性欲に関して

No.3896 スーザン様
「「最近は、性欲関連のことや仕事を含め、周りの方々との関係等、私自身のほころびが多々垣間見られ、常に自分と向き合う必要性が生じております」
●これも当たり前のことで、人は誰しも生きている限り様々な欲望に振り回され、人間関係の摩擦で消耗していきます。
それは完全覚醒するまで続きますから、それまでは何とか工夫して生き長らえるしかありません。
ただその生き方に拘泥し、耽溺してしまうのは、宇宙全史の推奨するところではありません。
書いておられるように五井先生のお祈りを忘れないように精進なさって下さい。」
No.963 トキマツ様
「性欲への囚われも形にこだわることもいってしまえば同じカテゴリーの(越えて行かねばならない)ハードルなのですが、性欲は形に比べればまだ克服できる可能性が高いものです。
 
「形にこだわる」をテーマに持つこのオーム宇宙の姿勢は、結構根深く宇宙全体にしみわたっていて、これをクリアすることは中々困難です。
私自身がまだ真剣にこの命題と取り組んでいないので、キッチリ解明で来ているわけでもないのですが・・・。
 
性欲への執着を絶とうと思えば、性欲への思いを完全に断念すればいいのですが、中々それは出来ないかもしれません。
性欲は子孫を残すという根源的な生命の本能と直接結びついてもいますが、人間においては「快楽」を求める、あるいは「人の温もりを感じる」という孤独感を希釈するという複雑な欲求もも持っていますので、一概に「絶つ」ということは困難でしょう。
 
この二つの大きなハードルは、本来幾転生を重ねて、すでにもう「この世に未練はない」「この世界には飽き飽きしてしまった」という修行者が超える可能性を有するようになるハードルです。
市井(しせい)の私たちには、そういう意味でも中々難しいことかもしれません・・・が、そこに降ろされたのが五井先生の祈りです。
今回はさらに「柔らかいお祈り」さえも与えられているのです。
 
真剣に行じれば、必ず効果のあるものですからがんばって下さい。」
 
 
No.3402 スーザン様
「性欲にも色々ありまして、これもいつか詳細な本にまとめるといいかも知れません。
カテゴリーとしての分類と、段階としての振り分けでも数多くの性欲があり、その一つ一つに克服する術があります。
例えば単純な性欲エネルギーは風俗に行くかオナニーで解消できますが、性欲に「支配欲」や「支配されたい欲(マゾ)」などが絡みますと話はややこしくなります。
またそれに社会的な抑圧が加わって更なる変質を遂げた性欲は、変態や異常者として犯罪にかかわる性欲エネルギーになってしまっていきます。
このように複雑に醸されてしまった性欲をほどいて解消していくのは困難を伴いますので、おそらく通常では解消できないでしょう。
何かカルマの解消としてある病気や事故、事件に巻き込まれ、結果生きていられればある程度はその傾向性は薄められていくかも知れません。
それを避けるため祈りにまい進すればもちろん大難は小難におさめられますが、それを選択する方はほとんどおられないでしょう。
誰も快楽、楽しみを失くすことを望む者はいません
だからスーザンさんも間違ってはいないのです
ただ
「それ以上の楽しみ」
「それ以上の快楽」
を望むなら
それを見つけられたなら
地上の欲望は「はした金」に過ぎないと思える時が来るかもしれません
私がこの掲示板の随分過去に「地上における最大の快楽は何か」ということを書いたことがありました
その答えは
「創造すること」
でした
セックスも(子供を)創造することですが
芸術を生み出すことも同じく創造です
そこにある違いは
「肉に基づく」創造か
「抽象に基づく」創造かでした
いつかあなたも
精神(スピリッツ)に基づく欲望に
抽象に基づく欲望に
気づくことが出来る日があるかも知れません
しかしそれには条件があります
それが「まず自らがクズである」ことに気づいているかどうかです
どうしてもそこが第一歩になっているようです」
No.3409 スーザン様
「「無理はいいさ」
「だが無茶はいかん」
そう仰っています
私はプレアデス系の「ありのままの自分でいい」というような教えがどうしても腑に落ちません
一見いいことをいっているように見えますが、底の浅いうわべだけの受けねらいのような気もします
実際つながっているところも宇宙人であったり「覚醒」レベルには至ってないところです
カルマを放置したまま「ありのままの自分」を肯定してしまうと、そこからの進化が止まってしまいます
「ありのままの自分」とは性欲も食欲もあらゆる我欲も持ったままの自分なのです
「世界はあるがまま」
「何も変わらず何も足すものも引くものもない」
「それでいて同じものは何もない」
という境涯は確かにありますが、それは完全覚醒した方の境涯で、凡俗の身には計り知れない認識であり、それをそのまま鵜吞みにするのは、子供が又聞きで政治経済を語るようなものです
スーザンさんのように素直に自分を観照することは大切で、それがないとどんなに格好のいいことを説いていても、結局は欺瞞の生を歩むことになってしまいます
私たちは今は多少の無理をしても「がんばらないと」いけないのです
その明確な理由をすでにここでは書きまくっていますが
「続20年後…」ではさらに詳細に、具体的に書こうと思います」
No.2330 さぼさぼ様
「性欲と向き合うというのはとても難しいものです。
それは若いころは単純だった性欲が、次第にエゴや社会性と結びついていくその複雑さにあります。
そこを看破しない限り肉体の性欲が衰えてもエゴと合体した性欲は醜く生き残っていくのです。
よくご自分を見ていますね…「そうできない、そうしたくない自分がいるもの確かです」というのはその通りで、それが執着であり、覚醒をはばむものでもあります…が、それも含めてあなたのおっしゃるようにお祈りの中に預けていくしかないのも事実です。」
No.2967 川口孝様
「「2、私は宇宙全史と出会った頃から、ロリコン癖が開花し、更に凌辱的な行為を合わせて妄想してしまう癖が離れないでいました。もともと性的な快楽が何より好きで、あの手このてを使って、あくまで自慰行為ですが性感を高めようと耽っていました。性癖に関しては、やはり女性に対する憎しみが原因であるのが自分でも解っていましたが、自己嫌悪と快楽のループから抜け出る決心が付かないまま何年も過ごしていました。 しかし最近、1の質問に書いた出来事があってから、その様な妄想はやはり全てただの妄想であり、AVなどの設定も妄想であり、そんな事は自分でも解っているのであり、別に悪い事でも何でもないのだと、納得した日から、性欲を自分でコントロール出来る様な気になっているのですが、この方向(縮小していく)でよろしいのでしょうか」 ●月読之大神 「宇宙全史に出会って、この人のエゴが段階を追って少し俯瞰できるようになったというだけよ」 「で、その途中で、ま、欲望が大きくなったような気分がしているだけ」 「で、それが過ぎると乖離して見れるようになる」 「その欲望を感じている自分に自己嫌悪とかは感じなくなってくるでしょ」 「段階が上がってくるというのはそういうことよ」 「エゴがエゴとして対峙するということを宇宙全史を知ったことで少しはずれてきたっていうことなのよ」 それまでエゴを客観的に見ることが出来なかったあなたが「欲望が大きくなった」という感じに俯瞰してみられるようになったということでしょう(大きくなったというのは、今まで客観的に見れなかったのが、離れてみると「ああこんなに大きな欲望なのか」と改めて認識しています。 つまり元々そういう欲望を持っていたのですが、それが自分のものだとは認識出来ていなかったということです。 「ロリコンの性癖」には大きく分けて2種類ありまして、大人の女性が苦手で(怖くて)、弱い小さな少女なら支配できるので、そちらに向いてしまうということがあります。 もう一つは純粋に小さな女の子が好き、あるいは幼児の純粋性が好きという(アーティスト感覚の)単なる好みでロリコンという人もいます。 あなたは前者の方で「女性に対する憎しみ」というのも、「自分の思うように扱えない女性」に対する憎しみといいますか「恐怖(怖い)」なので、おそらくこれはどこか宇宙全史から拾ってきた言い回しでしょう。 宇宙全史を自分の都合のいい言い訳に使用してはいけません。」
No.3405 海様
「虚空蔵55様、みわ様、五井先生、月読の大神、いつもありがとうございます。
> 性欲にも色々ありまして、
 以前、性に関するヒーリングのプログラムを受けたことがあります。
 性、性行為、性対象、性的好み(異性同性人間以外など)、性役割(性別役割分業)、エロティスズム(性の売り物化)、セクシー(性欲を刺激するもの)、触覚、聴覚、視覚、性差別、両性具有などにカテゴライズされていました。そこに責任や義務、呪い、抑圧、否定、恐れ、耽溺、逃避、証明、辱め、操作、支配、繁殖、混乱などが加わり、非常に重すぎるプログラムになっていました。
 段階というと性的な覚醒度?また、マズロー欲求段階説(生理的欲求、安全欲求、社会的/所属と愛欲の求、承認(尊重)欲求、自己実現欲求)も想起します。
 エロ話に為るといつも気になるのですが、ソドムとゴモラのエネルギーは無事解放されたのでしょうか?
 性欲と結合した妄想が世界を多様化するメリットもあるのでしょうけど、ここに来て負債になっているように思えます。どうも近年、性欲+抑圧が元になったと思われる狂気の犯罪が多く、カルマの解消の一環かと。
 それではよろしくお願いします。
2017・4・6
海様
「ソドムとゴモラのエネルギーは無事解放されたのでしょうか」
●もちろん開放などされていません
あのシステムは人間の性欲というエネルギーをいかに効率的に摂取するかという発想で構築されたものです
そこにはまり込んだ人間たちが解放されるということはほとんどないのです
虚空蔵55」
 
 
 
スーザン
 
No.3403 スーザン様
「①それには「まず自らがクズである」ことに気づいている必要があるとのことです
●あなたの段階に来ますと今度は「自らをクズ」というフレーズにあまりこだわらず、どこか頭の片隅に置いておいて「エゴを薄くする」「肉体身からの要求をなるべく俯瞰する」という命題に取り組んだ方がいいでしょう。
そして一番大事なのは「無理をしない」というところです。
ここでは何度も申し上げていますが、無理に断食したリ、性欲を我慢したリはしない方がベターです。
だからといってそちらに邁進するのも何ですから、そのエネルギーを別のベクトルに変更するというような工夫は必要かもしれません(例えばスポーツや趣味でしょうか)。
②こちらの意味するところは、特に風俗に行くかオナニー等の性欲を解消する行為をせずとも、祈りに邁進していくことでなんとかなるということでしょうか
●もちろんそうです…が、それもその方の段階によります。
上でも書きましたが性欲は別に悪いものでもなんでもなく、むしろそのエネルギーがないと進化の弾みがつきません。
ただそれを「無駄遣いしないように」ということなのです。
風俗やオナニー、夫婦の交わりや恋人同士の抱擁はそれ自体に何の問題もないのですが、そこに「愛」がないと「エネルギーの無駄遣い」「虚しい行為」「カルマの積み重ね」になってしまいます。
(正しい性行為に関しましては、これもいつか詳細に書くこともあるかも知れません)
そしていきなり皆さんが「無駄遣いしない」というようなテーマに沿った生き方が出来るわけではありませんから、あなたの仰るように「ほどほどに」という加減は実に大切な要素になります。
私たちはそれぞれの「次の段階」を目指すのなら、どうしてもクリアしなければならない課題があります。
それが「エネルギーを節約する」という命題です。
人間である限りこの命題は完全覚醒するまでつきまとうもので、本来の宗教や精神世界、この宇宙全史のワークでさえもつきるところ「どうすればエネルギーを節約できるか」というところに収斂します。
そのほぼ最初の段階である「性欲」という本来「種の保存」で使用されるエネルギーを、いかに次の段階のエネルギーに変換できるかというところが問われています。
しかし「種の保存」という原初の使用目的がエゴの使役に浪費されているのが現状です。
私たちはとりあえず肉体として生まれてきます。
そこから如何にして肉体を超えた境涯に、現象世界を超えた段階にたどり着くかはそれぞれにまかされています。
もちろんそこ(肉体界)にとどまり続けるのもありですが。
性欲はほとんどの方が人生の最後まで持ち越してしまう課題です。
元々そういうエネルギーの薄い方はそうでもないのですが、濃い方は五井先生の祈りがないと中々方向性を変えるということすら難しいかも知れません。
そして「無理をしない」というのはあるのですが、そこに甘えるというのはまた違うのです。
がんばって下さい
虚空蔵55」
 
 
No.3400 スーザン様
「目を逸らさず、祈りと共に在るようになりたいと」
●難しいでしょうね
例えば美味しいものを食べたり、美味しいお酒を飲んだりしたときに
ステーキや美酒と共に正露丸を食するようなものです
正露丸はご存知かもしれませんが、腹痛によく効く漢方薬ですが、かなり不味いだけではなくものすごい臭気を持っています
丁度それが祈りにあたります
美酒と正露丸を飲むことはそもそも肉体が拒むでしょう
つまりよからぬことを思う時、中々祈りと共にあることは出来ないのです
何故なら「よからぬこと」の方が勝り、「よからぬこと」を打ち消す、もしくはその快楽が減少してしまうことを肉体が拒否します
この辺りを克服できるといいのですが
虚空蔵55
 
 
No.3399 スーザン様
 
「書いてはみたものの、本当にクズとは思えていないのではという自らへの疑問でした」
●同じことです
そう思えるあなたがあればいいのです
誰も真理を知ったからといってその瞬間からキッパリと肉欲から解放されるわけではないのです
何事も徐々に徐々に
五井先生の祈りがあれば
気づかぬうちに
驚くほどの進化を遂げているのです
求むべきは
祈りと共に
自らをよく見つめること
それも常住坐臥(下心丸出しの時でも、風俗に行っているときでも)
それが出来るようになると
素晴らしいですね
虚空蔵55」
 
No.3621
「スーザン様
性欲をどうするかは問題ではありません
しかしそれを理由になすべきことから目を背けるのは違います
何事もとことん集中するのはいい事です
中途半端はエネルギーを失います
世間の善悪に囚われなくてもよいのです
相手や周りに迷惑をかけることなく
自分自身に誤魔化しがなければ
何をしてもよいのです
式=解
と書きました。
これの意味は、ずいぶん以前に書いたと思いますが、物理学も数学も(物理は特に顕著ですが)ありとあらゆる現象(数式)は、突き詰めるとすべてが最終的な一つの解を持ちます。
それが「認識」であり
「あなた」であるのです。
究極の問いは「あなた」であり
究極の「解」も「あなた」なのです
虚空蔵55」
No.2209
「他の方からも同じような質問があり、早くお答えしようとしてなかなか出来なかったものに「夢精」に関するものがあります。
 
エネルギーを貯めるため禁欲といいますか、性欲を抑えていますと、健康な男子ならだれでも通常は夢精をしてしまいます。
 
これはあまり深く考えないで、そのままにしておいて結構です。
逆にそのことで悩んだり、色々七転八倒しても却ってそのことでエネルギーを消耗してしまいます。
 
「性欲をコントロールする」という段階に到達すると、それはその時にまたそういう教えがあるのですが、今はまだその前の段階で、やるべき他のことをキチンとこなしていかねばならない時期です。
 
がんばって下さい」
 
No.3290 宏史様
「虚空蔵55様
みわ様
五井先生
月詠之大神様
先日ご回答いただいた中で疑問が出てきたのでご指導のほど宜しくお願い致します。
世界と自らのエゴへの宣戦布告の部分で世界という箇所について非公開情報8のP47の月詠之大神様とのやりとりで
「世界を信頼すると(世界を)敵に回さなくなるんだよ」
「自分のね」
この部分との矛盾を感じどういうことなのかわからず混乱しています。
世界の定義が違うのかなとも思いましたがきちんとしたことがわからないのでご指導のほどお願いします。
エゴを相手にする時
性欲ならSEXをしない自慰をしないそもそもそういったものに近づかない
物欲なら必要以上のものを持たない買わない。必要のないものを捨てる。
食欲なら満腹まで食べない。腹6分から腹8分目、体に悪い加工品菓子類等を食べない可能な限り体に良い物を食べるなどなんとなく対処がわかるのですが世界を相手となるとどういったことに注意を払えばいいのでしょうか?
すべての基本は消えてゆく姿とお祈りで五井先生におまかせすることだとわかってるのですが世界を相手にする時この基本だけ守っていればいいのかどうかお教えください。
非公開情報8のP116にある陰始への対処の中で
B・その感情に巻き込まれないために「生きたい」という希望、「生きて好きなことを思いっきりしたい」という前向きな感情を育むこと。
と書かれてあり、エゴを薄めるのとは逆のように思えるのですがこれはある一定の段階までは育みその段階を超え先を目指す時落としてゆくものと解釈すればよいのでしょうか?
それともエゴを薄めてゆく段階で本心の思いとして立ち現れてくるものでエゴの思いとは違うものと解釈すべきなのかわかりませんご指導のほどよろしくお願いします。
2017・1・4
宏史様
中々いい質問ですが、質問が明確ではないのでこちらで勝手にまとめてみました
あなたは
●「世界」=「自分」
というところと
●「自分」=「エゴ」
この等式に矛盾を感じておられるのだと思います
つまり「世界」を信頼するということは(「世界」=「自分」なので)「自分」を信頼するということだが
「世界」=「自分」=「エゴ」なのに、それでは「エゴ」を信頼することになってしまう
それで「世界を敵に回さなくなってしまうのでしょうか」という質問だと思います
この疑問は非公開情報8のURACHUさんへの回答から来ていますが、この時の月読之大神の意図は、
「世界を信頼する」いうことは、「自分を信頼する」ということです
そこではあなたに「自分を信頼できますか」というところが求められます
つまり「自分を信頼できる」自分でしょうかということです
もし自分を信頼できないのなら、「信頼できる自分になりましょうね」ということです
もちろんエゴまみれの自分は信頼などできるわけがありません
ですからエゴを薄くしていって信頼できる自分になりましょうねということです
月読之大神の言葉は結構はしょって降ろされて来ます
「世界を信頼すると(世界を)敵に回さなくなるんだよ」
これは
「自分が信頼できるようになると、世界を敵に回さなくなる」
という意味でもあるのです
「エゴを相手にする時
性欲ならSEXをしない自慰をしないそもそもそういったものに近づかない
物欲なら必要以上のものを持たない買わない。必要のないものを捨てる。
食欲なら満腹まで食べない。腹6分から腹8分目、体に悪い加工品菓子類等を食べない可能な限り体に良い物を食べるなどなんとなく対処がわかるのですが世界を相手となるとどういったことに注意を払えばいいのでしょうか?
すべての基本は消えてゆく姿とお祈りで五井先生におまかせすることだとわかってるのですが世界を相手にする時この基本だけ守っていればいいのかどうかお教えください」
●すでに答えましたように「世界」=「あなた」ですから、世界を相手にしようが自分を相手にしようが同じことです
ただセックスをしたいのならすればいいですし、おいしいものを食べたいのなら食べればいいのです
もちろん腹八分目は大事ですが、多少羽目を外してもいいのです(そうしたければ)
本当にそういう境涯に至りますと、そもそもセックスをしたいとはあまり思わなくなりますし、腹いっぱい食べたいとも思わなくなります
そうでない限り無理してそういうことを自分に課してもあまり意味がありませんし、却ってストレスをためることになってしまいます
「エゴを薄めるのとは逆のように思えるのですがこれはある一定の段階までは育(はぐく)みその段階を超え先を目指す時落としてゆくものと解釈すればよいのでしょうか」
●その通りです
すでに宇宙全史のワークの中では色々書いておきましたが、いつかどこかできちんと整理しなくてはと思っていました
宇宙全史のワークはかなり特殊な立ち位置にありまして、
①精神世界において自らの幸せを求めることを第一義の目的とする
(この段階は上は神々の覚醒というところまで含みます)
②世俗の幸福を求めることを止め、生きるという選択を止め、完全なる無を求める完全覚醒を目的とする
(ここが一般的な究極の覚醒になります)
③完全覚醒のさらなる上位の覚醒を探求する
これまでの人類史では②までが最上級の覚醒とされていました(というより③の存在自体が不可知のものでした)
しかし宇宙全史のワークでは①~③までをまかなっています
ですから皆さんは色々矛盾を感じられたりわけが分からなかったりされるかも知れませんが、一般的には①の覚醒を目指しているとお考えになって結構です
そうでないと無理軋轢が生じて真直ぐな進化が損なわれてしまいます
しかしいつか完全覚醒を目指す方が出て来た時に、その選択肢がひとつではないよという指針がここにはあるのです
その恩寵はおそらく計り知れないと思います
それにしても
私はまだ覚醒もしていませんが
なぜ完全覚醒すらも超えた世界を知り得るのでしょうか
遊撃手とは
一体如何なる存在なのでしょうか
面白いですね
虚空蔵55」
No.3281 宏史様
「虚空蔵55様
みわ様
五井先生
月詠之大神様
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
旧年中宇宙全史ワークにおかれましては多くのことを学ばせていただきありがとうございます。
東海地震のため慌てて防災用品を買い覚悟のなさから戦々恐々の日々を過ごしたことが2016年前半印象に残ってます。
非公開情報9を読ませていただいたあとは恩寵で先延ばししていただけただけでまだ助かっていないことがわかり、また私達の学びが遅れているせいで虚空蔵55様の覚醒が遅れているとは露知らずエゴに振り回され目先のことばかりに目が向いていた自分にハッとさせられました。
虚空蔵55様の覚醒時の世界移動についていけるよう改めてエゴを薄くしお祈りを欠かさずにしていこうと身が引き締まる思いです。
2016年自分の幸不幸について考え、不平不満ばかり思考するのはなぜか?
どうしてこう不平不満ばかりなのか?
を見つめた時自分自身の思いを無視し自分を蔑ろにしている自分に気が付きました。
あれをしてはいけない、これはだめ。
こういう考えではいけない。
まず他の人のことを終わらせてから自分のこと。
もっと頑張らなければ。
この思いはエゴに違いない無視しなければ。
ここで自分が我慢すれば丸く収まる。
自分を粗末に扱っていた自分がそこにいます。
五井先生の御本で再三書かれている「自分を許し、人を許し、自分を愛し、人を愛す」
これを思い出し、できてなかったなと思いまずは自分を愛することを始めなければとここ最近は自分を大切にし自分の思いや気持ちを受け止めようと頑張っています。
ただ自分を大切にするのと甘やかしエゴを増長させるのは違うと思うのですがどう区別をつけて過ごしていけばよいかご指導いただきたくお願い致します。
2016年は自分自身が作っている世界についても考えさせられる年でした。
不平不満、妬み、嫉み、僻み、悪意、相手を心のなかで貶めて優越感に浸ろうとする卑しい心、自分ではやっていないと思っていた同調圧力、区別と称してやっていた差別的考え、こういった悪感情が目まぐるしく頭をよぎりそれに囚われ自ら地獄を作り出していたのだと気づきました。
止めようと思っても湧き上がるものはもうどうしようもないと思いせめてそれに囚われず消えてゆく姿と世界平和の祈りにおまかせするよう努めています。
新しい地球、ユートピアには馴染まないエゴをまだたくさん抱えているのが分かりこれらを落として新しい地球に残れるよう頑張ろうと思います。
2014年にご指導していただいた自律神経の問題について長時間のパソコン作業が大きな要因だと気づいたのですがいつの間にか忘れてパソコン画面に没頭していたら体調を崩してしました。
今年こそは自律神経を整えるべくパソコンの使用時間を減らそうと思ってます。
エゴを減らせたかと思ったらまた同じエゴの違うパターンに引っかかりと一進一退を繰り返しているようで気が逸ります。
今年はどんな年になるのか東海地震はどうなるのか不安を感じますが今こうして新年を迎えられることをありがたく思います。
乱筆悪文のためお見苦しいかと存じますがお許しください。
今後とも一層のご指導、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
2017・1・1
宏史様
「自分を大切にするのと甘やかしエゴを増長させるのは違うと思うのですがどう区別をつけて過ごしていけばよいか」
●本心の思い通りに動くことが「自分を大切にする」ことであり
エゴの思い(肉体の思い)通りに動くことがエゴを増長させることです
本心とはあなたの奥底にあり、それでも常に表面に微かにでも現れようとしている
良心のようなものです
一般的にエゴの思いとは肉の思いでもあり
肉身から派生する思いです
食欲
性欲
美醜にこだわる意識
その他の肉体に依存するあらゆる快楽
その根源は生存欲にあります
生存欲からは
縄張り意識
独占欲
自己顕示欲
などが生まれています
境涯が進みエゴが薄まっていくと
最後の最後で抵抗してくるのが
やはり生存欲なのですが
これは一般的なものではなく
根源的な生存欲で
消えたくない
消え去りたくないという
エゴの最後のあがきのようなものが
抵抗してきます
しかし今は
この宇宙全史の初めに降ろされた
「あなたの良心に従いなさい」
という単純明快な言葉を忘れず
祈りを忘れずにいれば
やがて
視野が開け
気づいた時には
思ってもみなかったような境地に
あることに驚かれるはずです
自分が
エゴである
という自覚を持たねば
何事も始まらないのです
自分がくずだと気が付かねば
自分がエゴだと気づかねば
誰も
エゴ(自分)を捨てようなどとは思いません
みなさん方が
あれこれ悩んでいるのは
ここに気づいていないからなのです
まだまだ世の中は捨てたものではない
自分はまだいけている
そう思っているうちは
永久に
エゴを薄くしていくことは出来ないでしょう
エゴを洗練させることは出来るかもしれません
或いはエゴをカッコ良く出来るかもしれません
或いは勇気あるエゴ
英雄のエゴ
そういうエゴを作り上げることも出来るでしょう
しかし
エゴを薄くしていくことは
出来ないのです
そこが
最初の
一歩です
でもそう思えないうちは
まだここに来るべきではないのです
もっと世の中で
遊んでいればいいのです
あるいは
自分を甘やかせていればいいのです
誰もそれを止めることはしないでしょうし
私も
宇宙全史にかかわる上の方々も
止めません
もしここに関わるのなら
自分の判断で
自らここに来たと
世界と
あなたのエゴに
宣戦布告するのです
虚空蔵55」
 
 
No.2334 なし様
「①2015・3・14
虚空蔵55さま、みわさま、こんにちは。私の中には未だに宇宙全史のワークに対する疑念が残っているのですが、その反対に最近特に気づきを多く頂いていること(南半球でのワークの効果でしょうか)を感じてもいましてエゴが真っ二つに割れたまま、ただただ世界平和の祈りを祈らせて頂いています。もうあまり力が無いのでしょうか、陰糸の嫌がらせに遇っても、それは起こることであって、消えていく姿なのだという気づきをすぐに頂けるようになり、陰糸のこと自体もあまり想念に映らなくなってきています。
19年後にこの肉体想念が何処で何をしているのか、というような事も、あまり考え込まなくなっています。つまり先の事に対して不安が無いのだと思います。そして最近、急加速するように己の自由性を感じていまして、清々しい時間が圧倒的に増えています。とてもありがたい事だと思います。
しかし、そのように書くとなにか良いことだけの様な感じがしますが、実際は何をしても良いのだという想いがあると、世界との調和を忘れて、エゴの欲望の赴くまま生きている可能性に気がついて、立ち止まることも多いですし、これから起こるであろう激動の時代に対する心構えというか、危機感というか、このワークに集う皆さまが抱いている様な必死さが私から失われていくのを感じています。
そこで質問があります。
別冊の宇宙全史に書いてあるように、自由にしたい事をして生きても良いのだということは、私にはエゴの観点だという様に思えるのですが、エゴだけが持つそのしたい事の中に良い悪いなどの仕分けはあるのでしょうか?結果に執着せずに自分自身を信用するならば(例えば快楽殺人や詐欺、搾取などはしないだろう、という風に)願望を叶えようとして行為に移すことは、魂の自由性を表していると言えるのでしょうか?
例を挙げますと、低レベルでお恥ずかしい限りですが、私が今越えたいのは、女性と目が合って何か感じるものがあっても、声を掛けるのは社会性の低い恥ずかしい行為である、と言う概念です。
ここまで書いてやっぱり消そうかと一寸迷いましたし、虚空蔵55さまや、神霊の方々や、掲載された場合にはここを読む皆さまの反応が、どんなものなのか、とても恐ろしいのですが(現に目を反らそうと様々な良い反応だけを予想しようとしています)そういったことを恐れずに生きることも自由の中に含まれていると思いますし、どんどんそうして行こうと決めましたので、このまま書き込むことにしました。本当にありがとうございます、ご免なさい。なんとかお応えいただけますように。
②2015・3・25
虚空蔵55さま、みわさま、こんにちは。今も遠く南半球でワークを行われているのでしょうか、、、ありがとうございます。
先ほど自分の中でまた一区切り付いた感触がありましたのでご報告に参りました。3日ほど前から風邪に似て非なる症状に入り、仕事を休みました。特にお腹と胸が張った様な感覚が苦しくて堪りませんでしたが(食欲の過度な減退もありました)無事に治り、また仕事を始めてから全く一人きりになれない状況でしたが、不思議と今日は家で静かに、布団を干したり、自分のスペース周りを掃除したり、一人これを書いています。
昨日が不調のピークだったのか、両親への憎しみがこれ以上無い位でしたが、湧くままに任せていました。今日は爽快な気分を満喫しています。ありがとうございました。
このところ私の周りにも性欲を刺激するすれ違いが頻発しており、我慢するよりはそれで成り行きに自分自身を任せれば良いのだと、開き直った時から、格別目を爛々とさせて歩くことも無くなった様に思います。これも陰始の呪縛が一つ緩んだことだと言えますでしょうか。
以前一度だけ霊能者の方にみて貰った時、「あなたは女で失敗する」と注意されましたが、これは社会的な事柄というより、今歩んでいる霊的な道でのことだったのではないかと、、、その方の事は宇宙全史別冊を読んでから疑っていましたが、的を得ていたのかもしれません。
この先にどのような女性との出会いがあろうとも、または今生では無いのだろうとも、やはり宇宙の総決算の時に地上に修行に降りた重要性をもっと噛み締めて邁進いたします。
余談になりますが 、私は最近特にまんだらけに赴く事が頻繁でして、時には宇宙全史のことが念頭から飛んでいながらにまんだらけで漫画を漁っていましたが、この頻繁な訪問には何か意味はあったのでしょうか?
何か生ぬるい日常が私の前に展開されていますが、1日も早く革新がこの世界に訪れますように。
おお目こぼし失礼致しました。ありがとうございます。
なし様
●「エゴだけが持つそのしたい事の中に良い悪いなどの仕分けはあるのでしょうか」
○エゴの欲望の中に「いい」「悪い」はありません。
それは単純に「欲望」に過ぎず、その「欲望」は肉体界における「執着」の元になります。
そしてその「執着」こそが覚醒を阻む根本原因になるのです。
ですから「覚醒」を望まなければ「欲望」は別に「悪く」も「良く」もないのです。それはただそこにあるものになります。そしてそれに従って人は肉の身で生きていくことになります。
ただ現実世界(肉の身)が嫌になってどうしてもこのせちがらい世界から抜け出たいと思えるようになりますと、それが「覚醒を望む」ということですから、そこには「覚醒を阻むもの」としての欲望の善悪という概念が出てきます。
しかしその段階を超えていきますと本来欲望には(やはり)善悪というものはなく、あるのは「欲望にこだわる自分(エゴ)」があるだけと達観できるはずです。
「自由に生きる」ということの中に多くの意味が含まれています。
これは多くの方たちの問題でもありますのでわかりやすく箇条書きにしておきます。
①自由に生きるということは勝手気ままに生きることではない
②本当の自由の中には調和という要素がある
③その調和は周囲との調和というのはもちろん、自分の中でのあらゆる思いや肉体が持つ記憶というものに調和(統一感)があるということ
④もしその調和があなたの「自由」の中になかったら、あなたの「自由」はあなたに幸せをもたらすことはなく、常に葛藤と後悔、そしてその見返りとしてのカルマを受け続け、本来自由が持つ平穏さと奔放さ、さらにエネルギッシュな感覚は決して感じることはないでしょう
何も恐れずあらゆる人生の局面でチャレンジしていくという精神は崇高なものですが、葛藤を伴ったチャレンジは軋轢しか残しません。
「宇宙全史」第一巻のサタンの章で詳細に語りましたが、サタンは非常にピュアな存在でした。
特に地球史における初期の段階では人類の他の誰よりもピュアだったかもしれません。
そのピュアさは後々まで続いているのですが、それが人類の「暗部」に焦点を当ててしまったため「悪魔」とか「闇の存在」とか「悪の権化」のような意味合いで扱われるのです。
しかしサタン自身は地上にある薄汚れた(中途半端な)人類よりもはるかにピュアな存在といえるのです。
彼は陰始とは別な存在ですが、ピュアである(葛藤がない)彼でさえ陰始の影響下にあり、それ故余計に人類の闇に手を染めていったということがあります。
やはり「宇宙全史」で語られていますが、カルマ(しっぺ返し)はその人にその行為をしたときに「葛藤がなければ生じない」とありました。
まったくその通りで、たとえ人を殺そうとも何らの葛藤もその殺人者になければその行為によるカルマは殺人者には降りかかりません。
むしろ殺された方が(これがあっけらかんと殺されていれば別ですが)恨みや憎しみを持っているとその輪廻にはまり込んでいくことになります。
こうしたカラクリはよくよく読み込んで理解していかないと中々腑に落ちないものですが、やがてこうした宇宙全史の内容を詳細に学べる空間(機会)が出来て来るかもしれません。
さてここで私がいいたいかなり重要なことがあります。
それは、
「健全な精神性の中でしか人は進化できない」
(この言葉はドン・ファンの言葉です・たぶん正確に写してはいませんがそんなニュアンスです)
この地球では何をやってもいいですし、何を考えてもOKです。
だからこそ陰始やサタン、エホバたちが大いに活躍してきたのです。
もちろん彼らだけではなく(その影響下にあったとはいえ)人類の大半が陰湿、陰惨、無慈悲な行為をしてきました。
しかし陰始もサタンもその他の存在たちもこの宇宙最後の決算の時期あって果たして進化してきていたのかといえば…それはないのです。
そこに「健全な精神」がなければ」意識は進化を果たすことが出来ないのです。
あなたがあなた自身の「自由」を求めるとき、果たしてそこに「調和」と「健全性」があるかどうか自らに問うてください。
それが本当の「自由」の指標となるでしょう
やがて徐々に明らかにされていきますがこう考えてみてください。
私たち一人一人は個人ではありますが、実際は大きな生物の一部だということです。その大きな生物とは宇宙全史の概念の中の「集合魂」というものがあります。
そしてその集合魂をまとめている「地球生命の魂」というものがあるということも記しておきました。
こうした大きな存在は私たち個人から見ますと何か別な存在のように思えますが、それはあなた自身でもあるのです。
例えていいますと…人の身体全体が「地球生命の魂」としますと、その中の臓器一つ一つが「集合魂」といえます。
その臓器の中の小さな組織や細胞の一つ一つがあなたという個人でもあるのです。
その細胞が「俺は何でも自分の好きなようにする」「俺は自由なんだ」と好き勝手しますと、それはもうがん細胞と同じことになります。
そこには自由にしているように見えても周囲との調和がないため自らも全体をもむしばむ存在と化するのです。
つまり「調和がない」という状況は、「自分は全体と同じもの(全体の一部)」という認識がないため生じるエゴ独特の症状といえます。
これもエゴが薄くなるにつれ次第に視野が広がり、「自分と世界の一体感」という感覚が濃くなっていきます。
そうなりますと自由に生きてなおかつ世界とも調和して生きていけるという、
「70にして心の欲するところに従えども則を超えず」
という孔子の有名な言葉がありますが、そういう境地に落ち着いていきます。
そして精神の健全性とは私たちの大本である「地球生命の魂」という身体全体が病んでいないかということがあります。
それには一つ一つの細胞であるあなたが病んでいないか、臓器一つ一つが健全であるかどうかということが問われています。
病気の身体は正常に発育することが出来ないのです。
だからこそそこには「健全な精神」が求められているのです
虚空蔵55
(なおサタンはそのピュアさゆえ19年後までには分裂していくことになります。白サタンと黒サタンとでも名付けましょうか…そういうものに分かれて地球に残るもの、消えていくものとなりますが、彼の分身でもありますエル・ランティもやはり分裂してその存在の審判を受けなければならない時期が迫っています)」
 
No.3686 スーザン様
虚空蔵55様、みわ様
 
この度はNo.3681の質問に対し、ご回答を頂きありがとうございました。
 
また、「他の大宇宙やさらにまたその上の」という曖昧な表現を用いてしまい、ご迷惑をお掛けしました。申し訳ございませんでした。
 
確かにこの部分は自分の中でも、該当する記述を参照せずに何となくで書いてしまった部分でしたので、曖昧な表現になっておりました。
 
自分の中で微妙にうやむやにしていた部分を指摘して頂いたことで、驚きと同時に私の詰めの甘さを実感致しました。
 
再度きちんと質問をさせて頂きます。
 
「他の大宇宙やさらにまたその上の」という部分ですが、これは質疑応答5 p.329〜p.330 に書かれている部分が私の頭にあったのだと思います。
 
私たちはオームという一つの小さな泡のような宇宙に生息する。そして、オーム宇宙のような宇宙(泡)は他にもたくさんあり、「大宇宙」という大きな泡に包括されている。その大宇宙もまた数多くあり...というように続いていく。
 
したがいまして、私の曖昧だった部分の質問は、
 
もしも私の世界が無数のスクリーンに映し出された映像のうちの一つであり、その元の映像となる光が実存と呼ばれる領域を根源としているならば、その光はこのオーム宇宙のみでなく、他の大宇宙やさらにまた大宇宙を包含するより巨大な存在も...という現れの世界全てに共通する光なのでしょうか?
 
といった形になると思います。虚空蔵55様から「現れの世界」というところにおいては「その通り」というご回答を頂きましたので、
 
オーム宇宙のみでなく、他の大宇宙やさらにまた大宇宙を包含するより巨大な存在もまた実存あるいは真我を根源とするエネルギーにより映し出された映像(現れ)なのでしょうか?
 
と改めて質問し直させて頂きます。また、同じp.330に、月読之大神はこうした段階を超えた「世界」から来ておられます、その「世界」とは「大宇宙」やオームのような「宇宙」を造ると意図した「世界」です。
 
という記述を拝見し、わたしはその「世界」を単純に実存・真我(あるいはそれ以上)の領域と理解し、その領域が創造というような意図を発するのか、そもそも意図のようなものを持つものなのか不思議に感じたのだと思います。
 
しかし、オーム宇宙や、それを包含する大宇宙の有り様さえよく分かったおりませんので、その領域の質問になったしまいますと手も足も出ないのが現状です。
 
そもそもこういった領域を探求するにはあまりにも私は脆弱すぎて、まともに取り組んでしまいますと、精神の崩壊や、生きていくことが出来なくなってしまうほどの重大な危機を迎えてしまうような気さえします。
 
No.3681のご回答で、(単純計算で)これまでオーム宇宙からは1兆年に一人の割合でしか完全覚醒者が生まれていないことになるとお聞きしました。
 
数学の世界では100年に一度の天才でも驚異的ですが、それがオーム宇宙全体で1兆年に一人となると一体その偉業を成し遂げた方はどれ程の大天才だったのか、どれ程の精進を重ねて初めて成し遂げられたことなのか、その道筋が全く想像できません。
 
一応宇宙全史のワークに何とか引っかかり、そのワークの中で途方もない領域の質問をさせて頂ける機会があるため、もし本気で望むことが出来れば、或いは完全覚醒するというチャンスが、私にも極々僅かながらあるのかもしれないと思ってしまいますが(勘違いしてしまいますが)、これさえも中々あり得ない幸運なのかもしれません。
 
これからは、私も探究心を持って宇宙全史のワークに参加させて頂きたいと改めて考えております。
 
その私なりの探求の結果がどのような実を結ぶのか、その前にいつか実を結ぶことがあるのか、それすら未知数ですが、期待とも不安とも言えないような不思議な感覚を持ちつつ、仰るように精進して行きたいと思います。
 
この度もお忙しいところありがとうございました。
 
今後ともよろしくお願い致します。
 
2018・11・28
 
 
スーザン様
「オーム宇宙のみでなく、他の大宇宙やさらにまた大宇宙を包含するより巨大な存在もまた実存あるいは真我を根源とするエネルギーにより映し出された映像(現れ)なのでしょうか?」
●それでもまだ曖昧な質問といわざるを得ないのです。
というよりもその答えが曖昧さを許されない世界にあるといった方がいいかも知れません。
分かりにくいですが…こういう質問は通常して来ないのです。
そういうように出来ています。
だから正確な質問が出来ない状態で、質問して来ているということもあります。
月読之大神と私の問答です。
●何故みんなは質問して来ないのでしょうか。
「出来ないようになっている」
これは私が究極の質問をしていた時の問答にあったものです。
このオーム宇宙を含む大宇宙、その大宇宙を(ほぼ)無数に含む含む超巨大な螺旋輪宝宇宙(ねじりんぼううちゅう)、それが現れの世界の一つの区切りです。
ここまでの探求でさえ人類は未だ辿り着くことは出来ていません。
しかし私はすでにその先遥か彼方まで見透しています。
その時の問答中に先の会話がありました。
「出来ないようになっている」
ならば「出来るように変えればいい」
それが宇宙全史の大学の意図になります。
しかしそれには中学に入り、高校を卒業しなければなりません。
「そもそもこういった領域を探求するにはあまりにも私は脆弱すぎて」
●そうなのです。
まだあなたは脆弱なのです。
例えば女性に弱いというところがありますが、しかしそれも食欲と同じで克服できるものですが、無理やりというところではありません。
丁度先ほど「質疑応答7」を書いていましたが、その中に「食べなくなる」という追補を書いておきました。
これは「性欲をなくす(食欲をなくす)」と同じようなものですから、参考になると思います。
語りたいことは山ほどあるのですが、如何せん時間がありません。
私も目の前の出来ることを粛々とこなしていくしかないのです。
ただ脆弱なままで、重い肉体を抱えたままで遥か虚空を超えた領域に至る道は存在しません。
私たちは未だその重い肉体がなければ存在すら出来ない脆弱な身です。
それを祈りは変えていってくれるのです。
虚空蔵55」
No.758  hama
「虚空蔵55様、みわ様
宇宙全史、並びに質問コーナー、大変勉強になります。折角の機会ですので、初めて2点、質問させていただきます。
1つは、マスターベーションについてです。60歳近い男性ですが、まだ「性」にとらわれがあります。ポルノなどの映像を見てマスをかくと、いわゆるネガティヴな存在(?)にエネルギーを与えることになってしまうのでしょうか?また、画像の女性などに妙なエネルギーを送り、迷惑をかけることになるのでしょうか。
2つ目は、娘(21歳)についてです。最近、神道系の霊能者の方と本人が面談する機会があり、憑依体質だと言われたようです。小さい頃から、霊のようなものが見えたりしていたようです。本人の自覚・成長が根本でしょうが、親として何か注意してあげられることがあればお教え下さい。お忙しいことと思いますが、よろしくお願いいたします。
 
2009・4・3
hama
 
マスターベーションについてお答えします。
おっしゃるようにあなたがそういう行為をなさると、ネガティブな存在にエネルギーを与えることになります。
しかしその存在の遥か大本をたどると確かにエホバやエル・ランティではありますが、直接的には地獄(下幽界)の亡者達にそのエネルギーは支払われています。
そして色情地獄にある亡者達は、そのエネルギーを得ることでなお一層その環境から抜け出ることが出来なくなっています。
 
画像の女性につきましては、彼女は無事ですが、あなた自身がその行為により色情の因縁を積み重ねることになります。
 
実はマスは若い人がやるにはあまり問題ないのですが、年を経るとそのエネルギーが変化しまして、地獄界まで届いてしまうのです。
若い方の性エネルギーはそこまで届かず、途中で拡散(発散)してしまいます。
年を重ねるとねっとりしたエネルギーになってしまい、重くなり、その濃さが色情界と連結してしまうのです。
 
解消するにはどうしたらいいのでしょうか。
 
「お祈りをしなさい」
 
それで何とかなるのでしょうか。
 
「何とかなる」
 
この後上の方たちと色々お話ししたのですが、やはり社会的には赤線復活といいますか、売春を政府で管理して行うようなシステムを作るべきではないかという話題になりました。
これは必須だそうです(男女共にです)。
 
上の方がお祈りで何とかなるとおっしゃいましたので、必ず何とかなりますが、万が一ダメな時は、このBBSの特色であります、マラソンをお勧めいたします。
肉体がベロンベロンに疲れてしまうと、そういう欲望もなくなってしまいます。
しかしこれはトコトンまで追い込まないといけないので、中々難しいかもしれません(例えば毎日3時間以上走るとかです)。
 
 
娘さんについてのご質問です。
娘さんの天命は、
 
「憑依体質を気にしないで普通に生きること」
 
娘さんは他と違うということで、それを何でもいいわけに使っているところがあります。
 
「周りの評価に頼ってはいけない」
 
「あるいはそれをいいわけにしない」
 
「そうしないと翻弄されてしまう」
 
そしてあなたの天命は、
 
「家長として家族を纏め上げ、家庭を全うさせなさい」
 
それが天命です。
しかしこのままでは無理なようですが、
 
「奥様とお子さんに自分より先に目を向けないと、あなたの自己中心性、性欲はおさまらない」
 
「お子さんと奥さんに尽くしてあげなさい」
 
娘さんの憑依体質には、
 
「あなたがこの世に出てきたということは、私たちが守っているから出てきたのであるから、憑依体質ということで何も恐れる必要はないんだよ」
 
娘さんは憑依体質といわれると、もっと色んなものを引き寄せてしまいます。
だから、
 
「ここに生まれたということは、守りがあるのだということなのだから、気にせずに過ごしなさい」
 
そう伝えて下さい。
 
ご健闘をお祈りします
 
 
虚空蔵55」
 
 
 
虚空蔵
 
2013/4/17 No.244
これは右のNo1744に対するお答えになります。
●「虚空蔵さん、軽々しく戦士になりといと書き込みましたこと申し訳ありません」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
ドン・ファン系列の戦士にあこがれを持つのはいいことです。
決して否定はしませんが、彼らの生涯をかけたその壮絶な忍耐と自己鍛錬、自らの愚かさへの明晰な戦略なくしては到達できるものでもないのです。
戦士たちがなし得た偉業に対して、本来私たち日常の意識しか持ちえない者たちが云々出来ることではないのですが、それでも一種の「あこがれ」として畏敬の念を持ちつつカスタネダを通して投影される彼らの姿を会間見ることは出来るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
●「人に惑わされ、人に決断を委ね、全てを人のせいにする・・・。これを完全に無くす必要があります。
私のこれまでの人生、実に多くの責任転嫁ありました。もうそれは止そうと思います。
これも私にとり簡単なことではありません。しかしそこにしか自分の力で覚醒に導く方法は無いと思われます
これも私にとり簡単なことではありません。しかしそこにしか自分の力で覚醒に導く方法は無いと思われます」
○あなたは人生のありとあらゆることを人任せにすることが可能です。
しかしいったん「覚醒」に関しましては、それはあり得ないのです。
様々な宗教や救世主、教祖様に自らをゆだね、救っていただこうという都合のいいやり方は、ここで何度も申し上げておりますように、自らのアイデンティティを放棄することであり、その姿勢はこの宇宙のセオリーに反するのです。
もちろん何かを学ぶときに「真摯な姿勢」「謙虚さ」「礼節」「思い込みを持たない心」「全托」等は必要ですが、それは「自らの判断を放棄してしまう」ということとはまた異なるのです。
あなたの外に救世主はなく、あなたを救うものはあなた自身であるのです。
ここでは何度もいいますが、よく勘違いされているのは「世界を救う」「他人を救う」というとんでもない欲望を持ってしまうことです。
そんなことは不可能なのですが、エゴは自らを省みることから目を背けるために「世界」や「他人」を救うという行動、姿勢で満足しようとします。
それがほとんどの精神世界にある方たちの有り様なのですが、そこに気付くにはとても強い精神力が求められます。
ただ人を導けるとしたら、その方が(高度な)覚醒しているときだけです。
そこに至らずに「世界を救う」などと思っているうちは、勘違いも甚だしいということです。
もし私がシャギーさんの求めに応じて「戦士」としての教えを授けようとしたとします。
その結果は(私がいまだ覚醒していないために)ほぼ「愛欲」「金銭欲」「権力欲」にまみれた巷の宗教と変わらない在り様になってしまうでしょう。
そして私もシャギーさんもおそらくどうにもならないどツボにはまってしまうか、怨愛にまみれた道を歩むしかなくなるかもしれません。
先ほども書きましたが、そもそも覚醒した方は「世界を救う」「他人を救う」などという了見を持ちません。
つまりそういうことが出来る、やる、やらなければならないと宣言している教祖たちは覚醒していないということであり、そこから導かれる信徒たちの有様は悲惨な結果に終わります。
教祖は「弟子がなっとらん」信徒は「騙された」と互いにその責任をなすりあいます。
戦士への道へ導けるのはナワールという莫大なエネルギーを備えた、一定の段階の覚醒状態にある存在だけです。
しかもその教えを受けられるのは、自ら志願してではなく「永遠(もしくは無限)・あるいは大いなる存在」に導かれた(選抜された)ものだけなのです。
そしてその「永遠」に導かれるためには、あなたにその準備が出来ていて、しかもその時にタイミングがあっていなければなりません。
孤独な鳥であることを恐れず
誰よりも高く飛び
やさしくうたう
そしていったん飛び立てば二度と戻らないという決意を秘めて
しばしの旋回したのちに
この地上を後にするのです
皆様方は「この地上世界が大好き」なのです。
「覚醒を求めている」とは言っていますが、本当は他人や友人に話を聞いてもらって自分を認めてもらい、家族の団らんを求め、美味しいものを食べ、彼氏彼女を日々追い求め、少しでも人に認めてもらいた、世に認めてもらおう、人よりお金を持っていたい、長生きしたい、楽したい、子供の成長を楽しみにしたい・・・とその意識、思考は地上界にへばりついたままなのです。
本当に覚醒したいのなら、何度もここで申しあげていますように「覚悟」が必要なのです。
そしてその覚悟とは「この地上を離れる覚悟」なのです。
地上を離れる覚悟とは、
①「すべての執着から離脱する」
②「すべての欲望を捨てる」
①のすべての執着とは、あなたの友人、知り合い、家族、家系、仕事関係の付き合い、物に対する執着
②のすべての欲望とは、食欲、性欲、睡眠欲、権力欲、自己顕示欲、物欲、金銭欲
こうした私たちをこの地上界に縛り付けている「接着剤」を希釈していかないと、覚醒を得ることは不可能なのです。
他に方法はありません。
やがて(いきなりは無理なので)徐々に執着や欲望を薄くしていくと、その因となっているカルマが次第に解き放たれていきます。
そうすると欲望・執着の希釈により加速度がついて覚醒に近づいていくことになります。
しかし私たち凡夫にはそもそも「欲望を絶つ」「執着から離れる」ということが出来ません。
皆様は色々質問してこられますが、本当に覚醒したいのなら欲望と執着を絶てばいいのですが、そんな簡単なこと、シンプルなことが絶対に出来ないのです。
仏陀以来人類はそのことを耳たこほど聞いてはいますが、ただ聞くだけで決して実行しようとはしませんし、出来ないのです。
それでもエゴは何かしら秘められた、隠された特別な覚醒に向けてのメソッドがあると信じ、そういう秘法を伝授してくれる教祖やマスターを探し求めます。
たとえ一人街を出て、滝に打たれ、断食し、山々を回峰しても、そこに「人より優れた能力を得て、優位に立ちたい」「人から尊敬された」「楽したい」などという思念が残っている限り、正しい覚醒を得ることは出来ません。
それはただ街でやっていたことを環境かえて山でやっているだけなのです。
私自身今の環境に置かれて一番感じるのは「自力での覚醒は不可能」ということです。
必ずそこにはマスターや神霊、大いなる存在の導き、加護が必須となります。
しかしエゴは「そんなはずはない」「自分は自力で必ず成し遂げてみせる」とエゴらしい考えを修正しようとはしません。
そこがミソといえばミソなのですが・・つまり「謙虚さ」「礼節」「自己放棄」「大いなるものへの全托」という姿勢が芽生えてこない限り、覚醒への道が開けることはないのです。
それがいわば「覚醒」の安全装置ともいえる構造になっているのです。
(覚醒への安全装置とは、覚醒すると(その人の段階や方向性にもよりますが)ご存知のように様々な常識を超えた力を有することが出来るようになります。しかしこの安全装置がないと、その力をどう扱うかということがとても問題になってしまうのです・つまり自己の欲望のために使用してしまう、その結果地上界が大変なことになってしまうという図式です。ほぼ無限の力を有した覚者は、すでにその時人々をもてあそんで満足するという動機を持っていないのです)
今ある皆様方の欲望や人生の願望、やりたいことやしたいこと・・私はそれらを捨てろとはいいません。
もちろん皆様はそれが出来ないからですが・・しかしその中で少しずつでも今の生き方、現状の人生に疑問があるのなら、その時こそ世界平和の祈りを唱える時なのです。
そうすると知らない内に、苦心惨憺しなくても五井先生が代わって引き受けてくださり、いつの間にか何段か上の境涯に引き上げていただいているのです。
五井先生の世界平和の祈りは、それも含めてあらゆる側面からあなたに応じた方法で、あなたを成就に持っていくオールマイティのアイテムなのですが・・
それが信じられない・・わからないのは実はこの後のご質問(Kazu様のものです)にお答えする中である程度解明されていくのかもしれません。
それが「二人の日本人の章」というテーマですが、それはまた後のお話です。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
●「虚空蔵さんがTVに出られて、御自分の周りには社会性に乏しい人間が集まってくる・・・みたいな事を言われたと思いますが、このBBSの仲間はもっと酷いのでしょうか?」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
まんだらけに集う人々は確かに「社会性が薄い」方々が多いのですが、その分「自らの感性に殉じる」という潔い人が多いのも事実です。
多くの人々はそこに何の根拠もないのに「ブランドもの」にひかれ、日々の流行に流されることで自身を「トレンディ」だと勘違いすることで満足しようとしています。
しかしそこには何を見ても「かわいい」という表現方法しか知らない自発的な感性の表現方法を持たない機械的な感性の人間しかいないのです。
「おたく」や「マニア」と呼ばれる方々は、確かに自らの服装やかっこうをあまり顧みようとはせず(社会に合わせようとはせず)、一般社会から見ると(独自の)変わった在り様で生きているように見えます。
しかし実際は仕組まれたトレンドに踊らされ、お金を使わされる人たちと異なり、自分が本当に納得したものだけを(他人がどういおうと)身辺に引き寄せています。
そこには一種の(他人のことなど関係ない・自分たちの有り様に殉じる)という「頑固さ」「かたくなさ」がありますが、それでもそれを差し引いてでも、この宇宙はそういう人たちの方を好むのです。
その在り様は昔の妖怪たちの有り様に似通っていますので、私は自身(集合魂ですが)のカルマとして「妖怪たちの指導・教育で果たせなかったこと」をまんだらけという会社で、従業員を一人前の社会人にすることで解消しようとしています。
ここで皆さんがご覧になっている宇宙全史の書き込みには多くの方々が参加しておられます。
初めのうちは「なぜこんな質問しか来ないのか」とも思っていましたが、月読の大神から見ると「それでもましなのよ」ということのようでした。
ここに注目できるだけでも・・それだけでもすごいことのようだということでした。
確かに私はあまり「うまいこと」というのが苦手です。
ここに書き込んでは叱られ、エゴが否定される中で、それでも食いついてくるのはやはり見込みがあるともいえるのです。
(以前前世を聞いて、それが自分の思っていたものと大きく異なるので、二度と書き込んでこられない方もおられますが、ここでは現実(本当の自分)と対面できる勇気がないとついてこられないのかもしれません)
実は今度のトライアスロンレースで、私の一つの段階が終わります。
私の周りには「魔女」たちがウジャウジャいます。
それは彼女たち(男性もいますが・男性性の魔女ということです)に対する私(集合魂)のカルマの解消のために集っているのです。
私は魔女という存在に対して妖怪たちと同じく「教導する」という義務を持っていましたが、それが長年の地球の歴史の中で果たし得ていなかったということがありました。
ここではあまり書いていませんが、私のこの人生における魔女たちに対してのカルマの解消は中々厳しいものがあったのですが、しかしそれもこの4月でほぼ解消します。
月読の大神「よくがんばったね」
そういうお言葉を頂きましたが、最もうれしかったのは・・「普通の身体に戻る」ということでした。
私が20代後半からずっとトライアスロンという競技を続けていたのは、好きだったわけでもなく、格別強かったわけでもなく、ただ単に集合魂のカルマの解消のためだったのです。
そのことは前にもお聞きしたことがあったのですが、その時は「そういうわけでもない」という感じでうやむやにされていました、
しかし私自身のモチベーションも含めて、トライアスロンという過酷なスポーツをやり続けるという動機はひとえに「魔女とのカルマの解消」というところにあったのです。
それが最近明かされ、さらに4月にそれが解消されると、今までそれで引っぱられていた私の肉体・精神に対する抗力が消失して、本来の私の肉体機能が発現できるというのです。
昨年末から今年にかけて、あまりにきつい肉体行に「もうトライアスロンなんかやめてしまってもいいでしょうか」と弱音を吐いていたこともありました。
何がきついのかといいますと・・私は単純に「きつい」「厳しい」「苦しい」ということではあまりギブアップしないタイプなのですが、とにかく「甲斐がない」のです。
つまり何をどう努力しても決してうまくいきませんし、どんなにトレーニングしてもそれを結果として出すことが出来なかったのです。
それがカルマの解消だったのですが、そのあたりの詳しい内容は「非公開情報5」にも書いてありますので参考にしてください。
そして「もうやめていいか」という私の問いかけに、
月読の大神「それはあなたの好きにしていいよ」
といういつもの飄々としたお応えでした。
そしてそれならば今度の4月の宮古島トライアスロンを最後にしようと決め「どうせまたさんざんな目にあうのだろうが、せめて最後は潔く散ってやろう」と覚悟していたのです。
すると3月に入って突然「今度の宮古島で区切りがつくね」というお言葉があり、魔女たちとのカルマはそこで一応ひと区切りと教えられたのでした。
そして「本来の私の肉体機能に戻る」というのは、決して何か覚醒して超常的な肉体になるというのではなく・・逆に「普通の身体になる」ということなのです。
それでもレースのたびに「もうやめてしまいたい」と願うほどの苦痛を味わうのではなく、普通にトレーニングすれば普通にそれだけレースに反映するという肉体なのです。
まあ当たり前のお話なのですが、私にとってはこれまで味わったことのない経験になると思われます。
4月のレースでは、(カルマの解消としては)これが最後のレースではあるのですが、まだそこにはカルマのお勤めがあるようなので(ですからやはり苦しいレースになるようです)きついことになりそうですが、それでもそのあとは自分の肉体を自分が思うように扱えるという、生まれてこの方(おそらく)味わったことのない経験が出来るはずなのですが・・
(これまでは植芝先生がどれだけ私の肉体改造をして下さっても、カルマのため中々その成果が出なかったということがありました。しかし先生は「そんなもの(カルマ)は知らん」というスタンスで粛々と施術を続けておられたのです。それがやっと私のこのカルマが終わることで、成果が出てきそうになったということがあるのです)
一つのカルマが終わるとはいえ私にはこれからもまだまだ背負っている多くの負債があります。
それがまんだらけという会社の従業員たちを育てるというお仕事ですが、それが終わると一応私の今生での果たすべきカルマは終焉します。
集合魂全体が背負っている「ツタンカーメンを殺し、世界を破滅させた」というカルマは大きすぎて本来私は今回の生では消化できない形になっていますが・・どうなのでしょうか。
このカルマを果たすにはどう考えても「世界平和を実現するあと一歩のところで、誰かどこかの反対勢力に私が無残に殺され・・それで世界がまとまり世界平和の祈りが成就する」というシナリオが脳裏を去来するのですが、魔女たちのカルマがいよいよ解除になるという前夜、月読の大神にそれとなくお聞きしました。
ツタンカーメン(地球の化身です)を殺したカルマの解消は厳しいものになりそうですね(そこで先ほどのシナリオをお伝えしました)。
月読の大神「あなたの集合魂はそれをまさしく望んでいるが、あなたはそんな辛気臭いやり方でなくてもいいんじゃない」
というお答えでした。
「えっ?そうなの」というのが私の正直な心境でした。
死ぬことは大して問題ではないのですが「無残に殺される」という部分が気になっていたので・・他のやり方もOKという道が開けたのは本当にありがたいことでした。
(無残に殺されるというのはどうやらこの世界全体の大きなカルマを刈り取るには必須に近いやり方のようで、イエスの時の十字架刑もそうですが、五井先生の昇華の仕方も先生ご本人しかわからないのですが、壮絶な苦しみを側近の方たちにもわからないように、さとられないようにしつつ受けておられた姿を私は知っていますので、到底自分には出来ないということも知っているのです。彼らアルデバランの巨大な魂・存在はある意味常軌を逸しているものでもあるのです・「常軌を逸しているとは・・私たちのレベルを色んな意味ではるかに凌駕しているという意味です」)
また長くなってしまいました。
シャギーさんの(少しではありますが)進化の様相に刺激され書いてみたくなったからですが・・最後に大事なお話をしておきます。
私はこの宇宙全史のワークの中でずっと「私は救世主ではない」といい続けていました。
それは今でも変わらないのですが、少し言い方を変えておきましょう。
そのわけはもう少しわかりやすい説明が皆様方には必要だということ、そしてその時期が迫りつつあるということ・・この二つが私をして語らせるのだと思います。
まずみわという存在・・アンドロメダが使用していますので、アンドロメダといってもいいのですが、この存在は本来こうして皆様方の前に出て来てはいけないのです(直接出て来てはいませんが、ここに書かれてあることはほぼ彼女たちのお仕事によるものです)。
彼女の存在の顕現は禁忌というほどのタブーでもあるのです。
みわは通常ならこの世界の中で、普通の人間たちに利用され、いいように使われ、あるいは虐待されて生きていくべき者なのです(そういう扱いしかできないのが現状の人類だということです)。
実際私と会うまではそういう生き方をしていましたし、人々もそういう扱いをしてきていたのです。
見た目は普通の子供っぽいおばさんで、誰がどう見ても「地上最強の巫女(おそらくこの宇宙最強かもしれません)」などとは思いもつかないでしょう。
簡単に利用できそうですし、普通の人がリスペクトできるような要素も持っていないのです(これもまた今の人類ではみわを見て、そのどこにもリスペクトが出来ない・・という意味です)。
ですからみわという存在を見つけることは通常の人類には不可能なようになっていました。
もちろんみわに会って、みわを利用することは誰でも出来ますが、彼女のアンドロメダとしての存在を見つけることは出来ないのです。
そういう構造になっていますし、地球の遥かな過去からアンドロメダはそういう地球への援助の仕方をしてきています。
しかし今回史上初めて私がその存在を見つけてしまったということ・・これがこの地球の運命を変える一つの要素となってしまったことは事実です。
「宇宙全史」第一巻で書きましたように、この地球では「何でもアリ」なので、アンドロメダを見つけることも可能性はあったのですが・・それはもう限りなくゼロに近い確率でもあったのです。
しかし並行宇宙の中の一つの世界であるこの私たちの世界は、いつの間にかギリギリの間隔でアセンション出来るかどうかという瀬戸際に現在あるのです。
もう一つ・・それは私の覚醒です。
私はまだ覚醒はしていませんし、今回の人生ではそれを成就するようにはプログラミングされていませんでした。
それが非常に複雑な(わかりにくい)過程を通して。おそらくその方向に行く可能性もわずかながら見えて来ています。
それはひとえに五井先生の意向であり、先生が「この男を使ってやろう」とお思いになった時からそういうベクトルが見えていたのだと思います。
複雑な、わかりにくいと申し上げたのは・・私個人の覚醒が、
①私の集合魂のカルマともかかわってきている(ほぼそれだけといってもいいのですが)
②地球の大アセンションの成就ともかかわってきている(人類の、皆様方の現在と未来の動向でもありますが)
③私個人の覚醒においては、その過程が肉体を通して求められている(つまりトライアスロンという競技の中で切り開かれていく)
この3つが絡まりあい、互いに影響しつつ複雑な形で成就しようともがいているのが現状です。
そこに前述のみわの存在があります。
ですからみわの存在を含めますと大きくはこの4つのファクターがこれからの地球の未来を決定していくことになっています。
しかも私のトライアスロンという趣味は、まさに私個人の範疇にあるはずでしたので、それが地球の大アセンションと絡むなどということが、あまり明確に理解できなかったということがありました。
しかし私のトライアスロンに対するモチベーションが私の集合魂による意向(操作)であったと判明した今、彼らのカルマの解消と私の覚醒がシンクロしつつ、もっと大きな潮流の中で地球のアセンションと絡んでいくようになっています。
わかりやすくと申しあげましたが・・かえってややこしくなったかもしれませんね。
いずれにせよ以前シャギー様が仰ったように「私がトライアスロンで、あるいはオリンピックの何かの競技で優勝することで、人類の覚醒を促す」という方向性は、すでに「いったん忘れなさい」という月読の大神のお言葉により取り消されています。
それでもそういう明確な(わかりやすい)啓示を与えられなくても、なお私のエクササイズは地球の大アセンションと連動していると感じられるのです。
宮古島大会まであと1週間を切りました。
そこでは最後のカルマの修正のため決して楽な走りは出来ないでしょうが、何とか完走して、その後の「ずいぶん軽くなるよ」という植芝先生のお言葉を楽しみにしておきます。
私の最終目標はハワイのアイアンマン・チャンピョンシップで総合優勝することです(これはまだ許されているのです)。
しかしそのハワイに出場するためには、世界各国で開催されている予選のアイアンマンレースに出て、そこでクオリファイ(出場権)をとらなければならないのですが、これがまた競争率がとても厳しいのです・・しかも年々何故かきついスポーツにもかかわらず人気が出ていまして、海外のレースでは出場権を得ることもほぼ出来なくなってきてしまっています(レースの開催日が発表されると同時くらいにほぼ埋まってしまい、海外のアイアンマン予選レースには中々出ることが難しくなっています)
国内では最近まで五島でアイアンマンレースがあったのですが、これもなくなってしまい、もうアイアンマンには出場できる望みもなくなったと思っていました。
私は毎年4月の宮古島と9月の佐渡大会に出ることにしているのですが、今年の初めに「佐渡はどうしましょうか」とお訊ねすると・・「もういいんじゃない」というお言葉でした。
それで「ああもう本格的にトライアスロンは終わるのかな」と思っていたのですが、3月の後半ふとしたことで「今年の8月に北海道でアイアンマンが開催される」という情報をもらい、早速調べてみると本当にあったのです。
しかしその情報では2月の発表と同時にすでにすべての枠は締め切られているということでしたので残念ではあったのですが、念のためと調べてみますとなんとまだわずかに狭い枠ですが残っていて、何とか滑り込むことが出来ました。
こうして私のトライアスロンの道は宮古の後、新しくなった肉体でアイアンマンにチャレンジできることになっています。
さてどうなっていくのでしょうか・・
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●とにかく、私は色々な意味で、強く優しくなりたいと思います。後悔の無い今を生きたいと思います
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○今の世はなぜか「やさしい」人やモノや出来事を好むようになっています。
それはひとえに人々が弱くなってきているからです。
本来私の子供の世代は、親の世代よりも段階が一段も二段も高い魂が降りてきているのですが、親や社会の教育方針により「よわっちい」子供、大人に育ってしまっています。
そのため世の中のありとあらゆる事象が「やさしさ」を求めるのですが、しかし実はその「やさしさ」は本当のやさしさではなく「弱さ」にしか過ぎないということがわからないままなのです。
「強さ」のない「やさしさ」は役にも立ちませんし、それだけで満足してしまうため、かえって人の進化を阻害するものになります。
よく「あの人はやさしい人だと思って結婚したのに・・」「結婚したとたんに人が変わったように無茶をいう・暴力をふるう」というお話をよく聞きますが、それはそのやさしさが「弱さ」だということ、あるいは「弱さを隠すためのカモフラージュ」だということが見抜けなかったからなのですが、その見抜けないというところがまたその女性自身も「弱い」人だったということでもあるのです。
◎親の世代は「どう子供を育てるのがベストなのか」(自分たちの思い込や、世間体にとらわれない、子供本来の才能を生かしてやる育て方)
◎子の世代は「いかに社会の迷妄という呪縛から抜け出ることが出来るか(親や社会から「こうあらねばならない」という押しつけを、いつの間にか自分のものにしてしまったところからの脱却をはかる気づきと努力)
それを学ぶためでもあるのですが・・
シャギー様は「強く優しくなりたい」とお望みのようですが、そこまで来ればもう一息「明晰さ」を手に入れば本当のやさしさを手に入れることが出来るのです。
あなたは今回の出来事で(お父様がお亡くなりになった)一定の段階の上昇がみられました。
しかしあなたの求めるやさしさの中には、いまだに「自分の足りない部分を補ってくれる存在」を求めるやさしさしかありません。
自分が無理難題をいってもそれを受け入れてくれる存在、あるいは受け入れてくれることで満足するという代償行為(子供のころに与えられなかった愛情の代償という意味です)としてあなたはむなしい繰り返しをしていました。
そういう意味ではまだまだあなたは子供だということです。
何かに頼るという頼り癖・・・それを直していかねばと仰っていますが、それをまだまだ引きずっているのです。
五井先生からです
「人に頼るというより自分に頼れるようになりなさい」
「そしてその頼れる自分を見つけるという方向性を維持しつつ、自分というものをもっとしっかりと見つめていけばいいよ」
そのために必要なものはここですでに開陳しています。
この世界において、あなたの覚醒に必要なものは「世界平和の祈り」をおいて他にないのです。
それでは今の地球にある私たちの真の幸福を求めるにあたって最も効果的なものであり、これ以外に道はないと断言できる「世界平和の祈り」にどうして私たちは人生のすべてをかけることが出来ないのでしょうか。
そのあたりを次回のNo1745のKazu様への詳細な返信で明らかにしていきたいと思っています。
 
 
追補11
食のお話です。
2018年11月29日にこれを書いていますが、
あと数分で30日です。
来月はいよいよ怖るべき冬至がやってきますが、最近の私は朝サラダをドンブリに一杯作ったら、ほぼそ
れだけで1日まかなえてしまいます。
朝にドンブリすべて食べ尽くすのではなく、夜まで少しずつ食べるのですが、それで特別お腹がすいて飢
餓状態になるということもありません。
「ああ食べなくなるというのはこういうことか」と不思議な感じになっていますが、
あまり特別な事とか、
特殊な身体になったという感覚はなく、ただお腹がすかなくなったという感じです。
サラダの中にはまだ燻製の鳥のレバ—や胸肉が入っていますが、脂身といいますか油脂類は受け付けなく
なってきています……が、特別高価な牛肉などは上手に料理されていればおそらく食べてしまうでしよう
(そんな気がしますが食べたいとも思わないですね)。
ただ会社に従業員用の食堂を作ってしまったので日々そのメニューとの心の葛藤は残っています。
実はまんだらけの食堂メニュI は信じられない程贅沢なメニューになっていまして、
素材から作り方まで 出来るだけいいものを出すという方針で運営しています。
おそらく半年前の私なら毎日たらふく食べて満足していたでしょうが、
せっかくそういう良いものが出来ても今となっては何の恩恵もありません。
たまに残り物のキャベツを頂いて喜んでいるくらいです。
従業員が栄養豊富でバラエティに富んだ、作り立て焼き立ての豪華メニュI を食べているのに'
社長はきざんだキャベツをドンブリ一杯もらって喜んでいるのです。
日産のゴーン氏に聞かせてあげたいものです。
現状好きな牛乳も飲まなくなり、
食堂では毎食デザートが出るのですが( そのデザートも私のコーディネ—卜したものですが)、
めっちゃ美味しいプリンも高級ラム酒に浸し砂糖を振りかけたスポンジケ—キも
食べられなくなってしまっています。
それでもあまりストレスがないのが不思議なのですが、
どうもそこが大事なポイントのようなのです。
つまり「ストレスを感じない」というところですね。
すでに書いておきましたが、
無理な菜食主義や断食はあまり意味がありません。ただI時的な断食は生活
習慣の是正には効果があることはあります( 正しくできればですが)。
「自ずと身体がそうなるのを待つ」というのが極意といえば極意です。
だから楽といえば楽ですが、
そうなるまではお祈りと自らに降りかかるカルマの昇華が必須です。
つまり精神面の浄化がまずあり、それが果たされると自ずと肉体も変化していきます。
それがこの宇宙全史を通して地球や宇宙の変革の局面で同調して、強調されていくのです。