こどもを産むとエネルギーを収奪される

人類の今回の文明(約12,000年前に始まっています)における基本的な教えのすべては、仏陀によってもたらされています。
あのニサルガの実存に至った覚醒さえも、仏陀の教えの中に包含されていました。
しかしその教えのすべてをマスターし、人々に正確に伝えることができた人物は一人としていなかったのです。
そこで仏陀亡き後、弟子たちは結集して各々の得意分野だけを後世の人々に伝えていくことにしたのです。
それがのちの仏教の各宗派となっていますが、あらゆる宗教、精神世界は大きく分けますと以下の3つになります。
①人間を守護する諸天善神(守護霊や守護神も含まれます)にその身を全託し、その加護と恩寵によりカルマ(エゴ)を軽くし、天命を全うする
②この世界の構造を解明してその虚構を明らかにし、マーヤ(幻影)から目を覚ます
③現実世界に隠されている秘密のエネルギーを見つけ、現象界において生身のままで自由と叡智と力を獲得し、さらに力を蓄えたものはこの地上界からさらなる自由を求めて旅立つ
これが仏陀の基本的な教えですが、①がイエス法然などが説いた祈りの教えとなり(イエスは時間的に仏陀より少し過去の方ですがカテゴリー的にはここに入ります)、②がインド系の覚醒メソッドや禅になり③が密教になっています。
もっと細かく分けることもできますが、基本はこの3つです。
そしてこの下のNo232に書いた①カルマをクリアする②ニサルガのやり方③ドン・ファンのやり方・・・に対応します。
①と③はそれぞれかなり特殊なやり方で、普通の人々には中々適応できないメソッドになっています。
そこで観音系の道筋として①の大多数の方たちが行じる事ができる救いの道として「祈り」の形を教えているのです。
もちろんどんな宗教にも秘教というジャンルは残されていて、特殊な才能のある人や力のある人にはそういう道筋も残されています。キリスト教イスラム教の中にも、そうした秘教といわれる特殊な道筋を求める宗派は存在しています(特殊といいますのは、大多数の人たちから見た場合のことで、本来はそちらの道筋の方が本道ではあるのですが)。
今回の文明ではイエスが西洋文明の浄化と基礎、仏陀が東洋文明の浄化と土台、そして地球界全体における二極化の確立、五井先生が終末期における最終調整(反転)をしておられます。
エスにおいては当時の西洋文明では、あれ以上の難しいことを説いても到底理解してもらえなかったので、平易な言葉や現象(奇跡的なこと)で人々を教え導くことしかできなかったのです。
しかし仏陀の場合は、インドという土壌にはすでにごく一部の人にではありますが、ある程度の実存への覚醒という道筋ができていて、また仏陀生誕に合わせて、それなりの弟子たちが生まれても来ていましたので、今回の文明の土台となるような法を説くことができたのでした。
さてこの仏陀教えや仏陀ご自身のことは、いつかまたどこかで詳しくお話しすることになるかもしれませんが、ここで改めて仏陀の教えの立ち位置を確認したのは、地球というこの宇宙の総決算である実験場における総監督としての仏陀の教えを再検討したかったからでした。
少しややこしい言い方になっていますが、それでは具体的に何がいいたかったのかをご説明してまいります。
地球界における覚醒・解脱・卒業の在り様②に続く
地球界における覚醒・解脱・卒業の在り様②
このシリーズは少し長くなりそうなので、先に右のNo1596のメールへの返信です。
(実は掲載しておりませんが、あのメールの後にもこの方から何通か送られてきていました)
これには五井先生がお答えになっておられます。
まず五井先生から
「この方に特定したことではなく、祈りを求める人たち全般にいえることだけどね」
という前置きがありまして、
「自分の内にある神、尊い存在というものを、まず素直な心で信じるようになること・・それが大事だね」
「個々人に必ずついておられる守護霊や守護神など、自分を守って下さる存在への、自分自身の清らかさ、清廉潔白さというもの・・・信じるために自らの「行い」「祈り」というものには、いつも目を見据えていかなければならないね(注視するというお言葉が同時に来ています)」
「まず祈りがあって、その先にそうした自らの清らかさというものが求められる、祈りの先にあるもの」
「これをずっと保つことが難しい」
「求めるのはいいのだけど、やはりいつの間にかおごり高ぶったり、浮ついたり忘れたり、やはりどこかで慢心というか、それが湧き出てくるのが、まあ、あなた達だからね」
以上が五井先生の言葉ですが、五井先生にしては中々厳しいお言葉です。
でも個人に向けたお言葉ではないと最初に断わっておられるところが、やはり先生のやさしさでもあるのでしょうか。
いずれにせよ、まずは祈りを求めること、しかしその先にある、世界平和を祈るものとしての自分自身の清廉潔白さというものが厳しく求められるのだという意識を、私たちは常に保つことの大事さを教えていただいています。
現在まんだらけでは会社説明会のビデオに使用する社歌を作っています。
これは昔からある「ズンドコ節」をカバーしたものになるのですが、この「ズンドコ節」は、いつ誰が作った曲なのかはわかっていません。
有名なものは「ドリフのズンドコ節」や「きよしのズンドコ節」などがありますが、一般には戦争中に海軍で作られたのではないかといわれている「海軍小唄」が源流とされています。
ドリフのものも「ひかわのズンドコ節」もこの「海軍小唄」から多少編曲してカバーしています。
そこで今回少し調べてみることにしました。
この唄の作者はM・Kという学生さんでした。
出身は門司で、福岡の学校にいる時に作っています。
当時彼は22歳でバンカラといいますか、洒落っ気のある粋を気取った学生でした。
この時はまだ戦争が始まっていなくて、その前夜という感じの時代で、大正とはまた違った「ワクワクするような」進取の気があふれている時代でもあったのです。
しかし戦争が始まってすぐにM・Kさんは学徒動員で中華・満州方面へ派遣されていきます。
そしてそこで(数えの24歳の時に)戦死しています。
彼は陸軍でした。
しかし彼の作った唄は海軍で広まり「海軍小唄」として歌われ続けていきました。
何故でしょうか。
実は陸軍に配属される前に彼は予科練に行っています。
そこから本来なら海軍航空隊に入るはずでしたが、なぜか陸軍に回されています。
その予科練で知り合った友人が海軍に入り、彼らがこの唄を海軍で波及させています。
当時の日本海軍は陸軍と比べてわりあいリベラルな雰囲気で、そういう唄を歌う余裕もあったのです。
なぜここでイニシャルだけのM・Kという表記しかしないのかといいますと、彼がものすごくシャイな方で、どうしても「勘弁してくれたまえ」とおっしゃるのです。
この唄は戦前から日本の土着のリズムとして、漁師や炭鉱労働者の中では歌われていたものでした。
しかしそれはあくまでも歌というよりリズムといった感じのもので、ここまで秀逸な曲に仕上げたのは彼の功績でした。
M・K作詞作曲
汽車の窓から 手を握り
送ってくれた 人よりも
ホームの陰で 泣いていた
可愛いあの娘が わすられぬ
一部ですが掲載させていただきました。
マイナーな曲調の中にテンポのあるリズムで「大日本帝国万歳」という時代に、はかない恋心をサラリと歌いきっています。
モダンでシャイでハイカラな彼でしたが、実際の恋は片思いに終わっています。
お相手は「深窓の令嬢」で、身分違いの恋でしたが、何も打ち明けられないまま戦場に散っています。
そしてその彼女も他の男性と結婚はしますが、結局戦争未亡人になっています。
中華戦線では苛烈な戦闘が続いていました。
そんな中彼の生き様は、上の方がおっしゃるのには「生き汚くないよね」という表現をされます。
よく「いぎたない」という表現を古い方はされますが、これは昔から「寝穢い」と書くのですが、本当の意味は「生き穢(きたな)い」、つまり見苦しい生き様をいいます。
戦場では彼の上官の中には、部下を見捨てて逃げたり、銃弾の盾に使う者もいましたが、彼は命のかかった戦場でそういう状況を見ても腐らず「生き穢くなく」戦い死んでいったのです。
M・Kさんの最後の思いです
「あっけなかったなあ」
「・・・お母さん・・・」
植芝先生や五井先生はこういう方がお好きなようです。
この宇宙全史のワークでは、どうしても彼の名前がほしかったので教えていただくようにかなりお願いしたのですが、初めは「門(かど)・・・」といいかけたのですが、それっきり黙ってしまわれました。
しつこくお聞きすると、最初に書きましたように、
「勘弁してくれたまえ」
「一人の名も無き防人(さきもり)だよ」
と困ったようにいわれたのです。
そこでイニシャルだけお願いして掲載することにしました(どうも当時イニシャルというのはカッコいいもののようでした・だからOKが出たのかもしれません)。
私たちは地位や名誉、自分の(ありもしない)功績や(大したことのない)知識に、何故かわけのわからない自負心を持っています。
「宇宙全史」を少しかじっただけで、大して理解もしていないのに、狭い了見の知識を繰り広げて大盤振る舞いをしてしまうのです。
古の時代に名を遺した方もいれば、無名のままに自らの功績を誇ることもなく、消えていった方も多くおられました。
そういえば「宇宙全史」第二巻に出てきますが、佐々木小次郎に剣を教えた先生もやはり無名(名を絶対に名乗らない方)でした。
共通するのは「恥を知る」「云わぬが花」という本来の日本男児生き様でした。
五井先生が求められていたのは、チマチマした世間体や知識のひけらかしではなく、自分自身の神性に対してどこまで清廉潔白であるかということです。
そこには外に向けて表明する何の主張もなく、何の迷いもない自分を信じる姿勢しかないのです。
カッコいいということを(人に見せるために)外に表明するのではなく、自分の中に表明すること(自分の中でカッコいいということ)、だから生き死にの戦場でもカッコよく生きられるし、死ねるのです。
世界平和の祈りはイントロ(導入部)は易しいのですが、その求められているものは大きいのです。
さてそれでは本題に入っていきます。
前回に今回における文明の法の基礎は仏陀が敷かれたとお話ししました。
のちにそれは細かくカテゴライズされて(各宗派に分かれて)散らばりましたが、それでも何とか現代に伝えられています。
しかしそれとは別にこの地球上には、人類が学ぶべき地上界の法則というものから外れた奇妙な教え(情報)が存在していました。
「宇宙全史」第一巻で書きました「恐竜人間」のお話は、そこに私たちのワークがたどりついたとき五井先生は、
「知ってしまったのか」
というお言葉を漏らされました。
それは今の段階の人間が「知るべきことではない」「知ってもどうしようもない」「理解できない」そういう想いがこめられていたのです。
ここでは恐竜人間というはるか昔のお話ではなく、もっと皆様に身近なたとえで解説してみます。
それは「子供を産む」という行為の中にある、知らなくてもいい情報です。
実はだいぶ前にこのBBSでもお話していましたが、おそらくどなたも意に介しておられなかったのだと思います。
それほど一般人には理解しがたい話なのです。
それはその情報が問題になってくるのは、かなり段階の高い覚醒を目指す者だけに限るからです。
たとえば(これも書いておいたはずですが)2003年に世界記録を出し、いまだにその記録が破られていないイギリスの女子マラソンランナーのポーラ・ラドクリフですが、彼女は2007年に出産した後はあまり芳しい成績を出していません。
もちろん原因は子供を産んだことだけではないのですが、最も大きな一因が出産だったことは間違いないのです。
男性でも女性でも子供を産む(もうける)ということは、その子供に生来持っているある種の貴重なエネルギーを受け渡すということになるのです。
ドン・ファン流にいいますと「腹にぽっかりとまっ黒な穴が開く」という表現になります。
そして2人3人と産んでいきますと、そのお腹には黒く重なった複数の穴があき、ひどい人は一つの大きな黒い穴のように見えるのです。
ラドクリフの場合は「忍苦」というエネルギーを子供に渡しています。
それがマラソンという過酷なスポーツにおいては(特に彼女ほどのレベルの人には)致命的に働いたといえるのです。
普通に生活している方でも、やはり子供を産んでしまうと(例外はあるのですが)そのほとんどが、エネルギーを渡してしまい、産む前と比較しますと明らかに(失くすエネルギーの種類によりますが)変化してしまっています。
それを「このところ急に老けたね」「歳だから仕方ないのかねえ」という形で納得してしまうのです。
しかし子供のころや若いころに持っていた、一種の「鋭さ」に近いエネルギーはすでになく、それを「親になったから」「大人になった」「歳をとった」という形で納得するしかないのです。
子供を産んで一番顕著なのは、親ばかになることです。
一見微笑ましいように見えますが、実はこれがエネルギーを失った大きな特徴になっています。
だいぶ長くなってしまいました。
次回はいよいよ仏陀の教えにもなかった「知らなくてもいいお話」の詳細です
地球界における覚醒・解脱・卒業の在り様③
1999年に人類は壊滅していました。
その時、五井先生を中心にして、そこにつながる方たちがそれを食い止めています。
五井先生のお役目は、本来仏陀が敷かれた今回の文明の仕上げでしたが、あまりにもその時点での人類の波動が粗く、低いものであったため(つまり壊滅せざるを得ない状況だったため)、「反転」というお役を担われていました。
しかし壊滅を食い止めることはできたのですが、「反転」とまではいかなかったというのが現実でした。
当時私は五井先生のそんなにお側にはいなかったものでしたが、それでも人類の業を一身に受けておられるそのお姿を遠目に見ていて、震え上がっていたものです。
実際にその本当の有り様を知ることが出来る今「普通の人間なら発狂してしまう」その苦しみは壮絶としかいいようがなかったのです。
本日(9月15日)みわと私にはこれまでにない重い波動がかかってきています。
みわもきつそうですが、それでも上の方がたにご挨拶するためワークルームに来ていました。
私の方は生身の人間ですから、フラフラになってしまい、今夜の「社歌」収録を中止にせざるを得ない状況になってしまいました。
しかしこれで世界のどこかの国で起こる地震や厄災がかなり軽くなるということなので、まあよしとするしかないのですが、五井先生がその身で受けられていた人類の業と比較すると、実にわずかなもののようです。
しかしそうして少しずつでも地球の澱を解消しておかないと、ギリギリの攻防の中、たちまちハルマゲドンの方に滑り落ちていくようです。
私たちのワークは五井先生の残された仕事を完遂するためにあります。
そのワークをつかさどるのは月読の大神、ご指導は五井先生と植芝先生が担当されています(本当はもっと多くの神霊が大勢おられるのですが、表立って今現在の御指導はこの方たちです)。
仏陀は現在すでに人間としての境涯(シッダルタとしてインドに出た時の記憶)を保っておられなくて、この時期もっと大きな働きをするために(人類にとっては)抽象的な姿で動いておられます。
(インド時代の記憶を保っていないといういい方は誤解を招きそうですが、そこに焦点が当たっていない、あるいはそこを重視していないといった方がいいかもしれません・それどころではないということのようです)
そして今私たちに課されたワークは「反転」でした。
それでは前回からの続き「子供を産むときに取られるエネルギー」のお話です。
私たち人間は子供を産むと、自動的にその子に両親の特殊なエネルギーを与えるというシステムになっています。
その「特殊なエネルギー」は、普通に暮らしている方たちにはあまり意味をなさないのですが、例えば覚醒を望むような生き方をしている特殊な人には「なくてはならないエネルギー」なのです。
つまりその子供に奪われてしまったエネルギーがないと、人は覚醒することが出来ないのです。
そしてその怪奇な構造は、私たちのこの宇宙の根幹に起因しているのですが、それをこと細かくここでは語ることはできませんので、やがていつか出るであろう「宇宙全史」第二巻で確かめてください。
しかしそれでは身もふたもないお話になってしまうので、その過酷な因果から抜け出すための方法を記しておきます。
①子供を他の子ども(他人の子ども)と同じように扱う
②もう少し進化して子供を一人の人間として扱う
①と②の違いは、①の場合だと単に無関心でも「他人の子どもと同じように扱えるということです。
つまり生まれた子供をコインロッカーに平気で捨てたり、児童虐待という日常における幼い段階も「自分の子供を他人の子どもと同じように扱う」というように見えてしまうことです。
もちろんこれは全く異なる意識段階で、本来の「子供を他人の子どもと同じように扱える」ということは、常に冷静に、その子供の本当に必要な人生の生き方を教育するという在り様なのですが、通常は「わが子可愛や」で、些細なこと(と見えることは)大概おざなりにしてしまうものです。
叱るときは叱り、指導すべき時にはきちんと教導するという姿勢がそこにあるべきなのですが、エネルギーを取られた親は、一種の「痴呆状態」にありますから、目先の利益(その場しのぎ)の子育てに終始してしまいます。
たとえば子供がしてはいけないことをしたとき、エネルギーのない親は「それをしてはいけません」ととりあえず叱ります。
そこまではどなたも同じですが、「今度したら許さないわよ」あるいは「出て行ってもらうからね」あるいは「ぶつわよ」というような脅しをいいます。
そこまではいいのです。
しかしエネルギーのない親は、その脅しを実行しないのです。
決して子供を家から追い出すようなことをしませんし、一度くらいはぶつかもしれませんが、やがて「ぶつわよ」という言葉だけになっていきます。
つまり実行力がないのです。
すると子供は親の意味のない「叱り」を意に介さなくなり、社会に出てその本当の意味が分かるまで、何も理解しないまま凡庸な人生を送るのです。
またそもそも「ぶつわよ」ということを言ってしまうまでに、親は子供をそこまで追い込まないで済んだポイントを持っているのです。
これは今の日本と中国の関係のようなものですが、最初の段階で子供が悪さをしたときに、キッチリとしつけておけばそれでよかったのですが、そこをおざなりにしてしまっているので、次の悪さ→「適当なお叱り」→また次の悪さ→「適当なお叱り」→さらにひどくなる悪さ→「いつになったらいうことを聞くのよこの子は!」という悪循環が出来てしまいます。
植芝先生は武人です。
常に「死」と対峙して生きておられました。
今でいうところの異種格闘技も真剣勝負で受けておられましたから「死」は常にそばにあったのです。
ですからそのお言葉には力があります。
私への御指導でも、いつも短い平易なお言葉ですが、そこには本当に深い意味がこめられていて、心に突き刺さる剣のように身に入ってきます。
しかし凡庸な母親の言葉には、なんの力もなく、ただ同じこと「やめなさいといつもっているでしょ」の繰り返しなのです。
そこには子供にとって「本当に家を追い出される」という意図がなく、平凡な繰り返し「いつもいっているでしょ」という音だけが聞こえているだけなのです。
言葉に力がないのです。
家を追い出すといったなら、本当に追い出すべきなのです。
その場合、追い出した子供がどうなるか、その後どうすべきかということも考えておかねばなりません。
そのうえで、不可能なことなら口に出すべきではないですし、口にいったん出してしまったものは親として責任を持たねばならないのです。
それが「覚悟」というものなのです。
親にそれがないと子供を正常に教育することなど出来ないのです。
(誤解なさらないでほしいのですが、家を追い出すとかぶつとかの方法論は、あまりお勧めできないもので、巷でよくみられるたとえばのお話で、本来はもっと穏やかな方法を推奨するものです)
さらにエネルギーのない親は、先ほど書いたような「児童虐待」や「コインロッカーに捨てる」という行為に及びます。
これは「自分ではどう育てていいのかわからない」というところから誘引される行為なのですが、その多くはその親のまた親から引き継いだトラウマに近いものを引きずっているからなのです。
今年の春ごろは、会社では毎月100人前後の面接を行いました。
現在は落ち着いて50人ほどになっていますが、その中で採用できる人材は5%ほどです。
それは募集に参加される多くの方が「会社が何とかしてくれるだろう」「この会社は漫画やアニメというわかりやすいものを扱っているので、割合楽に仕事ができるだろう」という安易な思いで来られる方が多かったのです。
確かに私もまんだらけで働かせていただいていて、楽しくて仕方がないのですが、決してのんびりしているわけではないのです。
面接に来られて、採用されない方のほとんどは、(本来キチンと育てられていれば)人類の中でも14%の中に入れるようなレベルにある方が多いのですが、その方たちは子供のころからの教育(社会・家庭・学校・友達との交わり)の中でかなりスポイルされてしまっているのです。
中でも最も顕著なのが「ちょっと可愛い女の子」風の女性にその傾向が見られます。
やはり生れ出て、容姿が可愛いと常に周りから甘やかされ、大概のことは許されていきます。そういう境遇の中で、自らの欠点を改め、常に人間としての進化を目指す人格というのは、よほど意志の強い方でないと無理なようです。
そうして出来上がっていく人格は、自分の思い通りにいかないと不平不満を持ち、忍耐力がなく、気に入らないことには身が入らず、仕事も飽きてしまうとすぐにやめてしまいます。
若いうちは男性たちも可愛いのでチヤホヤしてくれますが、年を取り容姿に衰えが来ると、たちまち人生の冬が訪れて来て、その頃には「自分を律する」という在り様など想像もつかない性格に仕上がっていますので、死ぬまでの時間は「地獄」となるのです。
男性も同じです。
(主に)母親が多いのですが、甘やかされ、学校を出るまで社会のルールや人間としての在り様というものをキチンと教えてもらえなかった人は、やはり常に何かに依存していなければやっていけないという(マザコンに近いような)依存症に陥っています。
それが会社依存というような形で現れてきますので、「会社で何かを成し遂げる」という形ではなく、「会社が何をしてくれるのか」という願望がものすごく大きく、とても使いものにならない人格に仕上がってしまっています。
本当に自分の子供をきちんと育てようと思うのなら、先ほど書きました①と②の在り様でないと難しいのですが、子供にエネルギーを取られてしまった親には、それが中々困難なことのようです。
この宇宙全史のBBSでずいぶん以前に「私には友人がいない」と書いたことがありました。
実際そうなのですが、「友人がいない」ということは孤独だということではなく、「友人」というくくりが私にはないということなのです。
例えば通常皆様方は「家族」というくくりには強く反応されます。
あるいはそれを「私の子ども」と言い換えてもいいかと思います。
私にも子供は通算7人おりますが、しかしどう考えてもそれが「私の子ども」という感じにはなっていないのです。
普通の会社の社長なら、自分の子供に跡を継がせたいとか、会社に入れて優遇したいと思うのでしょうが、私にはまったくその意図が存在していません。
もちろんほかの従業員の方たちと同じように、才能があればいくらでも引き立てていくのですが、なければアルバイトどまり、それでもだめならやめていただくという姿勢は、赤の他人と全くかわりはないのです。
才能がない自分の子供に跡を継がせて会社をつぶし、結果として子供を苦しめ、従業員を路頭に迷わせるというような愚かなまねはとてもできない仕様に私はなっているのです。
そこには「自分の子ども」というくくりが私にはなく、他人の子どもと同じとしか見られないからなのです。
確認ですが、自分の子供に愛着を持ってはいけないといっているのではないのです。
しかしそこには自分の子供に対するのと同じ愛着を他の子どもたちにも持ちなさいと申し上げているのです。
他の子どもとは、近所の子供も、アフリカの飢餓地帯で飢えて死にかけている子供も含まれます。
友達というくくりでも同じです。
「友達」というくくりの中で、皆様方は「友達以外は友達ではない」という差別をしているのです。
あるいは「家族」というくくりの中で「家族以外は家族ではない」という認識を無意識のうちにしています。
その結果「友達」以外が「家族以外」がどうなろうと知ったことではないという無慈悲な感覚を共有してしまっているのです。
しかし今の人類には「家族を大事にしよう」「友達は大切」「友達をつくろう」という公共広告機構並のスローガンがまず必要な段階なのです。
そうしないと人々は、自分の周囲の人間にさえも愛を見出すことが出来ないのです。
つまり「子供にエネルギーを取られる」というシステムは、とりあえず子供を大事に育てるということを強制的に行わせるためのやむを得ない過渡期的なシステムともいえるのです。
しかしそこから生まれる「愛着」という執着は、親も子供も次第に疲弊させてしまいます。
その悪循環から逃れるすべは先ほど書いた①と②しかないのです。
ただ②の「子供を一人の人間として見る」というレベルでは、子供に対する愛着というものはなくなり、もっと精妙な普遍的な「愛」だけがそこにあります。
そこでは「自分たちが年老いたら、子供に面倒見てもらおう」とか「子供は自分たちの所有物」「家系を継ぐべき者」という概念がなくなり、自分たちと同じ一人の人間としての存在を守り育むという形の子育てが生まれます。
そこからは「学歴」や「経歴」を重く見ることなく、その子供が人生で本当は何をしたいのかという基準で、その子の才能を伸ばす方向性を探る形の教育をしていくのです。
仏陀も実はこの事実を暗に説いておられました。
それは「出家」という形で「家族」もしくは「社会」からの離脱を促していたのです。
まずはそういう形から入っていかなければどうにもならない時代でした。
今でも「出家」「イニシエーション」という形はありますが、現実的なメソッドとしては、上記の①か②が望まれます。
しかしそれを実行できる方は、おそらくほとんどおられないと思います。
それほどこのシステムは強力に作用するのです。
それほど今の私たちは、このシステムを必要としている段階なのです。
次回はこの怪奇なシステムから逃れる術をさらに説いていきます
地球界における覚醒・解脱・卒業の在り様④
1999年ヨーロッパは壊滅状態にありました。
発端はイスラエルにおける核爆発でした。
この現象は、以前私たちにこの世界の黙示録が降ろされたとき、そこにあったハルマゲドンへの一つの道標でもありました(まだ皆様方にはお伝えしていないはずです)。
つまりこの世界がアセンションではなく、ハルマゲドンを選択するのなら、段階を経て落ちていくのですが、その一つの指標となる現象に「イスラエルにおける核爆発」というのがあったのです。
その現象は、どこか(パレスチナとか)からの核攻撃によるものではなく、自分たちがあわてて核爆弾の操作を誤り、自爆しています。
これは私たちに降ろされた黙示録でも、ノストラダムスの1999年の時も同じ現象となっています(自爆ということですが)。
(誤解しないでほしいのですが、私たちに降ろされた時の黙示録は、すでに1999年を何とかクリアしてからのハルマゲドンへの世界線を記したものです。ややこしいのですがそういうことを把握しておいてください。現在この黙示録はさらに修正され、別な世界線上の別な黙示録が存在しています)
この核爆発で、ヨーロッパ全土は一気に戦火が広がります。
イギリスはフランスと敵対し、ドイツはヨーロッパ全土を敵に回し、そのほかの大国も小国もみんな巻き込まれ、混乱のるつぼの中、わけもわからず半年余りで壊滅しています。
ノストラダムスの大予言は「ヨーロッパ限定」でした。
彼の時代は、ヨーロッパがすべてだったのです。
あるいは彼にとっての世界とは、ヨーロッパがすべてだったのです。
ですから世界が滅びるということは、すなわちヨーロッパが滅びるということでした。
しかし欧州が壊滅した後も、すでに世界大戦にまで拡大していた戦火は燃え続け、アメリカ、ロシアはもちろん中国、インド、日本も巻き込まれ、北半球はほぼ1年で壊滅しています。
すべて核による攻撃と、それによる各国の核保有庫での誘爆により大半が壊滅していました。
1年で北半球の世界は見る影もない状態にあったのですが、しかしそこで終わりではなく、そこから約10年にわたってゲリラ戦や小競り合いが生き残った者たちにより続けられ、憎しみの連鎖と果てしない暴力の中で最終的に皆が力尽きて終焉しています。
この時地上の人類は人口が100分の1に激減していました(放射能汚染による淘汰はもちろん、大規模な気象変動による飢餓、水質汚染や人類の免疫力の低下に伴うそれまで見たこともない恐ろしい疫病も蔓延して、生き残った人々は、核爆弾により一瞬で死んだ人たちをうらやむようにまでなってしまっています)。
その後人類の復興は、南半球から始まります。
最も無事だったのがオーストラリア圏でした。
アフリカは南半球にありながら、結構な戦火を受けていましたが、それでもオーストラリアに次いで復興が進んだ地域でもありました。
しかしこの復興は「新しい人類の始まり」ではなく、ハルマゲドンの後始末としての復興だったのです。
つまり決して人類の夜明けではなく、最終的には昔の映画「渚にて」にあったように、漸進的に人類はその後さまざまな苦難を抱えながら(カルマを消化しながらともいえるのですが)、絶滅していきます。
私は皆様方にあまり危機意識を喚起するような情報は書かないようにはしていますが、それでも安穏という日常性にいつまでもくるまれていますと、いつの間にか引き返せないような抜き差しならぬ未来に取り込まれてしまうのです。
あまり「こうなってしまうんだよ」「人類は滅びてしまう」というようなネガティブなことを書きますと、たちまち脆弱な人類の大多数の総念はハルマゲドンへ一直線となってしまいます。
しかしそういう危機意識を、ある程度認知していただいていないとやはり人は動こうとはしないのです。
その微妙なバランスが非常に難しく、私も筆が重いのですが、すでに「人類には知る必要のない情報」を開示していますので、勢いで色々書いておこうかとも思っています。
この冒頭の情報開示(すでに過去のものになってはいますが)でお伝えしたかったのは、現在の私たちの世界は、本当にギリギリのバランスで、いってしまいますと「上の方の恩寵に近いもので」継続(生存)出来るベクトルを保っているといえるということです。
しかしそれすらも日々危うい方向に傾きかけては、みわが修正するということをしております。
(実際にはみわ一人ではなく、現在この地上に出ているあと9人のアンドロメダにもその負荷は重くかかっていますし、日本ではほぼ覚醒している僧侶の方たちにも分担していただいています。9人のアンドロメダや、僧侶の方たちはその負荷がどこから何のために来ているのかは、おそらく理解していただいていないと思われますが、地球の緊急事態のため人類のため引き受けていただいています・この日本の僧侶という方たちは、特別高名であるということもなく、おそらくあまり世に知られていない方がたではあるのです)
さて「子供を産むと両親は子供にエネルギーをとられてしまう」というお話でした。
前回は子供への影響を主に書いていましたが、ここでは母親の変化を書いておきます。
まず子供を産むと(妊娠の段階から)母親は自分の子宮への関心(意識の集中)を急速に深化し始めます。
それは子宮という部分が人間の女性におけるエネルギースポットになっていまして、そこから(子供に)エネルギーが吸い取られているので、そこに集中せざるを得なくなってしまうのです。
そのことで母親には(一般的には)悲劇的な変化が訪れます。
先日テレビを見ていましたら・・・確か9月4日に放映された「踊る!さんま御殿」だったと記憶していますが、子持ち芸能人(母親たちで、一応モデルや美人ママとなっていました)達がさんまさんと子育てトークをしています。
しばらく見ていましたが、次第に気分が落ち込んでいきました。
それは彼女たちが子供を中心にして、旦那をないがしろにしていること・・・そのこと自体を当たり前と表明し、さらにそうすることが大事、美徳だと感じていたのです。
それが正しいことと主張してはばからないその態度には、本当に気味が悪くなったのです。
そうすることで、自分は「立派」だと思っているのです。
月読の大神
「醜いでしょう」
「エゴ丸出しだからね」
「そこに気が付かなければいけない」
「そこに自分の存在意義があるかのように、自分が何かえらいものであるかのように振る舞っているのは愚かそのものだね」
妻に子供ができると、父親は浮気に走ります。
それはそれまでのお互いを見ているという「ハネムーン感覚」が、急に妻の視線(意識)が自分に向かなくなったのを、意識的にも無意識的にも旦那は気づくのです。
そして男親には子宮はないのですが、別な形でやはりエネルギーをとられていますから・・・つまりエネルギーが満たされていない状態になってしまっているので、どこかでそれを満たそうとします。
妻でそれが出来ないので・・・それじゃあ・・・浮気という形になるのです。
エネルギーがなくなったその満たされていない状態を、妻は子供に求め、夫は他に求めるということなのです。
月読の大神
「その方が手っ取り早いでしょ」
「手っ取り早い方を皆さんやるだけよ」
男性がすべて浮気に走るかどうかは、その方の気質によりますが、それが内に向かう人は、何かマニアックなものに凝ったり、もっと別な何かで気を紛らわしたりします。
男性もエネルギーがなくなっていますから、余計に妻の心が離れてしまっているという影響を強く受けてしまっているのです。
月読の大神
「だから客観的になれないね」
「事象に引きずられてしまう」
「泰然としていられないのよね」
人により現象としての強弱はありますが、これが一般的な「子供を産んだ後の家庭状況」です。
本来なら「妻は夫を立て、家庭内を守りつつ、子育てをする」という形、夫は「仕事で社会に貢献し、その報酬で家庭を維持し、そのたくましい有り様で妻や子供たちを守り育てていく」という姿がベストですが、中々そういう家庭は少ないようです。
しかし私たちはどんなに困難な状況であろうとも、相手(妻や夫)が悪いと思いつつも、子育ての中で妻も夫も子供もお互いが成長できる選択を日々模索していくしかないのです。
そうしてその上で「世界平和の祈り」で五井先生にお願いして、足りない部分を補っていただき、さらによき未来となる方向性をご指導いただくことが出来るのです。
世界が破滅ギリギリの境界線で進行している今、皆様方にできることは、中東に行って戦争を止めることでもなく、中国に渡って首脳部と話し合い、日中友好を実現することでもなく、アフリカや中南米で進行している自然破壊を食い止めるために私財を投げ打つことでもないのです。
そもそもそんなことが出来ないのが私たち凡夫なのです。
まず身近な身の回りを整理し自分自身の清廉潔白さを証明して、世界平和の祈りを掲げたとき、そこからその人の新たな人生が始まるようになっています。
例えば「呼吸法」というシンプルな霊的覚醒を導く手法がありますが、どんな呼吸法であろうと、そこに何のベースもない人間が、どれだけ必死になって日々精進したところでなんの効果もないのです。
昔オーム信者たちがよくスッハ!スッハ!と激しい呼吸をしているフィルムがありましたが、あれでは血中酸素が過多になり、頭がボーっとなるくらいが関の山で、それを何か異質な霊的経験としているに過ぎません。
しかしベースが出来ている人が同じ呼吸法を実践すると、全く異なる成果がそこに出てくるのです。
ですからまず
①どんな形でもいいですから、世界平和の祈りをする
②それが継続できるようになったら、身辺の整理をする
(身近な人たちとの関係性の改善と自分自身の有り様の改善)
それがベースを作るということなのです。
そこを外しては次なるステップということはないのです。
さて「子供を産むと親はエネルギーを失う」という話をしてきましたが、この話にもやはり例外というものはあるのです。
その話を最後にしておきます。
テレビのバラエティなどによく出ておられるYOU(ゆう)という方がおられます。
この方はお子様を産んでからも自由奔放な生き方をされているので、きっとエネルギーをとられていないのだろうと推測し、皆さんの参考になるだろうと調べてみました。
しかしそこには全く想像もしなかった事実があったのです。
少し長くなってしまいましたので、そのお話はまた次回に・・
地球界における覚醒・解脱・卒業の在り様⑤
まずYOUさんのお話から
芸能人のYOUさんという女性がおられますが、彼女はお子さんを産んでからもわりあい自由奔放な生き方をしておられるようだと思い少し調べてみました。
すると今回の「子供を産むことによるエネルギー問題」・・つまり子供を産むことでエネルギーをとられてしまうという在り様から離脱しているわけではなかったのです。
彼女もやはりエネルギーをなくしていました。
しかもその生き方は「自由奔放」というよりは、もう少し「自堕落」に近いものでした(そこまでではないのですが)。
しかし見た目はとてもエネルギッシュで生き生きと輝いて見えます。
それは決してテレビの画面上だけではないのですが、それでは一体どこからそんなエネルギーが湧いてきているのでしょうか。
調べてみますとそのエネルギーは何と彼女のお子様から来ていたのです。
実は彼女のお子様は非常に段階の高い方で、以前ここで何度も出てきましたが、人類の14%のさらに6%のさらにまたその1%(人類の実数でいいますと現状では約60万人)に入る方だったのです。
最初の人類の14%というくくりは、現段階で覚醒の可能性を有している方たちです。
その6%が何とか覚醒できるだろうという段階で、さらにその1%は覚醒すれば、それぞれの分野で人類を導いていくべきエネルギーを有している方たちです。
その人類の指導者になる段階のお子様から彼女はエネルギーをもらっています。
何故なのでしょうか・・
その子は、彼女のことをすごく心配しているのです。
「危なっかしくて見ていられない」
「放っておけない」
いつもそう思っています。
だからエネルギーを彼女に与えているのです。
そして彼女にエネルギーを与えていなければ、彼はやがて人類の偉大な指導者として立つこともできるのですが、このままではどうもそうはならないようです。
しかしそれも彼女と彼の宿命で、彼女の今回の生は「刈取り(ご褒美)」の生で、彼は彼女をフォローするように宿命づけられています。
つまりそういう関係性を持つ前世があったということですが、それに関しましてはまた別のお話になります。
子供を産んでしまうとその両親はそれぞれ子供に特殊なエネルギーを与えるシステムになっていますが、その例外としてYOUさんのお話をするつもりでしたが、結局彼女もこのシステムの渦中にあったのです。
しかし実に稀ではあるのですが例外は確かに存在しています。
そういう親は一定の型にはまる生き方ではなく、それぞれの場所でそれぞれの有り様でこのシステムから離脱しているのです。
本当はその具体例を書くといいのですが、それはまた別な機会にいたします。
しかし見た目はバラバラでも彼らの共通項はあるのです。
それは、
①やさしい(放縦に流されない丁寧さ)
②忍耐力がある(待つことを知る・機会を失わない忍耐を知っている)
③非情である(冷酷にならない平静さ)
④狡猾である(残忍にならない明晰性)
この4つはドン・ファンが提唱する「戦士」の条件ですが、それをクリアしているのが離脱している親の共通項といえば共通項です。
それに反してエネルギーをなくし、子供に愛着を持つ親は、
①やさしくない
②忍耐力がない
③情に流される
④酷薄になれる(裏切られたと思い込み深い復讐の念を持つ)
一般的に③と④は「人間的」といわれている形質でもあります。
愛情や愛着という一種の執着を持つ人々は、それが裏切られると思うとたちまち豹変して「残忍」にもなれますし「酷薄」「冷酷」にもなってしまいます。
その残忍性は「愛着」の度合いに比例します。
つまり愛着(執着)が強ければ強いほど、裏切られたと思うときにはその反動として強力な復讐心が湧いてくるのです。
私が以前からよく申し上げています「情の深い人ほど冷酷になれる」「非情な人が本当はやさしい」ということがここにあります。
3と4は情(執着から派生する感情の一種)という一般的に「人間的」といわれている形質ですが、この情に「自己憐憫」が絡むことで、さらにその効果は加速されていきます。
自己憐憫」は人類の最大の敵であり、エゴの中心に位置する最強の暴君でもあるのです。
「私はよくやっている」
「自分を認めてほしい」
「なぜ自分だけほめてくれないのか」
「私にだけ挨拶をしてくれない」
「ぞんざいに扱われた」
「私だけが苦しんでいる」
「もっといい思いをしたい」
「もっといい容姿に生まれたかった」
「もっといい子がほしかった」
「どうして私にこんなバカな子供が生まれたのか」
「本当はこんな人生ではないはず」
そこには「感謝」がないのです。
生かされてあるということ、日々の当り前に、ただそれだけのことを感謝できないのです。
私たちは過去生からの因縁で生まれ、生き、死ぬということを繰り返していきます。
今自分の前に現れている現実は、すべて自分が招いたものだということがわからないからそう思ってしまうのです(つまり今眼前に現れている現実は、自分が招いたものである。そしてそれは今解消すべき時として、縁あってこうして現れているのであるから、学びとして受け止め精一杯の努力で受け止め解消していくということ)。
その形は私たちが「学習」すべき最も効率的なシステムにもなっています。
早くさっさと学ぶべきことを学んで次の段階にいけば、もっと軽い生が待っているのですが、それに足枷を強力につけているのが「自己憐憫」というエゴなのです。
「学ぶべきことを学ぶ」とはまず眼前の現実を受け入れるというところから始まります。
それがなければ(つまり試験用紙を受け取るということですが)そもそも試験は始まらないのですが、大概の方はこの段階で挫折してしまいます。
現実を受け止めないのです。
「何かもっといい世界がどこかにあるはずだ」
「自分にはいつかきっと王子様が現れて抱っこされてお姫様になる」
「現実がダメなら精神世界で・・」
「こんなに苦しんでいるのは、きっと自分には救世のお役目があるに違いない」
だから皆さん様々な詐欺や怪しげな精神世界、宗教団体に簡単に引かかってしまうのです。
しかい現実を受け止めると申しましても、ただ受け止めそこから何の努力もしないというのはまたちょっと違います。
全身全霊でやるべきことをやって、その結果をすべて真摯に受け止める・・それが本来あるべき私たちの姿なのです。
さてそれではなぜこれほど人類にとって重要なカラクリ(子供にエネルギーをとられるということですが)を仏陀は説かなかったのでしょうか。
そこからの離脱の仕方は説いておられましたが、その因となるこのシステムについては言及しておられません。
さらにやがて明らかにされますが、もっと根源的な、もっとおぞましいシステムが私たち人類には枷として課せられているのです。
それについても仏陀はもちろん(ドン・ファンたち以外は)全く触れていないのです。
インドの聖者たちも西洋の覚者たちも、中国や日本の覚醒者も言及していません。
何故でしょうか・・
その答えは、
「教えても仕方がない」
というものでした。
みもふたもないいい方ですが、仏陀からしますと、
「その中で学ぶこと」
「その中でしか学べない魂だから」
ということなのです。
地球界という場所はそういうところなのです。
だからそこからの離脱ということは教えてくださいますが、その意味やそのからくりは「教えても無駄」という感覚なのでしょうか。
実際にカスタネダはその著書の中で、ドン・ファンの教えとしてこうした多くの秘密を明かしていますが、カスタネダを注目する多くの人たちでさえ誰もそこにはフォーカスしていないのです。
それはフォーカスしていないというよりは、フォーカスできない・・そこにピントを合わせることが出来ないというのが正確なところなのでしょう。
このカラクリを見るには、人類の地平から一段高いところから俯瞰しないと見ることはできません。
そして例え見ることが出来ても(教えられても)それが何を意味するのかが分からないのです。
仏陀の教えは今回の文明の集大成ですが、それは「今の人類というカテゴリーの中での教え」なのです。
つまり手枷足枷がある中での人類の進化という限られた教えではあったのです。
もちろん仏陀は遥かに超越した法を説くことも出来ました。
しかしあえてそれをしておられません。
それは仏陀が今の地球という舞台の範囲で人類がやるべきことを説くということに専念されているからです。
しかし私はまた別な存在なのです。
私は本来あまり人類というものにフォーカスしていません。
私の集合魂はそれでも地球界における妖怪たちの指導(あるいはもっと包括的に裏の存在達の指導)という役目を持ってはいましたが、私は特殊な造られ方をした存在ですので、あまりそうしたことに縛られない在り様になっています。
ここでNo1596のふぁるこんパンチ様への回答となります。
私は五井先生の弟子ですし、その教えこそが人類成道への大きなカギになると知っています。
でも私の視点はまた別なところにあるのです。
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「そんな知識や経験が不足すぎる私が、人様にとやかく偉そうなことは言ってはいけないと自覚してますが一言だけ発言させて頂きます。
>それともこのまま地球も人類も流されるままに滅亡に向かっていくのでしょうか
知識や経験の量や質を見るに同列とはとても申し得ませんが、お互い何があろうとも五井先生より学ぶもの同士”祈りの力”を信じようではありませんか!
これまでも何度も祈りの力で世界を破滅の危機から救って頂いた”救世の大光明”の方々の奇跡を今後も信じようではありませんか!
これこそが五井先生の本願だと確信した以上、私のような凡夫はただその船に乗り、ひたすら世界が平和であることを信じ続けたいと宣言いたします」
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世界中のどこの誰よりも五井先生の世界平和の祈りの力を私は知っています。
だからこそ皆様にお伝えしているのですが、何度も申し上げますが私の立場はまた別なところにあるのです。
私とみわは、上の方々の御指導で地球の負荷を解消する方向で頂いております。
しかしそれは(あくまでも私の感覚なのですが)「人類を救う」とか「地球を大アセンションに導く」というニュアンスではなく、ギリギリのところで人類が学びを得ることが出来るであろう舞台(世界)を残すための微調整という感じがしています。
(これも私の感覚なのですが)月読の大神ほどの存在なら、いとも簡単に人類くらい覚醒させるのは朝飯前なのです。
それをあえてなさらないで「学び」という進化にとっては必然のファクターを与えているというのは、どこまでも人類自らが進化という道筋を見つけ、歩んでいくことを望まれているからなのです。
仏陀や五井先生は「超」お節介屋さんです。
以前書きましたが、その慈悲は月読の大神が呆れてしまうほどのものでした。
私はそうではないのです。
仏陀や五井先生は本当に心底あなた方のことを考えておられます。
しかし私はハッキリ申しあげてどうでもいいのです。
人類が滅びようが生き残ろうが知ったことではないのです。
それは人類の問題なのです。
そして今、先ほど書いた14%のカテゴリーに入らない人々・・・86%の人たちがこの地球の命運を握っています。
この方たちが変わらない限り、人類の進化は難しいのです。
日本はもちろん世界中を見渡しても、その行く末はほぼ絶望的ですが、それでも月読の大神は「そう捨てたものではないよ」とも仰っておられます。
しかしそこには「世界平和の祈り」という五井先生のメソッドが必須だということもまた事実なのです。
果たしてどこまで人類は世界平和の祈りを受け止めることが出来るでしょうか。
ご指摘のように、私のスタンスはこういう言い方に現れています。
人類が覚醒するかどうかは皆さんの問題なのです。
だから五井先生の教えを勉強して、世界平和の祈りにかけるしかないのですが、それはもう全身全霊で行い、信じきるしかないのです。
私やみわは初めから申し上げておりますように救世主などというものではありません。
皆様方が世界平和の祈りを信じ切って一心に祈ることこそが、まさに皆様方を救うことであり、世界をそのまま成道させることにもなるのです。
今は86%の人々に、ニサルガの実存がどうのとか、ドン・ファンの戦士の道などを説いてもあまり意味がないのです(やはり段階を経ないと理解できないということがあります)。
もちろん私はこれからもニサルガとの対談やお約束しているカスタネダとの対話という本を書いていくでしょう。
しかしそれはあくまでも14%の方たちの覚醒のためであり、人類を導いていこうとする60万人の中にいる崇高な使命を持った方たちへのメッセージとなるものなのです。
私もみわもこのワークが終われば、一陣の風が巻き起こす道端の埃のように消えていきます(みわの方が私よりも少し先に行くようですが・みわというよりアンドロメダといった方が正確でしょうか)。
私たちのワークは来るべき人類の新たなる世界の礎となるべく定められています。
皆様の運命は皆様が選ぶのです
虚空蔵55