虚空蔵55様に関する記載

(非公開情報No.1より)
「私は実は非常に強力な大魔法使いでした。


 おそらく人類史上最大の魔法使いだったと思われます。
 しかしその歴史(私の関わった歴史)は、今すべて封印されています。


 そしてその封印がその能力と共に、やがて解かれようとしているのです。
 それは私の覚醒に従って徐々に解かれていく事でしょう。


 その封印を解く事は、実はかなり危険という事があるようです。
 ですから今生私の魔法の能力は、ほぼ完全に封印されてこの世に出てきております。


 しかしその危険を冒してでも、私を使わないとこの世界はどうにもならない状態に陥ってしまっていたのです。


 うまくいけば人類は大アセンシヨンをクリアできる……が、私が狂ってしまうと、人類どころか世界を消滅させてしまうというくらいの危険度があるということです。
 ですから非常に危ない賭けであり、一か八かのやむを得ない最終手段でもあったようでした。
                                            」
2008/1/1 No.26
「私はこれまで様々な霊能者にお会いしてまいりました。そのたびに言われるのは「あなたはすでに超能力的には開いているように見えるが、なぜそれを求めているのか」ということでした。
実はずっと私の守護神である「大魔法使いのじい様」が私の超能力(法力)を封印して来ていたのです。
それには訳がありあまり詳しくはお話していただけないのですが、どうやらその能力で大昔にとんでもないことを仕出かしてしまったらしいのです。
この地球でではないようですが・・・どこか別の宇宙でやってしまったらしいのです。
ひとつの文明を壊すどころではなく、惑星でもなく、宇宙そのものをどうやらどうにかしてしまったらしいのです。
何のお話かよくお分かりにならないでしょうが、とにかくとんでもないやつらしいのです・・・私は。
ですからある一定の(かなり高いのですが)ハードルを越えないとその能力は覚醒させて頂けないようです。
しかもそのハードルを越えたとしても、少しずつしか開かせませんよといわれております。最終的に全開させていただけるのは、みな様方を無事アセンションに導くことができたら・・・ということらしいです。
今全開してしまうと、私はすぐに(即)この世をおさらばしてしまうそうです。
(そうですかね〜)
今生では翼をもがれた存在であるようになっているらしいのですが、それも今回が最後らしいので、何とか大人しくしてお勤めをさせていただきます。」


2008/1/27 No.37
「これも以前書きましたが、私とアンドロメダの方が一緒に何かするということはまず有り得ない状況なんだそうです。
それが実現しているということは「UMUが私の守護神の大魔法使いのじい様にお願い」したらしいのです。
それでお互い引き合わされこのお仕事をするようになったようでした。
そもそも私はこういう地球の表舞台に出てくるキャラではないのですが、今回はどうしてもどうしようもなくの起用ということでした。
本来私にはあと10年間じい様指導の修行があったようでした。
それがすべてぱあになり、少しじい様は機嫌が悪いようです。
私の集合魂はアセンションやハルマゲドンなどどうでもいいようです。」


2008/7/10 No.81
「さて確率は低いのですが、うまくクンダリーニが覚醒しましたら、その先にある一つの目標が「肉体の完全覚醒」という事らしいのです。
私はクンダリーニの覚醒が「肉体の完全覚醒」と思っていたので「え?まだ
その先があるのですか}と思わず聞き返してしまいましたが、このあたりは色々シチュエーションがあるらしく、クンダリーニの覚醒自体にもほとんど無数と言っていいほどの段階があるようです。
そして今お話ししましたように、その先の最終目標として「肉体の完全覚醒」という事を目指さなければならないようです。
(クンダリーニ、及びその覚醒につきましては、ご自分でお調べになるか、第3巻をお待ち下さい。本来このワークでは、すでに精神世界のおおよそのメソッドや方法論はご存知である方たちが対象であるという前提条件の上で書き進めているものでもあります)


「宇宙全史」第一巻でも書いていましたが、私は人間の肉体を「穢れたもの」「克服すべき汚れた存在」とは考えておりません。
それは精神と共にある一定のレベルまで昇華すべきアイテムだと思っています。
実際このワークの中で明かされる肉体の精妙さ、ポテンシャル(潜在能力)、可能性は実に驚くものがあります。


目指す所は結構な高みなのですが、私たち自身はみな様とほとんど何もかわらない普通の人間です。
おそらく多くの方は「特別な人間」「選ばれた人」「救世主」などと勘ぐっておられるかも知れませんが、本当に普通のどこにでもいるような凡庸な人間なのです(もし異なるところがあるとしたら、それはほんの少し考え方が偏っているといったところでしょうか)。
その凡庸な人間が覚醒できたなら「その方法論をそのままみな様方に適応できるのではないか」・・・というわりと安直な期待の元にこのセッションが進行しているのです。
つまり私のクンダリーニが開くのなら、それはみな様のクンダリーニも開くということなのです(みな様が望めばということですが)。


ですから私たちのワークは、情報収集はもちろんですが、虚空蔵55とみわの覚醒に関しまして、とにかくなんでもありの、掟破りの、ハチャメチャな進行になっています。」


2008/10/2 No.342
「私の転生はまだしばらく秘されるのですが、かつてエジプトのスフィンクスをつかさどる大魔法使いでもありました。


そういう事もあったのです。


あの謎々を問いかけるスフィンクスは、今皆様方に新たな謎々を問いかけています。」


2008/11/20 No.380
「左に書くとお約束しています「美しい約束」という文章は実はすでに書いてしまっているのですが、そこには私の正体が書かれています。
覚醒も(たぶん)もうすぐなので、書いてしまってもいいかなと思っていたのですが、私の守護神である「大魔法使いのじい様」から待ったがかかってしまいました。


既存の日本という国のアイデンティティである「天皇」や「古代日本」の真実を明らかにしていくことはかなり危険なことらしいのです。
そこにまた私の正体をさらすことは重ねて「愚かなふるまい」としてたしなめられてしまいました。


そうした危険から身を守るすべを、まだ私たちはまったく知りません。
しかし私の中で目覚めつつある「大魔法使い」は、おそらく人類史上未曾有の力を持つ者です。
その力がすべて私の覚醒で顕現するかどうかはハッキリしませんが、少なくともそれまで自重することが賢明なようです。」


2008/12/21 No.411
「最近私は未来予想というのをあまりやっておリません。
それは私の第一段階の覚醒(大魔法使いとの合体)いかんにより、その後の世界状況が大きく変化して行ってしまうからでした。


それももう間もなく落ち着きます。
(実はまだ合体していません・・・しかしすでに期日は決定しておりまして、目前に迫っています)


「十の願望成就法」は、私が大魔法使いに変身する前の皆様へのささやかなプレゼントでもあります。
(もちろん受け取れる方だけにですが)


もし100%この魔法を使い切る事が出来る方がおられたら、この魔法は世界をも手に入れることができるものだという事が証明されるでしょう。」


2008/12/31 No.436
「二つ・・・私が合体するのは守護神の大魔法使いのじい様ではありません。
(このじい様はいまだ人間としての転生はありません)
お話しがややこしいのですが、合体するのは封印されていた「私自身」です。


もう一つは「宇宙全史」第二巻の発売は、まだ決定されておりません。
(私の書き方が曖昧で申し訳なかったのですが、今回の覚醒いかんにかかっております)


今大変なときですが時間をみては「ゆらぎ」と「カオス」と「フラクタル」の勉強を少ししております。
この三つはどうやら数学的に見ても何かしら関係があるようなのですが、その詳細といいますか・・関係性の意味が分かりません。
とにかく知らない数学用語ばかりが飛び交う世界なのです。


ワイエルシュトラス関数
ベッセル関数
ラグランジュ恒等式
エルゴード定理
等々・・・
そもそも私はすでに微分積分が分からなくなってしまっています・・ああ・・・


「カオス」「ゆらぎ」「フラクタル」はこの宇宙の構造を追及するとき、大きな解明の鍵になるはずなのですが、その関係性の概念がまったく私にはつかめていません。
合体後は記憶能力と明晰性が飛躍的に段階を上げるようですが、果たしてこれまでサボっていた数学が(飛躍的に)理解できるかどうかは不明です。


もしtotoさんがこのあたりを整理してくださると大変助かるのですが・・・いかがでしょうか。


ちょっと漠然とした質問になってしまっていますが、やがて「次元」と「時間」の解明が「宇宙全史」第二巻で語られます。


そうしますと「次元」に関しましては「フラクタル」という概念をどうしてもすり合せないといけないようです。


どうもうまく説明できません・・また機会があれば書いてみます。」


2009/1/15 No.464
「私の第一段階の覚醒は「本体」との合体ではなく、分離していた私自身の魂との合体でした。

 

 


このシチュエーションは、あまり普通の方たちにはなじみがありませんので、ここではうまくご説明できないのですが、「宇宙全史」第三巻で語られるかもしれません。

 

 


というわけで私は相変わらずまともな覚醒を果たしているわけでもなく、普通の人間のように日々を送っております。


問題は強大な力を持った私の魂の片割れ(大魔法使い)との合体なのですが、とりあえず合体はしましたが、その時の合体率が37%でした。


これが50%を超えないとまだお互い意思の疎通が出来ませんので、身体も自由にコントロールする事が出来ません。

 

 


彼(大魔法使い)は、合体後日々私の脳や松果体などを色々勝手に改造していますが、本格的に動けるようになりますのはまだもう少し先のようです。

 

 


そんなわけでご質問の日本や世界の行く末を語るのは、二月の半ば過ぎくらいになるかもしれません。


今しばらくお待ち下さい。

 

 


しかしあの存在(大魔法使い)が目を覚ます事が許されたという事は、日本も世界も徹底的に変えるという上の強い意志を感じます。


どうも(最近感じますのは)この私たちの生存するオーム宇宙自身が、今回のワークをチラチラうかがっているような気がしています。


直接には手を出すということはないかもしれませんが、大分気にはしているようです(ひょっとするともっと上の存在かも知れませんが・・・)。」


2009/2/12 No.111


「エル・ランティにだまされて地球に連れてこられたイルプロラシオンという星の住人6000万人がおりましたが(この方達の大部分は現在エル・ランティ系もしくはエホバ系の宗教団体に入っておられます)、このイルプロラシオン人は、そのもともとの性格からして、非常に依存性が強い方たちでした。
だからこそエル・ランティにいいように利用されてしまっているのですが。


ここまで依存性が強いと「覚醒」という境地には程遠いのですが、一年前くらいに確認しましたところ、何と地球に来てから現在まで3億6572万年の間にイルプロラシオン人から3人覚醒者が出ていたのです。
しかもその覚醒の内容が「二元性を超える」覚醒でした。
これに関しまして私は非常に興味を持ったのですが、取材は不可でした。
理由はこの覚醒は彼ら自身のものであり、それをどうするか(どう扱うか)は彼ら自身の問題なのです。
かなり粘ったのですが、どうしても教えてもらえませんでした。
しかしその中のお一人は現在インドで生きておられるということです(ある程度有名な方だそうです)。
それにしてもイルプロラシオンからの「覚醒」という快挙の裏には・・・その実体は、この地上で悶え苦しみ、のた打ち回って、人間の極限を超える凄まじい体験を重ねた果てに獲得されたものでもあるのです。


これに関しましては(まだJUMUとコンタクトをとっている時代でしたので)JUMUの方たちも感心をされていて、
「これこそがある意味地球の成果だ」
ということをおっしゃっていました。」


虚空蔵55
2016/2/1 No.314


夜明け前  私の覚醒は節分の翌日に実行される予定です。  2月3日の節分を過ぎ、一晩寝って起きたら世界が変わっているということです。  完全覚醒の模様は人それぞれで一概にはいえませんが、私の場合は寝て起きたら「使用前・使用後」みたいに変わっているようです。  節分近くになりましたら何か変化があるかと思いましたが、いまだに特別な変化はありません。 ただ月読之大神のお言葉で、  「あなたと連動して覚醒する人が出る可能性は大きいね」  その場合、やはりその覚醒は人それぞれの立場からの覚醒になります。  それでも(今生であり得るかどうかという)覚醒が差し迫っている方たちがいると思うと何やらうれしい気がしますが、ここで問題があります。  私に関わる方々、あるいはこの宇宙全史に関わっていなくても、すでにその境涯にあり、やがてこのワークに参入してくる人たち、そういう方たちは機が熟していると節分を境にして覚醒を得る可能性があります。  それほどこの地上で完全覚醒を得る機会に立ち会うということは貴重な体験なのです。  ただ問題があって、  この宇宙全史という稀な機会に立ち会い、幸運にも覚醒のチャンスに巡り合っているのに、自らそれを拒否してしまう人たちがほとんどであるということを月読之大神からお聞きしました。 つまり今まさに覚醒の機が訪れているのに、「気のせい」とか「怖い」とかでフタをしてしまう皆さんがいるのです。  それを月読之大神は、  「もったいないね」  とおっしゃいます。 ただそれも修行といいますか、そういうことも経験して、  「ああ!しまった」  「今度そういう機会があったら必ず速やかに受け入れよう」  という覚悟が出来、これからの学びの励みにもなるのですが、やはりそれではあまりにも「もったいない」のです。  例えばこのBBSで以前書いてきましたが、夢の中で怖い夢など、悪夢を見たとき、夢の中で、  「五井先生助けて下さい」  とか、世界平和の祈りが唱えられたら、それはある一定の段階に到達しているという証明になります。 覚醒は色んな形で訪れますが、寝ている間にも来ます。 その時恐怖で拒否したり、無視してしまったりすることが「もったいない」のです。  私の覚醒は2月3日の夜に訪れるはずです。  その覚醒は私にすべてを捨て去ることを求めています。  名声や財産  家族や友人  美味しいものや美しい女性  地上にあるそれらすべての欲望を捨てること  完全覚醒とはそういうものなのです。  そしてその圧倒的な  エネルギーの爆発の余波は  節分の日に  すべての人に  平等に訪れますが  受け入れられる人は  限られているのです  そのために  皆さんは  ここで学んで来たのでは  ないのでしょうか。


虚空蔵55


2011/5/8 No.215


伊吹山
私の肉体改造はこのワークと共に始まりました。
その過程において外見上はあまり変わりばえのしないもので、例えば最初はあごのかみ合わせの矯正からそれは始まったのです。
あごのかみ合わせなど大したことはないと思われるかもしれませんが、かみ合わせは頸椎(けいつい)から脊椎にかけてのゆがみの原因となり、最終的には姿勢から四肢の変形、内臓の不調・疾患にまで反映することがあります(実際は脳に対する影響もあるのですが)。
些細なことのようですが、それが身体全体に反映するのが私たちの肉体の深遠なところなのです。
以前ここでどなたかのご質問にお答えしてあごのかみ合わせの矯正が必要とお話したことがありますが、おそらくスルーされていると思います。
肉体改造と申し上げますと、魔法のような変身や超能力を身につけてドラゴンボールにあるようなスパーサイヤ人になることを想像されるかもしれませんが(最終的にはそうなるのですが)、実際は本当に地味なところからの出発だったのです。
それを理解していないと気ばかりあせって、結果だけを求め、思い込みだけのイメージを追い求めてしまい、最終的に「何だこんなもの何になるのだ」とふてくされて放棄してしまうことにもなりかねません。
この宇宙全史のワークをある程度ごらんになっている方が初めに気づかれることはその「リアル」さにあるのです。
これまでの精神世界における展開は、例えば人の前世にしてもやたらブッダの弟子とか、大天使や、聖徳太子アレクサンダー大王など、とにかく有名人の羅列が普通でした。
宇宙全史ではそういうことはめったにないですし、逆にあまり「そうであってほしくない」くらいの情報ばかりが出てきています。
リアルな世界は実際には不思議に満ち、はかり知れない可能性を秘め、無尽蔵の喜びを供給してくれます・・・が、私たちが今選択しているこの世界は「限定」され「閉じられ」、「味気ない」世界になっています。
しかしそれも私たちにとってはリアルな世界なのです。
そして私たちはそこから出発するしかないのが現状なのです。
「こうあればいい」「こうあってほしい」という願望、思い込みのイメージからは何も生まれず、エゴのループにはまり込んでしまい、ただただエネルギーを消耗してしまうだけなのです。
あごの矯正の後は、胃の洗浄でした。
洗浄といいましても実際に水で洗浄するわけではなく、ピロリ菌をなくすことでした。
その次は鼻の奥から口蓋にかけての洗浄・・・これは実際にハーブ液で洗浄しました。
あのインド人のやるような鼻うがいを毎日朝晩やったものでした。
そして朝早くに10分間の日光浴。
また全体的な体質改善として、以前あん様にも申し上げましたがマクロビなどのスープを摂取し、肉食を変化させたりもして来ました(牛→豚→鳥)。
こうしたわかりやすいイントロから始まりまして、次第に私の肉体改造は深部へと移行していったのです。
私は元々出目が魔道師という変わった集合魂を持っていますので、肉体改造そのものがあまりなじみのないものでした。
なぜなら通常変身するとか身体能力を上げるというようなことは、ほぼ一瞬で出来てしまう種族だったからです(個体差はありますが)。
それではなぜ肉体の構造やシステムに沿って一つずつ問題をクリアしていくという面倒なやり方をしているのでしょうか。
以前にもお話しましたように私は今生が初めての生となる魂でした。
つまりある意味ロボットのように集合魂により作られた存在なのです。
それは(これも書いておきましたが)ラムサという存在と同じような有様ではありますが、造られた目的がちょっと異なっています。
ラムサは集合魂の最終的な成就・・・仕上げのような存在として地上(過去の宇宙のどこかの惑星ですが)に送り込まれましたが、私は集合魂のカルマの清算を生業とする魂として造られたものです。
私の集合魂は約6000体の魂の塊です。
その中には魔道師ばかりではなく仙人や少々わけのわからない存在も交じっています。
それは西洋と東洋の魔法使いたちを統合するような有様で、地球界の進化を裏から支えてきた者たちであり、地球界にありながら独自の道を模索し、この宇宙における最高峰の覚醒を求める者たちでもありました。
たとえば皆様は宇宙全史をすでにお読みですのである程度はご理解いただいていると思うのですが、現在伝わっている地上の歴史のほとんどは表面上の出来事で、その本質はほぼ水面下で進行し決定づけられて来たものです。
表面上の歴史はすべて人類の勝手な解釈で、自分たちの都合のいいように書き換えられ伝承されて来ています。
それを今まで裏の者たちは何もいわず人類のなすままにしておいたのですが、私という存在により今始めてその全貌が明かされようとしています。
それは私が裏の者でありながら人類の一員としての形も持ってしまったために出来ることだったのです(本来は裏も表もないのですが、あえていいますと声高に主張するものが表になるのがこの世の常とでもいうのでしょうか)。
さてどうして私はそんなに複雑な有様なのでしょうか。
一つずつ説明していきます。
①私は集合魂のカルマを刈り取るためのロボットとして造られ地上に派遣された。
②ただそれだけのために造られたため、魔法はもちろんあらゆる不思議の能力を封じられている。
(封じられているというよりは「封じざるを得ない」といった方が正確かもしれません。集合魂にカルマがあるということは、それなりの解消すべき課題があるということであり、本来持つ能力に制限がかけられているということもあるのです)
③本来あるべき力を封じられているばかりでなく、集合魂のカルマを背負っているため常人よりも身体能力が劣っている。
こうした理由により私は本来今生では覚醒などあり得ない存在であり、生まれてから死ぬまでただひたすら集合魂のカルマをせっせと刈り取るためだけの存在でした。
ところがどうしたことかこのロボットはある時期、覚醒というものに気付き、その道を探り始めます。
集合魂も私が覚醒することに否定的ではないのですが(私が覚醒するとカルマはすべて自動的に解消します)、集合魂は彼等なりのやり方でカルマを刈り取りたいというそのやり方に一種の矜持(きょうじ)がありました。
私はどんな方法であろうと覚醒すれば良しという考え方ですが、集合魂サイドはどうにもそこに関しましては頑固というくらいにかたくなに譲ろうとしません。
そして集合魂のやり方というのは、とても過酷な方法論でもあったのです。
若い頃は私もずいぶん無茶をして何度か死にかけましたが(通常は死んでいたのですが、集合魂がそれでは困るとそのつど助けています)、さすがに学んで今はそういう無茶にはあまり意味がないという考え方になっています。
しかし集合魂はやはりどうしても自分たちのやり方でカルマを解消したいという方向性を曲げようとしません。
このワークの初めから私と私の集合魂との間で色々意見を交わしたのですが、どうしても譲っていただけません。
五井先生や植芝先生は私のやり方に同意されていますが、月読の大神はどうも集合魂のやり方にも共感があるようです。
そんなわけで私の覚醒は通常の覚醒と異なり、色んな思惑、葛藤が重なる中かなり複雑な様相を呈して来ています。
私には構造として集合魂のカルマが、霊的、気的、肉体的にブロックが何重にもかけられています。
そのブロックは通常の霊媒師くらいでは全くわからないほどに厳重かつ精妙にかけられています。
ですからゲリーボーネルやアマーリエさんなどは私を視て「あなたには超能力があるはず・・・」と判断ミスをしてしまったりします。
私にかけられたブロックはみわでさえも解き明かすことが出来ないほど厳重に、しかも何重にもかけられています。
そのブロックはすべて私の集合魂に関わるカルマと関連していて、一つ一つそのカルマをクリアしていかないと解除されないようになっているのです。
さてここにとてもわかりにくい問題があるのです。
それは私のカルマは集合魂のものですが、私のものでもあるのです。
私は今生初めて造られた魂ですが、その魂には仮の転生や仮の天命などが付与されています。
カルマもまた組み込まれているのですが、そのカルマは申し上げておりますように集合魂のカルマでもあります。
ところがたとえそれが集合魂のものであってもいったん私に組み込まれたものはあくまでも私のカルマとなります。
そしてそのカルマは私の性格に影響を与え、行動を制限し、運命路線がカルマの発現に沿って進行するようにします。
これがわかった時、私はこの状況の理解が非常に困難な事態に陥りました。
私の普通に考えていることや行動していることが私のものではないということは、その責任は一体どこにあるのでしょうか。
例えば私はトライアスロンという趣味を持っています。
しかし冷静に考えてみますとそんなに強いわけでもないのに、なぜモチベーションが持続するのか不思議ではあるのです。
それは集合魂が自分たちのカルマの刈り取りのために、わざわざ辛い苦しい状況を作るためにやっていることでした。
でもそのモチベーションは私の内から生ずるモチベーションでもあるのです。
そう感じてしまうのです。
だから私が自ら望んで過酷なトライアスロンというスポーツをやっていると思い込んでしまっています。
私の動機、希望、欲望、モチベーションの全ては、集合魂からもたらされていたのです。
しかしここが不思議なところなのですが、私は私の意思で自らそう望んでトライアスロンをしていると思っています。
その結果常に過酷な環境に自らを追い込み苦しんでいるのです。
私とて人間ですから(マゾではないので)快適な人生を歩みたいとは思うのですが、私自身が集合魂ということは、そういう選択の余地はないということでもあるのです。
このあたりの詳細はいずれまたお話しますが、今回は肉体改造に焦点を当ててお話します。
初期の段階ではかつてのギリシアの医療・医学の神々が担当として改造に当たっていましたが、とうてい私の厳重なブロックには太刀打ちできず、途中から植芝先生がお代りになりました。
先生は私の厳重なブロックなど眼もくれず(全く問題にされず)着々とやるべきことを(体育会系のノリで)進行しておられます。
以前ここで「地上最強の生体」と植芝先生のことをお書きしたことがありますが、その強さは肉体ばかりではなく霊的にも強力なエネルギーをお持ちの方でした。
植芝先生のやり方を拝見していてまず驚いたのは、人間の肉体の複雑さ、精妙さということでした。
今では医学もかなり発達して来て人体の構造やシステムも随分解明されつつありますが、植芝先生の情報と比較すると幼稚園と大学院以上の開きがあり、逆に人体のポテンシャルに驚異を覚えてしまいます。
これもいつか「宇宙全史・肉体改造篇」というタイトルで一冊書いてみたいと思っています。
さてそれではなぜ私は自身の肉体を改造しなければならないのでしょうか。
一番の目的は「覚醒」にありました。
通常覚醒するためにはあらゆるカルマを清算しなければなりません。
カルマは魂レベルにも保存されてはいますが、その反映として肉体(DNA)にも刻まれています。
それが病や事故、不幸などを誘引します(もちろん負の現象ばかりではなく、幸福や成就といった正の現象もあるのですが、中々少ないようです)。
つまり覚醒するためには肉体にある故障や不備、積もった澱(おり)などをまず解消していかないといけないということがあります。
二つ目の理由になりますが、私の場合は現在魔法が使えないため通常の肉体を使用しての「人類に対する啓蒙」というお役目がありますので、よけいに肉体をま ず何とかしなければならないということがありました(この目的が自分だけの欲望に起因するのか、世のため人のためということになるのかというところが重要 な問題なのですが、覚醒以前にこの問題を議論するのは結構難しいところなのです)。
しかしここで集合魂が持つこだわりが私の邪魔をします。
今年の4月まではとにかく身体からカルマの澱(おり)を排出するということを延々して来ました。
また私は今生においても出会う事象、出会う人々の障害を吸い取るということをして来ていますので、そのまた貯まった澱も除去していかねばなりませんでした。
それがまたバカにならないくらいに貯まりまくっていたのです。
私はラムサと造られ方が同じ有様なので比較しますと、ラムサはF-1カーのようなもので、私の方は最近のトレンドである自走式の掃除機みたいなものでしょうか。
とにかくぶち当たるもの全てのゴミを吸い取れるだけ吸い取るのです。
ですから私と出会う方たちは、なぜか気分が楽になったり逆に悪くなったりします(これはその方の持つカルマによって変わります)。
それが何十年間分も貯まっているのです。
普通の方ならとっくに重篤(じゅうとく)な病に倒れているか、まず死んでいます。
それでは私はそんなに頑丈に出来ているのかというとそうでもないのです。
かつては(といいましても1年前くらい前までですが)常に風邪をひいたりして小出しに毒出しはしていました。
もっと積極的には私がマラソントライアスロン等のレースに参加して、そこで苦しむことによりカルマを浄化するという方法もとっています。
これは相当きつくて、どうして私がこんなに遅いのか、どうしてこんな屈辱を味合わなくてはならないのか、なぜあんなにトレーニングしたのにこんな結果なの か・・・という葛藤をさんざん味わうことになっていました(レース中の肉体的な苦痛ももちろんあるのですが「報われない」という因果は、人間関係、仕事、 あらゆる面において私に付きまとうものでした)。
そしてこの何年間は、みわが毎日のように私の澱を取り除いてくれていたのです。
その作業は最初の頃にはみわには大変な重労働、私にとっては常に激痛を伴うとても苦しいワークになりました。
一回のワークを5時間から長い時だと10時間以上行います。
その間本当に厳しい激痛が延々続くことになります。
また同時に初めに書きましたような自然療法や漢方っぽい治療法を施されていました。
こうしたワークにより、私の中に長年貯まっていた毒は次第に排除されたのですが、集合魂が持つ私の肉体に反映する最終的なカルマが奥底に残り、どうしても中々取り去ることが出来ない状態が続きました。
そんな状況の中、私は4月に大きなトライアスロンのレースをひかえていました。
そこに向けてギリギリの攻防が続いていたのですが、皆様もご存じの例の津波・大地震災害が東北太平洋岸を襲い、その余波も含めて鎮静化のため私たちのエネルギーが大幅に割かれる状態になってしまいました(すでにここで書いていましたが特にみわはひどいものでした)。
そこで本来なら何とかなっていたはずの私の最終的な(肉体に潜む)カルマがエネルギー不足でどうしても取れずにいたのです。
そんな時植芝先生の技が行使されたのです。
後でお聞きするとかなり危険なことだったようですが、私の魂魄体(気体でもあるのですが)を脊椎を中心にして真っ二つに割り、その中に居座っている澱の塊をさらけ出すということをされました。
こんなことを常人に施すとたちまち死んでしまいますが、植芝先生のやり方は「大胆かつ繊細」というのが常の有様で、ギリギリの線で私は生かされていました。
さてここで露わにされた私の澱は表面は「仏の顔」をしていますが、裏面は「悪い顔」をしています。
これが私の集合魂が持つ最後の澱でした。
しかしそれが出て来はしましたが中々取れないのです。
みわがどのように努力しても尾っぽのように脊椎の奥に絡んだ一部がどうしてもそこから離れようとはしません。
そこで伝えられたのが「山に行きなさい」ということでした。
その時馴染みのある山々を色々あげたのですが、結局私の故郷の山である伊吹山に行くことになりました。
私に馴染みのある他の山にはいまだ雪が残り、登ることが無理だったのです。
次回は伊吹山において不可思議な光景が展開します。

 

 


2011/3/31 No.210


すでに書きましたが私という存在はこの地球で幾転生を重ねてきた魂ではありません。
色々複雑な事情はあるのですが、簡単に申し上げてしまいますと「創られた」存在なのです。
それも私の集合魂がやっています。
つまり私は私の集合魂により今回初めて地上に生を受けた存在ということになります。
私には本来人間たちが持つような「過去世」や「カルマ」「天命」などといったものは存在しません。
しかし現実的には「過去世」も「カルマ」も「天命」も存在しています。
いったいそれはどういう意味なのでしょうか。
まず私の集合魂の正体を明らかにしておきます。
これは本来絶対に明かしてはならない秘密なのですが、時勢が時勢だけに開示の許可が出ています。
たとえばわかりやすい例ですと「ダーナ神族」と呼ばれるアイルランドの神話に出てくる種族が私の集合魂がまとめてこの地上に降りた時期でもありました。
今回の文明ではそこが源流となり、ヨーロッパ全土、アフリカ、インド、シベリア、アメリカ南北大陸等に散って行ったのです。
つまり魔法使い(魔導師・カスタネダ風にいいますと呪術師でしょうか)の源流がそこにありました。
ダーナ神族に関しましてはいつかまた詳しくお話ししますが、我々の集合魂はそれよりもはるか昔から地球の深遠なる過去を経て、常に地球文明の裏方で生態系を支えるという役を果たしてきています。
さて私の変わったアイデンティティですが、精神世界を少しかじっている方ならご存知でしょうか・・・「ラムサ」という存在があります。
(現在でも本が売られていますので興味のある方はお求めになってみて下さい)
このラムサは私も興味があり、以前に調べたことがあったのですが、その時はある種の「神話」というお話でした。
しかし彼もただ一度の生で地上での使命を果たしています。
私のアイデンティティが分かった時点でもう一度確認してみました。
すると彼も私と同じく彼の集合魂により作られた存在でした。
そんなに簡単にそういう魂が作れるのかというとそうでもないようなのですが、集合魂の傾向性と力にもよるようです。
しかしなぜ最初に調べたときは「神話」ということだったのでしょうか。
そこを確認してみました。
ラムサはJZ・ナイト(以下ナイト)という一人の女性チャネラーにより降ろされた物語ですが、ここからは一般に知られていない多くの秘密が開示されていきます。
まずナイトという女性は魔女です。
それも上の方がおっしゃるには「卓越した魔女」という表現をなさいました。
わかりやすくいいますと「すごい魔女」とでもいうのでしょうか。
魔女といいますと皆様は、何やらドロドロした中世の魔女狩りに出てくるような魔女や白雪姫に出てくる毒りんごの魔女を想像されると思いますが・・・まあそういう魔女も確かにいることはいますが、大概の魔女は普通の人間たちの中に混ざって共存して棲息しています(そもそも自分自身が魔女とは自覚していない方がほとんどです)。
私の周りにも様々な魔女たちがいますが、雑魚(ざこ)魔女といわれるような魔女から、ホワイト系の中々大した魔女までワラワラと存在しています。
魔女の定義は難しく・・・妖怪たちと似たようなアイデンティティを持つのですが・・・「その存在の在り様を曲げない」「ひよらない」とでもいうのでしょうか、いってしまうとかなり「がんこ」な魂ではあるのです、
似たような存在に「仙女(せんにょ)」というのがありますが、彼女たちは非常に軽い存在で、どちらかというと魔女たちの方が人間界との関わりが「濃い」在り様になっています。
たとえば仙女系には夜の酒場のホステスなどが多いのですが、魔女たちはそれぞれが深く人間にかかわり、どちらかといいますと執着が仙女たちよりは濃いともいえます。
しかし先ほどいいました私の周りにいるホワイト系の魔女などは、ある意味仙女系に近いような在り様としては軽い存在になってしまっています。
いつかまた魔女のお話は詳しくすることにしまして、話をラムサに戻します。
(なお魔女や仙女の定義にはもちろん術が使えるということがあります。それは「集中力が人並み以上にある・優れている」ということも出来ますが、そのお話もまた後日です)
ナイトという女性は実際に過去世のお話をラムサという形で降ろしてはいますが、その過去はこの地球での過去ではないのです。
しかもこの宇宙におけるどこかの惑星の過去のお話でもないのです。
それはかつてあったこの宇宙の過去世での事件でした。
わかりにくいのですが私たちの宇宙は現在64回目のサイクル(現代科学風にいいますとビッグバンによる創造の回数)にあたりますが、その以前のサイクルの中で繰り広げられた物語でした。
いつか私はこの63回の宇宙の履歴をたどってみたいと思っているのですが、その一部がこうした形で見られるとは面白いものです。
ナイトはこの私たちの過去のオーム宇宙で実際にラムサという存在の弟子でした。
(その宇宙のその惑星の人間?もやはり私たちと同じく二足歩行でした・どうもオーム宇宙では二足歩行が過去も現在もトレンドのようです)
その彼女がかすかな、本当に限りなくかすかな記憶を頼りに降ろしたのがラムサの物語であったのです。
本来過去の宇宙のサイクルの履歴はすべて天之御中主大神の中に収斂(しゅうれん)され結晶化しています。
それをあれだけ克明に「降ろした」ということが上の方たちをして「卓越した魔女」といわしめているのです(通常の霊能者程度ではとてもできない離れ業なのです)。
アメリカのラムサのカリキュラムなどに行って修行された方は経験されているでしょうが、色々ハイカラなことはいってはいますが実際にやっていることは魔女の修行法です。
それなりの効果がある場合もありますが、弱い方などは中々危ないこともありそうです。
ラムサは過去のその宇宙のその惑星で彼の集合魂により「集合魂の成就」という目的で創られました。
つまり集合魂の最終段階の仕上げのようなものでした。
そして彼はその役を見事はたしています。
いってしまえば非常にかっこいい存在ですが、私は似てはいますがどうもそういう形ではないようなのです(つまりあんなにかっこよくはないということです)。

 

 


伊吹山
カスタネダ著「沈黙の力」(二見書房)202ページより
ドン・ファン「誰かがわしらに、うぬぼれを切り捨てていかなければならないことを気づかせてくれるものがいるとしたら、それこそが本物の助けだ」
この宇宙におけるあらゆる存在は最終的には天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおおかみ)に収斂(しゅうれん)します。しかしこの地上に生きてそのたぐいまれなる極みまで自らを鍛え抜いた戦士に対して、この宇宙(天之御中主大神)は「自由」を与えます。いや与えるというよりは「自由」であることを「放置」します。人間として究極の自由を得ることを成就したドン・ファンが最も大切な基本的な教えとして私たちに残した言葉が上記の抜粋でした。
私たちの宇宙を統(す)べる天之御中主(あめのみなかぬし)の裏方としての存在である月読の大神がこうおっしゃいました。
月読の大神「エゴ(うぬぼれ)を薄くするには、まず少しでもエゴを希釈(きしゃく)しておかなければそれは不可能な作業」
つまり「エゴをなくしていくことが最も大切なことだ」と理解するためには、「ある程度エゴを薄くしておかないとそのこと自体が理解できない」ということです。
よく考えると「そんなことは不可能」と思えてしまうのですが、それでもそんな中でも普段から、少しずつでも気づきを得て、一歩一歩エゴ(うぬぼれ)を薄めていくという作業以外に、そのがんじがらめの罠からは抜け出す術はないのです。
多くの方たちが夢中で生きています。
エゴという「自己イメージ」の夢の中で生きているのが私たちです。
こういう形を想像してみてください。
①あなたの身体全体を取り囲む丸いボール(球体)がある。
②そのボールの中にあなたはいるわけですが、ボールの中から見た球の表面(内
 面)はすべて鏡面になっています(鏡のようになっています)。
③そのボールがあなたのエゴなのです。
 ですからあなたはあなた自身のエゴをそこに投影することで、それがあなたを取 り囲む世界だと勘違いしておられます。
④あなたはそのボールの内側に映ったものを世界と認識していますので、あなたの 見ている世界はあなた自身(エゴ)だということになります。
 いわゆる客観的な世界(客観でもないのですが、一応大多数の方が共通認識でき るという意味での客観です。それが鏡面を通してうっすらと透けて見えます)は あるのですが、それを認識するときにあなたはエゴというフィルターを通して世 界を色づけしてしまっているということです。
⑤そのためあなたが面白くなければ世界も面白くなく、あなたが苦しければ世界も 苦しく映ります。それが「世界はあなたが創造している」あるいは「世界はあな た自身である」という本当の意味でもあるのです。
⑥この時私たちは自動的に二つの大きな負債を抱えることになっています。
エゴを支える(作り出す)ためにエネルギーを使いきっていることから来る疲弊(消耗)と世界を正確に見ることが出来ない迷妄(無知)・・・この二つを常に人類が抱えてしまっているのです。
さてそれでは私が抱える集合魂の肉体に組み込まれた最後のエゴの澱(おり)を外すために私の故郷の山である伊吹山での出来事を調べていきましょう。
その日は4月17日(日)で、あの大地震の後しばらく続いていた天候不順もおさまり暖かく風もなくとてもいいお天気に恵まれました。
新幹線で東京から米原まで行きそこから北陸線に乗り換える予定でしたが接続が悪くタクシーで伊吹山登山口まで行くことにしました。
米原に立ち寄るともう10年以上前から私は「湖北のお話」という弁当を買うことにしています。そろそろお腹がすいたのでそれを買い求めタクシーの中で登山口につくまでに食べていました。そんなに時間はかからず、おそらく25分ほどで伊吹神社の鳥居の前まで送ってもらいそこからスタートです。
元々頂上までは行く必要はないというご宣託がありましたので、普段着のジャケットとズボンに小さなリュックという軽装で山登りです(しかしどこまでとはまだこの時はわかっていなかったのです)。
登山口からすぐの所で正式な登山口と裏道のような分岐点があり、違和感がなかったので私は裏道をたどることにしました。そちらは主に今は使用されていないケーブルカーの保守点検用の道として小さな車が通れるだけの舗装された道になっていました。伊吹山をご存じの方は全体的に「平原・草原の山」という印象があると思いますが、こちらの道をたどると鬱蒼とした森林地帯に入っていきます。
後でお聞きするとそれも意味のあったことでした。
そして一般の登山道と合流する3合目からは視界が開けて通常の伊吹山のイメージの通りの大草原のシーンが続きます。
どこまで登ればいいのかわからないのでとりあえず上を目指しますが、5合目からは岩が多くなり、やや登山という趣になって来ます。
こうして7合目を越えますとだいぶ上に登ってきた感があり、眼下には米原彦根の小高い山に挟まれた平地が見え、その向こうには穏やかな鏡のような琵琶湖が横たわっているのが見えます。そこで何やら不思議な感覚にとらえられ、しばらく下界の風景を眺めていますとあたりの音が急に静かになったような気がしてきました。
穏やかな日ではありましたが、微風はあり登山者も日曜日だったのでそこそこおられたのですが、突然上りも下りも登山者が途切れ、ただ私と目の前に広がるパノラマだけの空間に取り囲まれてしばらくそこで佇んでいました。
その時ふとあることを思い出しました。
今見ている眼下に広がるその場所は、日本で最初に統一国家が造られた琵琶湖王朝の礎(いしずえ)となった場所でした。
日本で最初の統一国家は第16代仁徳天皇(AC357年~388年)の時代に築かれています。しかしその前の15代の応神天皇(AC310年~338年))の時代に基礎として、今私が見ている米原平原(そういう公式名称はないと思うのですが)に天皇が居を構え町が出来ています(応神天皇仁徳天皇との就任時期がつながっていませんが、そこにはややこしい事情があるのでいずれキチンとお話しします)。
そしてそこを中心にほぼ日本をまとめているという形になりつつあったのです。
(それまでの天皇は定住ということがあまりなく、戦の場所が生活空間でした。後でも書きますが、天皇は今と異なり政務はもとより戦いもその主なお仕事でした)
古代の日本史はもう2年ほど前にある程度収録してあったのですが、あまりにも複雑怪奇に入り組んだ内容だったため保留にしてありました。
初代の神武天皇(この方は実際には存在しておりません)からとりあえず聖徳太子までは何とかたどりたいと収録していましたが、その少し前までたどり着いたところでストップしています。
さて眼下に広がる米原平原に居を構えた応神天皇の時代ですが、この時日本をほぼ統一しかけていたのですが、その時の日本の人口はどれくらいだったかご存知でしょうか。
おそらくそんなことはどんな歴史学者にもわかるはずはないでしょうが、ここで面白い事実が知らされています。
日本全体で人口は約1万8千人
北海道と沖縄では各1千人
そして何と世界全体でも当時は80万人ほどの人口しかいなかったのです。
皆様は現在を通してしか過去の歴史を推測することが出来ないでしょうが、当時の人類はそんなものだったのです・・・というよりも現在の人口の方が異常だということもいえるのですが。
さて当時の日本の人口が1万8千人でしたが、統一国家が出来た仁徳天皇の都では何人くらいの人々が集っていたのでしょうか。
そこには何と日本人口の4分の1強の5千人の人間が集まっていました。
その琵琶湖王朝の都での当時の人々の実際の暮らしぶりは非常に興味のあるものですが、それはまたいつか「宇宙全史・古代日本史編」で詳細にお知らせします。
米原平原はその琵琶湖王朝の前身でしたが、この場所で琵琶湖王朝が築かれたわけではありません。
ここから内部外部も含めて凄惨な闘い、政略、跡目争いの醜い争奪戦があり、聡明(しかし苛烈)だった仁徳天皇が琵琶湖沿岸の別な場所に日本で最初の統一王朝を開いています。
眼下に広がるこの米原平原では当時もその後(関ヶ原の戦いもここでした)
も権力争いのポイントとなるスポットでした。
そこを眺めているうちにおそらく10分間くらいだったかと思いますが、いきなり私の中の何かが解放されたような気がした時、再び1千メートル以上の上空にあるその空間がまた再び通常の世界に戻り、細かなざわめきが登山者の行き来と共によみがえってきたのです。
後でみわに聞きますと、彼女の自宅から私にエネルギーを送り続けているうちに、ちょうどこの頃いきなりものすごい負荷がみわを襲い彼女は血を吐いています。
この時私は陰胎(いんたい・ナワール)に入っていました。
そんなみわのことはつゆ知らず、それでも「あゝもうここまででいいんだ」と気づいて、それ以上は登らず下山しています。
私の中の「集合魂の澱(おり)」などの様なものは、通常こういう形で外れると自然の中に溶け込むように吸収されていくのだそうですが、この時は私が眺めていた米原平原のあの古代の時空間に吸い込まれて行きました。
先ほど少し古代日本のお話をしましたが、当時の日本(ばかりでもないのですが)における権力争いは実に陰惨なもので、殺戮と拷問、復讐と怨念、陰謀と策略、飢餓と弱肉強食、気狂いと呪術といった様々なファクターが入り混じったまったく今からは想像も出来ないほどの何でもありの世界でした。
とにかく強い者、勝った者が正義の時代でして、その頂点にいたのが天皇でした。
当時の天皇は今のような「日本の象徴」ではなく、闘いの最先端を駆け抜ける戦士でもあったのです。
そして私の肉体における最後のカルマがその当時のその時空間に呼応するかのように吸い込まれていったのです。
その後再び同じルートを下った私は登山口でタクシーを呼び、米原ではなくもう少し北の長浜という人口が5万人弱の小さな町に行きました。
ここは私が生まれた故郷で、伊吹山に登った後は立ち寄るようにとのお達しでしたので久しぶりに戻ったのですが、古い記憶ではありますが昔の記憶とのあまりの変貌ぶりには驚かされました。
それでも懐かしいところがあちこちにあり歩き回ったのですが、その日は何やら町おこしということなのでしょうか、あちこちでイベントがあるらしくどこへ行ってもかなりの人出で大変な騒ぎでした。
そもそも以前から上の方から私はしばらく故郷に戻ってはいけないといわれておりましたのでこの機会に一つしんみりと味わっておこうと思ったのですが、とてもそういう雰囲気はすでになかったのです。
私の実家はその当時琵琶湖に流れ込む川のほとりにありました。
そこからは東に伊吹山が見え、西は琵琶湖の西岸に沈む夕焼けが赤々と見えたものでした。
秋も深くなり冬のにおいを北風が運んでくるようになると、その夕焼けの色は黄金色を交え東の伊吹山に反射して長浜の町全体が冬支度を始めます。
湖岸までは実家から子供の足で歩いて5、6分でしたから小さい子供でも遊びのカテゴリーに入っていましたので、毎日のように遊びに行っていたものでした。
当時は今のように琵琶湖沿岸が埋め立てられてはいなくて、葦が茂る湖岸と、その湖岸に広がる小さな丘陵が続く畑、今はなき長浜城跡の豊公園という湖岸を囲むような公園があり、遊ぶには事欠かない恵まれた環境でした。
私が4才の時のことです。
その琵琶湖湖岸の丘陵地帯の畑の中に湧水が出る浅い井戸がありました。
その時は近所の子供たち何人かと一緒に遊んでいたのですが、ふとはぐれたような形になり、一人きりでその井戸のそばにいた時のことです。
そこで私はそれまで生まれて来てから持ち越してきた、すべての不思議の能力、これから開花するであろう才能、開発されるべく眠っていた智慧のすべてを忘却(もしくは封印)しています。
その代わりに集合魂の解消すべきカルマを背負込んだのです。
その井戸は現実に存在する井戸でしたが、私がその場に立ち会った時には半分陰胎、半分現実の世界にまたがっていたのです。
その井戸のことを「産土(うぶすな)の井戸」といいました。
その時から私のただひたすらカルマを解消するという人生が始まったのです。
その井戸は今は埋め立てられてなくなっていますが、当時あったであろうその産土の井戸のあたりにも行ってみました。
しかしそこは近代的なきれいに整備された公園と、そこでのイベントに集う人々と拡声器の音、車の喧騒でごった返していたのです。
確かに一時的にはこの町はいわゆる「町おこし」というイベントで賑わうこともあるでしょうが、本来の琵琶湖を中心とした湖北の自然と調和した町としての観光誘致の可能性は、湖岸を埋め立てることによりすでになくなってしまっていました。
早々にそこを立ち去り、整備された湖岸沿いにタクシーを走らせ、米原からまた新幹線で東京に戻りました。
私の肉体の奥底に潜んでいた集合魂の最後の澱が抜けました。
それで私は肉体的に劇的に変化し、すぐに迫ったトライアスロン大会でいい成績を得られたのでしょうか。
またその最後のカルマが抜けたということは、すなわち覚醒が得られるということだったのでしょうか。
次回はそのあたりを詳しくお話しします。」 

 


伊吹山3
 
 ここからは書下ろしになります。
 
 すでに4月の大きなトライアスロンレースは終わり、結果は惨憺たるものでした。
 そのレースは最初に3キロ海を泳いで、次にバイク(自転車)で宮古島を155キロ走ります。最後にフルマラソン(42・195キロ)を走るのですが、ほぼ一日をかけてのレー スですから、皆さん何かしら途中で飲んだり食べたりしています。
 ところが私は例の(天変地異)負荷がここでかかって来て、バイクの途中から何も直べられなくなってしまったのです。
 通常レースではスイムから上がりバイクにうつる時着替えます。そしてバイクからランに移勧するときもやはり着替えるのですがこれをトランジッションといいます)、何も食べられなくなってしまったバイクを終えてトランジッションで着替えをしている時にびっくりしてしまいました。何と私の下半身の男性性器がなくなってしまっていたのです。さすがにあわてましたが、よく見てみると性器が身体の中に完全に陥没してしまっていたのです。寒いときや恐怖におびえた時などは小さく縮んでしまうということは普通にありますが、元々それほど大きなものではないのですが、そんなに小さくもないそれが体内に格納されてしまう
という異様な状況は、特殊な肉体環境に私を置くのが目的のようでした。
 特殊なといいますのは、ちょうど仏陀が覚醒後そういう形にご自分の身体をされていました。もちろんそれは肉体だけの問題ではなく、実際はバイクパートにおける激しい肉体疲労(ここでは栄養素をとれなくす
ることなどで、極限状況を作り出していました) により、私のリビドー( 性的なエネルギー) を昇華させるという離れ業をやっていたのです。
 ランに入ってからもまったく何も食べられず、それでも何とか走り切りましたが、私のランを見ていた知人は「何か走り方が変だったよ」という感想を漏らしていました。
 リタイヤ百数十名を出し、完走者が1200人の中で、ちょうど中間ほどの順位でゴールしています。へとへとのゴールにもかかわらず、これまでと少し変わっていたのはレース後の肉体がいつもよりも元気だということでした。
 
 私の肉体改造は大きく分けて三つのカテゴリーに分類されます。一つはすでに書いておきましたように私の集合魂のカルマやこれまで生きてきた私自身のカルマ(澱・毒素) を出してしまうためのエクササイズ。
 もう一つは覚醒のためのエクササイズで、これはかなり特殊な改造になっています。そして最後の三つ目は、私の個人的な目標である「肉体の限界を究めたい」あるいは「肉体の可能性を探りたい」というポジティブなものです。やはりこの中で 手ごわいのは「集合魂のカルマ」の刈取りで、どこまでやったら先が見えてくるのかわからないところが精神的にも肉体的にも厳しいものがありました。
 今回のこのレースと同じように(いやもっと過酷に) これまでトライアスロンはもちろんマラソンのレースでもその都度大きな負荷をかけられ、若いころはまだそうでもなかったのですが、ここ数年はとんでもない苦しさを味わっていました。
 そしてそのたびに「これでもうおしまいだろう」「やっとこれで終わりになる」という希望的観測が粉々に壊され、深い絶望の淵に立たされることになっていました……が、おそらくここが問題なのだと思うのですが、そのこれでもかこれでもかというくらいに果てしなく思える出口のないカルマの刈取りに精神的に負けていたら、それはそこですべてが終わっていたような気がします。
 つまりそこでは私の精神的な耐久性のようなものが試されていたのかもしれません。今はさらっと書けますが、振り返ってみますと「中々厳しかったなあ」という感想が実感です。
 
 さてそれではこれまでのレースと同じように今回もやはりカルマ消化のためのイベントだったのでしょうか。
 それがどうもこの頃からちょっとニュアンスが変って来ていました。つまり疲労困憊して終わった後も、それほど芯から疲れ果ててしまっているということがなくなっていました。いつもならレース後はお腹もす
いているのですが、内臓が疲弊してしまっていて、ほぼ何も食べられない状態が続くのですが、そういうこともなくビールも飲めましたし、普通に食事もでき、その後バイクの後片付け(トライアスロンはこれが大
変なのです) もさっさとやってしまっていました。これは延々続けられていた肉体改造の一つの成果だと思います。その時筋肉の質が少し変わって来ていたのです。
 このレースを終え次の大きなレースが佐渡であるのですが、それに備えようとしていた矢先、申し込みはしたのですが先着順で落ちてしまいました。これまであまりそういうことがなかったので、どうしたことか
と考えていましたら、月読の大神から、
 
「もういいよ」
 
 というお言葉がありました。それはもうレースをやらなくてもいいよということではなく、集合魂のカルマ刈取りのためのレースはもういいよという意味のものでした(実際にはまだまだ集合魂のカルマの刈取り
は続いていくのですが、これまでのこういうやり方はもういいよという意味のようでした) 。
 そしてそこから全く別のエクササイズが始まったのです。
 
 東京近郊の修験の山を駆ける
 
 今年(2011年)の5月後半から始まったこのエクササイズは、まず御岳山からスタートしました。
 最初は私一人でコースを下見に行きましたが、次からはみわと二人で行くのですが、彼女は運動というものをあまりしたことがないので中々大変なようでした。
 最初は短いコースで最終的には御岳の駅からすぐに走り出して、御岳山山頂まで一気に登り、そこから奥ノ院→大岳山→御岳に戻って→日の出山→つるつる温泉という結構ハードなコースを駆け抜けます( 最後は温泉に入れるのですが) 。
 この頃から植芝先生から加圧トレーニングを始めるようにといわれます。加圧トレーニングとは腕や腿の付け根をバンドのようなもので圧迫して、血流を抑え運動することで、通常のエクササイズと異なる様々な効果が得られるというものです。
 しかしこれが実際にやってみるとかなりきつく、そもそもものすごく痛いのです。血管が膨れ上がり、息が苦しくなり、吐きそうになってしまいます。
 私の血管はすでに毛細血管も含めすべて改造済みだそうで「切れたりしないから安心してやりなさい」といわれますが、この痛さはやってみた人にしかわからないかもしれません。
 加圧トレーニングは右や左の筋肉を意識的に鍛えることが出来るため、私の右偏重の筋肉を調整するためと(それに伴う血管や神経、ホルモンバランスも同時に調整しています) 、カルマの解消、エゴの希釈化ということも同時にやっているようです。
 
 御岳に通うようになり、最初は浅い陰胎まででしたが、次第に深い陰胎に入るようになっていきます。この段階の陰胎は「変化」の陰胎で、肉体的にはここに入るとものすごい負荷がかかり、精神的にも肉体的に
も消耗してしまいます。
 この頃現世的にも様々な案件が重なり、寝不足、バイオリズムの低迷期、私の肉体(特に腰)の調整、さらに陰胎に入るという4重苦をよくクリアしたねとお褒めの言葉を頂きました。
 
 御岳山系を駆け廻っていますと、色々修験者のお話をして下さいます。私たちもそこそこきつい肉体行だと思っていましたが、彼らは昼も夜も冬の雪中でさえも修行を続けます。夜は山野で仮眠をとるだけ、食事
は谷川の水と山菜の食べられるものを見分けて食します( 一応塩と穀類の蒸して干し固めたものも持っていたようです。それを少しずつ水で嚙み砕いて食べています) 。初心者は悪いものを食べてしまい、下痢や嘔吐で体力を使い果たし、そのまま野垂れ死にして行くものも結構いたようです。
 本格的な修験者の修行はテレビで有名になった千日回峰行の比ではなく、とことん突き詰めてしまうと山塊の獣のような在り様になってしまいます。それは「獣に堕した」という意味ではなく、限りなく自然に
近い生命の在り様として完成された姿になっています。
 それでも私はその時は「それは自らの肉体修行という過程を通しての、人より(超能力を得たいとか色んな意味で) 強く、優勢になりたいというエゴの欲望の究極の姿ではないのか」と考えていましたが、その修行を極めた方にお聞きすると、最終目的は一言、
 
 「祈り」
 
 とおっしやったのです。
 そのお言葉をお聞きしてから私たちの本格的な山での修業が改めてスタートしています。
 
 6月16日からは別な陰胎に入るようになり、感覚としてはサラサラした流れの世界に浸かっているような感じです。
 このあたりから私の走り方に変化が出て来たようで、泥をはね上げなくなったと後ろからついて来るみわにいわれました(今までは相当泥をあびていたのね、スミマセン) 。
 
御岳のケーブルヵーの入り口から山頂までのちょうど中間地点あたりにお地蔵様があります。いつも賽銭なしでお祈りだけをしていくのですが、この日はみわに五円をあげて下さいといわれる。
 どうやらここのお地蔵様はだいぶ格が上のお地蔵様で、ちょうどオリンピックのマークの五輪の全体を丸くつなげたような形がお地蔵様のシンボルらしく、洒落ではないのですが、それで御縁をつなげたようです。
 
 私の肉体改造は霊的、気的、肉体的にそれぞれが密接な関係を保って構築されています。その中でサプリメントという補助食品も結構大量に摂取するように指示されています。これはおそらく通常の人の飲む数倍
から十数倍の量を毎日二回飲んでいると思います。それでも同じビタミンやサプリを続けるというのではなく、その都度その時に必要なものの用法と容量を指示されます。
 例えばこの時には今まで飲んでいたものに加えてビオチンという聞いたこともないようなものを飲むようにいわれています。これは通常は美容関係のものらしいのですが、私の場合は細胞質の変化を促進させるという意味で用いられるようでした。
 私の身体の細胞には約一年ちょっと前に私の肉体の最盛期、16才の時の細胞の核が埋め込まれています。ただそれが中々活性化しないでいるのですが、その賦活化のためにもこのサプリが必要だということのよう
でした。
 
 初めのうち御岳の陰胎は「横の陰胎」という表現で教えられていましたが、次に入ったサラサラの陰胎は、現世から見ますと180度の角度を持つ次元の高い陰胎のようでした。そして右の陰胎、左の陰胎というよ
うに現世的にいいますと左右のカテゴリーがあるようで、それが人間の右脳左脳という理性、情動の部位に関わって来ているようです。ここは入っている時間は短いのですが、効果は強烈で、私たちの後押しをしてくれる力が手に入るということでした。
 
 実際この日の最終局面で山を降りてつるつる温泉に至る舗装道路(約1キロ程ありますが) に出ると、いきなりみわが私よりも早く走りだしています。いくら疲れているとはいえ素人のみわに抜かれるほど衰えて
はいないはずですが、どうしてもみわに追いつくことが出来ません。この時みわは陰胎の効果で(無理やり)走らされていたのです。
 
 6月27日が御岳最後のエクササイズになりました。
 天気予報でこの日はかなり暑くなるということでしたが、御岳の駅を降りますと霧雨が降っています。そのまま河原に降りて遊歩道を御岳のケーブルカー乗り場まで走ります。この時すでに陰胎に入っていました。
そこでいきなり「今日はあなたの慈悲を大きな慈悲が包むだろう」というお言葉が降りて来ています。
 最後の日なので何か特別なことをする必要はないのかお聞きすると「前回あなたはお掃除をしたから今回はもういいよ」といわれました。
 私は小さな時から高校生くらいまで一人でいつも田舎の山野をほっつき歩く少年でした。そんな時よく汚れている神社の境内や山の中の朽ちかけた祠などを適当に無意識に掃除をしていたものです。その癖で前回杉の枯葉などで汚れていた御岳のお地蔵様の祠を掃除してお水を差し上げておいたのですがそれをいわれたのです。
 いつもはこのお地蔵様は普通のお地蔵様とは異なり、半分は怖いお顔の面を持つ存在なのですが、この日はなぜか優しいお顔になっていました。
 そして最後の山を降りてつるつる温泉に向かう舗装道路に入りますとみわが先行しますが、相変わらず本来のスキルに似合わず飛ばしていきます。ところが追うのに精いっぱいの私が途中からいきなりすごいスピードで彼女に追いつき追い越し、さらに加速して走り出すのです(おそらくキロ3分近くは出ていたと思います) 。
 他人ごとのようですが、自分で走っているわけですからその感覚をいいますと、最後の激しい山行を終えやっと一息つくところなので、足は痛くてガタガタで息が上がっているのですが、そんなことは関係なく足
がいくらでも前に出る……そんな感じです。しかもつるつる温泉まで走り終えても、息切れしているはずの息が全く切れていないことに気づきます。
 その時あゝこれが「あなたの慈悲を大きな慈悲が包むだろう」ということなのかなあと思ったのでした(おそらくそれは現象面に現れた一部にしか過ぎないのでしょうが、これまでまったくといっていいほどそういう経験がなかった私には新鮮な感覚でした) 。
 ただそういう現象があったといっても、それがこの時を境にして私の運動能力がいきなり上昇してしまうのかというとそういうことでもないようなのです。それはあくまでもそういう肉体の可能性を持つようになったというしるしで、その特質がキチンと肉体に反映されるのには「馴染ませる」という時間と修練が必要のようです。実際その後の私は前と同じようにキロ6分で走るのがやっとのほぼ常人以下のアスリートに戻っています(キロ3分とかキロ6分というのは、ーキロを何分で走るかという目安です。例えばキロ6分というのは時速10キロで走る速度のことで、フルマラソンだと4時間ちょっとで走ることになります) 。
 ちなみに私のフルマラソンの最高記録は30代の時で3時間6分というのがあります。しかしそれ以降はほとほと情けないようなタイムで、どうしてもサブスリー( フルマラソンで3時間を切る) という限界を超え
ることは出来ませんでした。またこの30代のころの無茶なトレーニングで、身体のあちこち(特に腰)が複雑に損傷してしまい、致命的な欠陥を抱えた体になっでしまっていたのです。
 それを今私のカルマと共にその損傷した肉体の回復も含めて、植芝先生が色々施して下さっているのです。
 さてこれで御岳山系の修行が一段落しました。この頃から鳥の胸肉を食べるように指示されます。
 ご存じのように鳥の胸肉には何やらイミダペプチド(イミダゾールペプチド) という怪しげな持久力アップの成分が含まれています。それを体内で製造できるまで(製造できるように馴染ませるために) 食べると
いうことのようです。通常人には中々そういうことは出来ませんが、それが出来る身体になるというのが肉体改造の一つの構造のようです。
 
 次にいよいよ6月も末の30日から高尾山系での修業に入ります。京王高尾山口駅からスタートし、景信山を経て陣馬山の下までほぼハーフマラソンの全長約21キロの行程を走破します。陣馬山から下りると温泉が
色々あり、そこでもまた疲れた体を癒すことは出来ました。
 スタートの高尾山から山頂までのコースは色々あるのですが、私たちは稲荷山コースというラインを選択します。高尾山くらいの山で迷うことはないとタカをくくっていましたら、景信山でコースを逸脱してしまい山の怖さを改めて思い知りました。この頃から天候も暑さを増して来ていました。私は本来持久走者なのであまり塩辛い汗はかかない身体になっているのですが、高尾山ではものすごく塩辛い汗をかいていました。
 これは私の中で細胞が変化しつつあるので代謝を潤滑にするため、細胞のシステムを変えるため古いシステムを入れ替え排出するための現象だそうです。つまりたとえシステムであってもそれを排出するということは、一種の老廃物という形にして排出されるということだそうでした。
 
 高尾山を走っていますと、最初の内はカラス天狗が遠くの方からひょい、ひょいとのぞいていますが、次の日あたりからやがて大天狗が私たちのそばにつくようになります。
 高尾の大天狗は高尾殿と呼ばれていて(カラス天狗たちがそう呼んでいます) 、日本における三大天狗山は、この高尾山と出羽三山羽黒山、そして義経(牛若丸) が修行した京都の鞍馬山になります。他にもお
られるのですが、この三山がメィンになり統括しておられるようです。
 そもそも世界における天狗の本拠地をご存じでしょうか。
 それはシベリアとモンゴルの間のあたり、森林地帯もありますが平原や岩山のある広大な大地を拠点としておられます。
 高尾殿は普段は日本全国を巡っておられますが、彼ご自身のいい方ですと遊び7分仕事3分の「遊行」という言い方をされます。もちろん大天狗としてのお仕事はキチンとされていますが、天狗の在り様そのものが「遊ぶことが大好き」という面が大きくありますので、そういう言い方になるのだと思います。
 大天狗さんは歌舞音曲は大好きですし、珍しいもの美味しいものにも目がありません(もちろん直接食べるのではなく、その精を味わうのですが、私たちは肉の身ですから、精を味わうと聞きますと何となく味気
ない気がしますが、本来は精の中にその存在が持つすべてがより凝縮した形で存在しているのです) 。とにかく面白いこと楽しいことが好きで、どちらかといいますと非常にカラリとした存在感をお持ちの方です。
 牛若丸はもちろんですが、植芝先生も故郷の裏山で修行のお手伝いをして頂いたようです。高尾山では単純に陰胎に入るということではなく、天狗のテリトリーと陰胎界をつないで肉体修行の後押しをして下さいました。
 みわという存在は非常に上の世界の繊細な空気(気配) を察知するのが得意ですが、彼女によりますと、私と高尾山(高尾殿)は馴染みがいいらしく、ありていにいってしまいますと「気に入られた」ということのようでした。
 しかしそれは私のバックに月読の大神という巨大な存在が控えておられるので、そういう感じになっているのではないかとお聞きしますと「いやなものなら誰が何をいっても動かない」という性格らしく、有難いことに純粋に気に入ってもらえていたようです。
 
 7月も半ばに差し掛かりますと、みわをもっと追い込むように指示されます。みわは元々アスリートではなく、かなり無理して私についてきてはいるのですが、さらに厳しく引っ張るようにというお達しが出てい
ます。そうすることでみわのエゴを昇華しようという算段のようで、私も心を鬼にして引くようにしていました。
 そして7 月26日には高尾最後の修行の日だったのですが、みわの疲れがとれずにこの日は中止になっています。みわにはまだまだ天変地異の負荷が大きくかかっていまして、それを抱えての肉体修行ですから実に大変だったと思います。それで私もつい手をゆるめてしまうということがあったのですが、そういう時は「もっと厳しく」というお言葉が降りてきました。
 この頃私が大天狗さんに「そろそろ終わりなので何か術を教えて下さい」とお願いすると「私の眷属( 仲間• 弟子) になるのならいいよ」というお言葉、どうしようか迷っていますと月読の大神が「好きなようにしていいよ」とおっしゃいます。
 何やら怪しげな雰囲気なので五井先生にお聞きしますと「あなたは最初からそういう選択はしていないね」とおっしやいました。
 どうやら一種のおためしだったようで丁寧にお断りしましたが、それでも高尾殿は「いつでも来ていいよ」と優しくおっしゃって下さいました。
 
 高尾山も最終段階に入って来ていますが、それで私の肉体能力が格段に上昇したかといいますと、相変わらずそうでもなく登りのステージではゼイゼイ• ハアハアいっています。ただ体の中身は色々いじくられているようで、色々ホルモンが出ているらしく、手の指に小さな水ぶくれのようなものが出来たりしています(これはかゆいのですが、以前からホルモンが異常に分泌されると出来ていました) 。またこの頃から塩ブ
夕(豚肉を塩漬けにしたもの)を食べるようにいわれます。
 この塩ブタは主に細胞間液、細胞質の浄化と変質を促すためのものだそうです。
 私の場合は塩ブタからかなり脂肪分を除去したものを摂取しています。
 
 高尾山の修行は8月1日に終わりました。
 結局御岳山も高尾山も私たちの毒出し(浄化) がメインで、直接的な運動能力の向上といったものはあまり見出せませんでした。
 それをどう受け止めるかは個人的な問題ですが、私の場合は「基本、土台をキッチリ固めてからの進化」というプログラムだと理解していましたので焦る気持ちもありましたが、倦まずたゆまず、くさらずへこまず黙々とワークを続けていくしかない状態でした。
 上の方からはあまりそういう注意や助言というものがないので、通常は初期の段階でめげてしまうのですが、それも修行……特に「不屈の精神」を試されているという意識がありましたので、何とかクリアできて
来たのだと思います。
 すでに書いてはおきましたが、細胞や循環器系、筋肉組織などの肉体が変ったからといって、肉体そのもののパフォーマンスがその日からガラリと一変するということはあまり期待できないもので( そういう人も稀にはいますが) 、少しずつ慣らしていく、徐々に調和(一体化)させていくという作業が必要になります。
 こうした順序を経たワークをさせて頂いている私でも、常に頭痛がしたり、筋肉に異常が出たり、浄化の場合は皮膚表面に次々と妙な湿疹やできものが出て来るという様々な肉体の変調が出現します。それを一気に変身させようとすると肉体が異常をきたしたり、下手をすると破損、精神の異常、あるいはその存在自体がキメラといわれる変態形になってしまったりしてしまいます。
 例えば私の筋肉は最終的にはピンク筋というものに変化していくのですが、その前の段階として現在は白筋と赤筋を混じり合わせているという工程にあります。こう書きますとまるで絵の具を混ぜているような感覚ですが(実際にそのようなのですが)、その過程がとても大切な作業になっています。
 そしてこうしたワークの間はあまり運動パフォーマンスは上がらず、逆に下がったりもしますので現実は非常にがっくり来るのですが、そこで何事もないような顔をして黙々とワークを続けることが大事なようです。
 
 以前はまったく私たちの覚醒ということに関して言及がなかったのですが、この頃になりますと月読の大神から「覚醒への過程として」とか「それが目標だろうよ」というようなお言葉が頻繁に降りて来ています。
 いよいよかという思いが私のエゴをくすぐりますが、それでも肉体の変革は見た目にはほとんど変わらない有り様で、めげてしまう気持ちが時々出て来るということの繰り返しです。
 現在これを書いているのが9月1日になっています。8月中に富士山に登頂する予定でしたが、様々な理由から遅れてしまっています。しかしすでに私は単独で8月25日の雨の日に富士山の8合目まで登っていました。それはみわと二人で行く予行演習のようなもので、コースの確認と何か不備がないか確かめるためでもありました。本当はその日も頂上まで行く予定でしたが、登り始めから降っていた雨が8合目からは非常に強くなり、雷も交えてきましたので大事をとって引き返しています。すでに書きましたがお盆の時期は富士に日本中の不成仏霊が集います。またなぜかその時期に多くの人々も富士登山を行っています。そのため膨大な負荷が富士山にかかっており、その負荷の浄化がお盆以降約半月にわたって行われます。雨風雷、台風がこの時期の富士山に多いのはその浄化のためなのです。そういう時期に私たちが登るのも最終的な浄化のためということがあるので仕方のないことだということでした。
 
 うまくいくとみわが富士山でまず覚醒するようですが、どうしても不確定な要素が多くて「さらにもう一度みわが一人で行く必要があるかもね」というお言葉も降りて来ています。
 本当は富士の結果が出るのを待って本にしたかったのですが、どうやら時間切れです。
 
 次回は何とか「宇宙全史」第2卷を出したいと願っています。
 
 富士登頂
 
 最終稿で富士山登頂の記が間に合いましたので簡潔に書いておきます。
 
 9月7日に行 ってきました。
 それまでの不安定なお天気とはうって変わり星がきれいに瞬く夜空が広がっていました。
 スバルラインで5合目に着いたのは午前4時半でした。
 今日はみわに極限までの負荷をかけないといけないというので、ほぼインターバルなしで薄い空気の中限界まで登っては休み登っては休みを繰り返し9合目まで行きました( 休むといっても10秒くらいですが) 。
 みわはすでに足は限界にきていて、ガタガタ震えるひざを時々手で支えて虚ろな目をしながら、息は薄い空気の中ぜえぜえいいながらついて来ています。9合目の中ほどで天帝様から「まよくやったわね」という
お言葉を頂いた後、登頂に成功しています。
 直後にみわは手を伸ばした状態で身体をへアピンのように前に折り曲げたまま30分ほど昏睡状態に陥ります。その間色んな人が「この子大丈夫?」と声をかけてくれますが適当に答えるのが私の役目でした。とにかく登頂した直後にその状態になっていますから、後から後からゾロゾロ人が来るのです。みわはその状態で硬直したままなので他に運ぼうにもどうにも出来ないという状態が続きました。
 結局みわは天帝界との完全な接続が30分程で終わり目覚めますが、身体がものすごく冷え切っていて、しかもそこは富士山頂で、お天気がいいとはいえ気温はかなり低いところですから「寒い」「寒い」と震えています。
 実際に触ってみると氷のように冷え切っていて、急いで陽だまりに移動し上着を着せるとすぐにまた昏睡してしまいました。
 
 しばらくすると目覚めたの ですぐに下山します。
 途中何気に振り返ってみると、右肩の富士の稜線から急速に白い雲が湧きあがって来ていて、それが雌雄つがいの白鷗、ついで獅子、その後すぐに竜神の背中に観音様がのられて出現されました。観音様は白衣観
音で、この方は2年くらい前に修行した奥入瀬の滝でお会いした方でした。霊的な水脈が日本中につながっているようなので、どこへでも出現なさるようでした。
 その時「水分(みまく)り」とのお言葉……よくわからなかったのですが、「慈雨」のような意味で日本中の(霊的な)水脈を通して、慈悲の恵みを授けてあげましょうというような意味だと思います。
 ちなみに私たちのワークには水神様も関わっておられますが、この方は自然霊に近い方で、人間にとって
は厳しいといいますか「理(ことわり)」を厳然として遂行されるというような非情の存在です。
 富士山の修行はこれで終わりましたが、本格的な修行は実はこの後から始まっています。そしてそれはまたいつか機会がありましたら書いてみようと思います。
 

DNA

カープDeNAが最下位争いをしている今日この頃ですが、DNAについて検索して読んでいると色々と面白い御教示を見つけました。ぜひお読み下さい。

 

「宇宙全史」を読むとどうしてDNAが変化するのか

 

私たちの肉体は常に上位の身体(魂)から、調整を受けています。
(上位といいますのは、肉体なら魂魄体・魂魄体には霊体・霊体には神体というように上の身体の事です・しかしこれは非常に簡略化した説明です)

この場合上からどうやって調整するかといいますと、肉体の細胞の核にあるDNA細胞に対応する魂魄体のDNAが情報を伝達するのです。
魂魄体といいましても、非常に肉体(物質レベル)に近い波動の魂魄体ですから、ある意味その二つのレベルのDNAは「共振」するという形で、情報(エネルギー)を伝達します。
(先ほど肉体・魂魄体・霊体・神体等・・・大まかなご説明をしましたが、実はそういう風にはキッチリと分かれているわけでなく、いうならばグラデーションのようにつながっている存在なのです。でもこれは図で描いてご説明しないと中々理解してもらえないかも知れません。しかしここでそういう説明は出来ませんので、とりあえず、魂魄体でも非常に肉体に近いレベルの魂魄体から肉体に作用が伝達されるとお考え下さい)

つまり人間の上位にある「本体」が思惟した事を、肉体に届けようとすると、グラデーションんのような縦に連なる(霊体→魂魄体→肉体という)身体を通して、肉体にまで届けなければならないのです(この縦に連なる体というのを理解する事は中々大変だと思います)。
しかし現状今の人類の大多数は、この情報を正確には受け取ることが出来ません。

さてat様のご質問ですが「宇宙全史」を読むとどうしてDNAが変化するのか・・・というのにお答えします。

「宇宙全史」にある情報は、ある意味人類にとって「ものすごく事実に近い情報」なのです。
そういう情報はおのずと「力」を持つのです。

at様は「宇宙全史」第一巻をお読みになったと思いますが、あれをどこまでご理解されたかは分かりませんが・・・色々な方がすでにお読みになって、様々な反応をなさったはずです。
多くの方はショックを受け、その内容を拒否するか、本を廃棄するかしたかもしれません。
ある方は「ひょっとしたら本当かもしれない」と少しは受け入れたかもしれません。
またある方は「これは事実だ」と心からその内容を受け入れたでしょうか。
しかし「受け入れた」方の中でも、
「事実を受け止め、それからどうするか考えた方」
「事実を受け止めはしたが、そのあまりの内容に絶望してしまった」
極端にいいますとそういう風に分かれることもあります。
問題は「心から」受け入れた、理解したかという事なのです。

いずれにせよ「受け止めた」方のDNAは変化を始めています。
「心から受け止める」という事は、その方の潜在意識までその情報が伝達されたという事でもあります。
その方の潜在意識にまでその情報が行くということは、ほぼ「本体」にまで届いているという事でもあるのです。
「宇宙全史」の情報は「事実」ですから、本体は肉体がこれまで「無明にさまよっていた」と思っていたら、突然「真実」に目覚めたと判断します。
そうすると今度は本体は時期が来たという判断をして、「覚醒」の伝達信号を肉体に発信するのです。

しかし今度は以前と違って「すでに肉体から本体までいわば逆の形で情報伝達の通路が形成されてしまっています」ので、容易に本体の「覚醒」信号が肉体に届くのです。
そうすることにより肉体のDNAは変性を始動するのです。
(2008/12/30 No.104)

 

 

人間( 魂)とは情報で出来ている。そしてその情報は記憶に由来する。つまり人間とは「記憶」で
ある。記憶がなくなれば人間は死ぬ。その記憶とは思考レベルの単純な時系列経験のような記憶から、肉体(DNA や臓器類他) が持つ独自の記憶、さらに潜在意識以下の精妙な波動の記憶も含まれる。

肉体(身体)というものは、「現れ」ではありますが、一種の魂でもあります随分粗雑な魂ですが、やはりそれでもエネルギー塊が個性という「我(エゴ)」を伴う魂なのです その中で「記憶」の占める位置は、大まかには「脳」といってしまってもいいのですが、実際は既に書いたように「身体の全てに」各々の組織(細かくはDNAなども)が「記憶」を持ちますというより、その組織そのものが「記憶」といってもいいかも知れませんもっといいますと「記憶」が体を構成しているといってもいいでしょう だから皆さん方は、私が継続している肉体改造など関係ないと思っておられるかも知れませんが、そこを正さなければ到底「完全覚醒」など叶わないのですそこが難しいところです 

さてそれではなぜ私は自身の肉体を改造しなければならないのでしょうか。
一番の目的は「覚醒」にありました。
通常覚醒するためにはあらゆるカルマを清算しなければなりません。
カルマは魂レベルにも保存されてはいますが、その反映として肉体(DNA)にも刻まれています。
それが病や事故、不幸などを誘引します(もちろん負の現象ばかりではなく、幸福や成就といった正の現象もあるのですが、中々少ないようです)。
つまり覚醒するためには肉体にある故障や不備、積もった澱(おり)などをまず解消していかないといけないということがあります。

 

 

「人類のDNAは、超人がこの世で得た想念で変わるのですか」

このご質問にお答えします。

サタンほどの者になりますと、その力で人類全体を左右する可能性を持つようになります(想念では変えることは出来ません・あくまでも力が必要です)。

但しこの場合「可能性を持つ」ということでありまして、「可能」ということでもないのです。

一つにはサタンがその生で肉体を持ち、環境や生きていく上での障害を越えて、彼のポテンシャル(潜在的可能性)をどこまで出す事が出来るか・・・という条件が一つあります。
サタンの分身であるエル・ランティが、19世紀のイギリスでベンジャミン・ディズレーリとして生きたとき(「宇宙全史」第一巻参照)、幼い頃からの家庭教育(マザコン)で彼自身の本来の力が出し切れず、結局フリーメイソンに頼ったということがありました。

いかに超人といえど、今生肉体として生まれてきた限りは、肉体の法則に従って生き、その上で必要な力を手に入れなければならないのです。

もう一つは、超人がその力を行使して人類を自由に操ろうとしても、それを人類が受け取らなければその力は実行されません。

たとえばヒトラー(これも「宇宙全史」第一巻参照)はサタンが演じておりましたが、彼の「世界滅亡」という野望は、人類が受け取る事を拒否しております。
(ここの解釈は非常に難しく、単純に「人類が拒否」という事でもないようなのですが、今はあまり触れません)

つまりいかに強力なパワーを持つ超人が現れ、私たちを支配しようとしても、私たち自身がそれを受け入れない限り、そのパワーは有効にはならないのです。
しかし私たちはこれまでの歴史を見ていますと、ほとんど常に彼らの言いなりでした。
それは私たちが、

「何か頼るべきものが必要だ」

「何かに依存しなければ生きていけない」

そう思い込んでいたからでした。
でも実はいかに強力な超人があなたを支配しようとしても、本当にあなたが心底拒めば、その支配から外れる事は可能なのです(この世界はそういうふうに創られています)。

「もし理想的なDNAの変化のさせ方があるなら知りたい気がしますが、それが個人が書くべきテスト用紙の答え、なのでしょうか?
あるがままに受け止める、とニサルガダッタ先生の本に書いてあるので、私が考えなくてもいいなら、あっさり答えていただければと思います」

このご質問のお答えです。
一般的に理想的(普遍的)な解答というのはこの世界では存在しません。
At様ならat様のオリジナルな解答があるだけです。
そしてそれはあなたが自身で見つけなければならないものなのです。
ニサルガは確かに「あるがままを受け入れよ」とおっしゃいますが、そのあるがままは「あなたのあるがまま」を受け入れ、そこからどうしますか・・・という事です。
あなたはニサルガは、何もしないでのあそこまでの境地に至ったとお思いでしょうか。
下のBBSでも書いていましたが、「あるがままのあなたをキッチリと見て・受け止めて」そこから始めましょう・・・という事です。
その勇気がat様にはおありでしょうか。

最後の「素直」という言葉を私が前回お送りしたのは、いい意味での「素直」という事でしたが・・・今回改めて上にお聞きしますと、

「これはあまりよろしくない素直も含んでいるなあ」

というお答えがありました。
At様のおっしゃるとおりの部分もあるようです・・・ね。

ご健闘をお祈りします

虚空蔵55

(なおノロウィルスで私の体を改造したのは、たまたま私が当時ノロに感染していたから、ついででやったみたいです。ウィルスは、上の方々が肉体界に良くも悪くも使用する中々重宝な手術道具のようです)

 

 


●「出生は肉の親とどの様な関係性があるのでしょうか。また、地球原人が亡くなった場合は地球の集合魂に帰っていくのでしょうか」

○親との関係性はあるといえばあるのですが、それ程濃くはありません。DNA因子によらない出方もありますから、人それぞれのようです。
地球原人が死んだ場合は、地球に戻ります。
地球原人の集合魂=地球という形になっています。

●292頁4行目~  (本文) あとの肉体はそのまま放牧しています。これで多少は繁殖力などが強くはなったようでした。 哺乳類のDNAにおける雌雄分岐遺伝子というのがあるようなのですが、この部分が元々少し弱かったところを補強しています。この「雌雄分岐」というDNAにおける塩基は、ある意味進化の要のようで「バイセクシャルでもなく極端なオス・メスでもない調和された雌雄」ということが大切だったようです。 ←「雌雄分岐遺伝子の補強」というのは放牧を通して繁殖力を強化したことと同  義でしょうか?もしくは、放牧とは関係なく他の手段で補強を行ったのでしょうか? また、「雌雄分岐遺伝子の補強」によって「バイセクシャルでもなく極端なオス・ メスでもない調和された雌雄」が実現されたということでしょうか? ○放牧を通して補強はしていません(多少は効果がありますが)。 エストラダから来た肉体から抽出した遺伝子でバランスの良い雌雄分岐遺伝子を一定数の肉体に補完し、それを放牧している(放置している)人間たちの中に更に混ぜることで、自然に全体を強化しています その効果は確かにありましたが、現実問題として単純な男女の分化の明確化だけではなく、潜在的バイセクシュアルという生命本来の有り様にも気づくことができるような余地を残しています。 しかしこの余地が現代の段階では、同性愛などに大きく反映されてしまっていますが、そんな中から肉体という段階を超えての愛を模索するという学びが用意されてもいるのです 

 

 

「ラ」についての御教示 2009/4/9 No.703

ソマチットに関しまして、私はまったく知りませんでした。
調べてみますとこの宇宙におけるかなり重要なファクターのようで、簡単には説明できないもののようです。
 
まずソマチッドという名称ですげ、本来は「ラ」というそうです。
何といいますか・・・上の方たちはそう呼称しておられます。
そもそも私たちがこの世界で何をどう呼称しようが、上の方たちはあまり(ほとんど)気になさらないのですが、この「ラ」に関しましては、わざわざ「その名は違和感がある(ソマチッドって何?という感じで)」おっしゃってきました。
そんなわけでここではソマチッドのことを「ラ」とします。
(これまでこの宇宙全史のワークの中では、本当に固有名詞というものが重要視されていませんでした。ですからエホバという名称の源流をたどるのも、えらく苦労したものです。それは上の方たちの意向でもあるのでしょうが、だいたいは「あなたたちが必要なら好きな名前をつけておけばいいよ」くらいのスタンスだったのです。そんなわけで「宇宙全史」では「シマシマ惑星」とか「JUMU」とか、ない知恵を搾り出して名称を考えていたのです。この関係性はおそらく古代の精神世界でも同様で、メソポタミア古代イスラエルギリシア、エジプトなど神々との交信があったとき、おそらく彼らは彼らの言語で、彼らの単語を何かしら適当に当てはめていたようです。それが現在私たちにはもっともらしい精神世界の語句になっているのです。例えば大天使の名前や悪魔の名前、天上界や星々の名前などもそうです。今ここではこの宇宙における非常に根源的な情報が日本語で降りてきています。そこには次の時代の基礎となるべき情報を多く含んでいます。やがて「宇宙全史」に使われている語句が、世界の精神世界の標準語句になるときが来るかもしれませんね。でもその時にはある意味日本という国が、世界のリーダー的な存在になっていなければならないのでしょう)
 
なぜこの「ラ」がわざわざ呼称を特定されたのかといいますと、先ほど書きましたように「この宇宙の基本構成要素」として結構重要な位置を占めているということがあるからなのです。
もちろん地球上の最古の生物かどうかとか、DNAの前駆物質がどうかとかの細かい側面は持っているのですが・・・少しそういうことを収録してはみたものの、とてもここだけでご説明できる代物ではないと判断したしました。
キチンとご説明するにはおそらく「宇宙全史」の中で章立てをするくらいの分量がいるかもしれません。
 
ここで少しだけ収録した概要を書いておきます。
「ラ」は生命体ではあるようです。
ウィルスに似ていますが、生命としてはもっと「完全」なもので、ウィルスは上の方がおっしゃるには「ラ」に比べると「粗雑」だそうです。
最古の生物かどうかということですが、「宇宙全史」第一巻で明らかにされていますように、地上の生命はいわば実験室で創られたものです。
そういう意味では、創られた元のもの(材料)という意味ならそれでいいそうです。
DNAの前駆物質ではあるのですが、情報格納庫としての意味に限定されます。
生命体ですから、生命の定義の一つとして「自己増殖」「自己の相似体を複製できるか」という部分は、ウィルスと似ていまして、つながる所を利用して増殖は出来るということでした。
つまり増殖には媒体が必要ということで、ここはウィルスと似ています。
 
それではそもそも「ラ」とは何かということですが定義としては、
 
「宇宙が存在するためにバランスをとるためのもの」
 
という壮大なお答えがきました。
具象的に見ますと「ラ」には表の顔と裏の顔がありまして、表が「生命を生み出す」という顔、裏が「ダークマターのようなもの」という顔を持ちます。
もう少し深く見てみますと、
 
「生命と存在と宇宙の接点のようなもの」
 
「存在そのものに関わってくる」
 
それが「ラ」なのです。
ここではそうした漠然とした表現しか出来ませんが、そのうちキチンと解明していきます。

真我・実存に関する考察

 
実存と真我に関する御教示を先日まとめています。
 
以前、それをもとに自分の拙い体験を加えて考察した原稿がありましたので、掲載します。ご意見をいただければ幸いです。
 
 
①一回目は、壮大な叙事詩「宇宙全史1」における実存のご説明です。
 
「そこに書かれる物語にある「永遠」を読み解かねばなりません。本当の詩には必ず「永遠」が潜んでいます。言葉を綾なすことで、永遠を。表現することも可能なのです。」と2016/9/26 No.3039で御教示いただいています。
いい文章だなと憧れて、私も実存を言葉で表現できないかと思ったのが今回の間違いの始まりでした。
 
「魂」の章で、「実はこの「 実存」の探求が「宇宙全史」という本のテーマです」と明言されておられます。
 
虚空蔵55様がBBSでこの方向の探究に関わる御教示をされるときは、ひときわものすごい愛を感じますので、本当にこの言葉通りなのだとひしひしと感じます。
 
 
 「ここでお話している「私」は自我(エゴ)の私ではありません。ニサルガダッタの提唱されている「私は在る」という意識感覚(根源的なアイデンティティ)というのが最も正確な言い方だと思います。この実存にかかわる部分は直接ニサルガダッタの日本で出ている唯一の本「私は在る」をお読みいただくか、この本の「宇宙」の章の「実存」の項をご覧ください。お勧めはニサルガダッタの本の方です。」
 
ニサルガダッタの本は二冊邦訳されており、kindle unlimitedでも読めます。それが使える方はぜひダウンロードして下さい。
 
 「魂(体)は実存があってこそ意識を持ち認識が可能になるのです。つまり実存が私たちの存在のすべての在り様に焦点を当てることにより、命を吹き込み存在を現すのです。人間という存在は人間界・魂魄界・幽界・霊界......と延々と果ては究極の実存界まで切れずにつながっている存在でもあります。その段階のどこに気づいているかということが、今のあなたの居場所になっています。現在は人間という存在に気づいている段階ということでしょうか 。ここでは「私」「意志」「気づき」という単語を使ってきましたが、どれも同じものの側面を指し示す言葉です。実存はそれ自体では顕現しません。その原初の顕現が「私」であり「意志」「気づき」でもあるのです。それこそが私たちを私たちたらしめている根源だといってもいいと思います。
しかし 本当は魂といわれるものは自分の各段階における体であり、そこに命を吹き込む大元は「実存」であるということを知りました。それではその肝心の「実存」とは一体何なのでしょうか。この世界(宇宙)では疑問や謎を突き詰めていきますと、究極的には必ず「実存」に至ります。しかしここではもう少し「魂」について深く掘り下げていきます。
私たちは実存という存在により命をもらっています。すると私たちの上に存在する魂魄体、幽体、霊体 ......等は私たちとはまったく関係がないのでしょうか。そうでもないのです。実存は私たち肉体にどうやって作用するのかと申しますと、直接作用するということではなく上から順番に「霊体」「幽体」「魂魄体」と作用しながら下がってきて「肉体」に作用するの です。
ひとつ上位の体(魂)が私たちに「意志」を吹き込むのですが、そのときダイレクトに「実存」の生命を流し込むというのではなく、上から順番に「実存」の意志が流れてくる間にある霊体(魂)のクセや習慣、傾向性を反映していきます。」
 
「この元ダマが受けた実存の反映を、順に下位次元に降ろして行っているのです。 この場合元ダマは実存の反映を一本の線で受け入れています。その線は言うならば「祈り」や「憧憬」という感じのものなのです。 次元の元ダマからしますと、そのずっと先にある 「実存」 は自らの故郷であり、母であり父でもあり、憧れの 理想郷でもあるのです 。ですからそこから降りてくる「線」に対しての思いは究極の「愛」というものかもしれません。
その体を上から順番に通って究極の存在であるところの「実存」が肉体に反映しているのが、今の私たちという存在です。
先ほど私は「実存」が上から順番に「神体」「霊体」「幽体」を通して「肉体」に働きかけていると申し上げました。そしてこの「 実存」により単なる体である魂に命が入り、 魂が意識を持つのです。ならば魂の目指すべき基準とは「実存」そのものではないでしょうか。自分の究極の本体であるところの「実存」を私たちはまったく知らないまま、意識しないまま自分というものを「魂」と勘違いしています。」
 
「私たちの魂である肉体はこの地上界において進化のための学びを模索中です。そしてその進化の目指すところは「神聖」なるものでした。それはある意味「元なる自分」への回帰でもあります 。「元なる自分」とは「実存 」のことです。体であるところの魂はその「 実存」という「私 」を顕現する場です。場所であり顕現する道具でもあり、現れそのものであもります。 そうしますとその価値は何を持って決められている のでしょうか。すでに答えは出ていますが魂(体)は、自分であるところの「実存」を現すということが基準になるのです。しかし実存は善でも悪でも表現できるものではないようです。また大きさや重さ、広さや高低でも表すことができません。」
 
「もっと突き詰めますと「言葉では表せない存在」なのです。なぜなら言葉とは二元性の表現だからです。 これは少し難しいのですが 、認識の表現が言葉です。 そして認識そのものが二元性の原理に基づいて起動す るものなのです 自分があって認識すべき対象物があるという状況において初めて認識が成り立つのです そうすると「実存」をどのように表現することができるのでしょうか。結論から申しますとそれはできないのです 。「実存」そのものを表す言葉はありません 。それを指し示す言葉もないのです。しかしニサルガダッタはうまい表現方法を教えてくれました。「それ(実存)は否定的表現をもって間接的に限定することができる」というものです。」
 
「たとえば「実存」は善でも悪でもない。「実存」は暖かいということでもなく、寒いということでもない。 「実存」はあるということもなく、ないということもない。「実存」はすべてでもありすべてでもない。こ んな感じで否定形の文章ならば実存の在り様を特定できるのです もちろん実際には特定はしていないのですが 。しかし今のところ「実存」そのものを指し示し、解明することはできません。それはこれまでのどんな聖賢 、マスターであっても 言語で解説することは 「不可能」と言わしめた存在でもあります。 それが私たちの本体なのです。」
 
「実はこの「 実存」の探求が「宇宙全史」という本のテーマです。たとえその解明が不可能であっても 、で きる限り その存在の 間近まで迫りたいと思っていました。」
 
「ところが 2008年に入りまして突然謎の存在から「実存の解明は可能です」という天恵が降りてきました。確認しましたがそれは科学的に解明できるもの だということでした 。「私にそれが出来るのでしょうか」という 問いに、「 可能性はある」というお答えを ただきました。皆様は私がこの情報を聞いたときどれほどうれしかったかお分かりになるでしょうか。これまでどんなマスター達もなし得なかった「実存」の解明の可能性があるということは、人類にとっては最高の福音なのです。」
 
「今回の第一冊目の「 宇宙全史」は、収録が大混乱の内に締め切り を迎えてしまいました 。地球の秘密をどこまでも妥協なしに深く深く突き詰めていくと、とんでもないシステムが人類 をがんじがらめにしていました。その機構から抜け出ない限り人類に救済の道はなかったのです。しかも人類はあと6年で史上始まって以来の大関門を迎えます。その時までに何とかしないと人類に未来はありません。 そこで私は興味本位の探求をいったんあきらめ、人類を自分たちの自由に操る勢力と対峙することにしました。「実存」の探求はこの卷では導入部だけにとどめておきます。メインは地球を自我自欲のままに翻弄する存在を明らかにし、人類に目覚めてもらうよう働きかけることです 。どんなに狡猾なシステムを明らかにしても 、人類がそこに気づきそこから抜け出ないことには何も変わらないからです。すべては人類の手に、人類の気づきにかかっています」
 
 
この謎の存在はおそらく月読之大神で、このとんでもない、本来御言葉をいただくことも考えられないような存在ですが、虚空蔵55様とみわ様の翻訳では、なのよ、だわねを含む現代語り口で、我々下々の人間の程度の低い悩みごとに対し、とても人間業ではない快刀乱麻の御回答を下ろしていただいており、それだけでとても驚きます。いつもそれを味読させていただいておりますが、何度読んでも、どこまで理解できているのかおぼつかない深い内容で、新しい気づきが生じます。
 
② 前回の宇宙全史1のTEXTで、「実存はそれ自体では顕現しません。その原初の顕現が「私」であり「意志」「気づき」でもあるのです」とあります。
 ここでの「私」は、「私は在る」という意識感覚(根源的なアイデンティティ)とされています。
 
 
 瞑想は、エゴである「私」の部分を落として、この根源的なアイデンティティを際立たせることを目的としています。瞑想における世界平和の祈りをはじめとした祈りの効果もこれと結びついています。またそれによってエネルギーを貯めることがそれに向かうためには必須です。
 
 
 実存は「意志」であり、「気づき」であるということですが、今回は、この「意志」と「気づき」について、その後の御説明を含めて検討します。
 
 
2020/1/7 No.424の宏史様への御回答、
 
「宇宙全史における「意識」の定義です。
①「意識」とはこの現れの宇宙における根源的なエネルギーである。
②「意識」は真我から最初に染み出たもので、その出た瞬間に二元性を発現する。
③ オーム宇宙における原初の二元性は、意識が陰陽に分かれた時に発現したとする。
④ 陰陽に分かれた意識(エネルギー)は、確かに二元性を構築し続けるが、それが陰であれ陽であれ意識自体はあくまでも二元性の範疇にはないともいえる。
⑤ 原初のオーム宇宙における陰陽の配分は、若干陰が勝っていた」
 
「No.3207のワンオーワン様への御回答、
 
「「意識」の定義は(中略)宇宙に遍満するエネルギーであり、全ての源である」
「それを愛と表現しても間違いではない」
「意識自体に二元性はなく、陰陽に分けたために二元性が発現している」
「その意識が二元性の中で目的を持ち、方向性を示すとき、それを意図と呼ぶ」
 
「「実存」とは「真我」と「生きる世界」の境界線上にある境涯。「実存」から「意識」がほとばしり、「意識」から「意志」が生まれている」
「至高なるもの(真我)から意識というエネルギーが出て来る。そしてそこ(意識)から意志が発現している」
「「供給体」というこの宇宙に供給されるエネルギーはすべて「真我」から来ている。それはまず「意志」として顕現して来る」
 
「ニサルガはこの発言(「あなたはすべてに遍在する、永遠で無限の創造的気づき-意識なのだ。」)の段階ではまだ真我には至っていませんでした。彼のいうところの「実存」は真我と「生きる世界」との境界線上にある境涯でした。」
「ニサルガは「意識」を「永遠で無限の創造的気づき」としている」
「ニサルガの概念自体がよく整理されていない。「意識」は二元性を孕んでいる」
 
 
以上の御教示を整理しますと、
①真我から意識というエネルギーが出て来るその発生の瞬間では、意識自体には二元性がない。
②オーム宇宙における原初の二元性は、意識が陰陽に分かれた時に発現した。
③しかし陰陽に分かれた意識は、確かに二元性を構築し続けるが、それが陰であれ陽であれ意識自体はあくまでも二元性の範疇にはない。
④その意識が二元性の中で目的を持ち、方向性を示すとき、意識から意志が発現する。
 
「ニサルガは「意識」を「永遠で無限の創造的気づき」としている」「ニサルガの概念自体がよく整理されていない。「意識」は二元性を孕んでいる」のところですが、ニサルガダッタは「永遠で無限の創造的気づき」で、真我を語っており、それを二元性である意識と呼んでいることが誤解だということだと考えました。
 しかし、上にあげた宇宙全史1では、「実存」の原初の顕現が「私」であり、ここでの「私」は、「私は在る」という「意識感覚」(根源的なアイデンティティ)であるという説明に「意識」という言葉が使用されており、ここでの定義と齟齬が生じることになりますが、これからは厳密に「意識」の定義をここで説明されているように使用したいと思います。
 
202020/2/4 No.3938の私の質問に対する御教示
「真我になるとは、我々末端の個である意識がこの大元の意識に遡行して、それが真我に帰還することなのでしょうか」
「はい
ただ「大元の意識」などという事は書いていないはずです。」
2020/5/21 No.3998の御教示
「先日いただいた「ただ「大元の意識」などという事は書いていないはずです」との御教示が、最初はよく理解できませんでした」
「ここはとても難しい内容になります。
どっぺんさんから頂いた文章は、
「真我になるとは、我々末端の個である意識がこの大元の意識に遡行して、それが真我に帰還することなのでしょうか」
多分この部分だと思います。
どっぺんさんが「大元の意識」をこの宇宙に遍満する「意識」というエネルギーとされていたのならそれは正解です(本当はちょっと違うのですが)。
私のその時の理解は、どっぺんさんが「真我」=「大元の意識」とされたように読み取れましたので「それは違う」と書いたのです。」
 
 
「私は在る」を顕現しようと修行している無明の身には、実存も真我も守護霊も集合魂も全く区別がつきません。
 ニサルガダッタの「実存」(真我と「生きる世界」との境界線上にある境涯)ではまだ二元性の世界だということでしょうか。
 真我に至ると溶けこんで消えていくと言われる意味は二元性のなくなる様を表しているのでしょうか。
 
虚空蔵55様が、2008/11/5 No.97で
「ニサルガや地球上で究極の覚醒を果たした方たちが告げる福音は「最終的に私たちの行き着くところは実存である・私たちはそこから来てそこに戻る存在」という事であった」
 
「この実存を私たちの世界の二元性の言葉や表現方法で表すことは不可能である。
それゆえそれを知るには「実存である」という状態になるしかない」
 
「月読之大神が「実存は一種の緩衝地帯である」 と教えられた。
「ここに「実存」を超える世界が明示されてしまった。 また新たな人類の探求の視野が開かれてしまった」
 
「「実存」の(間接的に指し示す)概念は、「すべてのすべてであり、無限であり無でもある。満たされており何も無く、ただ無窮の至福に満ちた、ありとあらゆるものの根源であり、始まりでもあるもの」」
 
「私はこの情報を「宇宙全史」第一巻でご紹介した菅野正三さん(現在7次元レベルにて時空間の探求にいそしんでおられます)にお伝えしました。
すると「私の研究の角度と視野が突然開かれた」とおっしゃって、小躍りして喜んでおられました(おじいちゃんですが、相変わらず子供のような方でした)」
 
「月読之大神は日本における主宰神としての名称ですが、実際そのキャラを使って私たちを指導してくださっておられるのは、二元性のこの宇宙を超えたところにある「実存」という緩衝地帯さえも更に超えたところにあるゾーンから来ておられるエネルギーです」
 
「その実体は月読之大神というキャラを超え、世界を超え、地球をも太陽系をも超えた所から来るエネルギーで」
「我々の銀河を超え、このオーム宇宙をも超え、地上で二元性を極め超越された最高の叡智である聖賢が体得した境地の実存さえも超えた境涯を教えて下さる存在」
と書いておられます。
 
「この実存を私たちの世界の二元性の言葉や表現方法で表すことは不可能である。
それゆえそれを知るには「実存である」という状態になるしかない」
に関して思うことですが、この前の私の質問の前に、実存そのものを語ることは不可能であるが、間接的に表現する道がないか考えました。瞑想中に自分の状態を観察しようとすると、その瞬間、その瞑想の状態は失われてしまい、後ではそれを追うこともできず、言葉の羅列になるだけでした。
 何か出てくるとそれは思考、マインドで、瞑想は一元の状態で無くなります。絵にも描けず、言葉にもなりません。輪郭的なことを述べるだけです。
 
④真我はエネルギーを取るために宇宙を作っているという真我に完全覚醒し、更にそこを突き抜けた仏陀と遊撃手の有様(言葉では矛盾しますが)を知りたがっているのは私だけではないでしょう。動画での御教示と虚空蔵東京本をしっかりと読んで思慧を続けていきたいと思います。
さらには今のところ望み薄になっていますが、エゴの本を拝読できる日が来ればとても嬉しいです。またいつか続きを書きますのでよろしくお願いします。

瞑想と集合点

瞑想に関して重要な御教示を集めてみました。

私も瞑想を毎朝一時間行っていますが、エゴによる夾雑物にもっと気づくことが大きな課題です。

 

 

「瞑想には様々な効能・効果があります

ただ突き詰めると


「瞑想」=「エゴの稀釈化」という等式になります


瞑想について色々書いておりますが、それは各方面からの見方で、究極の目的は、この「エゴの稀釈化」なのです

このポイントが分からないと、必至に瞑想に励んでいても色んなものが見えたり、不思議な体験があったりすることがあるでしょうが、それが正常な道程に導くことはないのです

スーザンさんの質問では「瞑想によるエネルギー取得効果」が言及されていますが、確かに瞑想による活力の取得効果はあるのですが、それはひとえに「エゴの希釈」があっての2次効果に過ぎません

(ただこの図式は少し難しく、あまり触れてはいませんでした・「エゴの本」が出せればいいのですが現状難しいです・ただ「35部品」の中で触れられていますので、そちらで確認してみて下さい)」

 


「瞑想」のメソッドとしての位置づけは、「注意力の特化」ということがいえます。

日常の注意力である通常の認識力とは異なり「夢見の注意力」というものを獲得するた めに「瞑想」は行われます。

もっとわかりやすくいいますと(すでにどこかで書いておきましたが)「覚醒しながら 眠る」或いは「眠りながら覚醒している(気づいている)」というメソッドです。

このような「特殊な注意力」の獲得は「完全覚醒」には欠くことのできないファクター となりますが「完全覚醒」までいかなくても、ありとあらゆる術や超能力、神々との交流 (巫女)等の獲得にも欠くことのできないメソッドとなっています。

この注意力が進化していきますと「別な自分」といいますか「分身」といいますか何か そういうものも獲得できるようになり、この世での生き方自体がだいぶ楽になっていきま す。

ただ何度もいいますが、この瞑想は覚醒に至る一つの道ではありますが、一つの段階で あることも事実なのです。

もう一つ瞑想のいいところは、瞑想中は(あなたの守護霊や応援が上質のものであれば) あらゆる場面からあなたをフォローできるというところにあります。

瞑想中は(フォローがないと)ほぼ無防備な状態になりますから、健全な瞑想に(上質 な)神仏の加護というものが必須条件となります。

 


「忍び寄りの術」

既にこの回答でも書いておきましたが、瞑想は上位の注意力(視点)を養うという要素 を持っています。

そして「エゴの俯瞰」というメソッドは、皆さんあまり馴染みがないので書いていなか ったのですが、ドンファン流のいい方でいいますと「忍び寄りの術」というカテゴリーに 入ります。

その効果は様々ですが、ここでのテーマに沿って申し上げますと「上位の視点を固定する力」を得るということになります。

この意味は、例えば瞑想中、たまたまエーテル体に接触しても、通常そこに常駐は出来ません。

そこまでのエネルギーがないということはありますが、エーテル体に特化した視点を固定する力がないという事がいえるのです。

「エゴを俯瞰する」ということは、ただのエゴの希釈メソッドのようですが、実際は深 い意味を持つ位置づけになります。

そしてエーテル体でもコーザル体でもいいのですが、その世界に視点を固定する(出来る)ということは、その世界の住人になるということでもあり、既に地上界からは出てしまっていると考え てもいいのです。

しかしながら、この境地に至るには、「エゴの俯瞰」という課題を、常時、どこまでも 深く精緻にもっていく必要があるということがあります。

いずれにしても宇宙全史にある課題は、極めれば究極の境地をも望むことが出来る可能 性を潜在しています。

その最たるものが「お祈り」ですが、そんな簡単な課題を中々クリア出来ない方が多いのも事実です。

 


「本当の「エゴを無くす」ということ

これは秘儀に近い事ですが、今回はどっぺんさんの特集のような本になっていますので、 開示しておいてもよいとのことです。

ほとんどの修行者はこの段階で、壁にぶち当たり挫折していきます。 それを概括してしまえば確かに「エゴに負けた」ということになりますが、これから書く ことをよくよく踏まえていれば、クリア出来る方もおられるかも知れません。

詳細は「エゴ」の本で書くことにしますが、このシステムの理解は、どんな段階の方でも 同じように通用する知恵ですからご利用ください。

皆さん方は[エゴを薄くする]あるいは「エゴを無くす」という課題に取り組むとき、例 えば何か嫌なことがあって怒ってしまったというようなあとに「ああ、また自分は小さな エゴに取り込まれて、俯瞰することなくエゴの怒りに巻き込まれ、本来の自分を忘れてし まっていた」と反省します。 確かに反省するのはいいことですが、やはり「エゴと本心の自分との分離」は大切です。

大切ですが、それが宇宙全史を学んでも、他の色んな関係書籍を読んでも、中々はかどら ないということがありますと段々めげて来るようです。

エゴを薄くするエクササイズの初期段階では、割合気づきも多く、スムースにクリア出来 ることも多いのですが、エクササイズが次第に高度な段階に来ますと、中々はかどらなくて、手ごたえもなく「本当にこれでいいのか?」という疑心暗鬼に陥ったりしてしまいます。

秘儀といいますのはここからです。 エゴを薄くするのが難しい理由は色々ありますが、その最たるものは「自分が自分を否定しなければならない」というところにあります。

つまり、通常自分と思っていたものを「これは自分ではない」と認識していかなければな らないのです。 ここで色んな葛藤があるのですが、それは初期、中期段階のエクササイズにおける現象で、 精神世界大学課程の段階での「エゴ滅却エクササイズ」は更に分かりにくいものになって いきます。

それまでにエゴを薄くしていく作業を延々繰り返していきますと、やがてこの段階では「手 ごたえ」は次第に薄くなっていきます。それはある意味確実にエゴが薄くなってきたとい うことがいえますが、実際は「本当のエゴ」といいますか。根源的な部分のエゴがしっか りと残ってはいるのです。 そこから更に先に進んでいくには、それまでの手法では到底太刀打ちできない、手の届か ないところにあるエゴとの闘いがあるのです。 この段階で冒頭に書きましたように、人は「壁にぶち当たり」「エゴに負けて」いきます。

この壁というのは「自分ではどうにも手の届かないところにある課題」とでもいうのでし ょうか、そういうものが残っていきます。

背中の痔みで、手の届かないところがあるという方もおられるでしょうが、本来日々のエ クササイズで肩の関節をほぐしておくと、ちゃんと探いところには手が届くのですが、そ れを怠っていると、どうしても手の届かないところが出てきます。

エゴの滅却も同じで、普段からエゴを俯瞰していくという作業を続けていますと、やがて本心の自分と偽の自分という見分けが進んでいきます。

しかし、背中に手の届かないところが無くなるほど関節を柔らかくして精進していても、背中の奥といいますか、身体の中に痔いところがあった時はどうするでしょうか。 さすがにそれは背中の表面と、身体の肉の中という全く次元の異なるものですから、いくら肩の関節を柔らかくしてもどうにもならないことでしょう。

それと同じで、どんなに自分の分かる範囲でエゴを薄くしていっていても、それは頭の中、思考レベルのエゴのお掃除に過ぎず、エーテル体、アストラル体レベルに構成されてしま っているエゴには届いていないのです。 そこがクリアにならないと、精神世界大学レベルのエゴ・エクササイズは成就しません。

もちろん、この段階で霊的な視力の覚醒があり、エーテル体やアストラル体に直接アクセスできる方は幸いで、そこはご自分で何とか出来るかも知れません。 (しかしこの段階にある霊道の開いている方は、よほどの覚悟がないと正常な進化が望め ないということがあります。つまりよからぬ方向にズレていくか、引き込まれていく可能性が大きいのです)

霊道が開いていなくても、深い瞑想に入り、よくよく内観できる方はそこでクリア出来てしまう場合もあります。 本筋はこの瞑想によるクリアが理想的ですが、それにはいくつかの心構えがあります。 そうしますとそういう能力もなく、思考レベルでエゴの消却しか出来ない私たちは、如何 にして上位のエゴと対峙し、それを薄く出来るのでしょうか。

結論からいいますと「それは出来ない」のです。

しかし、それでは身も蓋もありませんので、ここではそこを何とかクリアしたいと思っています。

この上位に存在するエゴといいますのは、もうほとんど「自分」といってもいいレベルの エゴでして、それの克服、滅却は、ほば覚醒という段階に入っていきます。 この段階のエゴを克服するには、前に述べましたように同じく「エゴを俯瞰する」という 立場に立たなければなりません。

そのためにエーテル体、アストラル体、コーザル体にアクセス出来るように瞑想していく のです。 (これらの上位に位置するエゴの具体的な構造と、その解消法は「エゴの本」の中で語られる予定です)

しかし、その瞑想が得意でない方もおられます。 そういう場合は守護の神霊にお任せするのが一番です。 これまで培ってきたお祈りの力が、その本領を発揮するのがこの段階で、そのための「普段からのお祈り」なのです。

たとえ瞑想が得意であっても(スムースに瞑想に入っていけても)、そのガイドはやはり 守護の神霊にお任せした方がいいのです。 それは既に語り尽くしている理由によりますが、その方本人にふさわしい守護というもの がありますから、その方面に詳しい守護霊、守護神様にお任せというのがベストでしょう。」

 


「集合点の移動は「守護の神霊との同調」とは異なります。

そぅいう場合もありますが、基本集合点の移動は「新しい世界を組み立てる」ことになります。

それは並行世界への移動でもあり、次元移動の世界構築でもあります。

次元移動とは「上昇」「下降」共に含みます。

この概念はとても難しく、ましてや実行するには結構な修練を積まないと出来ません。」

 

 

 

「集合点

 集合点とはすべての生命体が持つ「知覚を発生させる器官」または「知覚を構成する構造体」をいいます。

 肉体器官にはなく(肉体器官の場合は目や耳、皮膚などの感覚器官がそれに当たります)上位の次元の身体(光る球体)に存在します。

 この集合点の概念は非常に優れたモデルで、これまで如何にしても計ることが出来なかった「他人の認識と自分の認識」の客観的な差異を提供してくれます。

 例えば、「あの人はこのラーメンを美味しいといっているが、その美味しいは私の感じている美味しいと同じかどうか」「あの人が見ている青の色は、私の見ている青と同じだが、私の感じている青とあの人が感じている青は同じように感じている青なのだろうか」

  こうした命題は主観にゆだねられるものになり、それを客観的に評価する方法はありませんでした。

 しかしドン・ファンたちの集合点という概念では、そこが客観的に認識できてしまうのです。

 このあたりはまたいつか詳しく書きますが、今はこの集合点が私たちの世界を創っているということを理解して戴きたいのです。」

 

「集合点は私たちの身体の中のエネルギー繊維と外の世界のエネルギー繊維を同調させることで、外のものが何であるかという感覚(認識)を得ます。

 それが「知覚」ということで、私たちは「知覚」によって世界を認識し、世界を創造しています。

 今はテーマが少し違いますのでわりとはしよって書いていますが、この概念はとても重要で、ドン・ファンたちの功績はこの集合点を明らかにし、その集合点を操ることで覚醒に至るという方法論を体系的に造り上げたことだと思います。

 他にも唯一仏陀の教えの中にこの集合点を意味するものはあるのですが、それは深く秘されています。

 小乗の教えの中にあるのですが、悪用も出来るものなので完全に秘教として埋もれてしまっています。

 ドン・ファンの系列の中でも、古い呪術師たちはやはりこのメソッドを悪用して、呪術という名の悪い部

分を特化していったということがありました。」

 


「さて精神世界の中では全く語られることのないマイナーな概念の大雑把な説明をしてきましたが、この集合点が移動することで私たちの認識は変化します(この移動が私たちの世界移動と同じ意味を持ちます)。

 つまり知覚が変わりますので、認識が変わり、世界が変わっていきます。

 その変化は単に「違ったように見える」というようなものではなく、明確な集合点の移動は世界が全く変わるという状況をもたらします。

 その結果私たちはこの身このままで別な世界に移動し(本当は移動するわけではなく、世界が変わるだけなのですが)、この世界からは消えてなくなってしまいます。

 そういう劇的な変化をもたらすのが集合点の移動なのですが、この集合点の移動にも2種類ありまして、

「縦方向の移動」・通常私たちのいうところの上下の次元移動

「横方向の移動」・これが並行世界の横方向の世界です

 そして集合点の縦方向とは、集合点が身体の内部方向へ移動することであり、横方向とは身体の表面上だけをウロウロする移動になります。

 この「身体の表面上の移動」という表現がわかりやすく。パラレルワールドの横の世界とは私たちと同じ世界線上にありながらも異なる世界構造を有しているのです。

 私たちが経験する一般的な集合点の移動は夢を見ている時です。この時集合点は移動しやすくなっており、明断夢などを見ている時は結構あちこち動いています。

 それを起きている時に移動させる技術がドン・ファンたちの技なのです(膜想はその中の一つの静的なパターンです)。」

 


「呪術師(戦士)にとって最も大事な事実は「集合点を動かす」ということよりも「生き物にはすべて集合点という感覚を生み出す器官があり、それが世界を創造し、その集合点を動かすことで数多の世界を経験(創造)することが出来る」という事実を知ることです。

単純に集合点を動かすだけなら、極端な飢餓や恐怖、発熱、異常な経験などでも集合点は動きます。

しかし集合点の意図的なコントロールとなると、それはもう戦士の統括された行為である「夢見」と「忍び寄り」をマスターするしかなく、その取得はとび抜けた才能を持ってしても、一生をかけた苦闘の末、勝ち取ることが出来るかどうかということも未知数なのです。」

 

「守護霊様からです。

「これよりさらにエゴの観察がスムースになるだろう」

あなたの精進が進むようです。

「エゴの観察」とは「エゴを俯瞰して観る」ということですから、それがスムースに出来るということは実はとても大きな意味があるのです。

詳細は「エゴ」の本で明らかにされますが、「俯瞰する(上から見る」ということは、すでに「その上の世界にある」といえるのです。

例えばあなたがあなたの感情を冷静に俯瞰して観られれば、あなたはすでにエーテル体~アストラル体の住人としてあるということがいえるのです。

そうして「感情」から「思考」と俯瞰していけるようになりますと、さらに上のメンタル体へと移行していけます。

そのきっかけとなる「エゴの俯瞰」は大きな進歩になるのです。」

 

 

 

 

 

 

月読之大神に関する

これまでの重要なご教示をまとめましたが、これからもっと重要な情報を教えていただけると思います。

 

①また今年の8月にみわの指導霊として就任して下さった月読の大神(つくよみのおおかみ)は、最初の印象としては「月を司る方で、地球界の陰の部分を担当される方」という感じしかもっていませんでした。

それからすぐに地球界の因果律を司る方というお仕事は教えていただきました。

しかしお付き合いが進んでいきますと、結構とんでもない方だということが分かって来たのです。

ワークを続けながらも私は色々探ってはいるのですが、どうにもとらえどころのない存在なのです。

見た目は若い男性で、今時のいわゆるかっこいいといいますか、いなせな感じの非常にハンサムな方です。

 

この掲示板や「宇宙全史」第一巻で触れたことがありますが、ニサルガや地球上で究極の覚醒を果たした方たちが告げる福音は「最終的に私たちの行き着くところは実存である・私たちはそこから来てそこに戻る存在」という事でした。

しかしこの実存を私たちの世界の二元性の言葉や表現方法で表すことは不可能でもありました。

それゆえそれを知るには「実存である」という状態になるしかないということも申しあげていたと思います。

それが私の、また私たちの目標でもあったのですが・・・月読の大神が先日とんでもない事を教えてくださいました。

 

この事実は始めて人類にもたらされる事実です。

それをどれほどの方が受け取れるでしょうか・・・あるいは認知できるでしょうか。

 

「実存は一種の緩衝地帯である」

 

本当は「宇宙全史」の中で詳しくお話ししたかったのですが、月読の大神の底知れぬ大きさを感じていただくには、この情報を出さざるを得ませんでした。

これまで人類における究極の覚醒を得た方々にしても、行きついた先は実存でした。

その実存がこれまでは「究極の真理」とされていたのです。

もちろんあの叡智の塊のようなニサルガ・ダッタもそうでした。

しかしここに「実存」を超える世界が明示されてしまったのです。

「実存」の概念(そんなものがあればのお話ですが)は、これまでどおりで何も変わりません。

「すべてのすべてであり、無限であり無でもある。満たされており何も無く、ただ無窮の至福に満ちた、ありとあらゆるものの根源であり、始まりでもあるもの」

 

その(間接的に指し示す)概念は変わりませんが、また新たな人類の探求の視野が開かれてしまったのです。

私はこの情報を「宇宙全史」第一巻でご紹介した菅野正三さん(現在7次元レベルにて時空間の探求にいそしんでおられます)にお伝えしました。

すると「私の研究の角度と視野が突然開かれた」とおっしゃって、小躍りして喜んでおられました(おじいちゃんですが、相変わらず子供のような方でした)。

 

この情報の大きさはそれを受け取れる方にしかお分かりにならないと思いますが、月読の大神が何気に教えてくださったこの事実に、私は彼を大きく見誤っていた事に気づいたのです。

月読の大神はいまだ人魂として人間の転生には降りてこられた事はありません。

その存在は地球界を司る「システム」として在るように思っていたのですが、ここにはまだ書いてありませんが、他にもかなり奥深い認識力(意識次元)をお持ちの方でした。

こういう方でないとアンドロメダという巨大な魂を管理できないのかもしれません。(No.97)

 

月読の大神につきましては、日本はもちろんこの地球界における主宰神のお一人というキャラクターですが、おっしゃるとおりあまり表立ったキャラではありません。

よく表と裏という系統を神々のカテゴリー分けに使う方がおられますが、実際に上の方ではそういうカテゴリーは存在していません。

ただ単純に今の人類に分かりやすいのが「表・おもて系」で、分かりにくい・理解できないのが「裏・うら系」だと思ってください。

 

現状多くの人たちが「善悪」や「美醜」というものにとらわれてしまっているので、そういう形に自然となっているのです。

ただ私たちのワークでは、いわゆる裏系のエネルギーがメインになっていまして、私は裏も裏、皆様方から見ますと「真裏」という存在です。

アンドロメダの巫女である「みわ」も、この地球界ではこれまで歴史上ほとんど人間社会の表には出てきていない存在です。

しかしアンドロメダのエネルギーは、地球というこの宇宙の最終実験にはなくてはならないものなのです。

 

なお月読の大神は日本における主宰神としての名称ですが、実際そのキャラを使って私たちを指導してくださっておられるのは、二元性のこの宇宙を超えたところにある「実存」という緩衝地帯さえも更に超えたところにあるゾーンから来ておられるエネルギーです。

たぶんそういうエネルギーが地上に触れるのは、これまでなかったかもしれません。(No.605)

 

③現在「宇宙全史」のワークを司る(指導して下さる)方たちの領域は広範囲にわたり、さらに上はこれまで人類が体験したことのない境域までをカバーする存在が関与して下さっています。

 実際私たちをメインで指導して下さっているのが、日本の主宰神のお一人である月読の大神ですが、その実体は月読の大神というキャラを超え、世界を超え、地球をも太陽系をも超えた所から来るエネルギーでした。

 現在知りうるところでは、我々の銀河を超え、このオーム宇宙をも超え、地上で二元性を極め超越された最高の叡智である聖賢が体得した境地の実存さえも超えた境涯を教えて下さる存在です。

 実際この1年にわたった質疑応答には「実存は緩衝地帯に過ぎない」という衝撃的な内容がありました。

 これまであらゆる聖賢が極めることが出来た最高の境地が「実存」でした。

 それ以上の記述は歴史上世界のどこにも存在しなかったのです。

 しかしそれすらも更なる上位の世界と我々の宇宙との「緩衝地帯」に過ぎないと知る存在とは一体何者なのでしょうか。

 それはいまだに謎のままですが、少なくとも私たちの宇宙の存亡に関心をお持ちであることは確かなようで、それで私たちに干渉して来られているのだということもほぼ間違いがないようです。(質疑応答1序文)

 

④月読之大神はこの宇宙(オーム宇宙)を司るメンバーのお一人ですが、オーム宇宙が出来たときにまず大きな陰陽の顕現があり、そこから延々と細分化されたオーム宇宙が形成されていっています(現在進行形です)。

しかし月読之大神自体は陰陽の象徴としてのこの宇宙の産物ではなく、どこかから「湧いて」出て来ておられます(天之御中主大神も同じです)。

 

①私たちは複数次元にまたがるオームという一つの小さな泡のような宇宙に生息する生命である

②そのオーム宇宙の他にも同じような宇宙(泡)がたくさんあり(ほぼ無限近くある)、それらを包括する大きな泡を「大宇宙」という

③その「大宇宙」もまた数多くあり…という感じで続いていきますが、月読之大神はこうした段階を超えた「世界」から来ておられます。

④その「世界」とは「大宇宙」やオームのような「宇宙」を造ると意図した「世界」です

 

「BBSに書く前、つまり翻訳前はどのようなお言葉なのでしょうか」

  • あなたがそういう世界の情報を受け取れる段階に来ましたら、自ずとそれは与えられます

「月読之大神様レベルに至るには、どのような経過を経るのでしょうか」

  • 上記の通りですが、例えばニサルガなどはこの宇宙に溶け込んでしまっていますから、月読之大神の立場に並ぼうと思えばそれはそれで可能なのです。しかし大概は段階を踏んでそこまで行くことになります(例えば地球意識→恒星意識→銀河意識→銀河団意識→オーム宇宙意識等です)。このあたりは複雑ですので追々どこかで書いていきます(No.2564)

 

⑤これから、覚醒前覚醒覚醒後こういう段階に応じて様々な情報が降ろされてくると思いますが、すでに現時点でどのように公開していいものかというディープなものも降りて来ています。

おそらくそのような情報が出てきたのはこの宇宙が始まって以来だと思います。

それは月読之大神が単なるこの宇宙を司る宇宙神にとどまらず、実は更に上位の管理者と係る存在であり、私の本体がこの宇宙を超えた在り様の遊撃手であるという関係性から来ているのかも知れません。しかしそこにその情報を受け取る人類が存在するかどうかはひとえに皆さん方にかかっているのですが(

No.2977)

 

月読之大神と第六天魔王との関係性は…ないことはないですが、他の皆さんと同じような関係性で、この宇宙に存在するすべての者と月読之大神の関係性と同じということです。

おそらく皆さんは月読之大神の位置づけをせいぜい「この宇宙の主催神の一人」位にしか思っておられないでしょうが、私に最近次第に明かされていくその正体はオーム宇宙を遥かに超えた在り様がうかがえます。(3230)

 

御祭舟2002年7月28日版

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宇宙全史掲示板の古川益三作品目録に、野村真人さんの整理されたD9 RECORD の情報をアップしたのですが、この2002年7月28日版の部分はどういう位置づけになるのでしょうか。

どなたか御教示お願い致します。コメント欄を設けました。

黒脛巾さん 御教示ありがとうございました。

ツィートもアップしました。

 

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