EOの悟りの定義

EOは、「悟りなき悟り」で、次のように述べています。


 悟りとは、「意識の未分化状態」「非対象化現象」であり、「原初の対象化」によって、「何かを認識したその瞬間」には、すでに分割が開始される。そして、その「何か」の中には、「在る」という「存在感が含まれている」。


 仏陀が、「どうしてもなくならない不安」といったのは、普通の不安のことではなく、意識に発生する「最初の第1分裂」、つまりは、もともとひとつだった意識が、断片化した段階で、どうしても、そこに発生してしまう、「断片化した意識が、元に戻ろうとする衝動」に起因するもの。


 意識の第1分裂というのは、我々人間の中でも休むことなく、今も、起きているわけで、その徹底的な「気持ち悪さ」を、意識しているかいないか。


「微妙な不安」


あの「不条理で奇妙な世界」を、歩いていけるのは、 純粋な「探求者」だけ。


悟り自体を、より変化または、より探索したり、「解明」しようとする人たち。
 
悟っておしまいなのではなく、彼らは悟りのエキスパートであり、「研究家」。


 彼らが解決しようとしたこと、取り除こうした不安というのは、それこそ、「宇宙の創生の段階」で生じてしまった「意識分裂」そのもの。


 存在しているか、いないかの、「基本的認識の明滅」が、「不意に」「消え去る瞬間」のポイントに、うまく、「身投げ」できるかどうか。


 肉体的には、変わらぬ分裂した、破片の状態にあっても、意識の次元においては、宇宙の初期分裂以前の状態になってしまったこと。

 

 人が、「在る」と感じる、つまり「存在感を感じる」ということは、それがいかに、無我の状態や無私の状態や、無思考の常態であっても、「在ると感じる」以上は、それは「非在性」または、何らかの対象に意識が分割されているということである。


「生きているのか、死んでいるのかを、確定するな」 「起きているのか、眠っているのか確定するな」「いるのか、いないのか、確定するな」


「未体験性の連続状態」


闇を対象化しているうちに、主体それ自体が闇に飲み込まれるということによって、一元性を獲得することもある


完全に、未分化、非対象化現象をといあう場合には、肉体上には、そのポイントがありません。言うまでもなく、頭頂よりも上空の空間にずらさないと、そのポイントは見つかりません。


だけです。
ただしこれは、前頭頂部と、頭頂部の十分な訓練がなされた後でしか、効果ありません。
か?
 

この衝動が、断片化した意識に落ち着きのなさを生み出して、意識の「動きを開始する」ための機能をします。機能というより、「罠」ともいえます。
 
つまり、「自分の位置確認」をするために、まずは、「自分の意識そのものの対象化」をはじめてしまい、「何かが違う」という「根本的違和感」を、そこに生じてしまい、何かを「探しに、動き出してしまう」というわけです。


それでも、意識が断片化した段階で、すでに運動を開始します。意識が落ち着かないので、どうにかして、元のひとつの状態に戻ろうとするわけです。


それが、探求者と、そうでない者の分かれ目です。
 
ようは、人というのは、ただ、存在しているというだけで、本来は、十分に、すでに不安な状態にあるということです。
 
体のどこも痛くもない、いつも満腹で、生活不安なし、セックス問題なし、人からも愛されて問題なし、したいことは何でも出来る。
でも駄目なんですよ。
 何をして、何を知って、何が、できたとしても。
例の「ここはどこ?私は誰?ナビ」が、動いてしまっていますから。 
「私は誰?ナビ」は停止することはあっても、「ここはどこ?ナビ」は停止は困難です。
仮に、それもうまく停止したとしても、最後に残るのが、「意識があるのかないのかセンサー」「意識の対象化分裂」です。


 
●ところが、それが極小のミニチュアという形で、つまり、一個人(一固体)の中で、
その最も初期のプログラムを解除する方法があったということ。それが可能であったこと。
それが悟りというものの「探求の歴史の記録」なのです。
 
それが回帰してゆく元の状態にも、多少のレベルがあるようですが、
光ではなく「闇」が介在すると、ほとんどの場合には、似たようなレベルの意識に
還元されるようです。
しかし、その後、彼らが世界の中に存続できる可能性は決して、保障されていないこと、
これもまた、悟りという現象の本質です。
 

【意識という「主体がある」という存在感である】
 
この主体は、「3~2」の領域では、すでに自分の自我というような主体ではないが、
さというのも、人は自分が「いる」のを「感じる」からだ。
それは瞑想に何の邪魔もしないし、延々と続く、ありのままの知覚や無心の邪魔もしない。
 
●だが、これこそが「存在と無」の間にある基本分裂だと言ってもよい。
あるいは、「意識の根本的な分裂」であると。
 
「3」や、特に「2」に至ると、人は、「個」から「全体的な存在」になったと感じる。
しかし、そこにはまだ全体というその領域、存在全体という、あたかも惑星の大気の
ような、「制限された光の世界」があり、
その空気は、そのさらに奥の「宇宙の母体」である「真空=闇」とはまだ対立している。


すなわち、「2」は「純粋存在的」ではあるが、「絶対無」とはまだ「結合をしていない」。
 
そこで、「2」から、さらに知覚の主体が存在する存在感覚を忘却して、「1」の状態に
なると「人間」においては、起きることは、以下の2つである。
 
■1/ひとつは、全く対象が存在しない体験で、これが起きた場合には、
 「2」でまだ存在していた「全体意識という主体の存在感」もなく、
     そこでは、ただ、ただ、歓喜的振動以外には、何も起き得ない。 
 
■2/もうひとつは、そこに知覚の対象物があった場合には、
     そこらにある木や石や情景に対して、人は全く分離を感じることができなくなり、 
したがって、石や木そのものに「なっている」という神秘体験をする。
 
和尚が、自己描写している彼の21歳のときの体験は、これである。
庭の木の葉脈までもが輝いて脈打って見え、あまりの至福で窒息しそうになった、
というものである。
 
●2の状態は、「ただ見ている」「ただ聞いている」。 
しかし、聞いているその「主体」は、まだそこにいる。
それは、「私」が音を聴いているのではないが、「意識としての主体」が、
無心に聞いている、または、自然にただ「聞えている」というのが「2」である。
 
●これに対して、「1」では、その主体すらもない。
もしもそこに対象があれば、「ただ対象しかなく」もしもその「対象すらもなければ」、
そこには純然たる「至福の充満」だけしかない。
 
これが人間の中では、たまたま「至福」として経験される、その最大の理由は、
おそらくは、EO師が「反逆の宇宙」の著作で解説していたように、「フィードバック発振
の状態」に似たことが、 意識のかなり深部で生じていると推測が出来る。


■「4」の中にいる、多くの者は、どういう人生をどう生きたり、何を多く知ったり、
実際に「体験」したり何を「体得」したとしても、単に「混乱の世界」を生きている。
それは、ただの知識、ただの記憶、ただの経験、ただの主観的世界だ。
 
いかに天才的になり、職人的になり、技を磨いて、何かに熟達して、
人生に成功したとしても、それは、まだ「思考操作の世界の事」にすぎない。
 
■「3」は、思考を操作するのではなく、思考との「同化を断ち切る道」である。
 
■「2」は、思考との「同化」を切るのではなく、「思考そのもの」を切断する。
 
■「1」は、無知覚、無対象でも、なおもそこに残っている「主体」を切る
(または溶解させる)ことである。
 
「2」の状態は、一生やっていても問題はないが、
「1」の状態は、高純度で、継続的に肉体にその負荷がかかれば、1ヶ月で死ぬと
いわれている。つまり厳密な意味においても「1」の状態の不断の持続のみが、
いわゆるサマーディと呼ばれるべきものである。
 
EO師は、「1」を基本ベースとして、一方の普通の生活では、「2から3」の間を
往来しつつ生きたようである。
また、EO師は、「1」の至福の中から、人間生活への「散歩」をしていたようです。
 
●ちなみに、死人禅の行法をやっている人たちは、かなり真面目に毎日継続して行った
とすると、ほとんどの人達は、容易に、まず、「3」に移行します。
 
この理由は、通常、「4」の混乱して、習慣的で統制のとれない、錯乱した思考、つまり、
自分で勝手に考え、勝手に連想し、勝手に苦しみを生み出している状態の原因となる、
眉間への集中が、「それよりも上の部位」へと上がるからです。


●ところが、「3」から、一向に、思考が完全停止した「2」へと移行しない場合には、
「闇の瞑想」、つまりは「0」の浸透が不足しているということです。
あるいは、何かひとつかふたつ程度、常に定期的にひっかかるテーマの思考が、
ずっと居座っているという場合が多い。
もしも、そうしたひっかかりが「現実に行動すること」で解消されてしまう場合は、
さっさと現実の行為によって解消してから、また座ればよいのである。
 
こうした場合には、かならず意識が、頭頂部ではなく、「河童の頭の、皿の部分」のように、
頭頂部を中心とした、半径十数センチの「円状」に広がってしまっています。
このときには、どうしても、しつこく気になることをさっさと、片付けるか、
さもなければ、「0」を注入するような闇の瞑想がなされれば、頭頂部の狭い中心に意識が
集束して、「3」の「思考観照」という状態から、「2」の「無思考状態」へと移行します。
 
●また、「2で止まったままになった者」がどうしても「1」の爆発を経験したいと思うの
ならば、意識を頭頂部から、その「上空の体外へ出す」以外にありません。
これ故に、和尚は「私は、常に肉体の周囲に舞いあがっている」と言っていたのである。
実際には、肉体の頭頂の上空に意識の集束点が移行したとき、人は「1」を実現します。
このときには、主体感覚すらなく、在るという感覚もなく「在る」、
つまり、和尚が「存在の詩」の、その最終章で、
 
       「全く、逆説的な意味において、あなたは在る」 
 
と述べたのが、この次元のことである。
意識の主体すらも失ったこの状態は、いわゆる宇宙意識ですらもない。
また、EO師は、この「2」から「1」への移行を刺激するような公案をいくつか
残していることは、よく知られたとおりです。
たとえば、まずは、ただ知覚が連続している「2」の状態に調整してから、
そこで、知覚している主体の意識が「そこに存在している感覚」が生ずる、「その手前」へ、
「それ以前の未知の領域に飛び込め」というものです。
「意識の存在感を感じる、その手前には、何があるのか?」という公案である。


なぜ、そこに「飛び込め」と言われるといえば、それは、それまで静寂な状態を維持して
いた「2」すらも失われるために、悟っただのと自負している者たちでさも、そこで、
「さらなる無知」に飲まれる恐怖から、「躊躇してしまう人達」がほとんどだからです。
 
また、いわばその「神域」は、「理解してはならないもの」であり、逆に、理解こそが邪魔
になり、そもそも、そこを「観察の対象」として「認識すること」すらも、
「1」への扉を閉ざすことになるのである。

 


●確かに、もしも「2」の状態にあれば、迷いというものもなく、自己感覚もない。
しかし、それでも座り続ければ、そこには「2」の限界が歴然と立ち塞がるのである。
座禅というものは、思考の妄想癖、頭の中のおしゃべり癖から脱却する技法である、
と同時に、あるレベルからは、何年も、時には死ぬまで「一歩も先に進まなくなる」
という「限界」を徹底的に瞑想者につきつける、という「冷酷さ」を持っている。
 
悟ったなどと思い込んでいる老師が、只管打坐をいくら続けて、あるいは只管打坐を
いくら弟子に強いても、悟りに対する「構造的な体験的把握」がなければ、
「2」から「1」へと移行することは、決して出来ない。
 
■「禅」というものは、闇の粗悪な「代用品」として、「無」という公案を取り扱うために、
闇によって、3から2へと移行するパターンが非常に多い。


●確かに、もしも「2」の状態にあれば、迷いというものもなく、自己感覚もない。
しかし、それでも座り続ければ、そこには「2」の限界が歴然と立ち塞がるのである。
座禅というものは、思考の妄想癖、頭の中のおしゃべり癖から脱却する技法である、
と同時に、あるレベルからは、何年も、時には死ぬまで「一歩も先に進まなくなる」
という「限界」を徹底的に瞑想者につきつける、という「冷酷さ」を持っている。
 
悟ったなどと思い込んでいる老師が、只管打坐をいくら続けて、あるいは只管打坐を
いくら弟子に強いても、悟りに対する「構造的な体験的把握」がなければ、
「2」から「1」へと移行することは、決して出来ない。
 


●なお、「1」や「2」に行くと、主体としての個体性は失われるが、ただし、それを表現
する「出力側」には、それまでのその個人の経験的な個性が「表現手段」に活用される。
個性というものは、意識して育てるようなものではなく、こうした、「上の次元から」の
自然な活用のされかたをされないかぎりは、その一方、普通に言われるところの個性は、
ただただ、その人の「悪癖」にすぎないものも多く、それは、本人にとっては、
自分という限界や周囲との誤差を、いちいち不安や苦痛として自覚してしまうような、
ただの「居心地の悪い記憶の集合」でしか、あり得ないのである。


 
●では、どうして意識にシャッター開きっぱなしみたいな解放状態である「散開」が
生じるのかというと、それは、まず「思考停止」=「2」から始まり、
次に「意識が対象化の癖を放棄したとき」=「1」です。
 
その時、本人には、「わからない」の「連続」だけが起き続けます。
全く何もわからなくなる、という状態に占領されると言ってもよいだろう。
ここまでくると、能動的に何かに意識の焦点を合わせることは不可能で、その結果として、
開いたシャッターの中に、対象物が勝手に入り込んでくるという状態になります。
 
それゆえに、禅などの初歩的なレベルの悟りが、さらに、もう一歩、
その先の、停止状態に占領をされたときの特徴としては、
「圧倒的な受動性」「特定の焦点の消失」「意識というフィルムが、光で焼き尽くされる」
ということが起き、これが正確な意味でも、俗に言われる「神秘体験」の全容です。
 
●そして、ここからその感度を、調整して帰還する人達もいます。
もしもこれを再び感度調整しないで、シャッターを開放のままにした場合には、
数週間で肉体(特に脳)は、破壊されるといわれています。
ただし、ほとんどの場合には、この世界に帰還することになるでしょう。
「完全に、生まれ変わった者」、または「原初の意識を追体験した者」として。