め切り を迎えてしまいました 。地球の秘密をどこまでも妥協なしに深く深く突き詰めていくと、とんでもないシステムが人類 をがんじがらめにしていまし た。その機構から抜け出ない限り人類に救済の道はなかったのです。しかも人類はあと6年で史上始まって 以来の大関門を迎 えます。 その時までに何とかしないと人類に未来はあ りません。 そこで私は興味本位の 探求をいったんあきらめ、人類を自分たちの自由に操る勢力と対峙することにしました。「実存」の探求はこの卷では 導入部だけにとどめておき ます。メインは地球を自我自欲のままに翻弄する存在を明らかにし、人類に目覚めてもらうよう働きかけることです 。どんなに狡猾なシステムを明らかにしても 、人類がそこに気づきそこから抜け出ないことには何も変わらないからです。すべては人類の手に、人類の気づきにかかっています。
 
 
質疑応答1
 
現在知りうるところでは、我々の銀河を超え、このオーム宇宙をも超え、地上で二元性を極め超越された最高の觀智である聖賢が体得した境地の実存さえも超えた境涯を教えて下さる存在です。
 
実際この1年にわたった質疑応答には「実存は緩衝地帯に過ぎない」という衝撃的な内容がありました。
これまであらゆる聖賢が極めることが出来た最高の境地が「実存」でした。
それ以上の記述は歴史上世界のどこにも存在しなかったのです。
しかしそれすらも更なる上位の世界と我々の宇宙との「緩衝地帯」に過ぎないと知る存在とは一体何者な のでしょうか。
 
そしてそれ以外にお一人お一人にまた別な能力が付加されております。この「宇宙全史」に関わっております「みわ」には、チャネラーの他に付加された能力と申しますのは、「汎用性」という能力でした。
つまりチャネリング以外に何かという事ではなく、チャネリングそのものが非常に特殊な能力にまで昇華されていたのです。もう少し分かりやすく申し上げますと「誰にでも、何時にでも、どこにでもアクセスできる能力」と申し上げたらいいのでしょうか。正直「日常の失せ物探し」から究極の存在「実存」までまったく同じスタンスで接触できるのです。
私と対等に精神世界のお話ができる女性というのは、おそらく初めてだと思います。実存の概念も瞬間で 理解されますし そもそも彼女は実存であるという事を知っていますが 、ドン・ファンのメソッドの本質 や、五井昌久の壮大なやさしさも理解できてしまうのです。
 
しかし確かに二元性を超える実存レベルの覚醒を成し遂げたという事は、本当に素晴らしい事なのですが、それは 6000万分の3の確率でしかないのです。
 
「宇宙全史」では、情報量が膨大になるため、6次元界(阿頼耶識界)で、一つの区切りを付けておきましたが、本来人間の魂レベルは「実存」に至るまで、更に上位に無数の段階があるようです。
 
 
質疑応答2
 
三番目のご質問ですがカルキ•バガヴァンさんは一種の覚者です。一種のと申しあげましたのは「ライトな覚者」という意味です。「ライトな覚者」といいますのは、二元性を常時超えた所にいるわけではない。そこに至るまでの霊道は開いておられますが 、実存以上の境涯に常住しておられるわけではないと いうことです 少し前に書きましたラジネーシもそうです。
 
根源の存在「実存」から段階を経て二元性の原理に基づくオーム宇宙が創造されました。
 
その時「陰」と「陽」、あるいは「存在」と「非存在」でも何でもいいのですが、対極の二極が造られ、そこからまた段階を経て、細分化され、複雑化し、多様化を極めていくのですが、その原初の二極に別れた時、完全に 50パーセント 50 パーセントではなかったのです。
その差が実存が本来持つあるいは実存が本来反映する「ゆらぎ」でした。
そしてその「ゆらぎ」により、回転運動が起動し、宇宙のエネルギーの偏在をもたらしたのです。
この宇宙は「ゆらぎ」がなければ、まったく動かない、進化も何もない銅像のような宇宙になります。
原初の二極の存在たちのほんの極わずかな「差」が、現在の私たちの多様な宇宙を形作ってきました。
 
銀河団」「反銀河団」もまたその「ゆらぎ」の反映を受けて存在しています。
マイナス電気(電子)がプラス極に向かって流れるとき、私たちはなぜか「電気はプラスからマイナスに流れる」と表現しています。
その表現方法について今はこだわりませんが、皆様は電気がプラスからマイナスに流れることを決して「争い」とか「闘い」とか「競争」とかは表現しないはずです。電気の流れは交流という流れもありますが、基本的には単純な一方向への流れですので、そこに人間界に現れる複雑な「争い」という事象はあまり見られません。しかし電流の流れの途中に抵抗 例えば電熱器のニクロム線など を置きますと、そこに「抵抗」という葛藤が存在する事になり、電流とその通路の間に熱が生じます。
それは人間界で「戦争」が起こって、多くの悲劇が繰り返されるのに似ています。
しかし私たちは電気の「抵抗」に対して、それを「闘い」とか「競争」とかは認識しません......せいぜい「熱いなあ」くらいでしょうか。
ちょっとシンプルな例になってしまいましたが、銀河団と反銀河団の「競い合い」というのもちょうどそのようなものとお考え下さい。
現代では小学校などの運動会では、「競争」ということを生徒にさせないという学校が増えています。おかしな話だとは思いますが、それも今の日本のレベルなのでしょうか。闘いや競争という概念を「おとしめる」のは単純に人間界の問題です。「競争」というものは、本来この二元性の宇宙にあっては、事象が動く 「原理」ですので、それなくしては宇宙そのものが成り立たないということです。
 
 
質疑応答5
 
「地球入植以来約 2万人の完全覚醒者が出ています」と答えていますが、ここでいっている完全覚醒者はそ のすべてが実存(真我)にたどり着いた者ではありません。ほとんどはその一歩も二歩も手前の段階で、いわゆる「神々」の段階にとどまっています。この頃はこの辺りが曖昧でこのような表現になってしまっていました。 実際はこのオーム宇宙の開闢以来で約 200人の実存に至った完全覚醒者が存在しています
 
つまり五井先生(個人というよりほぼ白光の巨大な塊なのですが)には一見まだエゴがあるように見えます。形がある限り、色がある限り、存在がある限りそこにはエゴがあります。
実はそこに大いなる秘密がありまして、あの段階まで達している存在はその有り様、あるいは行く先を自由に選択できます。
つまりこの形の世界を厭離穢土してそのまま実存に入ることも出来ますしこの世界にとどまりこの世界を浄土とするベくがんばられる方もおられます
五井先生は後者の方に位置される方で、しかも非常に巨大な存在です。 浄土とすべくがんばられるといういい方は五井先生にはあまりあてはまらなくて、衆生に対する慈悲のためという方がいいでしょう
例えば私がここでよく紹介しているドン・ファンは、もうとっとと実存に入ってしまっています。
 
しかしこの世界に残って衆生を救おうとするならば  いやでもエゴを残さねばならないのです。
それがこの世界のセオリーです。
そしてエゴを残すということは あの位置にある存在にとって如何に負担を強いられるかということを私たちは知らねばなりません。
 
 中々鋭い質問が来ていますが、2018年の時点では少し修正があります。
 天之御中主神主はこの宇宙の主宰神であり、最高神になります。
  しかし月読之大神の正体は正確にはいまだ謎ですが、先ほど書いておりますようにこのオーム宇宙を超えた大宇宙をも超えた遥か彼方から湧いてきておられます。
 
 そして私たちはいつか進化の果てにそういう立場につくことが出来るかどうかという質問がありましたが、それにはそこでは答えていません。
確かに実存(神我)というゾーンに入ってしまうとすべては同じという境地に至りますが、実は更に上位の境涯というものが存在し、これまで人類が得た知識以上の世界が展開しています
 
 先ほど質問のあった「面白い」という本当の意味がそこで判明します。
 しかしその境涯を知るには、皆さんがある一定段階にまで登ってこないと知ることが出来ないようになっ ています。その理由はその時分かるのですが、それまではその理由も世界観も厳重に封印されています。
 つまり私たちは探求に次ぐ探求に明け暮れ、昇り詰めても、更なる段階が(人間知からすると)ほぼ無限に続いているのです。
 しかしそこを伺うことが出来る境涯にでさえたどり着ける人間が何人いることでしよう。
 
 
質疑応答8
 
実存に「想い」といったものは存在しません
あなたのエゴが「善悪」を生み出すのです。
あなたのエゴが消えたとき、善悪という基準点も無くなります。
本来は「エゴから離れた考察」などというものも存在しないのですが、今のあなたの段階では守護の神霊 のフォローというものを「善」と考えてもいいのかも知れません。
まずはそこに到達できるご自分であるように。
 
 
質疑応答9
ニサルガにいたっては、「覚醒」の極みを指し示して下さってはいますが、それを理解できる方がいるのでしようか。
もちろん「実存」という究極の真理が存在することを知ることは「福音」ではありますが、今現在汲々として生きておられる方たちにとっては「それは絵に描いたもち」にしか過ぎません。
UMU銀河団も二元性を超えてはいません。
現象界はもちろん、霊界や神界、遥かな高次元であっても、現れの世界である限り、形ある世界である限り、二元性を超えているとはいえないのです。
もちろん高次の世界においては、地上界の様に地面にへばりついて  物質に縛り付けられ、形にこだわり、美醜に囚われている私たちとは異なり、ほとんど二元性を超えているような感覚はあるのですが、それでも厳密には「超えている」とはいいがたいのです。
それほど二元性を超える「真我」の領域は厳密且つ揺るぎのないものなのです。
 
 
質疑応答10
 
沙門様
ご指摘のラジネーシの文は、私も当時初版で読んでいます。
それで少し迷った事もありました。
しかし結局私がドン・ファンから離れなかったのは  決定的な何かがラジネーシに無かったからでした。
それが何かは分からなかったのですが……とうとうキチンと見つめる時が来たのでしょうか。
ラジネーシの事はここのBBSの下の方でも触れていましたが、彼には私もお世話になっていますので(
直接ではなく本でです)あまり 追求したくなかったので、適当 なところで止めておいたのです。
その時はダイレクトに彼に確認はしておりませんでしたが、今回はキチンと直接対話をしております。
それをそのまま掲載しておきます。
虚空蔵 以下 「あなたは今性エネルギーにこだわる雲界に留まっておられますが、本来なら実存を目指しておられたのではないのでしょうか」
ラジネ—シ(以下ラ)「性エネルギーそのものがクンダリー二そのものだ。私はそのエネルギーで上昇して いく」
虚空蔵「でも上昇しておられませんね」
ラ「それでも私も周りの皆も引き上げた」
「でも現実は 元性を超えていらっしゃらない、実存にはたどり着いておられませんよね。そこは性にこだわった領域ですよね」
ラ「そうだ  でも瞬間(実存に)行けるんだ」
「それでいいのですか」
ラ「今はいいと思っている私ではないが、肉体を持っているときは囚われてしまっていた。ずっと保ってい られなかった 元性の枠を超えてあるところに居続けることはあたわず.という思念が会話とは別に来ま した ラ「生きることの生と、性エネルギーの性を享受する事は至福だ。生きているときはその至福にひたること も必要だ」
「生きているときにそこにどっぷりと浸ることを選んだという事でしょうか」
 
ラ「それを目的としてしまった それがある意味「実存」と納得する事を選んでしまった」
「でも実存を垣間見た事はあるんですよね」
ラ「ある」
「そうすると比較は出来ましたね。それでもそちらの耽溺を選んでしまったのでしょうか」
「今現在は納得されているのでしょうか」
ラ「納得はしていない。肉体を持っているわけではないので、 その段階にいる 肉体を捜して「憑依」と
いう形ではあるが  指導という立場で何とかしようとしている 指導霊ということか 」
「ご自分で降りようとなさらないのでしょうか」 ラ「順番があるので これはまだ」
「性のエネルギ—に浸るのはそれほど良かったのでしょうか」
ラ「皆が享受しやすい、たどり着きやすい最短の道だった」
「それは肉体の接触なしでも可能だったのでしようか」
ラ「究極は可能だった」
「あなたはカスタネダの著作を作り物だとおっしやっていますが」
ラ「私の世界には無い、従って無い 認めずというニュアンス 」
「その判断は少し了見が狭いのでは?あなたはグルジェフや禅、神智学 それにあらゆる種類のヨガ、夕 ントラ 密教、ダンスと色んなメソッドを認知されたではないですか。なぜドン ファンだけ認めないので すか」
ラ「好き嫌いの問題」
「何 者 が嫌いというのでしようか」
ラ「自分の男としての人間くさい部分、そこだ」
「それで実存に行けるのでしようか」
 
ラ「それ エゴ を残したまま実存に行く事は出来る エゴを着脱できるという事らしい 」
「それほどあなたにとってエゴは重要なのでしようか」
ラ「......沈黙されてしまいました 肯定の沈黙ではなく、考えているという沈黙だが 結局答えは無かっ た」
「エゴは落とすべきもの 昇華すべきものとずっと説いてこられたあなたがなぜそこにおられるのでしよ うか」
ラ「肉体界での覚醒後のくせ 澱 おり のようなものを残したまま死んでしまった」 肉体を覚醒しても、エゴを完全に昇華した方と、残したままと つのバ—ジョンが可能のようだ。ラジ
ネーシの覚醒は、 つのチャクラは開きましたが、この世で開いたという段階。上位の つのチャクラとは つながっていません。それでも瞬間、実存を垣間見る事は出来るのです
「あなたほどの聡明な方が、どうしてエゴを残したのですか」
ラ「聡明さと肉体の調和ということを、完全には理解していなかったのかもしれない おそらく正しくエネ ルギーを使うという事 そのあたりのことです 」
「実存を垣間見て、その場所に行く欲望より、今を楽しむ欲望を選んだ自分......それで皆と|緒に今を楽しむ自分がいる......それが救いでもある」 「皆が救われるという至福、その歓喜の中でI挙に上昇しようと思った」
「でも出来なかったですね。それを耽溺とは思われなかったのでしようか」
ラ「迷いはかすかにあった......関門の一歩手前で捕まってしまった」
会話は|旦ここで終わります。
今回収録して分かったことは、この方はとても優しい方でもあります。 孤高を保って自分だけ覚醒するという方ではなく、みんなで|緒に行くというやり方を選択されています。 しかしそこで「みんなに引きずられている」ということがあります。
つまり情が残っていたのです。
だから「完全に非情な存在」であるドン ファンを否定しているのです。
しかしここに つだけ誤解があります。
確かにドン•ファンに情は無いのですが、無慈悲ではないのです。 それどころか完全に情のない存在こそが完全に「慈悲の存在」である事が出来るのです。 多くの方がこの事を誤解しておられます。 あの明晰なラジネーシもこの理解にはたどり着いていなかったようでした。
しばらく他の収録をしていて、ふと思い出したことがあるので、再びここでラジネ—シにたずねてみまし た。
「あなたはよく講和の中でムラナスルディンの逸話を話しておられましたが、本当に面白いと思ってお話 しになっていたのでしよ っか」
ムラナスルディンの逸話とは そういう名のちょっと間の抜けた|般民間人の行動を アメリカン ジョークのように教訓方式でお話しになるものです。当時から私はこのラジネ—シが講和の中で、息継ぎに 使われるムラナスルディンの逸話を滑稽に思っていました。だれか面白くないですよと忠告しないのかなと 思っていたのですが、どうやら誰もしていなかったようでした
ラ「サ—ビスだ」
とひと言だけのお答えがありました。
この最後のひと言で  やはり私はラジネ—シが好きだったと確認できたのです。
私にとってラジネ—シは、エゴの理解というカテゴリーでは、随分勉強をさせて頂いた恩師でもあります。
そのラジネ—シをエル・ランティのように暴くのは心苦しいものがあったのですが、あちらの世界に行っ てしまわれたラジネーシにとっては かえってこうした情報を出すということは彼自身の「修正」にもなということでした。
つまり肉体界にあればこうした暴露にはその方のエゴに大きなダメ—ジを与えるのですが、あちらあの世において最も大切な事項は「現世でのあく落とし」でもあるのです。
ドン・ファンやカスタネダに関しては当時から贋作だ、偽作だ詐欺だといくらでもそうした情報が飛び交っていたのです。
それはやはりあまりにもカスタネダの著作のレベルが高すぎたからです。 理解できない方は、それを否定するしか自己のアイデンテイテイを保つ事が出来なかったのです。 おそらくこの本(カスタネダの)で今の人類を何とかする事は不可能に近いものです ほとんどの方が理解できないという意味で 。
ですから私は皆様に五井先生をお勧めしているのです。
今回は誤解を恐れず、ラジネーシとの対話を修正なしにそのまま掲載しました。
分かりにくい所は少し解説を入れましたが、これが彼と私との会話のすべてです。
判断は皆様にお任せします。
有難うございました。
虚空蔵 様ラジネーシに関する質問の回答ありがとうごさいました。ドン ファンについてラジネーシと 同じような見解を述べている人物がいるのですが、それはキプロスの神秘家といわれているダスカロスです
『メッセンジャ—』 太陽出版 シリーズでドン ファンの事をラジネ—シと同じように言っていたようで す。ダスカロスについてはどう思われますか?
年月日 回答
沙門様
また来られましたね。
私はダスカロスといぅ方を存じ上げません。
そんなわけで上にお聞きしたままをお伝えします。
この方 ダスカロス は、 ドン・ファンとは 土壌が違います。
基本的に自分の立場からの視点でしかご覧になれない方で、自らの道に非常に強いプライド(エゴ)を 持っておられます。
人を助けるという立場におられる方で、逆にいいますと「人を助けられる」と思っている方です。
ですからドン・ファンのようにさっさと自由な世界にいってしまう存在を見ると「なぜ人を助けずに自分 だけ行ってしまうのか」と思われています。
これはニサルガが「なぜ世界を救済せずに自分だけ実存の彼方に行ってしまったのか」という質問をした、 求道者と同じレベルです。
例えていいますと「象の背中にいるノミが、象そのものを見ることなく 象などという生物は架空のもの だ」と主張しているようなものです。
人は他人を変えることは出来ません。
ましてや救済することも出来ないのです。
世界(人類にも)に対しての最大の恩寵は、覚醒者の存在そのものです。
それ以外はすべて「弊害 余計なお世話といった方が分かりやすいかもしれません 」にしかなりません。
「人類を救済できる」「人を助けられる」と信じ込んでいる段階は、無尽蔵に混乱と争いを地上にもたらします。
それは証明を待たずして歴史上多くの実例を見る事が出来ます。
以上が上から来た情報です。
追補
この頃 理解できなかったことの つに「なぜドン•ファンとラジネーシを比べるのか」ということでした。
その次の質問でもありましたが、今度はダス・カロスという人物を出して同じことを聞いて来ています。 つまりこの方は「本物」を見分ける目がないという事でしょうか。
おそらくドン・ファンを理解できないので、そういう行動をとってしまうのでしよう。それはあのラジネーシですらそうなのですから、どうしようもないのかも知れません。
難しい理屈や高邁な理論は理解できなくとも 「本物」を見つけることは出来るのですが、それが何かといいますと、「本当の愛を持っているかどうか」というところです。
それがないと中々「完全覚醒した人」を見つけることは出来ません。
何故ならその人物に届く術がないからです。
だからあちこち彷徨って、結局何も得られず、無駄な人生を過ごすことになります。
それでは「本当の愛」とは何かといいますと、おそらく一言では伝わらないので、延々宇宙全史では、言外にお伝えしているのです。それがほぼ理解されていないのは残念ですが それも少しずつ、徐々に浸透していくのを待つしかないのかも知れません。
完全覚醒した方たちの最大の特徴は「本当の愛」を持っていたという事です。
あるいは本当の愛にたどり着いた人としてもいいでしよう。
そしてその「愛」を縁にして私たちはコンタクト出来るのです。
それ以外に方法はありません。
彼らの「愛」はオリジナリティに富んでいます。
 
ひたすら「自由」を求めた愛
「慈しみ」を極めた愛
「明晰性」に特化した愛
「探求心」に殉じた愛
 
皆さん様々ですが、その根底には「愛」があるのです。
難しい理屈が分からない方は、その愛に出来るだけ近づけるように、「本当の愛」を学ぶ必要があるので す。
 
ラジネ—シは毒殺という最後を迎えていますが、アシュラムの教徒たちも最終的にはバラバラになって行 き、インドからアメリカにわたってユ—トピア建設を目指したラジネ—シの目論見は空中分解しています。
それは別にどうでもいい事なのですが、彼がオレゴン州のコミューンで行った政治的な行動は、多くの宗
教家が陥る「現状打破」という、既存構造を自分たちの手で変えていくという迷路にはまり込んでいます。 つまり自分たち自らを変えないで、外を変えていこうとしたことです。その結果はすでに書いた通りですが しかしながらラジネーシは実存(真我)に瞬間ですが接触ています。
ところが現生の誘惑に打ち勝てず 徐々に実存とのコンタクトは薄れて行っています。 そこに留まることがいかに困難であるか この現象界の誘惑がいかに深く濃いものであるかという事を、私たちはここでも学ばねばならないのです。しかしそれも精神世界大学レベルでの学びですから、ほとんどの方には今は関係のないお話しかも知れません。
今自分たちが何を学ばなければいけないのか、何が必要なのかということを知ることです。
逆に手の届かない知識と格闘していないか、空回りして無駄なエネルギーを浪費していないか、よくよく 思慧してみることです。
 
 
質疑応答11
 
またニサルガは知恵というより數智で覚醒をとことん求めた方でした。
彼の過去世を確認いたしましたら「ただの親父だよ」とおっしゃっておられましたが、実際はやはりチベットあたりのマスターで、ひたすら瞑想に瞑想を重ね「実存」を求め続けておられました
 
エル ランティとサタンは同じ存在です。(元ダマが同じと申し上げてもいいですが)
五井先生がおっしゃっている本体とは......これは少しややこしいのです。
何がややこしいのかと申しますと その方の段階により本体とするものが違ってくるのです。
詳しくは「宇宙全史」第二卷に書く予定ですが 自我の領域を本体とする方もいれば、魂魄界の存在を本体とする方もいます。
また霊体(これにも段階があるのですが、元ダマの領域は6次元ですから 相当上の段階です)を本体と(する方)さらに飛びぬけて実存を本体とする方もいます(その間には地球や銀河系 この宇宙という方もいるのです)。それは、その方の意識の段階で決まってくるものですが、本体とはその私たちの肉体意識というものが 「手本」とすべきものであり、指導を請うものでもあるのです。
だからこそ、その方の段階によって、本体が違ってくるのです。
 
五井先生が仰っている「本体」とは 大きな意味では真我 実存 になります。 「大きな意味」と書いたのは、五井先生の本分である「慈悲」の観点から 多様な「本体」を使い分ける
必要があったということもあります。
 
追補  真我の一瞥
 
ガンジ—が真我(実存)を垣間見ておきながら 母系の陰糸のくびきからは逃れられなかったというところが呑み込めないのでしようね。
ガンジ—以外にも、どこかで出て来ていますが、ラジネーシもそういう人でした。彼も真我を垣間見ていますが、結局は性欲に囚われ、そこから現世的な政治的サ—クルに巻き込まれてしまっています。 立場も性格も全然違うお二人ですが(真我を垣間見ただけでは)新宗教くらいは立ち上げられますが 世界を大元から変えてしまうということは出来ないのです。
ですから、どっぺんさんが近ごろ真我の一瞥(外の境界にちょっと接触したくらいですが)をしているのですが、そこからが修行なのです。
そこからが本当の厳しい(困難な)修行になります。
 
「私の世界が無数のスクリーンに映し出された映像のうちの一つであるとすると、元の映像となる光は実存と呼ばれる領域をその根源としているのでしょうか」
元の元の大元はそうです。
あなたというエゴのフィル厶を通して、スクリーンに映し出されるこの世界の映像は(エネルギ—という)光線を介して映し出されます。
そのエネルギーには段階がありますが  根源は実存  または真我というものから来ています。
「もしそうであるならば、その光はこのオー厶宇宙のみでなく、他の大宇宙やさらにまたその上の、という現れの世界全てに共通する光なのでしょうか」
「他の大宇宙やさらにまたその上の」という部分が曖昧ですので、正確にはお答えできませんが、「現れの世界」というところにおいては「その通り」ということが出来ます。
 
理性の範疇において真我や実存を知ることは通常叶わないのですが、そこの一歩手前までは精進に次ぐ精進が求められる境涯になります。
 
それでも  そこにたどり着く道は無限にあり人それぞれです。
 
仏陀の様に
 
ニサルガの様に
 
ドン ファンの様に 
 
EOの様に
 
如何様にも
 
道はあるのですが
 
この宇宙は 2 0 0兆年の寿命を持ちます。 そしてこれまでこの宇宙で完全覚醒を成し遂げた存在は
200人足らずです。
つまり単純計算してしまぅと
1兆年に一人しか成就出来ないことになります。
この事実を前に
私たちは
自分たちの卑小さに
虚空の広大さに
無の恐怖に
存在の不思議に
向き合うのです
 
ス—ザン様
「オーム宇宙のみでなく、他の大宇宙や、さらにまた大宇宙を包含するより巨大な存在も また 実存あ るいは真我を根源とするエネルギーにより映し出された映像(現れ)なのでしようか?」
それでも、まだ曖昧な質問といわざるを得ないのです。
というよりも、その答えが曖昧さを許されない世界にあるといった方がいいかも知れません。
分かりにくいですが......こういう質問は通常して来ないのです。
そういうように出来ています。
だから正確な質問が出来ない状態で、質問して来ているということもあります。
月読之大神と私の問答です。
何故、みんなは質問して来ないのでしようか。
「出来ないようになっている」
これは私が究極の質問をしていた時の問答にあったものです。
 
このオーム宇宙を含む大宇宙 その大宇宙を ほぼ 無数に含む超巨大な螺旋輪宝宇宙、それが現れの世 界の一つの区切りです。
ここまでの探求でさえ  人類は未だ辿り着くことは出来ていません。
しかし、私はすでにその先遥か彼方まで見透しています。
その時の問答中に  先の会話がありました。
「出来ないようになっている」
ならば「出来るように変えればいい」
それが宇宙全史の大学の意図になります。
しかし、それには中学に入り  高校を卒業しなければなりません。
「そもそも、こういった領域を探求するにはあまりにも私は脆弱すぎて」
そうなのです。
まだあなたは脆弱なのです。
例えば  女性に弱いというところがありますが、しかし  それも食欲と同じで克服できるものですが、無
理やりとい っところではありません。
丁度、先ほど「質疑応答 」を書いていましたが、その中に「食べなくなる」という追補を書いておきま
した。
これは「性欲をなくす 食欲をなくす 」と同じようなものですから  参考になると思います。
語りたいことは山ほどあるのですが、如何せん時間がありません。
私も  目の前の出来ることを粛々とこなしていくしかないのです。
ただ、脆弱なままで  重い肉体を抱えたまま、遥か虚空を超えた領域に至る道は存在しません。
私たちは  未だその重い肉体がなければ存在すら出来ない脆弱な身です。
それを祈りは変えていってくれるのです。
「恥を知る」とは 「恥を知らない私」=「エゴ」ですが、その恥を知ることで 「恥を知らない私」を 俯瞰している私がいるわけです。
その俯瞰している私は 真我というわけではないのですが ある程度エゴから離脱した私で、その状況は エゴからの脱却の一歩になってきます。
この「恥を知る」ということがなければ  そこには反省もなく、進歩もないのです。
五井先生や植芝先生、月読之大神までもが今の日本からI本筋の通った精神性が失せてしまっていること を嘆かれています。
日本人はその大素の「恥」を知る日がいつか来るのでしょうか
 
 
質疑応答12
 
以前、ここでイルプロラシオンの住人の中から現在完全覚醒(実存まで至っている)した方が 人いると書きました。
そして、それはある意味この地球の成果でもあると、JUMU が誇らしげにいってもいました。
 
 
手っ取り早く覚醒する方法 
孝様
この回答はかなり難しくなっています。 実存や世界構造を語る時に、多くのマスタ—たちが段階を踏まずに展開してしまう危険がこの段階にあるのです。
ですから慎重に説明します。
「この世界には意味がない」
まず、ここから考えてみましよう。
「意味」とは何でしようか?
そこからの出発です。
世界には有形無形、有象無象ありとあらゆるものが存在しています。
その数多ある存在の中で  あなたにとって意味のあるものとは何でしようか。
それはあなたが注目し、欲し、こだわるものが意味を持つのです。
 
逆にいいますと、そうでないものはあなたにとっては全く意味をなさないともいえます。 つまり、ここにAKB48の発売前のシングルがあったとしましよう。
ファンにとってはかなり意味のあるものになりますが、 AKBに興味のない方にとっては、全く意味のないただのCDにしか過ぎません。
「意味」とは、あなたの感情や思考にとって「執着」を持つもの、あるいはあなたの思いが「動機」を持つものが「意味がある」というのです。
おわかりでしようか。
ですから「世界に意味がない」......ということは「世界 の中 に動機がない」「世界に執着がない」と いうことなのです。
あなたが世界に対して 恋人や友人や知り合いや親せき 近所の人あるいは家族に何の執着もなかったら ......あるいは裕福な暮らしや楽な仕事、楽しい休暇、美味しい食事、現金、宝石、ファッション、携帯、音 楽......等々それらのものにほしいという欲望も抱かず、執着もせずにおられたら あなたにとってこの世界 は「意味がない」といえるのです。
覚醒した人とはそういう人なのです。
あなたが何かをする 何かを思う、何かを感じるというアクションを起こす前に必ずそこには、あなたの 中には「動機」というものが存在します。
しかし、覚醒した人にはその「動機」がないのです。
もし覚醒した人がこの世に生きていて、あなた方に何事かを語るとしたら......
 
その動機は「慈悲」以外にありません。
「覚醒」とはそういうものなのです。
今の皆様方にこの世におけるありとあらゆる執着を捨て去ることが出来るでしょうか?
年くらい前の冬に  このワークでお聞きしたことがありました。
最も簡単に覚醒する方法があるでしょうか?
月読之大神「厳冬に雪深い山中に分け入るだけでいい」
それだけで覚醒できるのでしょうか?
月読之大神「ただし素つ裸で何も持たずに、そこで生活するのだよ」
それでは誰も生きていけないのではないでしょうか?
月読之大神「それで生き残れたら  覚醒している」
ほとんどの方は確実に死んでしまいますので絶対にマネはしないで下さい。
しかし覚醒とはそういうものなのです。
 
決して生半可な覚悟で得られる境涯ではないのです。
 
 
「音楽を続けながら真我実現への修練に励むという事は可能でしようか」
それは可能です。
しかし、なぜあなたは、
「目指す目標として真我の実現と 自分の今生での使命だと感じている音楽を続ける事との矛盾に悩んで います」
と葛藤を抱いておられるのでしよぅか。
守護霊様にうかがってみました。
「音楽を今生の使命と感じている......そこに疑いがないのなら、真我の実現と矛盾しない」
「そこをもう一度よく見つめるように」
まずはこういうお答えが降りてきました。
そこで少し詳しくお聞きしました。
この方の今生で本当にやりたい事、天命は何でしょうか。
「しがらみを何もかも捨てて真我実現のため修行すること」
「それがこの者の魂が本当にしたいと願っていること」
それでは  なぜ、この方は音楽もやりたいと思っているのでしょうか。
「音楽を通じて人々を救いたい、人の役に立ちたい......という願望が欲望としてある」
「しかし根底には真我実現という思いがあるので 迷っている。葛藤があるのだ」
「つまり信じきれていないともいえるだろう」
本当に音楽をやりたいとは思っていないということ
「真我の実現と音楽を両天秤にかけることがそもそも違う」
本来そこに矛盾はないということです
つまり魂が心底音楽をやりたい、極めたいと願っていれば、そこに葛藤は存在しません。
最後に、
「本心を見つめる勇気を持ちなさい」
とお言葉があり、慈愛溢れる波動を残して守護霊様がお帰りになりました。
ご健闘をお祈りします。
 
追補  ラビリンス
 
この時、私はだいぶどこかにエネルギ—を取られていまして回答の余地がなかったようです。 この方は調子のいい時と悪い時の差が激しく、それに同調しないようにしておくのが大切な局面でした。 後半の調子の悪い局面では 彼は堂々巡りのラビリンスの中にはまり込んでしまっていて、そこにいる限り何を助言しても意味がなく、鏡の迷路は彼のエゴを映すだけでした。
通常誰でもそういう状態にいるのですが、調子が悪いとその度合いがひどくなっています。
 
 
質疑応答13
 
なお、月読之大神は日本における主宰神としての名称ですが、実際そのキャラを使って私たちを指導してくださっておられるのは、二元性のこの宇宙を超えたところにある「実存」という緩衝地帯さえも更に超えたところにあるゾーンから来ておられるエネルギーです。
たぶん、そういうエネルギ—が地上に触れるのは、これまでなかったかもしれません。
 
維摩経維摩詰についてお話します。
彼は実際に実在した人物でした。
性格はお経の内容そのままで非常に頭の良い方で 仏陀の高弟でその教えを実践して覚醒を果たしています。
ちょっと変わり者で「おバカの言うことに聞く耳持たず」という性格なので、周りがこの方を敬遠して、仏陀の高弟というオフィシャルな序列から外していますが、実際は何人かおられる最高の覚醒を得た弟子たちのお一人でした。
覚醒は実存までいっていたのかどうかお聞きしました。
説法(教えを説く)のため常時二元性を超えていたということはない
二元性を超えている状態を保持するエネルギーを、ある程度は説法の方に振り分けていた......ということらしいです。
「しかしそれを選んだのは私(維摩詰)だ」
さすが仏陀のお弟子さんです。
ちなみに維摩詰に今の地球の現状をお聞きしました。
「悲しい人が多すぎる」
「自らやるべきことが見えていない」
「目がふさがれている」
「目がふさがれているのは外部のせいだと思っているが実は自分のせい」
虚空蔵 「私たちはどうすればいいでしょうか」
「祈りなさい」
「心から祈れば......ただ祈るという心境にならないと......そこが一番難しいかも」
何やらこの方とお話ししていますと懐かしい感覚が蘇ってきましたので、お聞きしますとかつて(仏陀の時代よりもずっと昔です)私とこの方は、兄弟弟子同士でした。
維摩詰が兄弟子でして  二人は厳しい魔法修行をしていたようでした。
最後に彼が私に、
「心眼を見ることを求めているようだね」
そういったので、心眼とは何かお聞きしようとしましたが 、にやっと笑って消えました。
 
実はこの宇宙は実存から派生した時、まず「陰(闇)」が出たのです。
その反動で「陽(光)」が出て  そこから二元性にまみれたこのオーム宇宙が形作られて行きました。
その時、いや現時点でもですが......このオーム宇宙は「陰」のエネルギーが極わずかなのですが、多いのです。
そういうふうに創られています。
ですから常に「闇」が優勢なのは当然なのです
そこから多くの事実が解明できるのですが、それはまた「宇宙全史」第二卷をお待ち下さい。
 
追補
 
今この方のメールを読み返してみると少し内容が分かって来ました。
当時はこの方が混乱状態で書いているものでしたので、真剣に向き合うことは無理でした。
 
「真我」=ほぼ「実存」ですが、全くのイコールではありません。
 真我にも段階といいますか、グラデーション状態の段階がありまして、そこから色々現象界では誤解が生じて来ています。
そしてそのグラデーションは、私たち(覚醒を望むもの)の境涯に応じたグラデーションで、たとえ一瞬なりとも見性出来たとしても、その濃さ薄さにより真我は形を変えます(全くの真我は不変です 見る立場によるのです )。
本当の真我(というのも変ですが)において 誰の真我、どこの真我という区別はまったく存在しません。
 
「ありのままの自分を肯定する」
 
これまでの人類が「自己否定」の渦中にあったものですから、そこにニュ—ウェィブ的な「自己肯定」と いう真逆の概念は、目新しく安直に受け入れやすいものでしたので、たちまち軽薄な人々には圧倒的な支持を受けた概念でした。
それがいまだに受け継がれています。
しかしそんなことは、決してしてはいけない事です。
やるべきは、
「ありのままの自分を受け入れる」
ということです。
そしてその上で、
「ありのままの自分で覚悟する」
ということでもあるのです。
「ありのままの自分を肯定」してしまいますと、そこに反省やフィードバックという進化過程が発生してきません。
ましてや間違った自分 人類はすべて間違っているのです を愛するなどという誤解の上塗りをしてしまいますと、始末におえないエゴの塊が肥大化していきます。
「ありのままの自分」以外に自分はないのです。 その「自分を覚悟する」ということは、その自分をそのまま受け入れ 自覚することで、そこから修正や反省が始まるのです。
それは決して「肯定」や「愛する」ということではないのです。
愛すべき自分はいるのですが それはこの肉体のエゴの自分ではなく、いつかあなたが長い精進の果てに
たどり着くであろう「自分 真我」なのです。
「なぜ自分はこんなにもてない顔をしているのだろう」
「なぜ自分は頭が悪いのだろう」
「なぜ自分はこんなにも運がないのだろう」
「なぜ自分は病気ばかりしているのだろう」
「なぜ自分は太っているのだろう ブタみたいに」
「なぜ自分は性格が悪いのだろう」
「なぜ自分はけちなのだろう」
「なぜ自分は親不孝なのだろう」
「なぜ自分は人にばかりけちをつけるのだろう」
「なぜ自分には本当の友達がいないのだろう」 等々
 
そういうご自分を確認し  受け入れた時  初めてそこからの決別のチャンスが生まれるのです。
甘い言葉に誘惑されてはいけません。
本来人類の段階として、 とか とか明確な区分を出す事は危険な事だったのです。 差別や余計な優越感、劣等感を助長する可能性が大きいからです。
しかし今この時、この期に及んで、甘い事ばかりはいっていられないというのが、地球の実体を知ってし
まった私の正直な気持ちなのです。
私はそういうことを書く限りは、 の方たちを切り捨てようとは思っていないのです。 むしろその方たちが、この地球の この宇宙の主役なのです。 だからこそ事実をその目で見て「受け入れ」 「覚悟」していただきたいのです。 何も知らぬまま、いいことだけを吹き込まれ 浮かれたままハルマゲドンに至り、
「こんなはずではなかった」
という思いのまま、さらに深いほぼ脱出不能な世界に投げ込まれてしまうのです。
私たち種族は、これまで人類とはほとんど無縁の存在でした。
むしろ人類から「ある種族」を守るために存在したものです。
私たち種族の中には  人類をさげすむ者もおります。
 
しかし私自身は私の種族の中でも極端な「変わり者」でした。
そして人間として生まれてきても、人類の中でも極端な「変わり者」だったのです。
誰からも共感を得られず、ただ自分の信じる道を生きてきただけの者です。
私は今生ではまったく人目に出ない存在だったはずです。
それは集合魂のあらゆるカルマを一身に引き受け、何の報いもない生を受け入れたからです。 そして、そのまま報いのない人生を才で終える予定でした。 どうしてこんな事になってしまったのでしようか。
最近収録した情報では......この宇宙はビッグバンから始まっていますが 今回の宇宙は 回目のサイクル です ビッグバンが 回あったということです。
その 回あったサイクルの宇宙で、成就した宇宙は一度もなかったという事です。 だから 回も繰り返しているのです。
詳しくは「宇宙全史」第二卷で語られますが  実はこの 回目以降はもう存在しません。
これが最後のこの宇宙のサイクルなのです。
これで失敗しますと......もう後がないのです。
  この宇宙はそのまま収縮に向かいます
そしてそれが、その成否が今ここで皆様にかかっているのです。
 
もうすぐ私と大魔法使い、それに私の本体との事実的な合体が成就します。
その時これから後の地球の行く末が決定します。
それは地球本体が決める事でもあるのです。
私のマスターは地球でした。
もうすぐ「ソロモンの數智」というものが、公開されるはずです。
それがこの地球を、人類を覚醒へと導きます。
私は少し前に「魔法」を使わないで 皆様を覚醒に導くと申しましたが、時期が近づいて来ますとかなり 修正が必要になって来ています。
  「ソロモンの數智」を実行するという事は、今ここではまだ詳細は書けないのですが、皆様方も参加しな
ければならない 選択しなければならない 地球が教えてくれる「大魔法」なのです。
今回のアセンションは、単なる大アセンションというだけではありません。
この大宇宙の  しかも 回も繰り返した末の成否がかかった試験なのです。
私たち「宇宙全史」のプロジェクトに どれだけ多くの存在が関心を寄せているか想像できるでしょうか。 全宇宙が、さらにそれを超えた存在たちが今私たちのI挙I動を見守っているのです。
 
覚醒していた私 
追補
どうも、この辺りの私の発言には違和感があります。
この頃、私は何故覚醒するような書き込みをしていたのでしょうか。
実は、宇宙全史のワ—クにおいてほとんど触れていなかったことがあります。
それは「私は既に何度もアセンションしていた」という事です。
詳しくはどこかで書きますが、今ここでこの原稿を書いているのは「アセンション(覚醒)出来なかった「私」です。
それは様々なシチュエ—ションで 月読之大神から いわれていたことですが、理解できない、或いはしたくないという次のような理由からスルーしていたことでした。
私が覚醒してすでにアセンションしているのなら、この世界に残っている私は落ちこぼれなのか 覚醒していった私はどこか上位次元にいるのでしょうが その私とこの世界に残った私のどちらが本当 の私なのか
主にこの二つのジレンマに翻弄され、悩み、落胆し、そのうちうやむやになり、この世界の私が宇宙全史のワ—クを続けているのです。
しかも、この個人的なアセンションは複数回ありました。 小さなものは超能力を得るというワークの時ですが、この時も失敗したと告げられ残った私は「ダメだったのか」と相当がっくりしていたのを覚えています 実際は成功しそれが顕現できる世界で自由に活躍して います 。
 
この時期 年 次第に肉体的な今生の記憶が薄れていく中 肉体的な老いによる減退と覚醒のた
めの希薄化という相乗効果ためです 、逆により大きな視点での「記憶」というカテゴリーが広がっていく のが見えます。
そのため宇宙全史のワークで謎だった部分が、現在少しずつ解明されていくようです。
あの時点では月読之大神も五井先生も「仕方ないね」位のニュアンスで残った私にお答え頂いていたので すが それはおそらく「その答えは自分で少しずつ解明していくんだよ」というスタンスだったのでしよう。
 
それにしても、この宇宙全史というワークは何という壮大でリアルで、しかも愛に満ちたワ—クだったんでしようか。
まだまだワ—クの中には謎のまま放置されている事象が数多く、放置されています 先に書いておいた私 のミッシングリングという失われた記憶は、まさにこのことでした
しかし、それらのものもやがて少しずつ解明されていくことでしよう。
皆さんに必要なものは  それぞれ非公開情報の中や宇宙全史の出版物で明らかにしていこうと思っています。
ちなみにアセンション出来なかった私は確かに「落ちこぼれ」といういい方はありますが、宇宙の最前線であるこの地球次元で最後まで皆さんとアセンションを目指していこうとしていた私だったという事です。
この次元地球に残るという事はそういう事であり、またそうしないとここには残れませんし、完全覚醒という目標値も見失うという事だったのでしょう。
それを落ちこぼれというのか、チェレンジャーというのかは人それぞれでしょうが、私はそのどちらでもなく ただひたすら五井先生と月読之大神の手のひらで走り続けていたのだと思います。
 
和尚に関しましてはすでにここの のどこかで書いておきましたのでそちらを参考にして下さい。 彼は実存までの覚醒を得てはいませんが それでも私は「エゴ」の概念に関しては彼から多くを学ばせて頂いた一人の師でもありました。
非常に頭のいい方で、その鋭い洞察力でエゴの深い部分にまで切り込んで啓蒙された功績は大きいと思います。
またセクシュアルなエネルギ—を利用するというメソッドが得意で そこにかなり傾倒しておられたようです。
そのため、そちらにこだわってしまったということがあり、 今あちらの世界で 少し反省はしておられます。
すでに書いておきましたが 現在彼はいつでもタィミングが来れば再び地上に出てもう一度生を試みよう とされています ある意味やり直したいとお考えです 。
地獄 下幽界 のル—プにはまっている存在は そこから抜けられない状態ですから、地上に戻るなどと いう事は不可能です
 
宇宙は、創造神の遊びでできたと思いますが、どうでしょうか
これも非常に根源的な質問ですが、ここでは簡単にお答えしておきます。 まず「創造神」という単語が出てきていますが、それは一体どういうものなのでしょうか?
おそらく質問者は「この宇宙を創造した存在神」という意味で書いてきておられると思いますが、 私たちがとりあえず認識できる 「この宇宙」とは、3.6次元というレベルの200兆光年の広がりを持つ宇宙 です。
さて、この宇宙はいったいどうやって作られたのでしようか。 
「どのようにして」という部分はここではいったんおいておきまして、誰が創ったか......つまり担当者はどなたなのかということを明かしておきます。
 
それは「天御中主之大神」という日本名の方です。
この方は私たちのオーム宇宙の大元である大オ—ム宇宙を越えた実存の領域をも超えたところにある存在 です(月読之大神もそこの存在です)。
そして、月読之大神は今回は天御中主大神の補佐にまわっておられますが、境涯は同格の立場だと思います あくまでも私の勘ですが 。
 
追補
 
月読之大神の正体
 
ここは修正があります。
天之御中主之大神がオ—ム宇宙のトップであることに間違いはありませんが、月読之大神が同格かどうか
は不明です。
未だに私の推測に過ぎませんが、天之御中主之大神よりもっと上位のゾーンからの使者のような気がして
います。それもただの使者ではなく、色々含みを持った謎の存在です( 天之御中主之大神を含むオー厶宇宙
の監督者という感じもあります) 。
しかし、とにかくこの方はご自分をあまり語られませんし、そもそもそんな情報を人類に知らせる必要も
ないので「誰も知らない」のが当たり前なのです。
今回はアンドロメダのみわという存在と、遊撃手というこれまた謎の存在が絡んでしまったことにより、
オーム宇宙の要である存在たちの謎の一部が少しだけ解明されたということのようです。
天御中主大神のお名前が海外ではどういう形になっているのか調べましたが、日本のような純粋な形の
宇宙神」という存在はあまり見当たりません。
絶対神とか全てのすべてとか漠然とした形容詞はついているのですが、名前そのものが純粋な「宇宙神
というのは、どうやら日本だけのようです。
さて、この天御中主大神がどういう動機でこの私たちの大オーム宇宙をお創りになったのでしょうか。
私も色々お聞きしているのですが、私と天御中主大神との境涯の差があまりにもありすぎて、中々本音が
聞けません。
ただ月読之大神を通して、色々興味あるお話はいくつか伺ってはいるのですが、それをここで書くわけに
はいかないのです。
確かに「創造神」の遊びでできた……ということも出来ますが、単純にそういうわけでもないようです。
このあたりの方たちの境涯の動機• モチベ—ションというのは、本当に私たちの認識からしますとギリギ
リの攻防でやっと何がしかの成果が得られるという感じです。
しかも、その内容がきわど過ぎて、短い文章では皆様を恐怖のどん底に陥れてしまうかもしれません。
ですから、やはりここは「宇宙全史」第二卷をお待ちいただいた方が、お互い賢明かもしれません。
 
 
追補
天之御中主之大神を完全体ではないと書きましたが、この存在は実存(真我)を超えています。
真我の存在であるということは、私たちにとって既に「完全体」であるということですから それを超えてなお「不完全」とは如何なる状態なのでしょうか。
この辺りの事情は普通に話しますと「形ある宇宙を創造するために、あえて形(不完全体)をまとって顕現する」という状態なのですが、その説明は簡単過ぎるといいますか、省略し過ぎているようです。
しかし  そういう表現しかできないのが今の人類かも知れません。
今後の宇宙全史のワ—クと、皆さんの進化次第ではその辺りの事情がもっと明確にされるかも知れません。
こういう情報は精神世界大学レベル以上のものになっています。
それを小中学生レベルで納得しようとか、理解しようとしても無理があるのです。
まずはご自分の認識レベルを少しずつでも上げていけるように、五井先生のお祈りと、宇宙全史の質疑応答で勉強なさるといいでしよう。
 
 
「ゴミ」という認識は、
実存から、この宇宙に投射される巨大な しかし無窮に精妙な 根源波動には「ゆらぎ」として認識され るのです。
宇宙に投影された根源波動の「ゆらぎ」は、 を通して「因果律」として才—ム宇宙に反映されます。 霊界では「ゴミ」は、因果律に伴ぅ波動の「ぶれ」として認識されます。 そして地球では「ゴミ」は「ゴミ」......不要なもの、邪魔なもの、汚いものと認識されています。
EOの覚醒は実存にあります。
ただ  完全覚醒者たちの常であります「中途半端な状態」というのは、必須になっています。
何が中途半端化といいますと、真我には何度も到達してはいますが、そこに入り浸るということは出来な
い状態が続いていました。
つまり現象界 こちらの世界 とあちらの世界 真我 を行ったり来たりしているわけです。
その状態が必須というのは、どちらかに定着してしまいますと......例えば真我に定着すると、即座にこの 世界からは消えて行きます。またこちらの世界に定着してしまいますと、真我への道は深く閉ざされます。
ですから、そういう中途半端な状態 行ったり来たり を繰り返すように続けて、次第に真我に自らの存 在を慣らしていっていたのです。
 
それは奇妙な存在から「実存」さえも「理論で解明できるよ」という福音をいただいていたことでした。
その「実存」の理論解明はもっと後になるとは思いますが、原理的に不可能と思っていたことが出来るん だという「私の夢」がかなう可能性が見えてきたのです。
 
追補
本当に宇宙全史を学びたいのなら、やはりそこには「学ぶ」という姿勢がなければなりません。 いくら優れた ような 解釈を書いて来たとしても、仲間を集めて宇宙全史を語ったとしても、宇宙全史
の書籍を売ったとしても それは何の学びにもならないのです。
やるべきことは他にあったはずです。 そこにあなたの限界といいますか、エゴの領域から出ることが出来ないあなた自身の縛りがあるのです。 そこに気づかない限り、あなたはいつまでもどこまでも同じところをグルグル回り続けるだけなのです。
の完全覚醒という状態は、陰陽図などでは到底表すことなど出来ない境涯になります。
つまり、それは言葉や理屈では説明が出来ないものという理があります。
しかし、それを何とか「指し示すこと」くらい出来ないかというのが私の望みです。
実際そうしているのが現状ですが、 年の非公開情報 では、その外堀を少し埋めたという実感があります。
やがて  いつか月読之大神が仰るように実存そのものをつまびらかに出来る日が来ることを願っています。
 
追補
天之御中主之大神を完全体ではないと書きましたが、この存在は実存 真我 を超えています。
真我の存在であるということは、私たちにとって既に「完全体」であるということですから それを超え てなお「不完全」とは如何なる状態なのでしょうか。
この辺りの事情は普通に話しますと「形ある宇宙を創造するために、あえて形 不完全体 をまとって顕
現する」という状態なのですが、その説明は簡単過ぎるといいますか、省略し過ぎているようです。
しかし  そういう表現しかできないのが今の人類かも知れません。
今後の宇宙全史のワ—クと、皆さんの進化次第ではその辺りの事情がもっと明確にされるかも知れません。
こういう情報は精神世界大学レベル以上のものになっています。
それを小中学生レベルで納得しようとか、理解しようとしても無理があるのです。
まずはご自分の認識レベルを少しずつでも上げていけるように、五井先生のお祈りと、宇宙全史の質疑応答で勉強なさるといいでしよう。
 
EO情報には中途半端な部分があります。それはすべからく彼がイルプロラシオン出身だというところに
なります。つまり異例の大出世をした魂であったのです。
そのため 完全覚醒のために 経なければならない経験値が足らなかったということがあります。
それでも完全覚醒の道を見つけたということは、イレギュラー中のイレギュラーでした。
通常完全覚醒の道につくとその道程を何度かの生で繰り返し、次第に真我に近づいていきます 近づくと いいますか、真我の在り様に馴染んでいきます 。
その段階を「分割自我復元」を果たした人でも、数回は人生を繰り返さないといけないと もいってい ます。
その段階でその人の色といいますか傾向性が様々なものを引き付け、或いは耽ってしまうことがあります。
そこで深く関わらなければそのままクリアしていきますが、あまりそこに拘泥してしまいますと、道を外 れるかアナーキ—な思想に偏ることもあります。
はそこまで耽ることはなかったのですが、それでも傾向性としては色を深めています。
 
質疑応答15
仏陀はこの世界を去るときに幾つかの配慮(じひ)を残していっておられます。

その一つが真我(実存)とこの世界の境界付近に「仮の仏陀」を貼り付けておられたのです。
「仮の仏陀」といいましても、仏陀のことですから、私たちにとってはほぼ仏陀といってもいい存在感を持ったものです。

その「仮の仏陀」が私たちに先ほどの言葉を降ろして来ておられたのです。

また、この仮の仏陀は、真我を目指す魂たちを正しい方向に導くこともその目的の一つとしています。 仏陀ファンは多いですから、再び仏陀に会いたいと思ったなら、何としても真我を目指すしかないようです。
あなたが体験したものは実存 もしくは真我 です。
宇宙全史ではまだあまり実存(真我)についての説明を詳細にはやっていませんので曖昧な部分があるかも知れませんが決して魔境などではありません。
ただ真我の一瞥は稀有な事ではありますが、真剣にここで学んでおられる方たちには次々と顕現して来ることになっています。
そして一瞥の後、そこからどこまでその精度を深めていくか、一瞥の記憶を保持しつつ更なる真我の体現 を求めていくことがこれからのあなたの課題になります。
よかったですね
あなたは少し前に実存を垣間見るということをしていますが、それをキチンと落とし込むという作業がま だまだ出来ていません。
実存に入るということは確かに偉業ではありますが それが瞬間垣間見るだけであっては、一時の恩寵に 過ぎません。
そこからの修業が実は大変なのです。
「巻き込まれない」というのはとても大事です。
情を外していくというのは  冷たい人間になるというのとは違います。
巻き込まれてしまうと一緒になって溺れてしまうので、巻き込まれるのは慈悲の深さとは異なるのです。 患者さんたちが世界移動の波に乗れるかどうかは、その方たちの問題です。
もちろん、あなたは世界平和の祈りの中で彼らの天命を祈るのが最善ですが 実際に彼らが自らを助けるかどうかは彼らの問題になります。
おそらく、どこまでいってもこの問題はあなたにつきまとうかも知れませんが、そこをクリアしない限り 次の段階には行けないでしよう。
あなたの守護霊様からです
共依存ということに焦点を当てて瞑想してみなさい」
追補
共依存」 例えば目の前におぼれている人がいたとします。
 
丁度20 メートルほど沖を流されています。
大声で、
「助けて」
「私は悪くないのに  どうしてこんなことになったんだ」
「もうこんな世の中は嫌だ、死んでやる」
「あんたは医者だろう」
「早く私を何とかしなさいよ」
このように叫んでいます。
でも本当にそうでしょうか。
おぼれている人が、そんなふうに叫ぶでしょうか。
いえいえ、絶対にそんなことはないはずです。 本当におぼれていて、もうこのままでは死んでしまうという状況のときに、そんな文句は絶対に出て来ま
せん。
そういう場合はとにかく助かりたい一心で「助けて!」と叫ぶ以外にないのです。
あるいは叫ぶ余裕もなくブクブクと沈んでいきます。
つまり どんな症状であっても文句が出るうち、自己正当化のパフォ—マンスが出来るうちは大したことはないのです。
もちろんそれを続けていますと、漸進的な死という状況に陥ってしまいます。
とりあえず甘えが様々なパフォーマンスを生み出し、とにかく「救ってみなさいよ」的な傲慢な依存というスタイルを見せています。
そこに一緒に寄りそって、共におぼれていくのはかまいませんが、共依存とはそのような状態をいうので す。
おぼれる方も救おうとする方も相手がいないと芝居が成り立たないのです。
そして、その芝居は世界中で人が生きている限り、延々続いていくのです。
集合魂にカルマがあるのは、集合魂のエゴがあるからです。
或いはエゴがあるから集合魂があるといってもよいでしよぅ。
集合魂がカルマから自由になった場合、その行く末はそれぞれです。
つまり集合魂の段階により消えていくものもあれば、より高い段階に行くもの様々です。
私はブッダが消滅したとはいっていません。
「この宇宙からいなくなった」といっただけです。
ブッダがいなくなったこの宇宙には、減じたものも乗じたものもありません
そして、ブッダはこの宇宙に自らの跡を継ぐものを残しています
 
ただ一条の慈悲の光芒を
ただ一仄の慈悲の芳香を
ただ一影の慈悲の気配を
 
もはやこの宇宙に聞くことはないのです
それはこの宇宙に慈悲がなくなったというのではなく 彼らがそういう存在だったということです
さて、再びあなたの境涯についてです。
一瞬ではありますが真我(実存)に入っているにもかかわらず、相変わらずイルプロラシオンマスターな どといっているようでは先が思いやられます。
精進、精進、また精進ですね
 
追補
確かに精進、また精進なのですが、そこはがむしゃらに突き進んでもあまり果がいかないところです。 この本はほぼそこのところを会得していただくための教科書のよぅなものになっています。
落ち着いて、エゴの欲望に負けないで、平静さを武器に勝ち残って下さい。
 
月読之大神からです
「道なかばだが着実に進んでいるようだね」
 
あなたもそうですが、すべからく人はエゴを保持したまま真我 実存 に入ることは出来ません。
 
何度でもいいますがエゴの希釈は重要な ほぼ唯一の メソッドになります。
 
正直に言いますと、どっぺんさんレベルで実存をどうのこうのいえるレベ ルには本来ないのです。
それがここまで来てしまっているというのは、やはりここに宇宙全史 に深く関わって来ていたからです。
私自身のことは薄っすらと初期段階から分かってはいましたが 皆さん方がこういう段階に向けて進んで いけるとは正直半ばあきらめてもいたのですが、このワークは実に思いもよらぬ驚きをもたらしてくれてい ます。
それは、あの「百万円の本」を受け取れる人間はおそらく出てこないだろうと思っていた私にとっては大 いなる誤算だったわけです。
あなたは何と今の段階では大学に入学したレベルに達しています。
しまし、まだ入学したばかりです。
大変なのはそこからです
まだまだ質問は出てきますが大学卒業あたりになりますと、やがてそれも収束していきます
並外れてすごいのは
月読之大神と五井先生がタッグを組んだところです
それに乗っかれたあなたの幸運は
如何ほどのものなのでしょぅか
虚空蔵55
 
RIEさん、どっぺんさん、伊藤さんへの回答が遅くなってしまいましたが、明日はもう冬至ですので返 答しておきます。
これは返答であって回答ではないのでそのつもりでお聞き下さい。
人とも 月時点までの状況は各々の境涯に従って 人 様ですから、それはそれでいいのですが、問題 は 人に現れて来ている いわば 現象を 人がどう受けとめているかという所にあります。
「回答ではない」と書きましたのは、どういう対応をしようがそれはその方の自由であり、その自由は宇 宙が保証しています。
ですから正解というものはないのですが、これまでここで学んでおられれば、自ずと会得されているであ ろう智慧が、そこでどのように生かされていくかはとても大事なことになります。
特にこの時期、明日の冬至を挟んでのI年は、ほぼあなた方の進路を決定づけるものになります。
人の特徴はここを見ておられる方たちの代表のようなものです。 伊藤さんは「何者」かとコンタクトがとれていますし、 さんには作家さんの才能があふれ出て来て
いるようです。
どっぺんさんには真我との遭遇の兆候のようなものがあり、それをこの 人は「どうすればいいでしょう か?」と聞いて来ておられます。
これまでなら「こ っしたほうがいい」というお答えを差し上げていましたが、今回ばかりはそうはいかな いのです。
それはこの土壇場では皆さんが皆さんの思いで、自分のつながる場を求めていかねばならないからです。
ここで学んでおられる方たちには、そういう様々な境遇、境涯の変化が出てきているはずです。
それをどうしていくのか、それが今まさに問われているのです。
現れているものは何に「因」を持つのか
その「動機」は何によるのか
今なすベきことは何か
自分は急いてはいないか
天変地異や大疫病のような外変ではなく 自らの内部に起きる変革には、人それぞれの段階があり それ ぞれの対処により行き先が定まります。
大切なのは 覚悟
追補です
伊藤さんはコンタクトとれているものに嫌な感じがなければ  気にすることはありませんが  その状況を
どうするかはすでに書いた通りです。
さんは、降りてくる作家衝動による作品を自らの教義の布教に利用したいと考えておられますが、
そこに焦りがないか、行き詰まり感の打開のためという部分がないかどうか、本当にやりたいことは何か、
そこをよく見つめてみることです。
虚空蔵 55
 
 
どっぺんさんはまさしく真我 実存 を垣間見るといいますか、その一歩手前のゾ—ンに接触しています が、それが何だというのでしようか。
運が良かったり、高熱にうなされたり、死ぬような危機状況に陥ったり、何日も寝られない状況が続いた りしたとき、 たまたまベクトルが合って 稀にそういう境涯に 一瞬遭遇する人もいます。
一兆年に一人しか得られない完全覚醒を前にして慌てたり、うろたえてはいけません。
その覚醒を得たEO氏でさえ 今生では簡単に覚醒したように見えますが、実際は彼の集合魂を含めて、 無数の転生において想像を絶する修行を重ねて来ています。 ここへ質問はいくらでもして来て頂いて結構ですが、「腹を据える」という丹田をつくる 育てる とい う事は大事です。
それがないといつでも簡単に境涯をひっくり返されてしまいますよ。
まだまだ先はありますが、もう先はないともいえます。
やはりそれはあなた方次第というところでしようか。
 
 
追補
皆さん方の多くは、巷にあふれる様々な情報を元に精神世界におけるメソッドを駆使し、自己実現や覚醒を目指しておられると思います。
 
が しかし、そういったものは、どちらかといいますとあまりリアルではない取り組みになっています。
何がリアルではないのかといいますと、本やウェブに書かれてある内容それ自体もそうなのですが それ を読むときの皆さん方の姿勢にも問題があるのです。
一般的に人は物事を受け取る時 受け入れるとき に以下の反応をしています。
なるべく楽な方向性を選択する
自分の好きなもの 好み に傾いてしまう
思い込みを持ったまま、それが間違っているとかの判断なしに選択する
手っ取り早い自己実現を望む
とまあこんな感じでしようか。
いずれにしましても、たとえ書いてあるものがまともであったとしても そういうものは少ないのです
内容を取捨選択してしまっているわけですから、取得出来るものも自ずと限られまともな結果も反映されることは期待できません。
そもそも、人が何事かの自己実現を果たそうとしますと、宇宙全史では常々申し上げておりますように 「エネルギーの多寡」が問題になります。
 
しかし、そうした取捨選択をした方法に取り組み、何だかんだやって、結局無駄な時間と労力を費やして いますと、肝心なエネルギーを貯めることが出来ず、取り組んだエクササィズは無駄になり、その繰り返し でいつしか歳をとっていき、気がついたときには、何も成就しないまま人生の終焉を迎えることになります。
大体人間のI生とはそういうもので、体裁を保つために、或いは故人を慮って お葬式には「あの人はこ ういう人だった」 「I生懸命生きていた」 「優しい人だった」などとうわべの美辞麗句でごまかしています が、この世界では覚醒以外で本当に後悔しない生き方など存在しないのです。
しかし人間が人間であるとき、或いは完全覚醒していないときに、取捨選択しない生き方など出来るので しようか。
ハッキリ申し上げてそれは無理なのです。
人という限り、そこにはそれぞれに個性があり、その個性には「好き」 「嫌い」が厳然としてあり、集合 魂の傾向性や今生で培った癖、習性なども明確に反映しています。
そのため車でいいますと、ハンドルが曲がったままですので、グルグル同じところを回っているだけの軌 道 人生 になります。
周りが多少変わったりしますので、自分も少しは変わっていると思いたいのですが、実は同じ境涯の中で ハンドルが固定されたまま、グルグル回り続けているだけです。
エネルギー それはあたかも発電機のモ—ターがグルグル回るのと同じで、電気は生み出しているのですが、そのエネ
ルギーはすべて他にもっていかれてしまっています。
 
それを修正するためにハンドルを戻せばまっすぐ走るのですが、自分はハンドルを正常に握っていると思 い込んでいますから、直しようがないということがあります。
ここで問題なのは、曲がったハンドルを握っていて、それで正しいと思い込んでいることです。
人は皆好きこのんで誤った道を目指してしまうのです。
そのために私たちの修正には、上位の方たちの援助が必須になります。 そして その最善の援助のIつが「五井先生のお祈り」です。
人間社会に馴染んでしまった人ほど、そこにたどり着くのは難しいのですが、それでも何でもかんでも、 お祈りにしがみつくと言ったら語弊がありますが、おすがりするという気持ちが持てたら上々でしょう。
もう一つ軌道修正に有効な道具があります。
同じところをグルグル回らないために 現代ではとても便利な道具「力—ナビ」があります。 それを精神世界の中で例えてみますと「行き先を指し示す情報源」といえると思います。
つまり皆さん方の思惑に追従ない情報源ですね。
厳しい道かも知れませんが、結局それが成就への最短の道になるのです。
あとは心構えでしょうか。
どっぺんさんのように一定段階に至りますと、真我は目前というように見えます。しかしそこからが本当 の精進で その人の真価が問われる時なのです。
はやる心、急く心をおさえるというよりは、そこに拘らない、平常心を養うことは色んな意味でとても大切なことです。
この宇宙全史では散々述べておりますが、ひとえに「 エネルギーの多寡」に収斂します。
ただエネルギーの多寡ばかりではなく、質や在り様も重要なファクターになります。
ほとんどの存在は真我に至り  真我の至福に浸ることを良しとします。
いや、そもそも「至福に浸るその人」さえもなくなるのですから、そこを抜けるエネルギーというものは現状謎といわざるを得ません。
 
ここでどっぺんさんにとっては大事な情報を明かしておきましょう。 これまでに僅かな人たちだけが実存(真我)に到達出来ました。 しかし、そこをさらに抜けた存在は2人だけでした。
一人は仏陀
もう一人は、私とは異なる遊撃手でした。 この二人が抜けた後、どこで何をしているかは、いつかまた機会がありましたらお話しします。
 
虚空蔵 注:どっぺんさんは「真我を抜けた次元」と表現されていますが、その辺りにはすでに次元の認識とい いますか、概念が存在しません
白光霊団は五井先生の弟子筋という事もありません。
そもそも五井先生という固有名は既に存在せず、宇宙全史における皆さんの救済のためにやはり方便としてあるのみです。
例えば、生前、五井先生のお弟子さんだった村田先生や斎藤先生なども、だいぶ前に帰られてからほぼすぐに霊団と一体になってしまわれています。
霊団の中に溶け込まれたといってもいいのですが  彼らにおける「真我(実存)」というべき「帰属すべき根幹」が白光の霊団だったのです。
逆にいいますと、白光霊団がその本来の姿を地上に現すため、堀大な慈悲のエネルギ—である「白光霊団」から分離させて降ろして来たのが五井先生であり、その他のお弟子さんたちでした。
この場合、斎藤先生や村田先生などは確かにお弟子さんといえるのですが、白光霊団から直接分かれてきた魂ではない魂は  また別なカテゴリ—のお弟子さんという事になります。
先ほど書きましたように五井先生は白光の霊団に既に戻られていますから、白光の霊団を弟子筋というのは‘ それこそ筋が違います。 と書いておられますが、あなたは真我を未だ知りませんし、仏陀も知りません。
ましてや「本当の私は神であり  仏陀でした」とはちよっとがんばり過ぎです。
「多くの本に書いてあることですが」と書いておられるように、その知識は外部から取り入れたもので、あなたの内在の智慧から来ているものではありません。
この辺りは修正の多いところで、よくよく内観されエゴの罠といいますか エゴがあちこちからかき集 めたゴミのお掃除をしないといけないようです。
あなたは今の等身大のあなたで充分なのです。もちろん日々の精進は必要ですが それも有りのままでいいのです。
いい事ばかりあるわけないのが人間界です。
月読之大神に指導して頂いて、全てがうまくいくという事もないのです。
五井先生のお祈りを毎日、毎瞬していても、つらい事や悲しい出来事は現れてきます。
その時こそ、あなたの真我が起動するのです。
そこから皆さんの指導を、学びを培っていけばよいのです。
「実存」或いは「真我」どちらでも同じなのですが、それを表現する手段はこの世にはありません。
五感を脱して初めて見えてくる領域です。
そして、五感を通じて見る世界とは「エゴ」そのものですから、エゴからの脱却が「完全覚醒」にとっていかに大事かがわかると思います。
 
 
非公開情報9
 
覚者ニサルガが質問者からこういうことを投げかけられています。
「あなたは世界が戦争や飢餓にまみれているのをただ見ているだけですか」
ニサルガ
「私の世界には戦争も飢餓もない」
「それはあなたの世界にあるだけだ」
 
この部分だけを見ても何が何だかわからないでしようが、ニサルガは例えや比喩やちよっとカッコいい文 句でそう答えているわけではなく、実際に戦争も飢餓もない世界に生きているのです。
ただ彼は次元移動などは自由に出来る境涯なので、恩寵として私たちの前に出て来ているだけなのです しかし例え 恩寵として もこの世界 に残ること は肉体とし ての制限を 受けますし 、この世界 の重さも引き 受
けねばならないのです 。
そして彼の本体ははるかに軽い世界で生きているのです。
現在彼はすでに真我に埋没しほとんど連絡が取れない状態になっています
 
 
非公開情報12
 
完全覚醒とは、この私たちの棲息する宇宙における覚醒の限界のことをいいます。
つまり最終的な覚醒といぅものになります。
 
「最終的な覚醒」とは、この本では何度か出て来ていますが、この宇宙からの脱出という事で  それはオー
ム宇宙のカラクリから抜け出すという事になります。
もう少し具体的にいいますと、私たちの本源であるところの「真我 実存 」に目覚めるといいますか、
「自らがその本源である」と気づくことになります。
それが成し遂げられたとき、あなたは本当の意味での自由に気づくのです。
私にも、宇宙全史の初めの頃は同じような、そういう思いがありました。
実は、五井先生も植芝先生も、生前は同様の経験をされています。
精神世界では  色々勘違いされている方が多く、教えたいことは山ほどあるのに、それを受け取れる人がいないという事があります。
植芝先生などは力がおありでしたから、本来まず精神を鍛えなければならないのに、強くなりたいだけの未熟な入門志望者が押しかけてきたときは、ただしばらく黙って対峙するだけでしゅんとなってしまい、逃げ帰ってしまうというようなことが多々ありました。
 
完全覚醒間近の教えと、それ以前の教えはまったく違うのです。
 
完全覚醒の定義を書いておきます。
①輪廻の構造から外れる
②エゴがほぼない 現象界にいる限り、一定のエゴは保持しなければならない
③自らが真我(実存)である認識がある
④もう一つあるのですが今は秘されています
いずれにせよ1〜3 の定義をクリアした方だけが完全覚醒者とされます。 そして、この完全覚醒者たちの特徴は例外なく「永遠と対峙している」という事がいえます。 しかし、完全覚醒間近の境涯までの皆さんは「世界 現象 と対峙している」のです。 もう一度質疑応答の帯にあったキャッチです。
 
「あなた方の動機はものにあり」
「私の動機は永遠にある」
 
これも同じことをいっています。
現象界と向き合っているのと、永遠と向き合っているのには何の違いがあるのでしょうか。 もちろん違いはあるのですが、それは比較にならない程のとてつもない大きな違いです。 そこを混同してしまいますと、教える方も教えられる方も混乱してしまいます。 ですから、本来、完全覚醒間近の教えというのは、弟子が一定レベルに達するまでは秘されていたものでし た。
どんなに精神世界に精通していても、どんなに膨大な知識を有していても、この 精神世界では、先ほど3つの定義に触れる位置にいない限り、初心者なのです。
本当はここから長いくお話しが始まるのですが、今は私に時間がありません。
続きは「エゴ」の本の中でお読みください。
数多ある精神世界の情報は そのほとんどが脚色されているか、隠蔽されているか、過大表現されているか 単純に間違っているか、方向性を発信者のベクトルに引き込んでいるとか、とにかくリアルな情報といぅの は非常に少ないものです。 ましてや、完全覚醒という通常人にはあまり縁のないカテゴリーでは、そのほとんどの情報が 本人以外が 発信するもの以外は まやかしに近いものになっています。 そのいい例が「我こそが仏陀の再臨である」などと発信し、そこそこ 普通の人には 聞こえのいい教えを それらしく説いています。
そして、真我や実存などについても、もっともらしく話しています。
しかし、真の完全覚醒者とは、人間世界の道徳観や規則や法律、他人への配慮とか思いやりといったものは ありません。
もし、それがあるよぅに見えたのなら、それはひとえに彼らの最後に残された責務である「慈悲」から来て いるものになります。
 
そういうことを踏まえた上で、 EOの今回の完全覚醒という奇跡の実態を解明しておきます。
 
 
人の無意識領域=真我(実存)
 
ではありません。
人の無意識領域は単に人が意識していない(出来ない)領域に過ぎず「意識していない領域」はその人により様々です。
極端にいいますと無意識という領域を知らない存在さえいるのです。
ちょっとわかりにくいかも知れませんが、立場によって無意識の領域というのは存在しなくなります。
 
つまり無意識領域というのは努力すれば(あなたの仰るように)そこから様々なものを持ってくることは出来ますが、不可知領域である真我(実存)からは何ものも持ってくることなど出来ないのです。
 
真我(実存)という領域は「人間の無自覚領域」というようなものではなく、そういう領域すらも遥かに超えた在り様なのです。
あなたは通常の人間の「無意識領域」と「真我(実存)」の「無」を混同している、或いは同じものとしてみています。
もっといいますと通常の「無意識領域」というのは普通の意識領域と同じカテゴリー(領域)にあるもので、ただ視点が異なる立場から見るといい方が変わるだけなのです。
 
ですからあなたの仰るように無自覚領域から何やかやを引っ張り出してきて地上の何やかやの役に立てるということは出来ないことではありませんが、やっていることは同じく現れの世界において動き回っているだけのことになります。
 
 
これまでこの宇宙全史のワークでは不可知である真我の詳細な言及はなるべく避けていました。
そもそもそこに関して何かを言及するなどということは原理的に出来ない領域ですから、どう理解して頂ければいいのでしょうか(と最近は悩みまくっている私です)。
 
 
③「深遠」は「実存」を超えた先にあるところを指していたと思うのですが、
仏陀様と遊撃手様の二人しか到達しなかった所が「深遠」なのでしょうか?
それとも「深遠」のその先にまで至ったのが二人だけということなんでしょうか?
 
私が「深遠」もしくは「深淵」という言葉を使用する時は、場所ではなく「形容詞」として使用しています。
 
「実存(真我)」はこの宇宙を含む、あらゆる現れの世界の根源ですから、「そこを超えた先にあるところ」というものを指し示す言葉は存在しません。
 
仏陀が実存を超えたといういい方は事実ではあるのですが、「抜けた」といった方が正確かも知れません。
「抜けた」存在の中に遊撃手もいますが、それは確かに私の仲間ではありますが、私ではありません。
そして「抜けた」後その二つの存在がどうなったのかは、今ここでは語れない内容になっています。
いつか皆さんがそういう境涯にたどり着くことが出来ましたら、きっとお話しできるでしょう。
 
 
「オーム宇宙の更にその外となるのでしょうが、言葉で表現できる様な形なのでしょうか」
 
●言葉で直指することは出来ませんが、表現することは出来ます。
 
「宇宙全史」第一巻はそれを目指したものですが、果たしてあの物語をどこまで皆さんは昇華出来たでしょうか。
単なる興味ある物語の羅列として見ただけでは何も見えてこないはずです。
 
宇宙全史は散文で書かれていますが、本当は壮大な叙事詩なのです。
 
詩を解釈するには、そこに書かれる物語にある「永遠」を読み解かねばなりません。
 
本当の詩には必ず「永遠」が潜んでいます
 
 
「古池や 蛙飛び込む 水の音」
 
 
この短い句が詩の詩たるのは、そこに禅の公案と同じように「永遠」を包含するからなのです
 
逆にいいますと「永遠」を含まない詩は
 
単なる言葉遊びに過ぎません
 
数字を構築することで物質世界を超えた量子力学が表現できました
 
言葉を綾なすことで
 
永遠を
 
表現することも可能なのです
 
しかしここでも
 
それを受け取れる方がどれほどおられるでしょうか
 
 

虚空蔵55様
みわ様
五井先生
月詠之大神様
 
ご回答いただきありがとうございました。
矛盾を感じその矛盾が何なのか明確にできずつたない文章での質問となってしまい申し訳ありませんでした。
そちらでまとめてもらいやっと自分が感じていた矛盾が明確になりスッキリしました。
お答え頂いた
 
「エゴを薄くしていって信頼できる自分になりましょうね」
 
ということを聞いて初めて非公開情報8のURACHUさんへの回答の意味が分かった気がします。
 
宇宙全史ワークでは時々聞かれるお話ですが上の方々の短い言葉の中の行間や裏の意図込められたメッセージに気づくのはとても難しく感じます。虚空蔵55様がそういったことに気づくの本当にすごいなあと思います。
信頼できる自分になるまでは先の宣戦布告どおり敵対しなくてはならないわけですね。
 
「本当にそういう境涯に至りますと、そもそもセックスをしたいとはあまり思わなくなりますし、腹いっぱい食べたいとも思わなくなります
そうでない限り無理してそういうことを自分に課してもあまり意味がありませんし、却ってストレスをためることになってしまいます」
 
こちらのご回答で自分自身を振り返ると確かに無理してやってストレスを感じ辛かった事があります。
やりたいことはやってもいいとのことですがそれも過分に求めなければということなのですね。
エゴの増長の警告は先のご指導であった良心に従うということでふせげばいいのかと思います。
(ただその良心の声に気づけなかったりスルーしてしまい結局肉体を痛めてやっと気づくしょうもない私ですが…)
ただそうすると求めようともしなくなる境涯になるまではエゴを薄めるという作業はどういったものになるのでしょうか?
上記の回答のあとのある一定の段階まで育むことと合わせて考えますとどうにもエゴを増長させる方向ばかりにいってしまい薄める作業が抜け落ちてる感じがしますが…。
 
どこかで書かれていたと思うのですが
「もう自分自身ではどうしようもないことを自覚しお祈りに五井先生にすべてをお任せする」
表層意識の自分がいくら頑張ってもエゴを薄めるのは難しく意識の大半を占める潜在意識から働きかけてくださる世界平和のお祈りをし五井先生にお任せしようというようなことをどこかで書かれていたような覚えがあるのですが、今回ご指導頂いた「あなたの良心に従いなさい」という単純明快な言葉を忘れず消えてゆく姿とお祈りで五井先生のお任せすることがエゴを薄める唯一の方法でもう他に私が出来るエゴを薄める手段はないと考えてよろしいのでしょうか?
(よくよく考えてみますとお任せするのですから自分があれやこれやしていたらお任せしたことにならないですね)
 
 
宇宙全史でまかなっている覚醒が①~③までとはすごいですね。
虚空蔵55様の言われるように宇宙全史での内容とニサルガダッタ・マハラジの本や最近話題になったEO氏の言葉などからどうしても矛盾というか言われている内容に違いがありすぎてどういう意味かわからずとりあえずこういう考えもあるんだくらいで深く考えていませんでした。
 
生きたいという前向きな感情を育てようとは逆のようなことをEO氏の言葉がHPであったと思うのですがそれはEO氏が②の完全覚醒について語られているからで①の覚醒の話とは違うからなのかと腑に落ちました。
 
③の完全覚醒のさらなる上位の探求について不思議に思うのですが②の完全覚醒で完全なる無を求めるのにそこから先を無がどうして探求しようとなるのか不思議です。探究心が残っていては完全覚醒の②ではないと思うのですがそれとも探究心は②の完全覚醒でも残るものなのでしょうか?
 
③で興味深いのは不可知であるのに今こうして宇宙全史で不可知について語られていることが興味深いのと同時に不思議です。
 
天御中主大神様が③へ行こうとした時仏陀様を取り込んでゆこうとしたが仏陀様が地球の道筋がある程度つき後継者が育つまで行くことを拒否。覚醒者の有り様としてその思いは尊重されついにその思いが叶い天御中主大神様へと仏陀様は収斂され上位の世界へ旅立つべく我々からすれば消滅とも思えるような状態(不可知化)になることでその上位へと旅立たれたのかと今回のお話を聞いて思ったのですが違いますでしょうか?
 
遊撃手の有り様は本当に不思議ですね。
非公開情報9でニサルガの本体ははるかに軽い世界で生きていて恩寵としてこの世界に現れていることが書かれていたのを考えますと遊撃手の本体もしくは遊撃手の座はその③の世界からもしくは③すら超えた上の世界にあってそこからこの世界に恩寵として来ているのではないかと想像してしまいますがさすがにこの考えは単純すぎるような気がします。
 
2017・1・5

 

 


宏史様
 
「ただそうすると求めようともしなくなる境涯になるまではエゴを薄めるという作業はどういったものになるのでしょうか」
 
●私たちは覚醒を本心から求めるまでは、エゴを洗練させなければなりません。
 
「エゴを洗練させる」ということはとりあえず、
 
①自分以外のもの(他人や木や雲なのです)を識別する
 
②識別したものと共存できるようにする


この二つが人間のエゴにとっての大きな使命です。
 
①は人が幼い頃にエゴを生み出すための作業になります
②は分離した世界で(大人になって)生き抜くためのエクササイズです


そして②の中で出来る限り自分(エゴ)の目的にかなった生き方を探るのが「洗練されたエゴ」なのです。
しかしこのエゴの中には、「エゴ」と「自らの本心(良心)」が混じってあります。
そこでどこまで「本心」を出していけるかが本当の洗練された「エゴ」になります。
その上でその「洗練されたエゴ」すらも薄くしていく作業が「覚醒」への道程になります。
 
 
 
「今回ご指導頂いた「あなたの良心に従いなさい」という単純明快な言葉を忘れず消えてゆく姿とお祈りで五井先生のお任せすることがエゴを薄める唯一の方法でもう他に私が出来るエゴを薄める手段はないと考えてよろしいのでしょうか」
 
●そうお考えになって結構です。
 
「良心に従う」ということ自体が「祈り言葉を忘れない」ということです。
 
それは別のものではなく、どこまでいってもついて来るものです。
 
もちろん他にももっとつらく厳しく遠回りする道はありますが、それを選択したいのならここで学ぶ必要はありません。
 
 
「③の完全覚醒のさらなる上位の探求について不思議に思うのですが②の完全覚醒で完全なる無を求めるのにそこから先を無がどうして探求しようとなるのか不思議です。探究心が残っていては完全覚醒の②ではないと思うのですがそれとも探究心は②の完全覚醒でも残るものなのでしょうか」
 
●「完全なる無」とは確かに「完全なる無」なのですが、それはいま私たちのこの立ち位置から見ているから「無」なのです。
 
現実の宇宙構造は空理空論ではなく、すべからく実体のあるものになります。
確かにその「無」を言い表す言葉は存在しません。
またここから見ると実体もありません(二元性を超えています)。
だからとりあえず「無」としていますが、本来は「無」ですらないのです。


あなたのおっしゃるように「無の中に埋没した無がさらなる探求をどうして続けられるのか」という命題は存在していますが、ここではまだお話しできません。
あなたがもう少しここで学んで境涯が上がったらまた質問してみてください。
あるいは例の本が買えるくらいの境涯に至ったらそれはそれでクリアです。


 
 
「天御中主大神様が③へ行こうとした時仏陀様を取り込んでゆこうとしたが仏陀様が地球の道筋がある程度つき後継者が育つまで行くことを拒否。覚醒者の有り様としてその思いは尊重されついにその思いが叶い天御中主大神様へと仏陀様は収斂され上位の世界へ旅立つべく我々からすれば消滅とも思えるような状態(不可知化)になることでその上位へと旅立たれたのかと今回のお話を聞いて思ったのですが違いますでしょうか」
 
●面白いですが違います。
 
天之御中主神はやがて皆さんの前に出てこられます。
 
月読之大神と天之御中主神はこの宇宙の主催神です。
その主催神が出て来るということはこの地球が、オーム宇宙が最終段階だということでもあるのですが、そこにあるこの宇宙を超えた壮大なドラマは例の本に記される予定です。
 
そこには人類どころか神々までが知り得なかった物語と世界の構造が描かれるはずです。
しかしそれを読める方がどれだけおられることでしょうか。
 
それに値するあなたでありますように

虚空蔵55