ニサルガダッタに関する

 

「2020/1/7 No.424宏史様での御教示

「⑫ 宇宙全史1のP54のニサルガダッタ様の言葉で
「しかし認識そのものも実はないんじゃよ」
とありニサルガダッタ・マハラジ様の本を読んで疑問に思ったのですが
認識以前の「それ」はどうやって「それ自身」に気づいたのでしょうか?
認識がないなら気づきようがないのではないのかと不思議に思います。
そもそも一体何が「それ」に気づきをもたらしたのでしょうか?
考えれば考えるほど不思議で答えが出ません。
「それ」は「それ自身」に気づいてはいません。
「それ」に気づくには、「それ」から離反する以外にないのです。
ニサルガは「それ」が「それ自身」を認識しているとはいっていないはずです。
「それ」に気づくのは、完全覚醒した「私」です。
ここで思い出して頂きたいのですが、ニサルガの実存は月読之大神が確か「過渡期的なもの」とか何とか仰っていましたよね。
今正確な言葉が思い出せないのですが、あの時のニサルガの境涯は、真我そのものではなく、そのほんの一歩手前にありました。
例えばEOはその3歩手前位で、どっぺんさんは1000歩手前位の関係性です。
しかしEOくらいになりますと、そこはもう完全覚醒者としての位置づけに入ってしまいます。
そこで再度確認しますと、「それ(この場合は真我です)」に気づいているのは、確かにニサルガですが、そのニサルガは「ほぼ真我」の状態のニサルガなのです。
この「ほぼ」が「それ」に気づいているのです。
しかし完全に真我に入ってしまいますと、その認識はもちろんなくなります。」
「2016/11/5 No.3207 ワンオーワン様での御教示
「意図」は思考の産物ではないということから、少なくとも二元性の範疇に属するものではないことが推察されます」
●確かにその通りなのですが「意図」は地上ではあなたのいうように、辞書的な意味では「思考」の「おもわく」「もくろみ」としても使用されています。しかしここではもう少し上の段階における「意図」を使用しています
「「意図」は思考の産物ではないということから、少なくとも二元性の範疇に属するものではないことが推察されます」
●そうでもないのです。「意図」は意識から出て来るもので、その時点で既に二元性を持っています。ギリギリ二元性を発現していないのが「意識」です
「以上から「意志」とは「実存」から発現するものであるということのようです」
●まず「実存」とは「真我」と「生きる世界」の境界線上にある境涯です(これはちょっと難しいので「宇宙全史」第二巻をお持ちください)。「実存」から「意識」がほとばしり、「意識」から「意志」が生まれています
「「意識は至高なるものの身体だ。至高なるものは意識しないが、それが意識を発現させるのだ。」(13「至高なるものの、マインド、身体」より)」
●確かに意識は至高なるものの身体ですが、その前に至高なるもの(真我)から意識というエネルギーが出て来るのです。そしてそこ(意識)から意志が発現しています」
「ニサルガダッタの「私は在る」という本の中でmasa様と同じような質問をニサルガにしておられる方がいます。
その質問にニサルガは「その戦争はあなたの世界にあるだけで、私の世界にはない」と喝破しております。
しかしその質問者は「あなたは今現在多くの罪のない子供たちが戦争の犠牲者となっているのをただ見過ごしているのですか」とつめよります。
さらに「私の世界に戦争はないとおっしゃるが、あなたが知らないだけで今日も世界のどこかで多くの子供たちが死んでいるのです」
とたたみかけます。」
                                   
「さて私はどうしたらみな様方にニサルガの言葉を理解していただけるでしょうか。
実はそれが「宇宙全史」の内容でもあるのです。
JUMUとこの世界の深遠な構造についていろいろうかがっていると、突然ニサルガダッタが出てこられて、
「認識があるから対象があるんじゃよ」
「認識がなければ対象(世界)もない」
「しかし認識そのものも実はないんじゃよ」
でお話がすべて終わってしまうのです。
なんと「宇宙全史」はわずか3行でおしまい・・・なのです」
「またニサルガは知恵というより叡智で覚醒をとことん求めた方でした。
彼の過去世を確認いたしましたら「ただの親父だよ」とおっしゃっておられましたが、実際はやはりチベットあたりのマスターで、ひたすら瞑想に瞑想を重ね「実存」を求め続けておられました。」
「書いておかなければならない一節があります。
それは「宇宙全史」シリーズには「時間」という本もあります。
そしてその担当者はなんとあのニサルガダッタなのです。
ニサルガをご存知の方は「二元性を超えた方がこんなプロジェクトに参加して来ないでしょう」
とまずお考えになるでしょうが、今回のプロジェクトで一番気軽に来てくださるのがこの方です。
二元性の秘密は彼の日本における唯一の書籍で散々明らかにされていますが、
それでもそれによって覚醒したという方を私は知りません(私が知らないだけかもしれませんが)。
覚醒の途上で頭脳に変化をもたらしたニサルガの文章をほとんどの方は理解できないのでしょう。
私は彼があまりにも頭がよすぎるのでその質問を直接してみました。
すると彼がいうには「師のいうとおりの修行をしていく中で自然に脳の活動領域(特に思考)が3倍になってしまった」
そうなのです。
あのニサルガの本の中でどんな難しい(ほとんど難題に近い)質問にも、
当意即妙で自然にスラスラと考えられないほどその場に合った深遠な答えを出しておられた彼の頭脳はすでに人類のものではなくなっていたのです。
「時間」は、その解読書、昔風に申し上げるなら分かりやすい「あんちょこ」のような感じになると思います。」
「他の方からも同じようなご質問が来ておりますが、「より効果的な方法」などというものは存在しないのです。
唯一申し上げられるのは「ただひたすら一心に祈る」それだけのように思います。
ただひたすら「世界平和の祈り」を祈る・・・それが秘訣だとお分かりになれば、どんなに安らかでしょうか。
エゴは奇妙な呪文やおどろおどろしい儀式、通販で買えるそこそこ高い(しかも色々うわさになっていて本にも書いてある)グッズが大好きです。
あるいはもう少しまともな方は、自らの力で修行をするということを好まれるでしょうか(私などはそうでした)。
実際私は現在もそういう形になっていますが、その実態は「エゴを放棄し、深い祈りと一体になる」というものが求められます。
私の修行は誰にでも出来るという形ではないようなのですが、それでも祈りという共通項はすべての人類に当てはまるのです。
回り道しても結局たどり着くのは(たどり着けたとしてですが)祈りなのです。
この世界からの脱出口は、ドン・ファンのメソッド、ニサルガダッタの叡智、仏陀の慈悲、インドの聖者たちの教え、クリシュナ・ムーティの透徹した洞察などなどたくさんありますが(皆様方の場合は)そこ(祈り)にしかないとお考え頂いていいと思います(ある意味五井先生のお祈りは、仏陀の慈悲の延長上にあるものですが)。」                        
                                              
                                  「心構えなどないのです。
まずその「(何か他のものがあるのではないかという)心」をなくして・・・それがただ「ひたすら」ということなのですが・・・祈ってみてください。
「自分には何かあるはずだ」
「もっと何か他にやり方がないのか」
「自分は人と違う役目がある」
「せっかくここのサイトを見ているのだから、誰も知らない(秘法のような)方法を教えてほしい」
「こうして精神世界に目覚めたのは、自分に何か役目があるはず」
そんなものはないのです。
いやあるのですが・・・「今あるあなたがそれ」なのです。
もしあなたが救世主ならすでにそういう形が自ずと現れています。
あなたが世界なのですから、まずあなたを救ってください。
「今を100%で生きる」
「100%で生きるとは完璧に生きるということではなく」
「今を100%で生きるとは、直後に死んでも悔いがないという生き方です」
今のあなたがすべてなのです。
そこをどう生ききるかということが今求められているのです。
祈りにすべてを注ぎ込んでください。
そしてそれがどういう未来をあなたにもたらすかを、ただ見ていてください。
あの単純なお祈りの文言がどれほど大変なものか、五井昌久という存在がどれほどのものかということを知っているのは、今地上ではおそらく私一人だと思います。
私の役目はただそれをお伝えすることだけなのです。
そのために色々回り道はするでしょうが、
他には何もないのです」
「No.1078 ミシェル様
「覚醒した人と無明の人とは、海で泳ぐ魚と陸に上がれる両生類程の違いがあると思っていました」
まさにそのとおりです(本当はもっと差がありますが)。
「覚醒の基準、種類・段階がグラデーションになっているということは無明と覚醒に境目・壁がない、であれば、日々エゴに陥らないように意思しつづければ、 より覚醒の度合いが高い状態になっていくはず」
ここが少し違っています。
確かに覚醒の基準・段階はグラデーションになっていますが、それが「無明と覚醒に境目がない」ということはないのです。
各々の段階、各々の覚醒に応じて、覚醒した前と後では大きな‘(精神的にも肉体的にも)変容があります。
「日々エゴに陥らないように意思しつづければ、より覚醒の度合いが高い状態になっていくはず」
これも理屈的にはあっているようですが、実際は「あなたご自身がエゴそのもの」ですから、エゴがいくら意思し続けてもエゴに気づくよすがはありません。
そこには「いったんエゴから離れる」という術(すべ)が必要です。
それが、
あらゆる「感謝」
五井先生の「祈り」
ドン・ファンの「戦士の生き方」
ニサルガダッタの「透徹した明晰さ」
などです(もちろん他にもたくさんありますが)。
どれを選択しても自由ですが、多くの方に適合するのは「感謝」と「祈り」でしょうか。
エゴの強力な方は、中々ここから始めるのが難しいかもしれません。
「自分はドン・ファンでいってみよう」「私は二サルガの叡智が好きだわ」などとチャレンジされるかも知れませんが、エゴを抱えたままでは絶対にその段階を クリアすることは不可能なのです。
「自分はまわりの多くの方たちの一人で特別な存在な訳はないと頭では分かっているのですけれども、いまのところ、心情的になかなか腑に落ちません」
人はどんな方でも特別な存在であり、皆オリジナリティをその存在の根源に有しています。
ただ表面意識のエゴの層において大概の人間は、ほぼ同じ反応、同じ生き様、同じ感覚、同じ行動様式で生きていますが・・・。
エゴの生き様こそ全く特別な存在ではないのですが、それこそが特別な自分だと思っているところにエゴの愚かさがあるのです。
「大海の一滴」とは無味無臭、没個性ということではなく「あなたはすべてとつながっているよ」ということなのです。
私たちは「エゴ」という奇怪極まりない構造により、世界と切り離されて生きているといつの間にか思い込んでしまっています。
いつかもう少し詳しくここら辺りをお話ししてみようと思います。
有難うございました」